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見慣れた天井
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ルイーザがゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が飛び込んできた。ぼんやりとした意識の中、体の末端に感覚が戻り自分自身にまだ血が通っていることを確認する。
(──私、助かったのね)
本能に身を任せ、随分と思い切った行動をしてしまった。剣を握ったことすらないような身でありながら、武器を持った刺客に立ち向かうなど令嬢であったころのルイーザには考えられない。
顔を横に動かすと、金の瞳を丸くしてヴィクトールがこちらを見ていた。目の下に隈があり、その様子では随分と憔悴しているようだ。状況を確認するために身を起こそうとするよりも早く、ヴィクトールがルイーザに纏わりつくように抱きしめてきた。
「ショコラ!!」
「いっ……」
ヴィクトールに抱きしめられた瞬間、じくじくと胴体に痛みが走る。あの時、短剣で刺されたことを思い出す。ルイーザは痛みに眉を顰めているというのに、目の前の男はルイーザの──犬の名を連呼していた。
「ショコラ、ああよかった……ショコラ……」
「……痛いわよポンコツ王太子」
「す、すまない……!」
ルイーザの言葉に、パッとヴィクトールが身を離す。いつもであれば、この男はこちらが何を言おうともぎゅうぎゅうと抱きしめては毛並みを楽しむように撫でまわしていたはずである。
そこで、ルイーザはようやく違和感に気付く。布団から恐る恐る手を出して顔の前に持ってくると、それは毛に覆われていない人間の手のひらだった。
「……え」
ルイーザは、その手で自らの頬や首元を触って確かめる。ふかふかとした毛の感触はない、人間の肌の感触だった。意識して周りを見ると、かつて見慣れた風景──伯爵邸にある、自室のベッドに自分が横たわっていることに気が付く。──元に戻っている。歓喜に震えると同時にじわりと冷や汗が流れた。何を言ってもわふわふと言葉にならない犬の声帯のつもりで、とんでもない発言をしなかっただろうか。ルイーザの気が確かであるならば、目の前にいる男はこの国の王太子殿下である。ルイーザはさっと顔を青ざめて、慌てて身を起こした。
「も、申し訳ございません、王太子殿……痛っ」
「ああ、無理はしなくていい。君は大怪我をしていたんだ」
半身を起こしたものの走る脇腹の痛みに顔をしかめたルイーザの背を、ヴィクトールは支えるようにして手を添えた。あの時に負った傷は結構深いのか、じっとしていてもじんじんと痺れるような痛みが続く。しかしルイーザには痛みよりまず謝罪を優先しなければならなかった。
「朦朧としておりまして、とんだご無礼を……」
「いや、休憩のたびに弱音を吐く私を見ていたらそう言いたくなるのもわかる……くっ」
ルイーザが下げていた頭を上げると、ヴィクトールは拳で口を押さえながら堪え切れないという風に笑っていた。無礼打ちをされてもおかしくない発言をしたというのに、憤りもせずに笑うヴィクトールにルイーザは首を傾げる。
「すまない……。ショコラは可愛らしい顔で意外と辛辣な事を考えていたのだと思うと、なんだか可笑しくて」
「……申し訳ございません」
ルイーザはだらだらと冷や汗を流し謝罪人形と化す他ない。ポンコツ王太子とつい先程言葉にした以上、何を言っても言い訳にしかならないだろう。もっとも、実際犬のときも辛辣な言葉を吐いていたのだけれど。
身を小さくして反省しながらも、ルイーザは今の状況を分析する。脇腹の痛みは、あれが夢でなかったことを証明している。そして自室にいて今は人間であるということは、確かに犬ではなく令嬢に戻っている筈だ。
何故、ヴィクトールは自分を「ショコラ」だと知っているのだろうか。ルイーザが疑問を口にするよりも前に、ヴィクトールが説明を始めた。
「大体の事情は、父と伯爵から聞いている。君がショコラだったんだよね」
「はい……ただ、解呪には薬が必要な筈だったのですが……」
