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3-4 後悔(3)
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月明かりが晋祐の内面まで照らし出し、露わにしているようだった。
八年前からすると随分と大きくなった己の手は、猪口をすっぽりと包み込み、その中身を直ぐに温めてしまう。
自ら欠けさせた記憶は、自らの手で焼酎を温めてしまう僅かな時間で蘇った。
聲に成らぬ思いが、為さぬ形の希望が輪郭を帯びる。そして、驚くほど鮮明に浮かび上がった。
「すっかり、忘れていたな……」
晋祐は感じた妙な錯覚に、居心地悪げに頭を掻いた。
故意に忘れていた記憶。
あの時。
『正之進に、こんな顔をさせてはいけない。正之進の負い目になっては、決してならない』と自誓したにも拘らず。反則気味な利良の涙を目にして、自分に課した結界は脆くも崩れ、あっさりと思い出してしまった。
「ようやっ、思い出してくれもしたか!」
利良は手の甲で濡れた頬を拭う。そして、いつものように明るい笑顔で言った。
「あれから一言も怪我の話っばせんもんじゃっで」
月が落ちる猪口の水面を暫く眺めていた利良は、月ごと焼酎を流し込むと、小さく呟いた。
「そのうち俺が事も忘れっしもっかと思た」
寂しげに目を伏せる利良に、晋祐の心臓が妙な動きをする。その横顔があの時の悲しげな顔と重なり、晋祐の後悔が再び疼きだした。
「そんな!! 馬鹿なことをッ!! そうじゃ……そうじゃないんだ」
うまく説明しようとしても、晋祐の中で言いたいことが渦巻いてどうしようもなく言葉が詰まる。
身振り手振りまで加えて話す晋祐は、猪口を投げ出さんばかりに振り回した。
「利良殿の足枷になっては! 俺が! 利良殿の将来を邪魔したら、とか! 俺なりに! 色々……!」
何とか伝えねば、と。余計に慌てて捲し立てる晋祐に、利良は穏やかに笑いかけた。
「ちょっ(※ 少し)意地悪をしぃもした」
「え?」
「聲に出さんとも、ちゃんと伝わってごわんど」
「え?」
「晋祐殿の言わんとしぃちょっことも、形のなか心根も、全部」
「……利良殿」
「全部、晋祐殿は優しかで。俺が引け目を感じんごっ、そうしぃくいやった事じゃっ」
言い得て妙とはこのことか。
自分すらまともに表現できなかった言葉を、利良は静かに的確に表現する。晋祐は、改めて利良を見つめた。手酌で猪口の中を再び満たした利良は、絡まった柵を吹っ切ったような顔をしている。
八年もの間、利良は晋祐に宿る隠された聲なき聲や、形なき思いに注力してきた。
あんな大怪我をしたにも拘らず、まるで無かったかのように何事もなく接してくる晋祐。
晋祐は、自分を恨んではいないのか?
真実を言わないと決めた利良の選択は、晋祐を傷つけてはないだろうか?
後悔しかない自分の行動を、決して正当化したい訳ではない。しかし、晋祐の真意がわかるまでは。利良の行動に対して、晋祐がどのように答えを告げるのか。ただじっとひたすら待つしかなかったのだ。
長かった--。
ようやく晋祐の中に埋もれていた、聞こえぬ聲を聞き、形なき思いに触れることができた。利良の胸の閊えが、雪の如く溶け出し、心の底から何とも言えぬ嬉しさがこみあげる。
利良は猪口の中身を再び煽ると、無意識に顔を綻ばせた。
「あぁ、今日は……飲んすぎたごた」
珍しく赤く染まった頬を、利良は手の甲で押さえる。利良の穏やかな笑みにつられて、晋祐も自然と口角が上がった。
「月も近くて、良い晩だからなぁ」
「じゃあさいなぁ。本当、良か晩じゃ」
遠くに聞こえていた薩摩藩士の賑やかな声も、いつの間にか聞こえなくなり。風の渡る僅かな音が、二人の間をすり抜ける。時折冷たくも感じる風は、ほろ酔いの熱を帯びた体には丁度良い塩梅だった。
二人は無言で、少し傾いた月を見上げる。
その先にある未来に胸を膨らませ、振り返った過去を懐かしむ。二人の描いた空間は、月の浮かぶ夜空の如く、無限に広がった。
「え? もう出立した?」
