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【第三章】追 跡
スーパークラス
しおりを挟むもはや武力や腕力で戦うなんてもんじゃない。手を振り上げるスペースすら無かった。
もし戦いの場を城の外に移してもそれは同じだろう。無限に近いエネルギーを映像物質化する戦いには、物理的に武力などで戦うなど意味を失くしてしまうのだ。残りは精神力のみ。
「ちょ、ちょっと。こんな押しくらまんじゅう状態でどうやって戦うんすか? ほっらー。みんな押し潰されてますよー」
声を出すのが精一杯だった。敵軍だけでなく反乱軍もどこかに押しやられて姿が見えない。視界に入るのはハゲとトパーズ色の目玉野郎だけ。
「裕輔の言うのも一理ある。数で勝負するのは無意味やな」
「うむ。ワタシも少々窮屈じゃ」
司令官も社長と同意見なのだろう。ザァァァーと音を上げてホールがもぬけの空になった。
司令官は「これなら動きやすい」と言い。
「見たところオマエもホロ映像のようだな」
今ごろ気づいてんのかよ。
「せや。それもおまはんより上位の存在や!」
「それは解(げ)せぬな」
しゅわっと乾いた音を上げ、足の先から首に向かって司令官の衣服が再生していった。
「最上位クラスはワタシのはずだぞ」
ふてぶてしい態度で銀白のマントを翻した。
「零(ぜろ)番が余ってるやろ」
こちらも足元からコスチュームが再生されて行く。先が尖って内に反り返ったブーツ。トランプのジョーカーでしか見たことが無いブーツだ。それから上下が一体になった銀色のレーシングスーツ……だろうか。体にぴっちりとフィットして、醜いオッサンの出っ腹がくっきりと曝け出された滑稽な姿。ついでに司令官と対抗したあまりにも長すぎる銀白のマント。嵐にでもならない限り、なびきもしない。
あまりに不細工なのでつい小言を……。
「ホロ映像なら体形に合わせてプログラミングできなかったんすか?」
「しゃあないやろ。シロタマも神様ちゃうで。これでもワシのボディを数分で数値化して入力したんや。いやほんま、ごっついやっちゃであいつ」
それなら仕方が無い。いくら時間があったってシロタマのファッションセンスは最低だ。服を着させてもらっただけまだマシだと思う。
「貴様ら! ワタシを無視してベラベラ無駄な会話をするのではない!」
古木(こぼく)風に見立てたロッドでドンと床を突いて、司令官は尖った視線を俺たちに浴びせた。
そして続ける。
「零番は特別な番号。女王様に与えられたカトゥースだ。オマエごときが使いこなせるはずがない」
「おまはん……シロタマの能力を舐めたらあかんで。あいつは3000万データチャンネルに同時接続して258言語の音声変換をこなすんや。そやから何を言うてもコンマ何秒で言い返して来よって、これまでどんだけワシらが悔しい思いをしてきたことか……」
「社長……。途中から愚痴になってるぜ」
司令官は鼻でせせら笑うと、握っていたロッドの先で社長を指した。
「お前らが何万人寄ろうが、上位クラスだと偽りを申そうと簡単なことだ。生命体のメンタルの弱さはとっくに熟知しておる」
いきなり数歩先に瞬間移動した。
「無防備なこの女神をオマエらの目前で一突きにしてやろうか!」
尖ったロッドの先を床に倒れていた玲子に向けた。
優衣が飛びつこうとしたが、数十人の司令官が壁のようにそびえ立ち、動きを阻まれた。
隙を狙ってエミリさんが走る。
「女王様っ!」
検非違使のロッドを細い腕で振り上げ、優衣をぐるりと取り囲んだ司令官を背後から突くが、何の役にも立たない。
