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3-2 後悔(1)
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八年前の妙円寺詣りの当日、新太郎はかなり緊張していた。
若二才として参加する妙円寺詣りも、年齢満了により、今年で任を解かれる。
ホッと胸が凪ぐ一方、この年の妙円寺詣りも薩摩隼人の闘志が、隠されることなく渦巻いていた。
妙円寺詣りの二日前。
造士館を揺らすほどの歓声が上がる。
それもそのはず。藩主・島津斉彬の計らいで豪華な報酬品が、前もって知らされたからだ。
三宝の上に鎮座する、薄紅色をした菓子と餅。その神々しい姿に、若二才の士気が異様な上がり具合をみせる。
妙円寺詣りが苦痛であるはずの新太郎でさえ、つい士気を上げてしまい、報酬品を最前列で観察した口だ。
(やはり、いつもと熱気が違う……)
出発の号砲を今か今かと待ち侘びる郷中の仲間の圧に、新太郎は気圧され気味に後ずさる。
新太郎の新屋敷郷中は、数年前までは一等賞を連続して獲得するほど、組織力の高さで有名だったのだが。最近では、近隣の加治屋郷中や東千石郷中にその座を奪われ、暫く不本意ながら苦杯を喫していた。
「今年こそは、新屋敷が奪還すっど!」と息巻く郷中の熱気が、新太郎には「足だけは引っ張るなよ!」という言葉に変換されて胸を締め付ける。
重圧と緊張。層のように重なり突き刺さる言葉は、肺に空気をうまく行き渡らせなくした。新太郎は、よろよろと人の輪から外れると、冷たい空気を求めて深呼吸をする。木に手をつき俯く新太郎の背中に、暖かな手がそっと置かれた。
「新太郎殿大丈夫っけ?」
「……正之進殿」
袖と袴をたくしあげ、白い鉢巻をした川路正之進が、心配げに新太郎を見下ろす。
「新太郎殿。あまり、無理すっといかんど」
「いや、大丈夫。人に酔っただけだから」
「無理じゃっ時は、俺が肩を貸すっで、頼ってくいやいなぁ」
「あぁ、ありがとう。正之進殿。でも……」
「あぁ! よかよか! 俺が郷中は論外じゃっで!」
正之進は豪快に笑って言った。
正之進の郷中は、所謂寄せ集め。
造士館からかなり遠くに居を構えている才能ある下級志士を寄せ集め作られた、急拵えの郷中班だ。
したがって、出発位置も先頭から遥か後方になってしまう。どんなに俊足を持ってしても、既存郷中の爆発的な組織力の前には全く歯が立たない。前方に行くことすら出来ないのだ。
(正之進殿は、あんなに俊足であるのに。きちんと真っ向勝負すらできないなんて、なんて理不尽なんだ)
新太郎は下唇を噛んだ。逃げてばかりいる己が情けない。今年こそは、正之進に恥ずかしくない走りをしなければならない。出来ないなりに、懸命にならなければ、と。
「俺も頑張る! だから、正之進殿は前を目指せ!」
「分かいもうした! 新太郎殿に直、追いつっでなぁ!」
新太郎と正之進は拳を強く握りしめると、がちんとぶつけ合う。
互いの力が、拳から伝わり、体を、心を鼓舞するように熱が伝わった。
新太郎の口角が自然と上がり、力強い闘争心が正面に現れた眼差しで正之進を見る。そんな新太郎に対し、正之進は柔らかな視線で新太郎に笑顔を向けた。二人は同時に息を吸うと、森の木々が重なる小さな青空に向かって叫んだ。
「チェストーッ!(※ 気合いをいれるぞーっ!)」
「チェストーッ!」
「はぁ……はぁ……ッ」
山間の獣道に足を取られながら、新太郎は懸命に足を前へ前へと運ぶ。加治屋郷中の仲間は、新太郎の三間(約六メートル)ほど先を走っていた。
号砲と共に一斉に走り出した薩摩の若二才。
造士館から北へ伸びる山道を、地を鳴らし砂埃を巻き上げながら走っていく。砂埃に目を瞬かせながら、新太郎は食らいつくように走っていた。
徐々に開きそうになるその三間を維持するのに、新太郎自身かなり必死だ。しかし、正之進と約束した手前、弱音から力を抜くことが憚られる。簡単に諦めることができなかった。
上がる息、重くなる足。
それでも意識と視線は前へ向く。真っ直ぐな視線につられて、足先も前を向いた。
その時、脇目も振らずに走る新太郎の横を、黒い一団が猛烈な速度で追いつき、追い越していく。
「邪魔やが! 退かんかっ!」
罵声とともに、体中に鈍い痛みがいくつも走るった。
嵐の渦中に放り投げ出されたみたいに、新太郎の華奢な体は、黒い塊に揉みくちゃにされる。圧に必死に耐えていた新太郎だったが、山間のでこぼこ道が、新太郎の踏ん張る足を絡れさせた。
(いかん! 転んでしまう!)
