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X.最後の一日
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屋敷に戻ると、キルティスは体力を取り戻すために一日眠りつづけた。
翌朝、早くに目を覚ますと、彼は身支度を整えはじめた。数日間何も食べず、部屋に閉じ籠もって弱り果てていた体は、久しぶりにぐっすりと眠ったことでだいぶ回復していた。
侍女に部屋まで湯桶を運ばせ、体を洗い、髪をくしけずった。真新しいチュニックに袖を通し、ズボンをはくと気持がすっきりとした。髪は金髪のまま後ろに束ねた。
キルティスは部屋を出た。屋敷を出る前に、すれ違ったリュプリックと目があったが、無言でその横を通りすぎた。
彼の考える、「最後の一日」が始まろうとしていた。
馬に乗ったキルティスが屋敷の門を出たとき、前方から別の馬が近づいてきた。
まるで自分を待っていたように、馬上から手を振ったのはレイナルドだった。
驚きもせず、キルティスは鷹揚に相手にうなずきかけた。
二人の馬は並んで歩きだした。
「どうして俺が現れたのか、あんたはもう分かっているみたいだな」
「ああ」
キルティスは馬上でうなずいた。
「お前は、私を見張りに来たのだろう。私がなにか妙なことをせぬように。それがお前の仕事なのだろう」
「……ああ、そうだ」
「お前は、リュプリックに雇われていたのだな。はじめから。私を見張っていたのだろう。泥棒のふりをして。偶然をよそおい私を助けたのも、それから……あの日、私を抱こうとしたのも、みなお前の仕事だったのだろう」
「ああ……そうだ」
レイナルドはそれを認めた。
「お前は正直だな。それに、確かにいい奴だ」
キルティスはふっと笑いをもらした。
「お前となら、もしかしたら本当に友人になれるかもしれないとも思ったが。まあ、どちらにしろもういいさ」
さばさばとそう言う相手を、レイナルドは心配そうに馬上から見つめた。
「これからどうするつもりなんだ?」
「べつに。なにせ、お前がこうして見張っているのだからな。なにもたいそうなことはできやしないさ。でも、そうだな……公爵の屋敷にゆく前に、行きたいところがある」
「どこへ行くんだ?」
キルティスは無言で笑っただけだった。
オードレリン伯爵邸は、緑に囲まれた庭園を持つ見事な屋敷だった。
キルティスは馬を降りた。屋敷の扉を叩くとすぐに侍女が現れた。
彼が「伯爵夫人にお会いしたい」と申し出ると、侍女は屋敷に引っ込んでいった。
少々待たされてから、再び扉が開いた。
現れたオードレリン伯夫人は、キルティスの姿を見て声を少しうわずらせた。
「まあ、キルティスさま?」
「こんにちは。伯爵夫人。こんなに朝早くに失礼かとは思いましたが」
「まあ……いらっしゃいませ。お久しぶりですこと」
夫人が驚いていたのは、突然の訪問のせいだけではなかった。
「御無沙汰していましたね。お元気でおられましたか」
「ええ。あなた様も、お元気そうで、でも少しお痩せになったようですわ。それに……その髪は、どうなされたのでしょう」
きらめくような金色の髪を、夫人は眩しそうに見つめた。
「ええ、まあ……。いろいろとお話しすることがありますが……」
そう言ったキルティスの様子から、夫人は、彼がただ挨拶に訪れたわけではないことを察したようだった。
「とにかく、お入りになってください」
「いえ。僕はこれから、すぐにゆかなくてはならないもので。あまり時間がとれません。それに、実は、今日は……お別れに上がったのです」
「お別れ、ですって?」
「庭の方でお話ししましょう。よろしいですか」
「え、ええ……」
レイナルドを門の前に残して庭園の中ほどまで来ると、キルティスは夫人に向き直った。
「さて、あまり時間もありませんので。率直すぎるほどにお話しすることを、どうかお許しください。先程も申しましたが、僕は今日お別れを言いに来ました」
「それは、どういうことですの?」
「今はまだ、すべてをお話しするわけにはいきませんが、やはりあなたにだけは直接お会いして話さねばと思ったのです。サロンの中でもあなたとは一番長いお友達でしたし」
夫人は不安そうに首をかしげた。
「お別れ、ということは、どちらかへゆかれますの?」
「ええ。そして、たぶんあなたともうこの都市やサロンでお会いすることはないでしょう」