そいつが半身を捻ってぎろりと睨み、ほっそりとした肩を鷲掴みにした。
「お前も動くなっ! 一人でも動けば……あれを突き刺す」
玲子に尖ったロッドをかざし、剣呑な眼差しで射竦める別の司令官を示した。
「くっ…………」
ホールの中が凍りついた。
「どうだ。仲間意識が生み出す連帯感と哀れみに邪魔されて身動きが取れまい! 生命体が群れを成すとき、その奥底に淀む庇護が時にして邪魔をする」
静まり返ったホールで司令官の声だけが渡り、一人を残してすべてのホロ映像が一瞬で消えた。
「うははは。いいぞ。ホールが恐怖の空気に満たされて行く。生命体よ、もっと怯えろ。命乞いをして喚けっ!」
空気が舞って玲子を串刺しにしようと構える司令官のマントがなびいた。
「おおぉ、この白い喉元。柔らかく暖かそうじゃないか!」
紅蓮の双眸がロッドに据え置かれていた。その尖った先が玲子の喉元を狙っている。
「くっ……!」
もの凄まじいまでの恐怖が俺たちを襲った。誰一人として動けない。奴の瞳だけが真っ赤に燃えていた。
こいつ本気だ。そう直感した。
体力を失った玲子は射竦められてもう動けない。
「さぁ。どちらが有利か理解できたら、そのハゲを下げろ。そうでないとここで一突きする」
広いホールが静寂に沈む。反乱軍全員が押し殺す息遣いが聞こえるほどだった。
「どうだ。気力が失われただろ。……おぉ、ビシバシ伝わって来るぞ。うはははは。困惑しろ! そうだ、怖がるんだ! うははは。ワタシは死を受け入れた悲壮なるヒロインに寄せられる悲愴の念が堪らなく好きだ。ああぁ。あの爆発する絶望感とジワジワ広がる無力感を我が論理回路に流し込んでくれ!」
司令官の憎々しげに言い放つ声が響き渡った。
万事休すだ。打つ手がもう無い。
凍り付いた空気に窒息しそうになる俺の横で社長がピクリと動いた。
「モーショントリガーを検知したぞ! オレは生命体ではない。躊躇することも気が変わることも無い。動き出した処理は止めることはできない!」
司令官はロッドを握る腕に力を込めた。
「見ろ生命体どもっ! これが絶望という谷底に突き落される瞬間だっ!!」
ロッドが突き下ろされた。もちろん玲子の喉に向かってだ。
手のひらで顔を覆うエミリさんを視界の端で捉えた俺。
「あーっ!」
なんと、どうしたことだ、俺の体!
気付くと玲子とロッドのあいだに飛び込んでいた。
本気か、俺は?
なぜ俺が身を挺する? そんなにあいつのことを?
物理法則のとおり、俺は玲子を覆い隠すように体を広げて落下して行く。
何だか知らないが反射的に飛び込んじまったのだから仕方が無い。
なにしろ本人が最も困惑しているのだ。
「はれ? どうした?」
さて俺は、気の迷いか何かの勘違いか、司令官が突きだしたロッドから玲子を守るべき身を挺するという。とんでもない失態を演じていたわけで――。
飛びついた俺の反動で、玲子と絡み合って床の上で重なっていた。
半拍ほどそのままを維持。下から見上げる玲子と視線が合った。
頭の中で至高の柔軟物体の存在を確認する間は無い。玲子は俺の下から風のようにすり抜けて、バネみたいに飛び起きると俺を足蹴にした。
「裕輔! あたしを押し倒すなんて百年早いわ!」
俺の顔面にバカオンナの足が乗っていた。
「痛ででででで。どけ! 足を下ろせ! 俺はお前なんか押し倒していない! 誰かに後ろから押されたんだ」
「下手な言いわけ考えて、このスケベハエ男!」
「俺は害虫ではない!」
「スケベは認めたわね!」
「バカヤロ! 俺はお前が心配なだけで……」
玲子は変な間を空けて、ポカンとした。
「え? うそ……ほんと?」