転んでしまえば、後陣に踏まれ蹴られ、立つことも儘ならないことなど容易に想像がつく。新太郎は、咄嗟に目を瞑ってしまった。
全身に食らうであろう痛みを予想した新太郎は、歯を食い縛る。
「新太郎殿ッ!!」
「わっ!?」
地面に倒伏する一歩手前。突然、新太郎の体はグッと引き上げられた。
「正之進殿……」
「大丈夫っごわっか?」
満身創痍に違い新太郎と違い。全く息も切れていない正之進は、新太郎を抱えて穏やかに笑っている。
「だ、大丈夫だ。ありがとう、正之進殿」
「こげなこつに、礼など言わんでくいやい。しかっ、新太郎殿が踏ん潰されんでよかった」
正之進は山道を少し逸れて、新太郎を地面に下ろした。
「しかし、さっきのは……」
黒い嵐のような一団の正体が気になった新太郎は、黒い残像を残る山道の先を見つめて呟く。
「西千石ん郷中ん仲間やっど」
「西千石!?」
新太郎は驚いて声を上げた。西千石と言えば、医学院(現・鹿児島県鹿児島市照国町)に近い土地柄、比較的大人しく知識人の多い郷中と認識していたからだ。新太郎は、目を見開いて正之進を見上げる。
「阿多殿の影響じゃろ」
「阿多殿って、あの?」
「あぁ、今年は揃いの着物など拵えっせぇ。気合いが違どなぁ」
阿多芳之助。
新太郎と同い年の阿多は、大人しく痩せていて。どちらかというと、新太郎と似たような人物だと思っていた。
しかし最近、急激に体躯が良くなり、文武に輝きが宿るようになる。
次世代の薩摩を担う志士として、目立つようにはなってきたのだが。自分等より年下の正之進や五代徳助(※ 五代友厚)と比較すれば、いかんせん存在が薄い。頭角を現すほどの印象もない。
ならば、どこで自分へと目を向けてもらえるか。好機を手に入れる機会は本当に少ない。
したがって「ここで文武両道を見せつけたい」という阿多の気持ちが、新太郎にはなんとなく分かってしまった。
「阿多殿も必死なんだなぁ……」
新太郎は、額に流れ落ちる汗を拭いながら呟く。
正之進と話し込むうちに、すっかり呼吸も整い、足の重たさもどこかへ吹き飛んだような気分になっていた。正之進は新太郎の華奢な肩に手を乗せて、いつもように笑って言う。
「どれ、俺達もそろそろ行きもんそか、新太郎殿」
「ああ! 正之進殿、行くぞ!!」
高さの違う肩が並ぶと、不揃いだった二つの呼吸が重なり一つになる。新太郎と正之進は、真っ直ぐに伸びる山道を力強く走り出した。
「……正之進殿、どうした?」
おおよそ四里(約十六キロメートル)を過ぎた頃、正之進の足がピタリと止まった。
新太郎は上がる息で肩を上下にさせながら、正之進の方を向いた。新太郎とは対照的に、正之進の呼吸は相変わらず乱れていない。
それにも拘らず、正之進は足を止め、深い木々の生い茂った薮の方をただじっと見つめていた。
「正之進殿?」
新太郎の二度目の問いに、正之進は人差し指を立てて唇の前に添えた。
「静かに」と。無言の制止に、新太郎は上がる息をそのまま飲み込んだ。
郷中の誇りを抱き、造士館からほぼ全力疾走をしてきた若二才だ。当然ながら四里を手前にして、山道の脇には疲れ切って蹲る若二才の姿がちらほら見えるようになる。去年までの自分を見ているようで、新太郎は若干居心地が悪くなった。
顳顬の汗を拭う新太郎の傍ら、正之進は真っ直ぐに木々の間を見つめている。走ってもなお、穏やかだった正之進の呼吸が、僅かに速く荒くなった。正之進は、ゆっくりとした動きで新太郎の耳元に口を近づける。
「新太郎殿、まだ速走れっ力は有いもすか?」
「え?」
「逃ぐっど」
「は?」
「逃ぐっど!! 新太郎殿!! 走れっ!!」
正之進はそう叫ぶと、新太郎の腕を掴んで走り出した。今までの並走していた速度が嘘のような。正之進はとんでもない速さで、山道を駆け抜ける。
「え!? ちょ……ま、正之進殿ーっ!?」
腕を掴まれて走らざるを得ない新太郎は、必死に足を回転させてる。しかし、尋常じゃない正之進の速さは、どうにも引きずられているような気がしてならなかった。
過ぎて行く山道の風景に、目を回してしまわぬよう。
新太郎がグッと眉間に力を入れたその時、突然、黒い影が目の前を横切った。
「なんだ!?」
野生の鹿か猪が出てきたのだ思い、新太郎は咄嗟に体を縮こませる。瞬間、急制止した正之進の背中に、新太郎は鼻っ柱をぶつけてしまった。
鼻を押さえ蹲る新太郎の頭上。あり得ないほど、ずっしりと重たい、殺気を帯びた声が響いた。
「比志島の川路か?」
鹿か猪だと思っていた影の輪郭が、次第にはっきりと形を成していく。
(西千石の……!)
