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1-2 満月の枇杷と月下の琵琶
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「末尾が違だけで。ほんに雲泥の差っちゅうのは、こんことじゃあさいなぁ」
後ろの席に座る上級藩士の子息が発した言葉に、有馬新太郎はグッと唇を噛み締めて身を固くした。その言葉自体、本人をもってしても言い得て妙で。反論すらできない自分に対して、新太郎は怒りを覚えた。
彼らが言うのは、文武両道で頭角を現している有馬新七のことだ。
剣の腕前もさることながら、数ある学派の全てを修めた切れ者。下級藩士という身分であるのに、その才能を見抜かれ若くして要職に抜擢されたという。
そのように揶揄されるのも、新太郎の世代は優秀な人材の〝溝〟と呼ばれていたからだ。上は西郷隆盛に大久保利通、下は小松清廉(※ 小松帯刀)や五代友厚など。これからの薩摩を背負って立つ若二才(※ 若者)がその名を連ねている。上にも下にも優秀な人材がひしめき合い、頭角を現すことすら難しい。
元々伊集院郷(現・鹿児島県日置市伊集院町)の出身であるの有馬新七もその中の一人。立身出世を夢見る少年の中に、誰一人その名を知らない者などいるはずもない。
かたや末尾違いの有馬新太郎は、体も小さく、剣に振り回されている感が否めないほど、武術の技量はかなり未熟であった。
コツコツと勉学に励むのは得意であるが、瞬発力を要する頭の回転は持ち合わせていない。反論しても新太郎より二回りも体の大きな相手に、力でも口でも敵うはずもなかった。究極に弱い自身を厭というほど認識せざるを得ない状況下。新太郎は背中の向こうで聞こえる、なかなか終わらない嘲笑にひたすら耐えるほかなかったのだ。
薩摩藩には、藩士の子息が通う藩校『造士館』がある。造士館とは儒教を基礎理念とし、緊迫する情勢に備えて素養のある人材の育成を目的とした学校である。
目まぐるしく移り変わりゆく幕末の時代において、若く優秀な志士を集め早くから育成することは、当時の薩摩藩主・島津斉彬の急務であったといえよう。斉彬の思惑をよそに。造士館は唯ならぬ速度で、優秀な人材を続々と輩出していた。
元は八代藩主・島津重豪が鹿児島城二ノ丸御門前に藩校の敷地を確保し、儒教の聖堂や講堂、学寮・文庫などを建設したのが、『造士館』の始まりとされている。その後、隣接する敷地に弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、総合的な藩士育成に尽力を注いだ。
優秀であれば階級など関係ない。
造士館の門戸は広く解放され、下級藩士の子息も通うことを許されていた。
〝優秀ならば、出世できる!!〟
見出され頭角を現し、後に明治維新の立役者となった西郷隆盛や大久保利通らが、その代表たる存在だ。
有馬新太郎も造士館に通う藩士の一人だ。階級は、小番と言われる中級藩士。本来ならば造士館の中でも、それなりに気を遣われてもよい立場である。
しかし、体躯の貧弱さや気の弱さに加え、江戸から嫁いできた母の影響により、薩摩言葉が流暢でない新太郎は、上級藩士からも下級藩士からも揶揄いの対象となっていたのだ。
下を向いていると、涙がこぼれそうになる。新太郎はさらに唇を噛み締めて拳を握りしめた。
ゴロ--。
その時、新太郎の座卓に大きな枇杷の実が一つ二つ、鈍い音を立てて乱暴に転がる。和紙の上にゆらゆらと揺れる、鮮やかな満月に似た丸い枇杷の実に、新太郎は驚いて顔を上げた。
「枇杷はいらんけ?」
「え?」
新太郎の目の前には、背の高い少年。
一目みただけで下級藩士とわかる出たちながら。凛とした表情と腕に抱えた大量の枇杷に、新太郎は言葉を失うほど驚愕した。背中で聞こえていた嘲笑が気にならないほど。突然変化した目の前の光景に、新太郎の思考も体も、すっかり固まってしまった。