「ああ。ウソじゃねえ」
「あのー。お取込み中のところ……」
静々と優衣が割り込んで来た。
「なんだよ?」
「なに?」
続いて社長。
「あーおしい。もうちょいやったのに。ユイ、止めたらアカンやんか。こいつらどこまで進展するか試したのに……」
「試すって……。やっぱり後ろから押したのは社長っすか? うえぇっ!」
振り返った鼻先のすぐ前に、鋭く尖ったロッドが突き出ていた。
「ちょ、ちょっと、裕輔。逃げたほうがいいわ」
玲子に引き摺られてそこを急いで離れたが、司令官は勢いよくロッドを突いた姿勢で停止していた。奴の双眸は何も変わらず真っ赤に燃え、眉を吊り上げ鬼の形相状態で凝固。その姿はまるで蝋人形だ。あと1秒遅ければ確実に俺は串刺しになっていたはずだ。
ホール内は平穏な空気に入れ換わり、険悪な顔つきだった検非違使から殺気が次々に消えて行った。握っていた警棒を床にばらばらと落とし、ビゴロスがその場に尻を着いて座り込んだ。
「あ……社長はどこ?」
キョロつく玲子。
出来損ないのヒーロー気取りをして、俺を玲子の肉体へと押し倒してくれた社長の姿も消えており、アンドロイドのパーツで埋まったホールは深閑とし、そこにいたすべての生命体が息を潜めて、状況を把握しようと身を硬くして構えていた。
そこへ舌足らずの声が響く。
「ハゲのホロ映像は消したデシュ!」
飛び込んで来たシロタマに遅れること数秒。
「誰がハゲや! ハゲてなんかないでっ!」
まだ言ってんのか。誰か親切な人がいたら教えてやれよ。
シロタマは真っ先に俺の頭の上にやって来てこう言った。
「いちゅもより頭が光ってたでしょ。ユースケ気づいた?」
やっぱりな……。こいつならやりかねんもんな。
「社長のホロ映像をプログラムしたのが、お前ってのは分っていたぜ」
本物の社長の頭は本物の照かりをしており、
「あの短時間にあそこまで完璧なワシのレプリカを作った上に、カーネルをスーパークラスにした一番よりも上位の零番クラスを利用して、無限再帰処理をサブクラスに継承させたんや……ほんま驚異でっせ」
じっとシロタマに視線を据えて言うが、俺にはその意味がよく伝わらなかった。ようするにだ。司令官よりも上位のオブジェクト側から操作した……これでいいのかな。
「プログラマーでないと解からんよな、実際……」
「ひゃぁぁ。はでにやったなぁ」
そこへひょうけた口調で登場したのはノジマさんだった。ひと巡り状況を見届けた後、飛びつくエミリさんを優しく抱き寄せ、まだ事態を把握できず、茫然としている味方の集団に向かって手を上げた。
「城のカーネルは停止した」
どっと歓声が上がった。
突然、俺の前で司令官の腰が伸びた。
「な、なんだ!」
びくっと体が無意識に硬直する。
しかし様子がおかしい。まるで大昔のロボットみたいにぎこちない二足歩行をして、女王の席に着くと足を組んで座った。
「まだ動いてる……」
誰かのつぶやきが細くたなびくものの、
「きゃはははは。こいちゅ、シロタマの家来にするでシュ」
「何だよ、お前が動かしてんの? 焦ったぜ」
今度こそ弛緩することができた。紅茶に解けだした角砂糖が崩れるみたいに、カチカチに凝り固まっていた緊張が萎(しぼ)んでいく。代わりに不思議な高揚感が湧きあがり、なんだか楽しくなってきた俺はシロタマにくっ付いて司令官の前まで駆け寄った。
「ほら、ユースケ見て。シロタマの思いどおりに動くでちゅ」
「なら頭に手を乗せてみろよ」
シロタマは言うとおりに司令官を操縦し、右手を頭蓋に乗せて見せた。それから社長がよくやる頭の平手打ちをペタペタとやって、顔を、ぎぎぎと俺へと捻じった。
