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11.エピローグ~恋人たち

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 少年は、その道を歩いていた。
 両側に立ち並ぶのは、寒々しく枝を広げた冬枯れのプルヌスの木々。かつて幾度となくマリーンを乗せて馬車を走らせた、その思いでの並木道を。
 彼は今、一人で歩いていた。
 かつては青々と葉を繁らせ、美しい薄紅色の花を一面に咲かせていたこの道で、高鳴る胸を抑えながら、あの人を抱き寄せ、口づけをしたのは……
 確かこの木の横だったろうか、
 それとも、もう少し先だったろうか。
 数えきれない想い……そのひとつひとつを、その目の奥に蘇らせているかのように、
 彼は歩いていた。
 季節は通り過ぎ、吹きつける風はもう冷たく、あの頃に感じられたさわやかな緑の匂いも、路上一面に散らばる紅色の花びらも、今はすっかり消えてしまった。
 並木道を過ぎてしばらくゆけば、あの屋敷が見えてくる。
 あまりにも多くの思い出が詰まったその屋敷を、こうして目にするのは、あの最後の家庭教師の日以来、はじめてだった。
 門をくぐり屋敷の玄関の前まで来ると、少年は立ち止まった。
 蔦の絡みついた白い壁と、くすんだ色の青い屋根を見上げると、なつかさが込み上げてくる。
 マリーンが出ていってからは、屋敷にはカルードが戻り、今は夫人とともに二人で暮らしているらしい。かつて彼女の部屋であったあたりの窓を、彼は静かに見上げ、しばらくの間、そこにたたずんでいた。
 屋敷の玄関は、人の出入りもない様子で固く閉ざされている。
 ふと、なにかを思ったのか、彼は歩きだした。
 花壇のある庭園を通り抜け、今は少し黄色くなった芝生の中庭を横切って。何かに急かされるような足取りで、彼は庭園の奥へと歩いていった。
 月桂樹の垣根を越え、木立に分け入って、さらに奥へ。
 辺りにはリンボクやプラタナスの木々が並び、葉の落ちた枝を黒々と広げている。木立の奥まった場所にある、ひときわ大きな木の前で、彼は立ち止まった。
 プラタナスの大木……ここが、マリーンとの思い出の場所だった。
(……)
 かつて、何度も寄り掛かったその太い幹に、少年はそっと手を触れてみた。枯れ葉が敷きつめられたこの木の根本で、マリーンと激しく抱き合ったのは、たった数カ月前のこと。しかし、それはもうとても昔のことのように思える。
 彼は木の下に腰を下ろし、目を閉じた。
 さわさわと風に揺れる梢の音は、今は聞こえない。秋になると盛大に舞い落ちる、大きなプラタナスの木の葉もない。
 季節は移り、変わる。
 木の幹に背を付けて、彼はそこにじっと座っていた。
 時の流れはこうして、なにもかもを奪いさってゆくものなのだろうか。それとも、ふと立ち止まり、昔を振り返ったとき、それが過ぎ去った痛みであることを教えるために、流れるのだろうか。
(たとえ、季節が変わろうとも……)
 手紙にあったマリーンの言葉を思い返す。
「……」
 しばらく、そこに座っていた彼は、ゆっくりと立ち上がった。
 それから何を思ったのだろう、背にしていたプラタナスの木を振り返り、ごつごつした太い幹に手を触れた。
 木の周りをぐるりと回ると、幹の裏側に小さなくぼみがあった。
 じっと見ていると、そこに……何かが光った。
 迷わず彼は、その木のうろに手をさし入れていた。

 それから、ひと月ほどが過ぎた。
 舞い落ちる雪が、銀色の宝石となって城の屋根を飾りはじめ、冬を迎えた湖畔の城は、その白い彫刻のような佇まいを、山の端に沈みゆく夕日の残照を背景に、美しく浮かび上がらせている。
 今、その城の門がゆるゆると開かれた。
「それじゃ、行ってくるよ」
 屋敷の玄関前には一台の馬車が止められていた。
 黒貂の毛皮を裏打ちしたマントを羽織ったモンフェール伯は、傍らに立つ妻に向かって笑いかけた。
「今日は遅くなる。もしかしたら、帰りは夜中か、あるいは朝になるかもしれない。君は先にお休み」
「承知しました」
 黒ビロードの厚手のローブを着て、髪を結い上げた彼女……マリーンは、ゆったりとうなずいた。その姿は、もう立派な伯爵夫人のものだった。
 そんな妻を満足そうに見つめ、伯爵は言った。
「なるべく早く帰るがね……、それとも、早く帰らないほうがいいのかな?」
 彼女は何も言わず、ただ困ったように微笑んでいた。
「ふふ、冗談だよ」
 伯爵は、側にいる御者に聞かれぬよう、そっと囁いた。
「こういう日は、君はとても綺麗になる。……だからね。ちょっとした妬みだよ」
「おたわむれを」
 マリーンの両頬に口づけをしてから、伯爵は馬車に乗り込んだ。
「いってらっしゃいませ」
 しばらく遠ざかる馬車を見送って、彼女は屋敷に戻ろうと歩きだした。見上げると、鉛色をした冬の寒空から、白いものが静かに舞い落ちてくる。
「まあ。今日はもう降り始めたのね。あまり、積もらなければよいけど」