「まあ……」
キルティスは続けた。
「とにかく……僕は、あなたには言わなくてはならないことが山ほどあるのです。そう……まず、この僕の髪のことですが……」
「ええ、とても美しい金髪ですわ」
「ありがとう」
それからキルティスは、やや苦しそうに声を低くした。
「あなたの夫、オードレリン伯が殺された部屋で見つかった髪の毛を、覚えておいでですか?僕に見せてくれたあの髪の毛です」
「ええ……それが?」
言いかけて、夫人ははっとしたように目を見開いた。
「そう。あれはこの僕の髪です」
「そ、それは、どういうことですの?分かりませんわ」
夫人は困惑したように聞き返した。
「すみません。やはり……今はこれ以上言えそうにない。ああ、だが言わなくては。もう、逃げないのだ。そう誓った……」
そうつぶやき、拳に爪を食い込ませながら、彼はもう一度夫人を見た。
「あなたには、どんな謝罪の言葉もない。いや、こんなことが許されることはないと、それは分かっています。あなたの夫であるなどということは、考えもしなかった。いえ、もしかしたらどこかで気づいてはいたのかもしれない。しかし……」
「なんのことですの?いったい、あなたはなにを言ってらっしゃいますの?」
「僕の狂気が……憎悪に狂った僕の手が、短剣を握りしめた……それは確かなことです」
「いったい……なにを?」
夫人は不安げに両手を揉み絞った。
「つまり、オードレリン伯、あなたの夫である人の胸に短剣を突きたてたのは、この僕です」
「な……なにを、言っておられるの?」
夫人は、その場に凍りついたように立ち尽くした。
キルティスは続けて言った。
「あなたがこうして元気でおられるのが、せめてもの救いです。いや、そんなことは僕の自己保身でしかないが。そうです……とにかく、僕はもう覚悟を決めました。もし、あなたが今の僕の話に動転しておられるなら、僕が去ったあとで、もう一度今言ったことを考えてみてください。そして、宮廷騎士団なり護民兵になりお話しになるがよろしいでしょう。僕は、今日の夜までは自分の屋敷にいます。殺人犯として捕らえるならば、今日のうちなのです」
彼は覚悟していた。彼女の告発で捕らえられ、死刑になるのなら、と。
なんと言ってよいか分からぬ様子で、夫人はキルティスをじっと見つめていた。
「よくのみこめませんけれど。それは、だってとほうもないお話ですもの。とても、信じられません」
「では僕が去ったあと、また考えてみてください。僕はもう、いかなくてはならない」
「……」
「それと、あなたに、こんなことを頼めた義理ではないのですが……、どうかサロンのウィックリフ伯夫人にも、よろしくとお伝えください。もう直接お別れを言いに行くことはできないが、お世話になったということを伝えたくて……」
夫人はうなずいた。
「では、きっとクリセンテも悲しみますわね、あの娘はキルティス様が大好きでしたから」
「ああ……。そうだ、それからマルガレーテにも。彼女にも謝りたかったのです。僕は、彼女に罪をなすりつけるようなことを言ってしまった」
「あの娘は大丈夫ですわ。私と同じくらい図太いのですもの。されに、あの娘はダンスが得意でしたから、キルティス様ともう踊れないことを残念に思うでしょうね」
そう言ってくすりと笑った夫人に、キルティスは心からの礼を言った。もしもフローラが現れなかったら、この黒髪の夫人と恋に落ちていただろうかと、一瞬考えながら。
「キルティスさま……もし私が、あなたを騎士団に告発しても、お恨みになりませんか?」
「ええ、もちろん」
「私、夫を亡くしましたが、そのときよりも、今日のほうがずっと悲しい気がします」
キルティスは、それにただ微笑を返した。
「ごきげんよう。オードレリン伯夫人」
「ごきげんよう。キルティス様」
いつものサロンでの別れのような挨拶を交わし、キルティスは馬に飛び乗った。
次にサーモンド公爵の屋敷を訪れたが、あいにく公爵は留守であった。キルティスは、紐で綴じられた羊皮紙の束を取り出し、それを屋敷の執事に預けた。くれぐれも公爵に渡してくれるように念を押すと、もう用は済んだとばかりに、彼は馬上でレイナルドにうなずきかけた。
部屋に並べられた婚礼用の衣装を見つめながら、フローラはひっそりと椅子に腰掛けていた。
真珠を縫い込んだ豪華なサテンのドレスに、絹の手袋、宝石の詰まった首飾り、頭にかぶるレースのヴェールにもたくさんの真珠が光っている。