「きゃははは。ハゲ、ハゲ。おもしろーい。これギンリュウに持って帰りたーい」
「おいおい……怒られるぜ」
恐々とそのハゲ本人へと半身を振り返らせる。
「よかった、見てなかった」
社長はバスケットから取り出したサンドイッチを頬張る玲子と、甲斐甲斐しく寄り添う優衣を優しく見守っていた。たぶんあれはパーサーの拵えたサンドイッチだ。パンのヘタを半分残すのは彼流のスタイルなので、遠くからでもすぐにわかる。
よっこらっせ、と腰を伸ばした社長は、ノジマさんに近寄って手の中から何かを差し出した。
「ほな、キーは返しまっせ」
「かたじけないゲイツさん。ほんとうに何から何まで……」
「ノジマ。報告してくれ。結局どうなったんだ」
喜びを満たした笑みを浮かべて近づく、タノーマル主宰。
「ゲイツさんが思考を司る処理に無限ループを挿入してくれたんだ。カーネルは答えの無い難問を考え続けているよ。それでこのキーがそれを回避するものさ。システムを安全な状態に戻してから再起動させればいい」
主宰の手のひらの上に、スティック状の物を落とした。
このオヤジのことだから、さぞかしトリッキーな方法でシステムをたぶらしたんだろう。
「何と言って感謝の気持ちを表していいのか、いま言葉が出ません。ゲイツさん」
「かまへん、かまへん。ワシはうちの従業員を迎いに来ただけや。気にしなはんな。そんなことより、活性チャンバーに眠る人々を解放してほしいんや」
タノーマル主宰はメンバーを見渡すと決意に満ちた声で言う。
「もちろんそれは我々の責任でもありますので、すぐにでも母星を調べて連絡を取るように手配します」
社長は満足げにうなずき、下品な輝きをするブレスレット式の無線機――こういうときに成金丸出しのそれを出されると興ざめすんだ――それに向かって唾を飛ばした。
「ほな、パーサー5人転送や」
懐かしいパーサーの馬鹿丁寧な返事が戻るが、
「社長さん。ワタシは後しばらくここに滞在します」
と言い出したのは優衣だった。
「何でやの?」
「この方舟(はこぶね)を最後まで目的地に運ぶ、という歴史の時間項がワタシだと気づいたからです」
「マジかよ……」
「ありがたい!」
口出した俺を遮断するかのように、副主任が割り込んだ。
「羅針盤が壊れた水宮の城はどこへ向かうか分からない。ユイくんが付いていてくれたら、心強い」
お前がしゃしゃり出るから気になるんじゃないか、スケベ医者め。
「時間項ならしゃあないワ。ほなパーサー、生命体4名にシロタマや」
「シロタマは海を泳いで行く。ゲイツの作ったガラクタ転送装置は信用できない」
動かなくなった司令官を銀龍に持ち帰ると騒いでいたが、玲子に諭されて渋々やって来ての発言だ。
無遠慮なシロタマのセリフなのに、珍しく社長はニヤリと笑って穏やかな口調で許した。
「好きなようにしてエエで……せやけど銀龍はここの上空にはいてまへんで。どうする? おまはん宇宙空間の遊泳時間は何ぼや? 今日中に帰れまっか?」
「あ…………」
むぉう。タマの野郎でも勘違いすることがあるんだ。
カラカラと笑った社長が、無線機に口を寄せた、その刹那、
《社長……今こちらに7年未来からユイくんが帰って来ています》
信じられない通信をしてきたパーサーの声を聞いて、おれはこっちの優衣を睨んで溜め息を吐(は)く。
「わざと多重存在を作ってるだろ、お前?」
優衣は苦笑いを浮かべつつ首を振る。
「知りませんよ。ワタシは過去体ですから、帰ったら本人に聞いてください」
こっちのお前も本人だっちゅうんだ。