新太郎がハッとしたその時、正之進は背中で新太郎を隠して返事をした。
「……何か用でごわんか? 二才殿」
答える正之進の声が、かなり緊張の色味を含んでいる。
新太郎は正之進の背中の影から、視界の塞がれた前方を覗き込んだ。
斜めに切りとられ、鋭くなった刃物のような鋒の孟宗竹が、正之進の喉元に突きつけられている。恐らく、山に自生する孟宗竹を割って拵えたのであろう。荒々しい鋒を抱く竹槍は、間近で見ると今にも体を貫きそうな妙な気を帯びている。
新太郎は毛穴が泡立つのを感じながら、ゴクンと生唾を飲み込んだ。竹槍を構えた西千石の志士は、鋭い目つきで正之進を見据えていた。
「生意気は、薩摩には用らんが」
「……俺は、何もしぃちょらん。言い掛かいじゃっど」
「黙らんか、貧乏人が」
「関係なかどが。いい加減止めもんそ。そこを通しっくいやい」
「通すっわけにはいかん」
「どしてん、であいもすか?」
この時新太郎は、握りしめた正之進の拳が小さく震えているのを見ていた。
(まさか……正之進殿も、怖いのか?)
背中に新太郎を庇い、言い掛かり甚だしい妨害に真っ向から立ち向かう。誰に対しても分け隔てなく朗らかで、怒りや恐怖などの負の感情は、全く見せない正之進。
しかし今、竹槍を突きつけられ震える手は、正之進の心中を如実に表していた。新太郎の胸が深く抉られる。
瞬間、新太郎の足が咄嗟に動いた。
両手を広げ、新太郎は正之進と西千石の志士との間に立ちはだかる。
「い! 今は! 今は、妙円寺詣りが優先ではないか! 悪い冗談にしてやるから、そんな物騒な物を仕まえっ!!」
荒々しい刃と化した竹の鋭い先端が、新太郎の鼻先にスッと触れる。
「し、新太郎殿!?」
同時に、背中越しに聞こえる、正之進の慌てた声が耳に響いた。
「ハッ! 弱虫ん有馬か! 郷中にも成っきらん余所者が黙っちょけ!」
「う、五月蝿いッ! 同じ薩摩志士に余所者もへったくれもあるか! 馬鹿なことなどせず、さっさと竹槍を捨てろッ!」
山林にこだましそうなほどに、自分でも信じられないくらい大きな声がでた。新太郎は咄嗟に左手で竹槍を掴む。その直後だった。
「退かんか、弱虫が!!」
新太郎の思わぬ反撃に苛立った西千石の志士が、力まかせに、竹槍を振り回す。
瞬間、その鋒が新太郎の腕の内側を強く削った--!