ノアは、薬の材料を輸入する目途が立ったとは言っていた。しかし、ルイーザは勿論薬を飲んだ覚えなどない。また、材料が到着するのはまだ先の筈だった。しかし、今のルイーザは犬ではなくなぜか人間の姿に戻っている。
「詳しくは、後ほど魔術師から聞いた方がいいと思う。
その……君は私の目の前で人間に戻ったんだ。
怪我をしたショコラが意識を失ったと思ったら、その……徐々に体に変化が現れて……」
急に勢いをなくしてもごもごと言い淀むヴィクトールを見て、ルイーザは何が起こったのか察してしまう。犬であったルイーザは、普通の番犬の振りをしながら過ごしていた。つまり、一部の愛玩犬とは違い服などは当然着ていなかったのだ。
ヴィクトールにとっては、完全なる不可抗力であることは勿論わかっている。しかし年頃の女性として、その状況を思い浮かべると居た堪れなくなり無意識のうちに身を隠すように上掛けを引き寄せてしまう。
「君は大怪我をして血を流していたし、断じて邪な気は起こしていない! それに、変化に気付いてすぐに私の上着をかけたから、少ししか見ていない!」
そこは、例え何か見ても何も見なかったというところではないだろうか。正直すぎる王太子にルイーザは思わず目を眇めたが、ヴィクトールはさっと目を逸らすと誤魔化すように咳ばらいをする。
「その……言いづらいが、私を守ったために君は怪我を負ってしまった。辛うじて内臓は損傷していないらしいが、傷は残るそうなんだ」
「そうですか……」
未だ痛む脇腹に手を当てる。あの時は必死で何も考えられなかったが、確かに刺されたのだ。傷が残るのも無理はないだろう。それでも、一度は死んだと思ったのだから、こうして生きているだけでも有難い。
「令嬢の肌に傷があると、嫁ぐときに支障が出る。
幸い、まだ私は妃を決めていない。……だから、責任を取らせてほしい。」
ヴィクトールの提案に、ルイーザは思わず息を呑む。ここでいう責任、というのは言うまでもなく婚姻についてのことだろう。あんなに望んでいた王妃の座。以前のルイーザであれば間違いなく飛びついただろう提案に、是とは答えられなかった。
あまりにもムードがないからでも、愛が感じられないからでもない。──まあ思う事はあるけれど。
次期王妃になりたかった頃も王太子に惚れていたわけではないものの、将来夫を蔑ろにするつもりはなかったのだ。夫婦になれたのであれば互いに尊重しあい良い関係になりたいと思っていた。
でも、ルイーザは犬としてヴィクトールの本音を聞いてしまったのだ。王太子の座を重荷に感じていることも、ルイーザのような野心を持つ令嬢を良く思っていない──怖いと思っていることも、愛し愛される結婚を望んでいることも。
次期王の立場に悩む彼を慰め、癒し支えることが自分にできるのだろうか。
また、自分に苦手意識を抱いている彼が本当の意味で心を開いてくれるのだろうか。
犬だった頃に不本意ながら懐いてしまっただけあってルイーザは、ヴィクトールが情けないけれど良い人であることは知っている。彼の素顔を知ってしまった以上仮面夫婦前提で婚姻を結ぶことに躊躇してしまうのだ。このまま結婚すれば、きっと自分もヴィクトールも幸せにはなれない。
──断ろう。
ルイーザは胸の前で手を握り、辞退しようと決意するが、その言葉よりも先にヴィクトールは口を開いた。
「その……責任を取らなければならない理由は傷だけではないんだ。
私は、知らなかったとはいえショコラの──」
「ルイーザです」
ヴィクトールの言葉を思わず遮ってから、ルイーザはしまったと口を手で覆う。犬の時はどうせ通じないからと思ったことをすぐに言葉にしてしまう習慣がついてしまっていた。目上の者の言葉を遮るなどと失礼だと反省するが、ヴィクトールに気にした様子はない。
「その……私はルイーザ嬢の体中を毎回無遠慮に撫でまわしていただろう?」
「言い方!」
ルイーザは思わず叫ぶ。ヴィクトールの言葉に反省の気持ちは見事に霧散した。
「どうか、一旦犬と私は無関係のものとしてお考えください。
怪我の件も、……触れていた件も、王太子殿下が責任を感じる必要はございません」
「しかし、ショコラの時に取っていた行動は、確かに君の意思によるものなのだろう?」