彼女は、明日侯爵の妻になる。五番目の妻なのか、六番目なのかは知らなかった。ただ、この屋敷を与えられ、生活に必要な金をもらい、ひっそりと暮らしてゆくのだ。
彼女は一人だった。
静かな昼下がり。遠くで、かすかな馬のいななきが聞こえた。
がたんと窓の方で音がして、彼女は顔を上げた。
風が吹いた。
「フローラ」
窓を乗り越え、「彼」が部屋の中に降り立った。
「来たよ。フローラ」
やさしく微笑み。その声。
彼女の目に、みるみる涙が溢れた。
「キルティス様、キルティ……」
「おいで」
彼女は、両手を広げたキルティスの胸に飛び込んでいた。
「ああ……、キルティスさま……ああ」
「ごめんよ。フローラ……ごめん」
「ああ……わたし。私……」
泣きじゃくるフローラを強く抱きしめる。
「ごめんよ……僕が悪かった。僕が間違っていた」
「ああ、キルティスさま……ああ、」
フローラの体の震えが伝わってくる。
そのかぼそい体をしっかりと抱き、キルティスは優しく囁いた。
「ごめんよ。フローラ……本当に。君は悪くない。ひどいことを言ったのは、僕の方だ」
「キルティスさま」
「ね。フローラ、聞いて。一度しか言わない」
その声の響きに、彼女はそっと顔を上げた。
「君は、何もかも知っていながら僕を選んでくれた。だから……僕も君を選ぶ」
涙に濡れる恋人の頬をそっと指で撫で、彼は告げた。
「愛している。フローラ、君を。君だけを」
「キルティ……」
「僕と……この僕と一緒に来ておくれ」
「あ……」
フローラの瞳が一瞬輝いた。だが、すぐに彼女は目を伏せた。
「わ、わたし……」
「家族のことが心配なんだろう?君はそのためにここにいたのだから」
分かっていると、キルティスはうなずいた。
「大丈夫さ。僕を信じて、フローラ。僕に任せておいて。僕はもう逃げないよ。運命からも、自分自身の弱さからも。ねえ、この髪を見て」
差し込む陽光に輝く髪を指さし、
「僕はもう僕だ。僕はキルティスだよ。髪の色も、心の色も同じだ。隠すことはもうない。十五年かかって仮面がとれた」
キルティスはにっこりと微笑んだ。
「男も、女もなく、一人の人間として。君を愛している」
「キルティスさま」
頬を染めるフローラの手を取り、引き寄せる。
「ああ、でも……、でも私はただの農家の娘です」
「初めて会ったときにも言ったよ、お互いの身分素性などは関係ないと」
「でもきっと、ご迷惑になりますわ。私などを連れて……だって、足手まといですし、それにあなたは何と非難されるでしょう」
「そんなことかまうものか。この国も、世界中だって、すべて敵にまわしたっていいさ」
彼女の最後の抵抗に、キルティスは敢然と宣言した。
「僕は、これから君をひっさらってゆくよ。文句あるか?」
「あ……」
フローラの目から、大粒の涙が溢れた。
「ありません。ありま……」
「フローラ!」
二人は抱き合つた。
「あなたは……。ああ、あなたは……」
「なんだい?フローラ」
涙と微笑みを同時に浮かべて、彼女は息を吸い込んだ。
「あなたは、おさな子ではなく……、とてつもないやんちゃなきかん坊ですわ!」
「そうさ。そして今は、貴女の忠実な騎士でもある」
二人の唇が合わさった。
宝石も指輪も、白いドレスも必要なかった。彼らは、互いの瞳に宿した相手を、その地位や性別さえも越えて、ついに手に入れたのだった。
門の前に戻ると、馬上のレイナルドがにやりと笑った。
「もういいのか?」
「ああ。リュプリックに報告するかい?なにもかも」
「いや……俺の仕事は、ただあんたを見張ることだけだからな。それに、今日かぎりで俺の仕事も終わりだ。あんたとももう会うこともないだろう。そうなると、あの隠れ家もお払い箱ってわけだな」
むしろ愉快そうにレイナルドは言った。
「じゃあ気をつけてな。あんたに貸したままになっている俺の服はもっていってもいいぜ」
「そりゃどうも」
キルティスは、なぜだか自分を騙していたこの男が、そう嫌いではなくなっていた。
「あばよ。キルティスさん」
「ありがとう。レイナルド」
最後に互いの名を呼び合って、二人は別れた。
屋敷に戻ったキルティスは、さっそく部屋に侍女を呼んだ。
「お前にもいろいろと世話になったね」
部屋に入ってきた侍女に、彼はまるで別れの挨拶のような言葉を告げた。
「それに、いつだかは叩いたりしてしまって、すまなかったな」
「め、めっそうもありません奥様、いえ……キルティス様」