久しぶりに焼酎を煽ったせいか。若干頭が重たい晋祐は、思わず口に含んだ握飯を喉に詰まらせそうになった。
「大か手で大か握飯を握っせぇ、山道を走って行っもした」
「……そうか」
「有馬殿は、川路殿に何か用があいもしたか?」
「いや、そうじゃないんだ」
明け方近くまで、盃を交わしていたにも拘らず。僅かな睡眠を確保しただけの利良は、既に宿を出立したという。晋祐は、利良のその信じられない体力と気力に辟易した。
(もう少し、言葉を交わしたかったな)
一抹の寂しさと後悔を覚えた晋祐は、温いお茶で握飯を流し込み薄いため息をついた。
(次は、いつ会えるだろうか)
小さな後悔がまた晋祐の中に積もる。
同時に、しんみりとした気持ちに支配された。
いや、このままではいけない! 晋祐はパチンと両頬を平手打ちすると、眉頭に力を入れる。ハッと短く息を吐く。そして、気合いを込めてキツく鉢巻を結んだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「お前は何なんだ! 引っ込め! 田舎侍が!!」
突然、頭から浴びせられた罵声と温い茶に、利良は絶句した。鶴の舞う洒落た着物に袖を通した武士は、顔を真っ赤にして利良に怒鳴り散らす。
何をした、というわけではない。
気持ち良さげに寝ている晋祐を起こさぬよう、利良はそっと吉野の宿営地から出立した。一路、太陽を追いかけるように、東へとひた走る。休まず走り続けていると、いつの間にか日もだいぶ西に傾いていた。
ただ腹に何か入れようと。目についた居見世に入り、適当な席に座る。
飯と味噌汁を注文し、手拭いで顔を拭いていたその時。隣に座っていた妙に色気のある女性が、利良に笑いかけてきた。
もちろん、知り合いなはずもない。
知り合いであるはずもない。
しかし、失礼があっては、と。利良は女性に無言で会釈をして、背を向けた。艶めかしい視線を背に感じながら、湯呑みの茶を一口、喉に流し込む。
その時ふと、女性の真向かいに座っている、件の武士と目があったのだ。
顔はみるみる赤くなり、その色は額にまで達する。わなわなと肩を震わせ、利良を睨み付けると、突然、湯呑みの茶を利良にぶっかけてきたのだ。
あまりにも当然のことで、利良はぽかんとして武士を見つめた。幸い、自分の大きな体が盾になり、隣にいる女性には茶はかかっていないようである。
妙に色気のある女性は「あらあら、大変。お兄さん大丈夫?」と言いながら、利良の着物を手拭いで拭き始めた。
「あ! よか! せんでよかち!」
「あら、お兄さん! 声も良いのねぇ。せっかくだから、私と一緒に飲みましょうよ」
「いや! せっかくやっどん、俺のことは気にせんでくいやい!」
「そんなこと言わないでぇ」
「貴方な、連れがおっどが! その二才にせんか、こげんかこつは!」
「あぁ、あれね」
「あれっち、何事んな」
「お伊勢に旅行しようって。誘われてついてきたんだけど、全然頼りないのよ。ケチだし、偉そうだし」
「……」
「御家人だかなんだか知らないけど、もううんざりしちゃってたのよ!」
「な……!」
「だからねぇ、お兄さん! 私と一緒に飲みましょうよ~」
「ちょ……ちょっ、待っくいやい!」
男女が公然と戯れているように見えるのか、居見世の客は、薄笑いを浮かべて利良を生温かく見守っている。利良は困り果てた。
(あまり、騒ぎば起こしとなかどなぁ)
推しの強い女性に辟易していた利良に、鋭い視線が突き刺さる。
利良と女性の様子が余計、気に入らなかったのか。武士の目がさらに三角に吊り上がる。
「おい! 田舎者! 御家人が子息の俺を馬鹿にしたな!」
「いや、しぃちょらんち!」
「表に出ろッ! 叩っ斬ってくれる!」
「え!?」
「それが嫌なら、ありったけの金子を置いていけ! 分かったか!!」
生っ白い手が、利良の胸ぐらへと伸びる。
利良が身構えたその時、目の前にサッと着物の袖がはためいた。筋肉質の見るからに鍛え上げられた腕が、御家人の子息を名乗る武士の腕を掴む。
「御家人様が、こんなところで刀を抜くのは、いかがなものか?」