自身の意思ではあるのだけれど、犬の本能に引っ張られての行動でもあるのだ。 ルイーザとしては、犬であったときのことはノーカウントにしておかないと色々と困る。全裸で歩き回っていたこともそうだけれど、他にも多少……多々人間らしからぬ行動をとっていたのだ。
「お忘れくださ──」
「ルイーザ!!」
ノックもなく突然私室の扉が空いたと思ったら、転がり込むように両親が入ってきた。礼儀に厳しい筈の父は室内の王太子に目もくれないし、いつも身だしなみをきちんとしている母は走ってきたのか髪を解れさせドレスも踝が見えるほどたくし上げながら駆け寄ってきた。
「ああ……目が覚めたんだな。良かった……本当に良かった」
「騎士様から、部屋でルイーザの声がすると聞いて急いで来たのよ。
可愛い私のルイーザ。お顔をよく見せてちょうだい」
父は涙を浮かべルイーザの手を握り、母も同じく涙を浮かべながらルイーザの頬を両手で覆う。ベッドの傍らにいたヴィクトールは、察して場所を譲ってくれたようだ。
随分と心配をかけてしまったことが両親の様子からわかる。両親を見て、ルイーザも涙が出そうになってしまった。
「お父さま、お母さま、心配をおかけしました」
「お前が刺されたと聞いて、心臓が止まるかと思ったよ」
「ルイーザ……すっかり痩せてしまって……は、いないみたいね……寧ろ肌も髪も艶がいいような……ええ、ルイーザ、元気そうでよかったわ……」
「お、おかげさまで……」
脇腹に怪我をしているので元気ではないのだけれど、犬生活の間中は質の良い食事をとり、よく眠り体を動かし、更には換毛期のために毎朝夕丹念なブラッシングを受けていた。令嬢の頃より健康的な生活であったのだからそう見えても仕方がない。
顔を引きつらせたルイーザに気が付いた父が、慌てて話を変えた。
「ル、ルイーザ。お前は二日間意識が戻らなかったのだ。
ヴィクトール王太子殿下がすぐに医務室に連れていってくださらなかったら、間違いなく命を失っていたらしい。
ヴィクトール王太子殿下……何とお礼申し上げて良いか……」
「伯爵、頭を上げてくれ。元の原因は私にある。逆に私の方が、ルイーザ嬢に礼をしなければならないのだ」
「……ところで、私は覚えていないのですけれど、あの刺客は無事捕まったのでしょうか?」
「ああ。すぐにレーヴェ……私の騎士が駆け付け取り押さえた。今は牢に入っている。
……ただ、依頼主の方なのだが……刺客からはアーデルベルトの名前が出たものの、本人が否定しているために自宅謹慎にとどめることしかできなかった。
このまま証拠が入手できなければ、ほとぼりが冷めた頃にはなかったことになってしまうだろう」
ルイーザは犬として話を聞いていたので刺客の証言……アーデルベルトが依頼主であることは知っている。しかし、どちらにしてもルイーザの証言では証拠にはならない。
黒幕の男──アーデルベルト本人の言葉によると、ヴィクトールに刺客を送り込んだだけでなくルイーザを含む数人の令嬢を王太子妃候補の座から引きずりおろしたのだ。できることならば、きちんと罪を問いたい。しかし、あと一歩及ばぬ状況に悔しくなってルイーザは下唇を噛む。
「そんな表情をしないでおくれ、ルイーザ嬢。
私個人としてはアーデベルトのことは嫌いではなかったし、優秀なあいつに王位を譲っても良いと思っていたけれど……この事態を引き起こした以上は必ず、罪を償わせよう」
「私の方でも、現在調査中だ。この件は、陛下も重く捉えておられる」
「でも……証拠はまだ、出てきていないのですよね。
私は犬として話を聞いたので確信していますが──」
当時の記憶を辿りながら、ルイーザはあることに気が付いて目を見開いた。アーデルベルトが計画を吐き出していたあの時、アーデルベルトには相手がいた。人目を避けるように密会していたが、相手の男は確かに名乗っていたはずだ。
「──バルツァー家! アーデルベルト様はバルツァー侯爵家の者にヴィクトール王太子殿下に刺客を送った旨を話しておりました! その時に話しを聞いたから、私は殿下の元へ駆け出したのです」
ルイーザの言葉を聞いて、ヴィクトールと父は同時に身を乗り出した。
「本当かルイーザ! 協力者の証言が得られれば、状況は打破できるかもしれない」