「ふふ。もう、いつだってキルティスさ」
鏡台の前に腰掛けながら、キルティスは笑って言った。
念入りな化粧と着替えを済ませると、彼は侍女を下がらせた。
鏡に映った己の顔を見つめ、つぶやく。
「これが……最後の仮面」
憎み、憎み続けた顔が目の前にある。
白く塗られた顔と、血の色のような唇。つり上がった眉の下に光る、憎悪を隠した緑の瞳。
「ケブネカイゼ……」
その名を口に出すとき、かつてのような戦慄にも似た嫌悪はすでにない。あるのはただ、己がかぶり続けた、このひびの入った仮面への悲哀だけだった。
彼は待った。
鏡の向こうの己を見ながら。その最後の姿を目に焼き付けるようにして。
夕刻までは、息の詰まるような時間が流れていった。その間は、さながら死刑宣告を待つ罪人のような心持ちであった。
オードレリン伯夫人が、彼の罪を騎士団や護民兵に訴え、殺人犯として彼を捕らえに来た騎士たちが扉を荒々しく叩く音を、彼は何度も想像した。廊下を渡ってくる足音を耳にすると、恐ろしさに飛び上がりそうになる自分を必死に抑えた。
後悔はしなかった。自分の罪の一端を夫人に打ち明けたときから、心はもう定まっていた。もし捕らえられ、処刑されても、それは仕方がないことだ。夜までにそれが起こったなら、自分はその運命を受け入れようと、彼はそう思っていた。
ただ彼は待った。いつもなら憎しみに狂いそうになる恐ろしい夕闇の訪れ、汚らわしい男の妻とならねばならない、ケブネカイゼにならねばならないこの時間の訪れを、これほど待ったことは、彼の人生で一度もなかった。
そして、日が落ちた。
彼を捕らえにくる騎士たちの足音も、彼の罪を読み上げる護民兵も検察官も、現れることはなかった。
侯爵の帰りを告げる馬車の音が聞こえた。キルティスは侍女を呼んだ。
「侯爵は、今宵は屋敷に泊まられるようか?」
「そう存じあげております」
「では、私からお話があることを侯爵にお伝えして。よろしければ寝室にてお待ちすると」
「かしこまりました」
侍女が下がると、キルティスは鏡の前に立ち、用意に取りかかった。
そのとき扉がノックされた。
「失礼いたします。ケブネカイゼさま」
部屋に入ってきたのは、黒ずくめの執事、リュプリックだった。
「まだ入ってよいとは言っておらぬが」
「申し訳ありません。しばらく、よろしいでしょうか」
「まあいい。じつのところ、お前とも話をしたいとは思っていた」
キルティスは男を部屋に入れると、扉に鍵をかけた。
「レイナルドに報告を受けたか?」
「キルティスさま、」
決して表情を変えることのなかった執事が、今はその顔に焦慮をにじませているようだった。
「なにをなさるおつもりです?」
「ふん。何も。……というのは嘘だよ」
キルティスはにやりと唇をつり上げた。
「私がこれからすることを、お前は止めようというのか?」
「できますれば」
「ほう。どうやって?力ずくでか?この私を取り押さえるか?」
キルティスは落ち着いていた。すでに心は決まり、たとえ何者が立ちはだかろうとも、己の定めた道を進まずにはおけないという、決然たる空気をその身にまとわせて。
「思えば、お前とも長い付き合いになったものだな。あれからもう十五年間か……。私がこの屋敷に来たときから、お前はなにも変わっていない。その無表情も、けっして己をさらけ出さないその態度も。まあ、少々髪が薄くなったくらいのものか」
くすりと笑ったキルティスは、楽しそうですらあった。
「正直、ずっとお前のことが憎くて仕方がなかった。あの女好きの侯爵と同様にな。お前も分かっていたろう?私の憎悪がときどきお前にも向けられるのを。私はときどき、もしかしてお前こそが、私にとっての檻そのものではないかと思ったものさ。だってそうだろう?キルティスとなった私が、夕方になるとお前の馬車で屋敷に連れ戻される。それは私にとっては、私を暗闇の中に捕らえる地獄の使者のようなものだった。私は屋敷に戻り、仕方なくまた妻となり、あの男に抱かれなくてはならなかった」
じつと無言の執事にはかまわず、キルティスは己の言葉を続けた。
「そんな私を変えてくれたのがあの娘だった。シャルライン、誰がその名を付けたのは知らないがね。もしお前なら、なかなかセンスのいいネーミングだったと、褒めてやりたいな。貴族っぽいけど、そう嫌味でなく、あの娘にはぴったりの名前だった。まあ、でもむろん、僕はフローラという方が好きだけど。そう、だから、お前にはある意味感謝をしなくてはね。お前がフローラを僕のもとに連れてきてくれたのだから。たとえそれが、あの男の妻になる運命をもった娘であったにしろ」