「ッ!?」
握りしめられた生っ白い手が薄紅色を帯び、その手を解かんと小刻みに揺れる。利良の視線は、無意識に力強い手を先を辿った。
武士を睨む強い光を宿した目と、均整の取れた体つきの男。
身なりは良いが、心中に宿す熱量が着物に隠れていても分かる。恐らくどこかの藩士であろう。利良は思わず目を見張った。
「この腕を折られる前に、ここから立ち去られよ」
「何をッ!? 痛たたたッ!!」
男は顔色ひとつ変えず、尚も歯向かう武士の腕を捻り上げる。そして、徐に女性に視線を投げると、ため息混じりに言った。
「それに女。何が目的かは敢えて聞かぬが、初心な若者を揶揄うんじゃない。早く御家人様を連れて行け」
突然、目の前で起こった一連の出来事に。利良同様、呆気に取られた女性は、我にかえると眉間に皺を寄せて席を立ち上がる。
「意地が悪いお侍さんですこと!」
「お互い様だろ」
「んまっ! 失礼ねッ! 覚えときなさいよ!」
襟元から見える華奢な肩を怒らせて、女性は腕を押さえて疼くまる武士の奥襟を引っ掴んだ。
細い腕からは想像もできないほどの力強さで、二本差しをずるずると引きづりながら居見世を出て行った。
あっという間に。居見世が何事も無かったかのように静まり返る。利良はぽかんとした表情のまま「嵐のごたぁ……」と独言た。
「大丈夫か?」
ぼんやりとする利良に、男が声をかける。利良はハッとして頭を深々と下げた。
「あ、あいがたげさげもす! よう分からんかったどん、助かいもした!」
「ああ言うの、美人局っていうんだよ」
「美人局、じゃいもすか?」
「薩摩から出てきたばっかりなんだろ? こういうことはよくあることだ。気をつけるんだな」
「え!? なんで薩摩ち……」
〝薩摩〟の出であることをピシャリと言い当てられて、利良はつい食い気味で返す。
「言葉」
「あ……」
「独特だろう? 薩摩は」
言い得て妙。利良は納得しつつも、罰が悪そうに困った顔をした。
新太郎と比べると、確かに国言葉丸出しだ。
気づいてはいたが、赤の他人に面と向かって言われると、余計に恥ずかしくなる。さらには、利良の役割。このままでは、斥候というお役目にかなり向いてないのではないか?
この瞬間から、国言葉を徐々に封印していくこと。それが今の、利良の喫緊の課題となる。
利良は恥ずかしがりながらも、男の真っ直ぐな目を見た。
「あの……お名前を、教えっくいやはんどかい」
「俺の?」
「はい! よろしゅ、頼んもんせ」
男は豪快に笑うと、意志の強い視線を川路にかち合わせる。
「桂小五郎。長州の出だが、少し前から剣を学びに江戸にいる。今は里帰りの最中だ」
「桂殿でごわいか……」
なるほど。道理で体捌きに無駄が無いのだと、川路はさらに納得して一人頷いた。
「俺は川路利良ごわす。……あ、言わずとしれもした、薩摩ん出じゃ」
「ははは。川路殿は、面白いな」
「いやぁ、本当面目無か」
引っ込んだ冷や汗が、恥ずかしさのあまり再び吹き出した。顔を真っ赤にして頭を掻く利良に、桂は穏やかな笑みを浮かべて、白い猪口を差し出す。
「え?」
利良は咄嗟に変な声を上げた。
「俺も一人なんだ。付き合ってくれないか?」
「……俺でよければ」
「じゃ、決まりだな」
--世界がまた一つ、広がる。知らない世界が、広がっていく。
利良は、桂から猪口を受け取った。
後悔は、山ほどある。
その後悔を無かった事にしては、後悔が恐ろしくては、何もできはしない。
知らない世界に一歩を踏み出すことも、できはしない。
利良は猪口に注がれた酒に、昨夜の晋祐の顔を思い浮かべていた。出会った時から、なんら変わらず利良に笑いかけ、手を差し伸べてくれる。故郷より遠く離れた地に一人いる利良は、晋祐の存在がとても重きものに感じていた。
(晋祐殿と、もう少し語いたかったなぁ)
小さな後悔が、また利良の中に積もる。
利良は意を決したように、猪口の酒を一気に煽る。そして、目の前に座る桂を真っ直ぐに見つめて言った。
「桂殿。俺に桂殿が見た江戸ん事ば、教えてくいやはんどかい」