「はい。姿は見ておりませんが、声は若かったので当主ではなく子息だと思います。
彼は、刺客を送った件はやりすぎだとアーデルベルト様に苦言を呈していました」
「そうか……! そこから攻めれば、何か得られるかもしれない。すぐに接触させよう」
(──私、助かったのね)
本能に身を任せ、随分と思い切った行動をしてしまった。剣を握ったことすらないような身でありながら、武器を持った刺客に立ち向かうなど令嬢であったころのルイーザには考えられない。
顔を横に動かすと、金の瞳を丸くしてヴィクトールがこちらを見ていた。目の下に隈があり、その様子では随分と憔悴しているようだ。状況を確認するために身を起こそうとするよりも早く、ヴィクトールがルイーザに纏わりつくように抱きしめてきた。
「ショコラ!!」
「いっ……」
ヴィクトールに抱きしめられた瞬間、じくじくと胴体に痛みが走る。あの時、短剣で刺されたことを思い出す。ルイーザは痛みに眉を顰めているというのに、目の前の男はルイーザの──犬の名を連呼していた。
「ショコラ、ああよかった……ショコラ……」
「……痛いわよポンコツ王太子」
「す、すまない……!」
ルイーザの言葉に、パッとヴィクトールが身を離す。いつもであれば、この男はこちらが何を言おうともぎゅうぎゅうと抱きしめては毛並みを楽しむように撫でまわしていたはずである。
そこで、ルイーザはようやく違和感に気付く。布団から恐る恐る手を出して顔の前に持ってくると、それは毛に覆われていない人間の手のひらだった。
「……え」
ルイーザは、その手で自らの頬や首元を触って確かめる。ふかふかとした毛の感触はない、人間の肌の感触だった。意識して周りを見ると、かつて見慣れた風景──伯爵邸にある、自室のベッドに自分が横たわっていることに気が付く。──元に戻っている。歓喜に震えると同時にじわりと冷や汗が流れた。何を言ってもわふわふと言葉にならない犬の声帯のつもりで、とんでもない発言をしなかっただろうか。ルイーザの気が確かであるならば、目の前にいる男はこの国の王太子殿下である。ルイーザはさっと顔を青ざめて、慌てて身を起こした。
「も、申し訳ございません、王太子殿……痛っ」
「ああ、無理はしなくていい。君は大怪我をしていたんだ」
半身を起こしたものの走る脇腹の痛みに顔をしかめたルイーザの背を、ヴィクトールは支えるようにして手を添えた。あの時に負った傷は結構深いのか、じっとしていてもじんじんと痺れるような痛みが続く。しかしルイーザには痛みよりまず謝罪を優先しなければならなかった。
「朦朧としておりまして、とんだご無礼を……」
「いや、休憩のたびに弱音を吐く私を見ていたらそう言いたくなるのもわかる……くっ」
ルイーザが下げていた頭を上げると、ヴィクトールは拳で口を押さえながら堪え切れないという風に笑っていた。無礼打ちをされてもおかしくない発言をしたというのに、憤りもせずに笑うヴィクトールにルイーザは首を傾げる。
「すまない……。ショコラは可愛らしい顔で意外と辛辣な事を考えていたのだと思うと、なんだか可笑しくて」
「……申し訳ございません」
ルイーザはだらだらと冷や汗を流し謝罪人形と化す他ない。ポンコツ王太子とつい先程言葉にした以上、何を言っても言い訳にしかならないだろう。もっとも、実際犬のときも辛辣な言葉を吐いていたのだけれど。
身を小さくして反省しながらも、ルイーザは今の状況を分析する。脇腹の痛みは、あれが夢でなかったことを証明している。そして自室にいて今は人間であるということは、確かに犬ではなく令嬢に戻っている筈だ。
何故、ヴィクトールは自分を「ショコラ」だと知っているのだろうか。ルイーザが疑問を口にするよりも前に、ヴィクトールが説明を始めた。
「大体の事情は、父と伯爵から聞いている。君がショコラだったんだよね」
「はい……ただ、解呪には薬が必要な筈だったのですが……」
ノアは、薬の材料を輸入する目途が立ったとは言っていた。しかし、ルイーザは勿論薬を飲んだ覚えなどない。また、材料が到着するのはまだ先の筈だった。しかし、今のルイーザは犬ではなくなぜか人間の姿に戻っている。
「詳しくは、後ほど魔術師から聞いた方がいいと思う。