 夜半になると、降り始めた雪はだんだん強くなるようだった。
 一人で夕食を済ませると、彼女は自室に戻り、赤々と炎の燃える暖炉の前で、静かに本を読んでいた。
 都市郊外のここまでは、晩鐘の音も聞こえてはこない。夜になれば物音ひとつしない、真の静寂が城を包み込むのだ。
 ゆっくりと流れてゆく時間。この城に来てからも、こうして一人で過ごす時間が、彼女は好きだった。
 壁の時計が十二時を指した。
 それを待っていたように、マリーンは本を置いた。
 彼女は鏡の前に座ると、いそいそと髪をほどき、化粧を直しはじめた。
 コツコツと、石の階段をのぼる足音が聞こえた。
 彼女は耳をすませて、それを待った。 
 足音はしだいに大きくなり、
 やがて扉の外で止まった。
 彼女は椅子から立ち上がった。
 同時に、外から扉が叩かれた。
「ただいま。帰ったよ」
 それは、しわがれた男の声だった。
 彼女は急いで内側から扉を開けた。
 部屋に入ってきたのは、すっぽりとマントをかぶった怪しげな男だった。ちらりとのぞいた顔に、立派なあごひげが生えている。
「お早いお着きでしたわね」
「やあ、雪が大変だったよ」
 男はそう言って、ほっと息をはいた。
「寒かったでしょう。さあ、こちらへどうぞ」
「ああ、すまない」
 暖炉の前の椅子に男が腰掛ける。
「さあ、マントを脱いで。ローブもすっかり濡れているし」
「ああ、ありがとう」
 男のマントを脱がせたマリーンが、突然くすくすと笑い始めた。
「もう、そんな声を出さなくてもいいのよ」
「ああ」
「そのひげも取って。リュシアン」
「けっこう面白いんだけどな。こういうのも」
 マントの下から現れたのは、黒々としたひげを付けた、リュシアンの顔だった。貼り付けた髭をべりべりととると、彼はあごを撫でながらにやっと笑った。
「会いたかった……」
 マリーンは少年を見つめ、つぶやいた。
「……ああ、リュシアン」
 二人はぴったりと体を寄せ、再会の口づけを交わした。
「僕も会いたかったよ。何日ぶりだろう……」
「一週間ぶりよ」
 抱き合いながら互いを見つめ、二人はまた情熱的に唇を重ねた。
「今日は朝まで平気なの?」
「分からないけど。たぶん……あの人はずっと戻らないと思うわ」
「ああ、抱きたいよ。早く……マリーン」
「抱いて。リュシアン」
 もどかしげに相手の服を脱がせながら、二人は絨毯の上に折り重なるように倒れ込んだ。
「マリーン……マリーン!」
「ああ……リュシアン。早く……」
 荒い息づかいと、重ね合わされる唇……
 せわしなく求め合い、うごめく二人の体。
 マリーンの白い肌が、燃え盛る暖炉の炎に照らされる。
 リュシアンの手が乳房に触れると、彼女はぴくりと体を震わせた。
「温かいよ。マリーンの体……」
「リュシアン……、来て」
 両足をリュシアンの体に絡ませ、彼女は囁いた。
「……あなたを、感じさせて」
 甘くかすれた声に導かれるように、少年は彼女の中に入っていった。
「あっ、ああ……」
 高まる二人の声が、ぱちぱちと音を立てる炎とともに上がり、また消えてゆく。
 窓の外に降り続く雪はいつ止むともなく、ただ静かに落ちてゆく。
「ねえ」
 何度かの激情が過ぎた後、
 二人は絨毯の上に寝そべり、ゆらゆらと燃える暖炉の火を見つめていた。
「知ってる?夫のある妻の姦淫は、死罪だってこと」
 なめらかなリュシアンの背中に手を滑らせながら、マリーンが囁いた。
「ああ。そう聞いたことがある」
「怖くない?」
「マリーンは?」
「今はね、ちっとも」
 彼女はうっすらと微笑み、恋人の手に唇を当てた。
「君が、もしあの鍵を見つけたら……、こうなろうって決めていたのよ。……あなたは?リュシアン」
「もちろん。俺だってそうさ」
「後悔していない?」
「まさか」
「ならいいけれど」
 二人はくすくすと笑い合い、またキスをした。
「でもマリーンこそ、大丈夫なの?ここは伯爵の屋敷だし」
「大丈夫よ」
 笑いかけたマリーンは、絨毯に仰向けになると、つぶやいた。
「それにね、これはもう……」
「なにさ?」
 言いかけてから、彼女は首を振った。
「なんでもないわ」
「なんだい。ずるいなあ。なんか隠してる」
「ふふ。隠してないわよ」
「嘘つけ」
 リュシアンは体を起こすと、彼女を覗き込んだ。
「……」
 少年を見上げるマリーンの目は優しく、とても穏やかだった。
 リュシアンは、彼女の顔を両手で包み込み、軽く口づけをすると、
「もういいや。マリーンとこうしていられるなら。なんだって」
 再び、マリーンの体に体を重ねていった。
「あん……、また?」
「うん」
 何度目かの深い口づけ。
 少年の手が、飽くことのないように、彼女の体を撫でてゆく。
「ああ……、リュシア……ン」
「好きだよ。あなただけだよ。僕には……」
「私も……」
 甘い囁き。二人の吐息が重なり、ゆらゆらと暖炉の炎を揺らす。
 幾たび目かの絶頂へと誘われるように、少年は、愛する女性とその体の中に埋没していった。