八年前からすると随分と大きくなった己の手は、猪口をすっぽりと包み込み、その中身を直ぐに温めてしまう。
自ら欠けさせた記憶は、自らの手で焼酎を温めてしまう僅かな時間で蘇った。
聲に成らぬ思いが、為さぬ形の希望が輪郭を帯びる。そして、驚くほど鮮明に浮かび上がった。
「すっかり、忘れていたな……」
晋祐は感じた妙な錯覚に、居心地悪げに頭を掻いた。
故意に忘れていた記憶。
あの時。
『正之進に、こんな顔をさせてはいけない。正之進の負い目になっては、決してならない』と自誓したにも拘らず。反則気味な利良の涙を目にして、自分に課した結界は脆くも崩れ、あっさりと思い出してしまった。
「ようやっ、思い出してくれもしたか!」
利良は手の甲で濡れた頬を拭う。そして、いつものように明るい笑顔で言った。
「あれから一言も怪我の話っばせんもんじゃっで」
月が落ちる猪口の水面を暫く眺めていた利良は、月ごと焼酎を流し込むと、小さく呟いた。
「そのうち俺が事も忘れっしもっかと思た」
寂しげに目を伏せる利良に、晋祐の心臓が妙な動きをする。その横顔があの時の悲しげな顔と重なり、晋祐の後悔が再び疼きだした。
「そんな!! 馬鹿なことをッ!! そうじゃ……そうじゃないんだ」
うまく説明しようとしても、晋祐の中で言いたいことが渦巻いてどうしようもなく言葉が詰まる。
身振り手振りまで加えて話す晋祐は、猪口を投げ出さんばかりに振り回した。
「利良殿の足枷になっては! 俺が! 利良殿の将来を邪魔したら、とか! 俺なりに! 色々……!」
何とか伝えねば、と。余計に慌てて捲し立てる晋祐に、利良は穏やかに笑いかけた。
「ちょっ(※ 少し)意地悪をしぃもした」
「え?」
「聲に出さんとも、ちゃんと伝わってごわんど」
「え?」
「晋祐殿の言わんとしぃちょっことも、形のなか心根も、全部」
「……利良殿」
「全部、晋祐殿は優しかで。俺が引け目を感じんごっ、そうしぃくいやった事じゃっ」
言い得て妙とはこのことか。
自分すらまともに表現できなかった言葉を、利良は静かに的確に表現する。晋祐は、改めて利良を見つめた。手酌で猪口の中を再び満たした利良は、絡まった柵を吹っ切ったような顔をしている。
八年もの間、利良は晋祐に宿る隠された聲なき聲や、形なき思いに注力してきた。
あんな大怪我をしたにも拘らず、まるで無かったかのように何事もなく接してくる晋祐。
晋祐は、自分を恨んではいないのか?
真実を言わないと決めた利良の選択は、晋祐を傷つけてはないだろうか?
後悔しかない自分の行動を、決して正当化したい訳ではない。しかし、晋祐の真意がわかるまでは。利良の行動に対して、晋祐がどのように答えを告げるのか。ただじっとひたすら待つしかなかったのだ。
長かった--。
ようやく晋祐の中に埋もれていた、聞こえぬ聲を聞き、形なき思いに触れることができた。利良の胸の閊えが、雪の如く溶け出し、心の底から何とも言えぬ嬉しさがこみあげる。
利良は猪口の中身を再び煽ると、無意識に顔を綻ばせた。
「あぁ、今日は……飲んすぎたごた」
珍しく赤く染まった頬を、利良は手の甲で押さえる。利良の穏やかな笑みにつられて、晋祐も自然と口角が上がった。
「月も近くて、良い晩だからなぁ」
「じゃあさいなぁ。本当、良か晩じゃ」
遠くに聞こえていた薩摩藩士の賑やかな声も、いつの間にか聞こえなくなり。風の渡る僅かな音が、二人の間をすり抜ける。時折冷たくも感じる風は、ほろ酔いの熱を帯びた体には丁度良い塩梅だった。
二人は無言で、少し傾いた月を見上げる。
その先にある未来に胸を膨らませ、振り返った過去を懐かしむ。二人の描いた空間は、月の浮かぶ夜空の如く、無限に広がった。
「え? もう出立した?」
久しぶりに焼酎を煽ったせいか。若干頭が重たい晋祐は、思わず口に含んだ握飯を喉に詰まらせそうになった。
「大か手で大か握飯を握っせぇ、山道を走って行っもした」
「……そうか」
「有馬殿は、川路殿に何か用があいもしたか?」
「いや、そうじゃないんだ」