「ッ……あ“ッ」
捲った袖が、みるみる朱に染まる。
肘から内側の腕の皮膚を抉った竹槍は、新太郎の肩口にその鋒を食い込ませた。
同時に、振り回された竹槍の勢いをもろに受けた新太郎の体が、軽々と宙を舞う。
「新太郎殿!!」
薙ぎ払われるように、木々の間に体が吸い込まれる。
抗うことすらままならず。
新太郎は、すぐそばにいるはずの正之進の声を遥か遠くで聞いているような感覚に陥っていた。
若二才として参加する妙円寺詣りも、年齢満了により、今年で任を解かれる。
ホッと胸が凪ぐ一方、この年の妙円寺詣りも薩摩隼人の闘志が、隠されることなく渦巻いていた。
妙円寺詣りの二日前。
造士館を揺らすほどの歓声が上がる。
それもそのはず。藩主・島津斉彬の計らいで豪華な報酬品が、前もって知らされたからだ。
三宝の上に鎮座する、薄紅色をした菓子と餅。その神々しい姿に、若二才の士気が異様な上がり具合をみせる。
妙円寺詣りが苦痛であるはずの新太郎でさえ、つい士気を上げてしまい、報酬品を最前列で観察した口だ。
(やはり、いつもと熱気が違う……)
出発の号砲を今か今かと待ち侘びる郷中の仲間の圧に、新太郎は気圧され気味に後ずさる。
新太郎の新屋敷郷中は、数年前までは一等賞を連続して獲得するほど、組織力の高さで有名だったのだが。最近では、近隣の加治屋郷中や東千石郷中にその座を奪われ、暫く不本意ながら苦杯を喫していた。
「今年こそは、新屋敷が奪還すっど!」と息巻く郷中の熱気が、新太郎には「足だけは引っ張るなよ!」という言葉に変換されて胸を締め付ける。
重圧と緊張。層のように重なり突き刺さる言葉は、肺に空気をうまく行き渡らせなくした。新太郎は、よろよろと人の輪から外れると、冷たい空気を求めて深呼吸をする。木に手をつき俯く新太郎の背中に、暖かな手がそっと置かれた。
「新太郎殿大丈夫っけ?」
「……正之進殿」
袖と袴をたくしあげ、白い鉢巻をした川路正之進が、心配げに新太郎を見下ろす。
「新太郎殿。あまり、無理すっといかんど」
「いや、大丈夫。人に酔っただけだから」
「無理じゃっ時は、俺が肩を貸すっで、頼ってくいやいなぁ」
「あぁ、ありがとう。正之進殿。でも……」
「あぁ! よかよか! 俺が郷中は論外じゃっで!」
正之進は豪快に笑って言った。
正之進の郷中は、所謂寄せ集め。
造士館からかなり遠くに居を構えている才能ある下級志士を寄せ集め作られた、急拵えの郷中班だ。
したがって、出発位置も先頭から遥か後方になってしまう。どんなに俊足を持ってしても、既存郷中の爆発的な組織力の前には全く歯が立たない。前方に行くことすら出来ないのだ。
(正之進殿は、あんなに俊足であるのに。きちんと真っ向勝負すらできないなんて、なんて理不尽なんだ)
新太郎は下唇を噛んだ。逃げてばかりいる己が情けない。今年こそは、正之進に恥ずかしくない走りをしなければならない。出来ないなりに、懸命にならなければ、と。
「俺も頑張る! だから、正之進殿は前を目指せ!」
「分かいもうした! 新太郎殿に直、追いつっでなぁ!」
新太郎と正之進は拳を強く握りしめると、がちんとぶつけ合う。
互いの力が、拳から伝わり、体を、心を鼓舞するように熱が伝わった。
新太郎の口角が自然と上がり、力強い闘争心が正面に現れた眼差しで正之進を見る。そんな新太郎に対し、正之進は柔らかな視線で新太郎に笑顔を向けた。二人は同時に息を吸うと、森の木々が重なる小さな青空に向かって叫んだ。
「チェストーッ!(※ 気合いをいれるぞーっ!)」
「チェストーッ!」
「はぁ……はぁ……ッ」
山間の獣道に足を取られながら、新太郎は懸命に足を前へ前へと運ぶ。加治屋郷中の仲間は、新太郎の三間(約六メートル)ほど先を走っていた。
号砲と共に一斉に走り出した薩摩の若二才。
造士館から北へ伸びる山道を、地を鳴らし砂埃を巻き上げながら走っていく。砂埃に目を瞬かせながら、新太郎は食らいつくように走っていた。
徐々に開きそうになるその三間を維持するのに、新太郎自身かなり必死だ。しかし、正之進と約束した手前、弱音から力を抜くことが憚られる。簡単に諦めることができなかった。
上がる息、重くなる足。
それでも意識と視線は前へ向く。真っ直ぐな視線につられて、足先も前を向いた。
その時、脇目も振らずに走る新太郎の横を、黒い一団が猛烈な速度で追いつき、追い越していく。
「邪魔やが! 退かんかっ!」
罵声とともに、体中に鈍い痛みがいくつも走るった。
嵐の渦中に放り投げ出されたみたいに、新太郎の華奢な体は、黒い塊に揉みくちゃにされる。圧に必死に耐えていた新太郎だったが、山間のでこぼこ道が、新太郎の踏ん張る足を絡れさせた。
(いかん! 転んでしまう!)