 翌朝 
 城の周りには、昨夜の雪が降り積もり、辺り一面を真っ白に包んでいた。日が昇る前、使用人や侍女たちが起き出さないうちに、リュシアンは屋敷を出た。二人は別れ際に、幾度も抱擁を重ね、次に会う日までのひとときの別離を悲しみ合った。
 リュシアンは馬車に乗った。前の車輪にそりを付けた馬車が、少年の手綱にさばかれ、ゆっくりと動きだす。
 日の出前の薄暗い中を、リュシアンの馬車が、城門に向かって走り出した。
 城の門を出たときだった。
 まっすぐに続く道の先から、こちらに向かってくる馬車が見えた。二頭立てのその馬車は、雪道を滑るように走ってくる。
 手綱を握りながら、リュシアンは目を凝らした。
 東の空が、徐々に明るさを増してゆく。彼の目にははっきりと、鹿毛馬に引かれた黒塗りの馬車が見てとれた。
 湖畔の城へと続くこの道で、行き交う二台の馬車が、その距離を狭めてゆく。
 黒塗りの車体の窓に人影が見えた。
 それが誰なのかは、疑う余地もない。
 二台の馬車がすれ違う。
 リュシアンはマントを深く引き寄せた。
 そのとき、馬車窓の人影がこちらを向いた。そして一瞬だったが、その顔がふっと笑ったように見えた。
 リュシアンは胸の鼓動を抑えるように、ぎゅっと手綱を引き寄せた。
 黒い馬車は、そのまま後方に離れていった。

 彼女は窓辺に立って、静かにそれを見下ろしていた。
 すれ違った二台の馬車を眼下に見ながら、
 かすかに微笑んだふうに。
 片方の馬車は道の先にしだいに小さくなり、一方の黒い馬車は、これから城門に入ろうとしている。
 湖に目を向けると、氷の張った湖面にうっすらと陽光が反射し、きらきらと輝いている。日が昇りはじめた東の空は、徐々にその青さを増してゆくようだ。
 彼女はしばらくの間、じっと窓辺にたたずみ、朝日にきらめく湖を見つめていた。
 すぐに、
 到着する馬車馬のいななきが、彼女を夢からさますだろう。
 ただそれまでは……
 それまでは……
 彼女はそっと目を閉じた。
 おだやかな横顔、
 その内側に凄艶さを秘めた横顔は、またとなく美しかった。
 そうして、
 朝の光がこの湖畔の城を包む頃には、
 彼女はまた、妻になる。

                        完


                        Ending BGM"Our Farewell"
                              by WITHIN TEMPTATION

                           


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