その……君は私の目の前で人間に戻ったんだ。
怪我をしたショコラが意識を失ったと思ったら、その……徐々に体に変化が現れて……」
急に勢いをなくしてもごもごと言い淀むヴィクトールを見て、ルイーザは何が起こったのか察してしまう。犬であったルイーザは、普通の番犬の振りをしながら過ごしていた。つまり、一部の愛玩犬とは違い服などは当然着ていなかったのだ。
ヴィクトールにとっては、完全なる不可抗力であることは勿論わかっている。しかし年頃の女性として、その状況を思い浮かべると居た堪れなくなり無意識のうちに身を隠すように上掛けを引き寄せてしまう。
「君は大怪我をして血を流していたし、断じて邪な気は起こしていない! それに、変化に気付いてすぐに私の上着をかけたから、少ししか見ていない!」
そこは、例え何か見ても何も見なかったというところではないだろうか。正直すぎる王太子にルイーザは思わず目を眇めたが、ヴィクトールはさっと目を逸らすと誤魔化すように咳ばらいをする。
「その……言いづらいが、私を守ったために君は怪我を負ってしまった。辛うじて内臓は損傷していないらしいが、傷は残るそうなんだ」
「そうですか……」
未だ痛む脇腹に手を当てる。あの時は必死で何も考えられなかったが、確かに刺されたのだ。傷が残るのも無理はないだろう。それでも、一度は死んだと思ったのだから、こうして生きているだけでも有難い。
「令嬢の肌に傷があると、嫁ぐときに支障が出る。
幸い、まだ私は妃を決めていない。……だから、責任を取らせてほしい。」
ヴィクトールの提案に、ルイーザは思わず息を呑む。ここでいう責任、というのは言うまでもなく婚姻についてのことだろう。あんなに望んでいた王妃の座。以前のルイーザであれば間違いなく飛びついただろう提案に、是とは答えられなかった。
あまりにもムードがないからでも、愛が感じられないからでもない。──まあ思う事はあるけれど。
次期王妃になりたかった頃も王太子に惚れていたわけではないものの、将来夫を蔑ろにするつもりはなかったのだ。夫婦になれたのであれば互いに尊重しあい良い関係になりたいと思っていた。
でも、ルイーザは犬としてヴィクトールの本音を聞いてしまったのだ。王太子の座を重荷に感じていることも、ルイーザのような野心を持つ令嬢を良く思っていない──怖いと思っていることも、愛し愛される結婚を望んでいることも。
次期王の立場に悩む彼を慰め、癒し支えることが自分にできるのだろうか。
また、自分に苦手意識を抱いている彼が本当の意味で心を開いてくれるのだろうか。
犬だった頃に不本意ながら懐いてしまっただけあってルイーザは、ヴィクトールが情けないけれど良い人であることは知っている。彼の素顔を知ってしまった以上仮面夫婦前提で婚姻を結ぶことに躊躇してしまうのだ。このまま結婚すれば、きっと自分もヴィクトールも幸せにはなれない。
──断ろう。
ルイーザは胸の前で手を握り、辞退しようと決意するが、その言葉よりも先にヴィクトールは口を開いた。
「その……責任を取らなければならない理由は傷だけではないんだ。
私は、知らなかったとはいえショコラの──」
「ルイーザです」
ヴィクトールの言葉を思わず遮ってから、ルイーザはしまったと口を手で覆う。犬の時はどうせ通じないからと思ったことをすぐに言葉にしてしまう習慣がついてしまっていた。目上の者の言葉を遮るなどと失礼だと反省するが、ヴィクトールに気にした様子はない。
「その……私はルイーザ嬢の体中を毎回無遠慮に撫でまわしていただろう?」
「言い方!」
ルイーザは思わず叫ぶ。ヴィクトールの言葉に反省の気持ちは見事に霧散した。
「どうか、一旦犬と私は無関係のものとしてお考えください。
怪我の件も、……触れていた件も、王太子殿下が責任を感じる必要はございません」
「しかし、ショコラの時に取っていた行動は、確かに君の意思によるものなのだろう?」
自身の意思ではあるのだけれど、犬の本能に引っ張られての行動でもあるのだ。 ルイーザとしては、犬であったときのことはノーカウントにしておかないと色々と困る。全裸で歩き回っていたこともそうだけれど、他にも多少……多々人間らしからぬ行動をとっていたのだ。