転んでしまえば、後陣に踏まれ蹴られ、立つことも儘ならないことなど容易に想像がつく。新太郎は、咄嗟に目を瞑ってしまった。
全身に食らうであろう痛みを予想した新太郎は、歯を食い縛る。
「新太郎殿ッ!!」
「わっ!?」
地面に倒伏する一歩手前。突然、新太郎の体はグッと引き上げられた。
「正之進殿……」
「大丈夫っごわっか?」
満身創痍に違い新太郎と違い。全く息も切れていない正之進は、新太郎を抱えて穏やかに笑っている。
「だ、大丈夫だ。ありがとう、正之進殿」
「こげなこつに、礼など言わんでくいやい。しかっ、新太郎殿が踏ん潰されんでよかった」
正之進は山道を少し逸れて、新太郎を地面に下ろした。
「しかし、さっきのは……」
黒い嵐のような一団の正体が気になった新太郎は、黒い残像を残る山道の先を見つめて呟く。
「西千石ん郷中ん仲間やっど」
「西千石!?」
新太郎は驚いて声を上げた。西千石と言えば、医学院(現・鹿児島県鹿児島市照国町)に近い土地柄、比較的大人しく知識人の多い郷中と認識していたからだ。新太郎は、目を見開いて正之進を見上げる。
「阿多殿の影響じゃろ」
「阿多殿って、あの?」
「あぁ、今年は揃いの着物など拵えっせぇ。気合いが違どなぁ」
阿多芳之助。
新太郎と同い年の阿多は、大人しく痩せていて。どちらかというと、新太郎と似たような人物だと思っていた。
しかし最近、急激に体躯が良くなり、文武に輝きが宿るようになる。
次世代の薩摩を担う志士として、目立つようにはなってきたのだが。自分等より年下の正之進や五代徳助(※ 五代友厚)と比較すれば、いかんせん存在が薄い。頭角を現すほどの印象もない。
ならば、どこで自分へと目を向けてもらえるか。好機を手に入れる機会は本当に少ない。
したがって「ここで文武両道を見せつけたい」という阿多の気持ちが、新太郎にはなんとなく分かってしまった。
「阿多殿も必死なんだなぁ……」
新太郎は、額に流れ落ちる汗を拭いながら呟く。
正之進と話し込むうちに、すっかり呼吸も整い、足の重たさもどこかへ吹き飛んだような気分になっていた。正之進は新太郎の華奢な肩に手を乗せて、いつもように笑って言う。
「どれ、俺達もそろそろ行きもんそか、新太郎殿」
「ああ! 正之進殿、行くぞ!!」
高さの違う肩が並ぶと、不揃いだった二つの呼吸が重なり一つになる。新太郎と正之進は、真っ直ぐに伸びる山道を力強く走り出した。
「……正之進殿、どうした?」
おおよそ四里(約十六キロメートル)を過ぎた頃、正之進の足がピタリと止まった。
新太郎は上がる息で肩を上下にさせながら、正之進の方を向いた。新太郎とは対照的に、正之進の呼吸は相変わらず乱れていない。
それにも拘らず、正之進は足を止め、深い木々の生い茂った薮の方をただじっと見つめていた。
「正之進殿?」
新太郎の二度目の問いに、正之進は人差し指を立てて唇の前に添えた。
「静かに」と。無言の制止に、新太郎は上がる息をそのまま飲み込んだ。
郷中の誇りを抱き、造士館からほぼ全力疾走をしてきた若二才だ。当然ながら四里を手前にして、山道の脇には疲れ切って蹲る若二才の姿がちらほら見えるようになる。去年までの自分を見ているようで、新太郎は若干居心地が悪くなった。
顳顬の汗を拭う新太郎の傍ら、正之進は真っ直ぐに木々の間を見つめている。走ってもなお、穏やかだった正之進の呼吸が、僅かに速く荒くなった。正之進は、ゆっくりとした動きで新太郎の耳元に口を近づける。
「新太郎殿、まだ速走れっ力は有いもすか?」
「え?」
「逃ぐっど」
「は?」
「逃ぐっど!! 新太郎殿!! 走れっ!!」
正之進はそう叫ぶと、新太郎の腕を掴んで走り出した。今までの並走していた速度が嘘のような。正之進はとんでもない速さで、山道を駆け抜ける。
「え!? ちょ……ま、正之進殿ーっ!?」
腕を掴まれて走らざるを得ない新太郎は、必死に足を回転させてる。しかし、尋常じゃない正之進の速さは、どうにも引きずられているような気がしてならなかった。
過ぎて行く山道の風景に、目を回してしまわぬよう。
新太郎がグッと眉間に力を入れたその時、突然、黒い影が目の前を横切った。
「なんだ!?」
野生の鹿か猪が出てきたのだ思い、新太郎は咄嗟に体を縮こませる。瞬間、急制止した正之進の背中に、新太郎は鼻っ柱をぶつけてしまった。
鼻を押さえ蹲る新太郎の頭上。あり得ないほど、ずっしりと重たい、殺気を帯びた声が響いた。
「比志島の川路か?」
鹿か猪だと思っていた影の輪郭が、次第にはっきりと形を成していく。
(西千石の……!)