「庭に実っちょったで持ってきもしたが、まだ熟れきっちょらんかったもんじゃ」
少年は嘲笑など聞こえないかのように、さらに新太郎に語りかける。
「あ? あぁ……」
驚き目を見張る新太郎に、少年は苦笑いして「どおりで雀も食わんはっじゃ」と独言ちた。
新太郎は固まった体と乖離した視線を懸命に動かす。少年の、薩摩特有の日に焼けた肌。はっきりとした顔立ちと色素の薄い虹彩が、新太郎のつぶらな眼がしっかりと少年の出立ちを捉えた。
「甘はねどん、喉の渇きを潤すにはちょうどよか塩梅じゃっど」
距離感がないのか。それとも細いことは気にしないのか。あまりのことに絶句する新太郎を尻目に、真正面の座卓に荷物と枇杷の実を置いた少年は、新太郎に人懐っこい笑顔を見せた。
「川路正之進で申す」
「あ……え、と。有馬新太郎だ」
「有馬殿……。新太郎殿でよかどかい?」
「え? あ、あぁ!!」
慌てて返事をする新太郎に、人懐っこい笑顔をしながら、正之進は額を指先で掻く。
「こげん準士(※ 下級藩士)風情がなんごっかいと、思っちょいもすか?」
ずい、と。前に迫り出された利良の頭部。それを避けるように体を仰け反らせ、新太郎は絶句しながらも辛うじて頷き返事をした。そんな新太郎に、利良はさらに距離を詰める。
「知らん世界を、見っごちゃないもはんか?」
こそっと、利良と新太郎にしか聞こえないほどのの声音。新太郎はつぶらな目を見開いた。
「知らない、世界?」
(一体、何を言っているんだ、こいつは?)
目まぐるしく変わる新太郎の目の前にある情報。頭の許容が一杯になり、挙動不審げに目を白黒させる新太郎とは対照的に。正之進は熟れきってない枇杷の皮をゆっくりと剥きながら頷いた。爽やかな枇杷の実の瑞々しくも青い香りが、ほのかに新太郎の鼻先で弾ける。
「俺は、新太郎殿の世界を知らん。でも新太郎殿は俺の世界を知らん」
生まれた場所も育った環境も違うのだから、当たり前だろう、と思いつつ。新太郎は正之進の得体の知れない詭弁に耳を傾ける。
不思議な魅力がある。容姿も声も、言葉も。
何故か、正之進のそれらをずっと聞いていたかった。
「新太郎殿と俺の世界を合わせたら二倍にないもんそ。また二人で別の世界を見て合わせたら四倍にないもんそ」
「……」
「よか考えじゃっどが!」
破顔一笑。自分自身の考えを、淀みなく躊躇せずに述べる。あまりの勢いと流麗で有無を言わさぬ言葉に、新太郎は黙って首を縦に振るしかなかった。
(そうか……。あれに似てるんだ)
新太郎は目の前で、満月の枇杷の皮を剥く正之進の指先をみながら思った。
深く、浅く、ゆっくりと広がる琵琶の音色。十五夜で聞いた月夜の一音一音を、聞き逃したくないと思わせる琵琶の音色に似ている、と。その音色は先程まで、揶揄われ泣きそうだった新太郎の弱い心まで吹き飛ばしてしまっていた。
新太郎はクスリと笑うと、座卓の上に置かれた枇杷を手に言った。
「川路殿、枇杷のお礼がしたい」
「んな! 気ィせんでよかど!」
「見たくはないか? 知らない世界を」
「え?」
「私の母上は、江戸から来たんだ」
「誠っな!」
先ほどまで隙なく流暢に喋る正之進が、口に入れた枇杷を出さんばかりに叫んだ。その様子に新太郎は、堪らず噴き出してしまった。
(変な奴だなぁ)
造士館にきて初めて、腹の底から楽しいと思える出来事に遭遇した新太郎は、利良の大きな目を見て続けた。
「あぁ。川路殿の世界が広がる、良い機会かもしれないな」
後に正之進は、黎明の世を切り拓き、明治維新を乗り越える。そして、初代大警視を務めあげるまでになった。
欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築し、日本の警察の創設者にして『日本警察の父』と呼ばれる川路利良だ。まだ未熟で若き彼の世界が、一つ広がる瞬間に新太郎は立ち会うこととなるのだ。