ついでにキョトンとして俺たちの会話を聞いている副主任へ、小声で告げてやる。
「この旅はあと7年続くみたいだぜ」
副主任は目覚めたみたいに瞬きを繰り返した。
「なーに。ここまで何百年もかかってんだ。7年ぐらいどうってこと無いさ」
続いてヤツは遠くへ意識を馳せて言う。
「さっき活性チャンバーで眠る人を覚醒させる仕事を頂いた。これがオレの存在意義だ。それからここに残るアンドロイド全員の義務でもある」
最後までハンサム路線を貫き通した副主任は、優衣と対面すると姿勢を低くして控えめに手を差し出した。
「では女王陛下こちらへ。あとしばらくお付き合いください」
とても人工物では成し得ない爽やかな笑みをこぼした。
通常トランスポーター。
シロタマはその性能を信じておらず、あまり好んで利用しない我が社の転送機だが、こんな便利なものは無く、あのクロネロアシティからコンマ何秒で移動が完了するのは素晴らしい。
転送限界距離はたったの500キロメートル。ハイパートランスポーターの足元にも及ばないオモチャではあるが、今回はワームホールを通ることによって、それを越える初の長距離転送を成し遂げている。ま、転送距離が伸びたわけではない。それよりいったいこのワームホールはどこに通じていたのだろうか、後で訊いてみよう。
「あーやっぱ、銀龍はいいな」
「ねー」
それにしても懐かしの我が家へ戻った感があふれてくる。
ゴージャスな調度品も便利な身の回りロボットもいない。飾りっ気のない殺風景な通路を通り、いつもの司令室に待っていたのは、可愛らしい笑みを満面に浮かべた茜と、なぜか丸坊主頭をポリポリ掻いた田吾。そしてさっきまで一緒にいた優衣の嫣然とした微笑みだった。
「いつ戻ったんだよ……ユイ」
どうにも腑に落ちないので、初めに声を掛けざるを得ない。
「10分ほど前ですよー」
「何年未来から帰ったんだ?」
「7年と3ヶ月と18日、4時間45分32秒」
「もういいよ。とにかくクロネロアは無事に目的地に着いたんだな?」
「あ、はい。活性チャンバーの人たちも全員目覚めまして、みなさん故郷に帰る準備もできたんですが、大半の人がそのまま残ると言いだして、総勢1820名、元のクロネロアの住民も合わせて1833人という、当初の計画通りの人口に戻ってタノーマル主宰も胸を撫で下ろしていました」
「すげぇじゃねえか」
クロネロアに残った優衣はまだこのことを知らない。不思議な気分に圧し潰されそうだ。それを振り切るがために、さっきから熱く俺を見つめてくる茜に視線を移した。
「アカネー。元気だったか?」
「あ、はーい」
優衣と同じ口調に安堵し、吸い込まれそうな黒々とした目を覗き込む。言いたいことはたくさんあったのに、何だか急に言葉が引っ込んだ。浮かんでくるのは熱い気分だけで、
「…………」
言葉を探して黙り込む俺の横から、サンドイッチを頬張りつつ玲子が近寄った。
「まだ食ってんのかよー」
口を尖らせる俺から茜を引き寄せて訊いた。
「ねぇ。田吾のやつ、何で坊主になってんの?」
その声が向こうの耳にも届いたらしく、わざとらしく無線機のヘッドセットを被ると、素知らぬ顔をして口笛なんぞを吹いていた。
「アカネにセクハラまがいのことをしたんで、戒めのために坊主にしたんや」
と社長が説明し、横から、
「当の本人はセクハラの意味が解っていないんですけどね」
と小さな舌を出すのは優衣だ。こいつにとって茜の記憶は自分の過去の記憶。どんなセクハラ行為を受けたのか身を持って体験したはずだ。俺たちとクロネロアに居たにもかかわらずに、だ。
めまいを覚える事象に頭を抱えた。
「それで海の底はどうだったんダす?」