「お忘れくださ──」
「ルイーザ!!」
ノックもなく突然私室の扉が空いたと思ったら、転がり込むように両親が入ってきた。礼儀に厳しい筈の父は室内の王太子に目もくれないし、いつも身だしなみをきちんとしている母は走ってきたのか髪を解れさせドレスも踝が見えるほどたくし上げながら駆け寄ってきた。
「ああ……目が覚めたんだな。良かった……本当に良かった」
「騎士様から、部屋でルイーザの声がすると聞いて急いで来たのよ。
可愛い私のルイーザ。お顔をよく見せてちょうだい」
父は涙を浮かべルイーザの手を握り、母も同じく涙を浮かべながらルイーザの頬を両手で覆う。ベッドの傍らにいたヴィクトールは、察して場所を譲ってくれたようだ。
随分と心配をかけてしまったことが両親の様子からわかる。両親を見て、ルイーザも涙が出そうになってしまった。
「お父さま、お母さま、心配をおかけしました」
「お前が刺されたと聞いて、心臓が止まるかと思ったよ」
「ルイーザ……すっかり痩せてしまって……は、いないみたいね……寧ろ肌も髪も艶がいいような……ええ、ルイーザ、元気そうでよかったわ……」
「お、おかげさまで……」
脇腹に怪我をしているので元気ではないのだけれど、犬生活の間中は質の良い食事をとり、よく眠り体を動かし、更には換毛期のために毎朝夕丹念なブラッシングを受けていた。令嬢の頃より健康的な生活であったのだからそう見えても仕方がない。
顔を引きつらせたルイーザに気が付いた父が、慌てて話を変えた。
「ル、ルイーザ。お前は二日間意識が戻らなかったのだ。
ヴィクトール王太子殿下がすぐに医務室に連れていってくださらなかったら、間違いなく命を失っていたらしい。
ヴィクトール王太子殿下……何とお礼申し上げて良いか……」
「伯爵、頭を上げてくれ。元の原因は私にある。逆に私の方が、ルイーザ嬢に礼をしなければならないのだ」
「……ところで、私は覚えていないのですけれど、あの刺客は無事捕まったのでしょうか?」
「ああ。すぐにレーヴェ……私の騎士が駆け付け取り押さえた。今は牢に入っている。
……ただ、依頼主の方なのだが……刺客からはアーデルベルトの名前が出たものの、本人が否定しているために自宅謹慎にとどめることしかできなかった。
このまま証拠が入手できなければ、ほとぼりが冷めた頃にはなかったことになってしまうだろう」
ルイーザは犬として話を聞いていたので刺客の証言……アーデルベルトが依頼主であることは知っている。しかし、どちらにしてもルイーザの証言では証拠にはならない。
黒幕の男──アーデルベルト本人の言葉によると、ヴィクトールに刺客を送り込んだだけでなくルイーザを含む数人の令嬢を王太子妃候補の座から引きずりおろしたのだ。できることならば、きちんと罪を問いたい。しかし、あと一歩及ばぬ状況に悔しくなってルイーザは下唇を噛む。
「そんな表情をしないでおくれ、ルイーザ嬢。
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「私の方でも、現在調査中だ。この件は、陛下も重く捉えておられる」
「でも……証拠はまだ、出てきていないのですよね。
私は犬として話を聞いたので確信していますが──」
当時の記憶を辿りながら、ルイーザはあることに気が付いて目を見開いた。アーデルベルトが計画を吐き出していたあの時、アーデルベルトには相手がいた。人目を避けるように密会していたが、相手の男は確かに名乗っていたはずだ。
「──バルツァー家! アーデルベルト様はバルツァー侯爵家の者にヴィクトール王太子殿下に刺客を送った旨を話しておりました! その時に話しを聞いたから、私は殿下の元へ駆け出したのです」
ルイーザの言葉を聞いて、ヴィクトールと父は同時に身を乗り出した。
「本当かルイーザ! 協力者の証言が得られれば、状況は打破できるかもしれない」
「はい。姿は見ておりませんが、声は若かったので当主ではなく子息だと思います。
彼は、刺客を送った件はやりすぎだとアーデルベルト様に苦言を呈していました」
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