明け方近くまで、盃を交わしていたにも拘らず。僅かな睡眠を確保しただけの利良は、既に宿を出立したという。晋祐は、利良のその信じられない体力と気力に辟易した。
(もう少し、言葉を交わしたかったな)
一抹の寂しさと後悔を覚えた晋祐は、温いお茶で握飯を流し込み薄いため息をついた。
(次は、いつ会えるだろうか)
小さな後悔がまた晋祐の中に積もる。
同時に、しんみりとした気持ちに支配された。
いや、このままではいけない! 晋祐はパチンと両頬を平手打ちすると、眉頭に力を入れる。ハッと短く息を吐く。そして、気合いを込めてキツく鉢巻を結んだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「お前は何なんだ! 引っ込め! 田舎侍が!!」
突然、頭から浴びせられた罵声と温い茶に、利良は絶句した。鶴の舞う洒落た着物に袖を通した武士は、顔を真っ赤にして利良に怒鳴り散らす。
何をした、というわけではない。
気持ち良さげに寝ている晋祐を起こさぬよう、利良はそっと吉野の宿営地から出立した。一路、太陽を追いかけるように、東へとひた走る。休まず走り続けていると、いつの間にか日もだいぶ西に傾いていた。
ただ腹に何か入れようと。目についた居見世に入り、適当な席に座る。
飯と味噌汁を注文し、手拭いで顔を拭いていたその時。隣に座っていた妙に色気のある女性が、利良に笑いかけてきた。
もちろん、知り合いなはずもない。
知り合いであるはずもない。
しかし、失礼があっては、と。利良は女性に無言で会釈をして、背を向けた。艶めかしい視線を背に感じながら、湯呑みの茶を一口、喉に流し込む。
その時ふと、女性の真向かいに座っている、件の武士と目があったのだ。
顔はみるみる赤くなり、その色は額にまで達する。わなわなと肩を震わせ、利良を睨み付けると、突然、湯呑みの茶を利良にぶっかけてきたのだ。
あまりにも当然のことで、利良はぽかんとして武士を見つめた。幸い、自分の大きな体が盾になり、隣にいる女性には茶はかかっていないようである。
妙に色気のある女性は「あらあら、大変。お兄さん大丈夫?」と言いながら、利良の着物を手拭いで拭き始めた。
「あ! よか! せんでよかち!」
「あら、お兄さん! 声も良いのねぇ。せっかくだから、私と一緒に飲みましょうよ」
「いや! せっかくやっどん、俺のことは気にせんでくいやい!」
「そんなこと言わないでぇ」
「貴方な、連れがおっどが! その二才にせんか、こげんかこつは!」
「あぁ、あれね」
「あれっち、何事んな」
「お伊勢に旅行しようって。誘われてついてきたんだけど、全然頼りないのよ。ケチだし、偉そうだし」
「……」
「御家人だかなんだか知らないけど、もううんざりしちゃってたのよ!」
「な……!」
「だからねぇ、お兄さん! 私と一緒に飲みましょうよ~」
「ちょ……ちょっ、待っくいやい!」
男女が公然と戯れているように見えるのか、居見世の客は、薄笑いを浮かべて利良を生温かく見守っている。利良は困り果てた。
(あまり、騒ぎば起こしとなかどなぁ)
推しの強い女性に辟易していた利良に、鋭い視線が突き刺さる。
利良と女性の様子が余計、気に入らなかったのか。武士の目がさらに三角に吊り上がる。
「おい! 田舎者! 御家人が子息の俺を馬鹿にしたな!」
「いや、しぃちょらんち!」
「表に出ろッ! 叩っ斬ってくれる!」
「え!?」
「それが嫌なら、ありったけの金子を置いていけ! 分かったか!!」
生っ白い手が、利良の胸ぐらへと伸びる。
利良が身構えたその時、目の前にサッと着物の袖がはためいた。筋肉質の見るからに鍛え上げられた腕が、御家人の子息を名乗る武士の腕を掴む。
「御家人様が、こんなところで刀を抜くのは、いかがなものか?」
「ッ!?」
握りしめられた生っ白い手が薄紅色を帯び、その手を解かんと小刻みに揺れる。利良の視線は、無意識に力強い手を先を辿った。
武士を睨む強い光を宿した目と、均整の取れた体つきの男。
身なりは良いが、心中に宿す熱量が着物に隠れていても分かる。恐らくどこかの藩士であろう。利良は思わず目を見張った。