新太郎がハッとしたその時、正之進は背中で新太郎を隠して返事をした。
「……何か用でごわんか? 二才殿」
答える正之進の声が、かなり緊張の色味を含んでいる。
新太郎は正之進の背中の影から、視界の塞がれた前方を覗き込んだ。
斜めに切りとられ、鋭くなった刃物のような鋒の孟宗竹が、正之進の喉元に突きつけられている。恐らく、山に自生する孟宗竹を割って拵えたのであろう。荒々しい鋒を抱く竹槍は、間近で見ると今にも体を貫きそうな妙な気を帯びている。
新太郎は毛穴が泡立つのを感じながら、ゴクンと生唾を飲み込んだ。竹槍を構えた西千石の志士は、鋭い目つきで正之進を見据えていた。
「生意気は、薩摩には用らんが」
「……俺は、何もしぃちょらん。言い掛かいじゃっど」
「黙らんか、貧乏人が」
「関係なかどが。いい加減止めもんそ。そこを通しっくいやい」
「通すっわけにはいかん」
「どしてん、であいもすか?」
この時新太郎は、握りしめた正之進の拳が小さく震えているのを見ていた。
(まさか……正之進殿も、怖いのか?)
背中に新太郎を庇い、言い掛かり甚だしい妨害に真っ向から立ち向かう。誰に対しても分け隔てなく朗らかで、怒りや恐怖などの負の感情は、全く見せない正之進。
しかし今、竹槍を突きつけられ震える手は、正之進の心中を如実に表していた。新太郎の胸が深く抉られる。
瞬間、新太郎の足が咄嗟に動いた。
両手を広げ、新太郎は正之進と西千石の志士との間に立ちはだかる。
「い! 今は! 今は、妙円寺詣りが優先ではないか! 悪い冗談にしてやるから、そんな物騒な物を仕まえっ!!」
荒々しい刃と化した竹の鋭い先端が、新太郎の鼻先にスッと触れる。
「し、新太郎殿!?」
同時に、背中越しに聞こえる、正之進の慌てた声が耳に響いた。
「ハッ! 弱虫ん有馬か! 郷中にも成っきらん余所者が黙っちょけ!」
「う、五月蝿いッ! 同じ薩摩志士に余所者もへったくれもあるか! 馬鹿なことなどせず、さっさと竹槍を捨てろッ!」
山林にこだましそうなほどに、自分でも信じられないくらい大きな声がでた。新太郎は咄嗟に左手で竹槍を掴む。その直後だった。
「退かんか、弱虫が!!」
新太郎の思わぬ反撃に苛立った西千石の志士が、力まかせに、竹槍を振り回す。
瞬間、その鋒が新太郎の腕の内側を強く削った--!
「ッ……あ“ッ」
捲った袖が、みるみる朱に染まる。
肘から内側の腕の皮膚を抉った竹槍は、新太郎の肩口にその鋒を食い込ませた。
同時に、振り回された竹槍の勢いをもろに受けた新太郎の体が、軽々と宙を舞う。
「新太郎殿!!」
薙ぎ払われるように、木々の間に体が吸い込まれる。
抗うことすらままならず。
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★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★
https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200
天保三年。
尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。
嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。
許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。
しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。
逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。
江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
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