「どうもこうも、ねえよ」
と言いかけた俺を玲子は突き倒す勢いで押し退けると、まだ見慣れぬ坊主頭の田吾へ、ヘリウムガスでも飲んだみたいな甲高い声を張り上げた。
「それがさ。傑作なのよー」
「何だス?」
「このバカ、ユイにたぶらかされてんのよ」
田吾と同じ、俺の坊主頭をその細い指で一突きした。
「何だスか? たぶらかされるって?」
「ユイが死んだと思って鼻水垂らして泣いてんのよ」
「えーそうなんですかぁ?」
茜がまん丸い目を大きく拡げた。
「あの状況なら誰だって驚くワ。お前だって泣き喚いたじゃないか」
「あなたのはその後があるのよ。ユイが変装していた女王様に鼻の下こーんなに伸ばして、馬鹿面を曝け出してんのよ。どれだけバカなの?」と玲子。
ぐうの音も出ない。だけどあの時、俺は優衣の本心を見ぬいた気がした。つまり玲子そっくりだとな。
「学習タイプのガイノイドですから」
優衣は平然とそう言い返し、俺は舌を打つ。
「田吾。おとなしそうに見えてこいつは演技派だから気をつけろ。セクハラなんかしたら百倍になって返ってくるぜ」
「もう懲りたダよ、裕輔」
まだ青い、頭皮の透けた頭をボリボリ掻いた。
いやいやそれにしたって、慌てふためいていたとはいえ、つい醜態を曝け出した自分がひどく恥ずかしくなってきた。このまま放っておくと玲子はさらに悪のりしてくるだろうし、後ろで控える社長が何か言いたげにニタニタしているし。何しろあのおっさんは、とんでもない状況でも背中を押してくるから要注意だ。
だから急いで話題を変える。
「ミカンはどうしたんだアカネ? 俺たちが帰って来たのに迎えにも出て来ないじゃないか」
「あ、そうです、コマンダー。プランターに植えた野菜の芽が出て来てミカンちゃん大喜びで。たぶん水やりに夢中だと思います」
「そうかぁ。これで野菜入りのサンドイッチが食えるな」
口元をモグモグさせる玲子の横顔へそう告げて、茜と一緒に第四格納庫へ向かってみた。
買い込んだ大型のプランターが並ぶ一角で、作業の手を止めたミカンが、きゅっと鳴いて、気を許した澄んだ瞳を俺に注いできた。
「あ――っ!」
だが、つい大声を上げた。
短い指はミカン特有のモノだが、その先に摘ままれた物。
「だめだアカネ。こいつ雑草の芽と本体の芽の区別がついてない。せっかく出て来た芽を全部摘んじまってるぞ」
茜もそれに気づき、手のひらをパッと広げてミカンに駆け寄った。
「あーん。ミカンちゃんだめでしょー。これは生命体のお食事になる野菜なんですよ。芽を摘んだらもう枯れちゃいますよぅ」
玲子もその肩口から無念そうに言う。
「せっかく大事にしていたのにね。アカネしょうがない。ミカンには別のことをやってもらったら?」
だが報告モードの冷然とした声音が天井から落ちてきた。
『ミカンが摘んだ芽はダリアスラジリウムと呼ばれるケイ素生命体の補助栄養植物ですが、哺乳類にとっては猛毒です。知識のない店員が間違えて販売したと思われます』
「本気かよ!」
「うそっ。食べたらどうなるの?」
『10ミリグラムが致死量という猛毒です。99パーセントの生命体が4時間以内に死亡します』
「それをこいつは見極めていたのか!」
「きゅぅー」と鳴いてミカンはうなずいた。
「えへへへへ。わたしだったら夕食に出してましたねー」
「おいおい……」
このまま茜を食事係にしておいて大丈夫なのだろうか。
プランターの隅からミミズが顔を出している姿を眺めながらそう思った。
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