「この腕を折られる前に、ここから立ち去られよ」
「何をッ!? 痛たたたッ!!」
男は顔色ひとつ変えず、尚も歯向かう武士の腕を捻り上げる。そして、徐に女性に視線を投げると、ため息混じりに言った。
「それに女。何が目的かは敢えて聞かぬが、初心な若者を揶揄うんじゃない。早く御家人様を連れて行け」
突然、目の前で起こった一連の出来事に。利良同様、呆気に取られた女性は、我にかえると眉間に皺を寄せて席を立ち上がる。
「意地が悪いお侍さんですこと!」
「お互い様だろ」
「んまっ! 失礼ねッ! 覚えときなさいよ!」
襟元から見える華奢な肩を怒らせて、女性は腕を押さえて疼くまる武士の奥襟を引っ掴んだ。
細い腕からは想像もできないほどの力強さで、二本差しをずるずると引きづりながら居見世を出て行った。
あっという間に。居見世が何事も無かったかのように静まり返る。利良はぽかんとした表情のまま「嵐のごたぁ……」と独言た。
「大丈夫か?」
ぼんやりとする利良に、男が声をかける。利良はハッとして頭を深々と下げた。
「あ、あいがたげさげもす! よう分からんかったどん、助かいもした!」
「ああ言うの、美人局っていうんだよ」
「美人局、じゃいもすか?」
「薩摩から出てきたばっかりなんだろ? こういうことはよくあることだ。気をつけるんだな」
「え!? なんで薩摩ち……」
〝薩摩〟の出であることをピシャリと言い当てられて、利良はつい食い気味で返す。
「言葉」
「あ……」
「独特だろう? 薩摩は」
言い得て妙。利良は納得しつつも、罰が悪そうに困った顔をした。
新太郎と比べると、確かに国言葉丸出しだ。
気づいてはいたが、赤の他人に面と向かって言われると、余計に恥ずかしくなる。さらには、利良の役割。このままでは、斥候というお役目にかなり向いてないのではないか?
この瞬間から、国言葉を徐々に封印していくこと。それが今の、利良の喫緊の課題となる。
利良は恥ずかしがりながらも、男の真っ直ぐな目を見た。
「あの……お名前を、教えっくいやはんどかい」
「俺の?」
「はい! よろしゅ、頼んもんせ」
男は豪快に笑うと、意志の強い視線を川路にかち合わせる。
「桂小五郎。長州の出だが、少し前から剣を学びに江戸にいる。今は里帰りの最中だ」
「桂殿でごわいか……」
なるほど。道理で体捌きに無駄が無いのだと、川路はさらに納得して一人頷いた。
「俺は川路利良ごわす。……あ、言わずとしれもした、薩摩ん出じゃ」
「ははは。川路殿は、面白いな」
「いやぁ、本当面目無か」
引っ込んだ冷や汗が、恥ずかしさのあまり再び吹き出した。顔を真っ赤にして頭を掻く利良に、桂は穏やかな笑みを浮かべて、白い猪口を差し出す。
「え?」
利良は咄嗟に変な声を上げた。
「俺も一人なんだ。付き合ってくれないか?」
「……俺でよければ」
「じゃ、決まりだな」
--世界がまた一つ、広がる。知らない世界が、広がっていく。
利良は、桂から猪口を受け取った。
後悔は、山ほどある。
その後悔を無かった事にしては、後悔が恐ろしくては、何もできはしない。
知らない世界に一歩を踏み出すことも、できはしない。
利良は猪口に注がれた酒に、昨夜の晋祐の顔を思い浮かべていた。出会った時から、なんら変わらず利良に笑いかけ、手を差し伸べてくれる。故郷より遠く離れた地に一人いる利良は、晋祐の存在がとても重きものに感じていた。
(晋祐殿と、もう少し語いたかったなぁ)
小さな後悔が、また利良の中に積もる。
利良は意を決したように、猪口の酒を一気に煽る。そして、目の前に座る桂を真っ直ぐに見つめて言った。
「桂殿。俺に桂殿が見た江戸ん事ば、教えてくいやはんどかい」
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https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
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