後ろの席に座る上級藩士の子息が発した言葉に、有馬新太郎はグッと唇を噛み締めて身を固くした。その言葉自体、本人をもってしても言い得て妙で。反論すらできない自分に対して、新太郎は怒りを覚えた。
彼らが言うのは、文武両道で頭角を現している有馬新七のことだ。
剣の腕前もさることながら、数ある学派の全てを修めた切れ者。下級藩士という身分であるのに、その才能を見抜かれ若くして要職に抜擢されたという。
そのように揶揄されるのも、新太郎の世代は優秀な人材の〝溝〟と呼ばれていたからだ。上は西郷隆盛に大久保利通、下は小松清廉(※ 小松帯刀)や五代友厚など。これからの薩摩を背負って立つ若二才(※ 若者)がその名を連ねている。上にも下にも優秀な人材がひしめき合い、頭角を現すことすら難しい。
元々伊集院郷(現・鹿児島県日置市伊集院町)の出身であるの有馬新七もその中の一人。立身出世を夢見る少年の中に、誰一人その名を知らない者などいるはずもない。
かたや末尾違いの有馬新太郎は、体も小さく、剣に振り回されている感が否めないほど、武術の技量はかなり未熟であった。
コツコツと勉学に励むのは得意であるが、瞬発力を要する頭の回転は持ち合わせていない。反論しても新太郎より二回りも体の大きな相手に、力でも口でも敵うはずもなかった。究極に弱い自身を厭というほど認識せざるを得ない状況下。新太郎は背中の向こうで聞こえる、なかなか終わらない嘲笑にひたすら耐えるほかなかったのだ。
薩摩藩には、藩士の子息が通う藩校『造士館』がある。造士館とは儒教を基礎理念とし、緊迫する情勢に備えて素養のある人材の育成を目的とした学校である。
目まぐるしく移り変わりゆく幕末の時代において、若く優秀な志士を集め早くから育成することは、当時の薩摩藩主・島津斉彬の急務であったといえよう。斉彬の思惑をよそに。造士館は唯ならぬ速度で、優秀な人材を続々と輩出していた。
元は八代藩主・島津重豪が鹿児島城二ノ丸御門前に藩校の敷地を確保し、儒教の聖堂や講堂、学寮・文庫などを建設したのが、『造士館』の始まりとされている。その後、隣接する敷地に弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、総合的な藩士育成に尽力を注いだ。
優秀であれば階級など関係ない。
造士館の門戸は広く解放され、下級藩士の子息も通うことを許されていた。
〝優秀ならば、出世できる!!〟
見出され頭角を現し、後に明治維新の立役者となった西郷隆盛や大久保利通らが、その代表たる存在だ。
有馬新太郎も造士館に通う藩士の一人だ。階級は、小番と言われる中級藩士。本来ならば造士館の中でも、それなりに気を遣われてもよい立場である。
しかし、体躯の貧弱さや気の弱さに加え、江戸から嫁いできた母の影響により、薩摩言葉が流暢でない新太郎は、上級藩士からも下級藩士からも揶揄いの対象となっていたのだ。
下を向いていると、涙がこぼれそうになる。新太郎はさらに唇を噛み締めて拳を握りしめた。
ゴロ--。
その時、新太郎の座卓に大きな枇杷の実が一つ二つ、鈍い音を立てて乱暴に転がる。和紙の上にゆらゆらと揺れる、鮮やかな満月に似た丸い枇杷の実に、新太郎は驚いて顔を上げた。
「枇杷はいらんけ?」
「え?」
新太郎の目の前には、背の高い少年。
一目みただけで下級藩士とわかる出たちながら。凛とした表情と腕に抱えた大量の枇杷に、新太郎は言葉を失うほど驚愕した。背中で聞こえていた嘲笑が気にならないほど。突然変化した目の前の光景に、新太郎の思考も体も、すっかり固まってしまった。
「庭に実っちょったで持ってきもしたが、まだ熟れきっちょらんかったもんじゃ」
少年は嘲笑など聞こえないかのように、さらに新太郎に語りかける。
「あ? あぁ……」
驚き目を見張る新太郎に、少年は苦笑いして「どおりで雀も食わんはっじゃ」と独言ちた。
新太郎は固まった体と乖離した視線を懸命に動かす。少年の、薩摩特有の日に焼けた肌。はっきりとした顔立ちと色素の薄い虹彩が、新太郎のつぶらな眼がしっかりと少年の出立ちを捉えた。
「甘はねどん、喉の渇きを潤すにはちょうどよか塩梅じゃっど」
距離感がないのか。それとも細いことは気にしないのか。あまりのことに絶句する新太郎を尻目に、真正面の座卓に荷物と枇杷の実を置いた少年は、新太郎に人懐っこい笑顔を見せた。
「川路正之進で申す」
「あ……え、と。有馬新太郎だ」
「有馬殿……。新太郎殿でよかどかい?」
「え? あ、あぁ!!」
慌てて返事をする新太郎に、人懐っこい笑顔をしながら、正之進は額を指先で掻く。
「こげん準士(※ 下級藩士)風情がなんごっかいと、思っちょいもすか?」
ずい、と。前に迫り出された利良の頭部。それを避けるように体を仰け反らせ、新太郎は絶句しながらも辛うじて頷き返事をした。そんな新太郎に、利良はさらに距離を詰める。
「知らん世界を、見っごちゃないもはんか?」
こそっと、利良と新太郎にしか聞こえないほどのの声音。新太郎はつぶらな目を見開いた。
「知らない、世界?」
(一体、何を言っているんだ、こいつは?)
目まぐるしく変わる新太郎の目の前にある情報。頭の許容が一杯になり、挙動不審げに目を白黒させる新太郎とは対照的に。正之進は熟れきってない枇杷の皮をゆっくりと剥きながら頷いた。爽やかな枇杷の実の瑞々しくも青い香りが、ほのかに新太郎の鼻先で弾ける。
「俺は、新太郎殿の世界を知らん。でも新太郎殿は俺の世界を知らん」
生まれた場所も育った環境も違うのだから、当たり前だろう、と思いつつ。新太郎は正之進の得体の知れない詭弁に耳を傾ける。
不思議な魅力がある。容姿も声も、言葉も。
何故か、正之進のそれらをずっと聞いていたかった。
「新太郎殿と俺の世界を合わせたら二倍にないもんそ。また二人で別の世界を見て合わせたら四倍にないもんそ」
「……」
「よか考えじゃっどが!」
破顔一笑。自分自身の考えを、淀みなく躊躇せずに述べる。あまりの勢いと流麗で有無を言わさぬ言葉に、新太郎は黙って首を縦に振るしかなかった。
(そうか……。あれに似てるんだ)
新太郎は目の前で、満月の枇杷の皮を剥く正之進の指先をみながら思った。
深く、浅く、ゆっくりと広がる琵琶の音色。十五夜で聞いた月夜の一音一音を、聞き逃したくないと思わせる琵琶の音色に似ている、と。その音色は先程まで、揶揄われ泣きそうだった新太郎の弱い心まで吹き飛ばしてしまっていた。
新太郎はクスリと笑うと、座卓の上に置かれた枇杷を手に言った。
「川路殿、枇杷のお礼がしたい」
「んな! 気ィせんでよかど!」
「見たくはないか? 知らない世界を」
「え?」
「私の母上は、江戸から来たんだ」
「誠っな!」
先ほどまで隙なく流暢に喋る正之進が、口に入れた枇杷を出さんばかりに叫んだ。その様子に新太郎は、堪らず噴き出してしまった。
(変な奴だなぁ)
造士館にきて初めて、腹の底から楽しいと思える出来事に遭遇した新太郎は、利良の大きな目を見て続けた。
「あぁ。川路殿の世界が広がる、良い機会かもしれないな」
後に正之進は、黎明の世を切り拓き、明治維新を乗り越える。そして、初代大警視を務めあげるまでになった。
欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築し、日本の警察の創設者にして『日本警察の父』と呼ばれる川路利良だ。まだ未熟で若き彼の世界が、一つ広がる瞬間に新太郎は立ち会うこととなるのだ。
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