キルティスは話し続けた。すべての決着を付けるこの最後の日に、何もかもを吐き出してしまいたいというように。
「それから、もう一つ礼を言わなくてはなるまい。お前はとうに知っていながら、侯爵や他のものには話さずにいたな。私が夜な夜な人殺しをしていたことを。お前はレイナルドを使って私を見張らせながら、さりげなく私を助けていた。もちろん、お前は侯爵の従順な下僕だから、その妻の不祥事の尻拭いをし、それを世間から隠そうとしただけなのだろうが。今思えば、私が捕まらずに、こうしてのうのうと生き延びることができたのは、お前のおかげもあったことは認めなくてはなるまいさ」
少し話し疲れて、キルティスは椅子に腰掛けた。
「さて、今となっては、私はお前がそれほど憎くはなくなった。一般的に見ても、お前はよく働く立派な執事であり、侯爵の片腕であるといってもよいだろう。それに、私を含めて侯爵の六人の妻は、みなお前が見つけ出してやったわけだからな。そういう意味でも、あの豚侯爵はお前には頭が上がらんだろうさ」
「ケブネカイゼさま……何をなさるおつもりですか?」
ようやく男が口を開いた。何かを予期したような、不安めいたかすれ声で。
「あの手紙は、おまえだな?」
「それは、なんのことで?」
「ふふ。もう分かっているよ。レイナルドのわけがない。私にあてたあの手紙。私のよく知る公爵、つまりサーモンド公爵のもとに彼女、シャルラインの手掛かりがあると、わざわざ私に知らせてくれたあの手紙だよ。あの手紙が、暗闇のどん底にいた私に、かすかな光をもたらしてくれた。あれは、お前が書いたものだな?リュプリック」
「私は……存じあげませぬ」
目をそらした男の様子に、キルティスは満足した。
「お前が私をあわれに思ったのかどうか、それは知らないがね。どちらにしても助けられたのだ、それについては礼を言っておく。お前には、なにもせぬ。もうその気は失せたからな」
リュプリックは、はっとしたように顔を上げた。
キルティスは穏やかに微笑んでいた。
「キルティス……さま」
「そうだ。それが僕の名前だ。分かるな?」
キルティスは男を見た。
「ケブネカイゼなどという女は、もういない。どこにもだ!」
「……」
普段は石のように無表情な執事の目が、徐々に見開かれた。
「分かったら、行け」
「どうか、おやめください……」
すでに一度殺されたかのような顔つきで、男は言った。
「そんなことをなさると……ただでは済みませんぞ」
「ただで済もうが済むまいが、知ったことか。私を止めるなら命をかけろ。私は、命をかけて今日を選んだ!」
キルティスの目が燃え上がった。
「どうする?この場で私を殺すか?私と、戦うのか?……どうする?」
何もかもを覚悟したような壮絶な微笑み。姿は貴婦人であったが、その目はまるで、死地に赴く戦士のものだった。
顔をそむけ、執事は力なく首を振った。
「私には、できません……」
「では、そこを通せ。私はゆく」
うなだれた執事の横を、剣をかざした騎士のように、彼は凛然とすり抜けた。
「部屋には外から鍵をかけてゆくぞ。お前にもそのほうが有り難かろう。すべてが終わったら、被害者の顔をしていればいいのだからな」
執事はもう何も言わなかった。
キルティスは部屋を出た。
(最後の……仮面だ)
心の中でつぶやき、彼は燭台の火がゆらゆらと揺れる回廊を、ドレスの裾を引きずりながら歩いていった。
ロイベルト侯爵が部屋に入ってくると、ドレス姿の妻は妖艶な笑みを見せた。
「おお、ケブネカイゼ。どうしたのだ?わしの部屋で待っておるとは。珍しいの」
「はい……」
少しうつむいて頬を染めてみせる。こうした恥じらいの仕種を、侯爵はもっとも好むのだ。
「久しくあなたに会えず、寂しかったのです。あなたはきっと若い娘のところへと」
「おお、そんなことはないケブネカイゼ。言ったろう、正妻はお前だけだと」
その顔に欲望をみなぎらせ、侯爵は寝台に座る妻を眺めた。
「わしもお前の体が恋しかったぞ。若いだけの小娘にはない色香がお前にはあるからな」
「彼女」は上目遣いに侯爵を見た。
「ふふふ。ケブネカイゼ、今抱いてやるぞ」
淫らな笑いを浮かべ、男は、自分の妻と信じる相手にのしかかっていった。
「……」
艶めいた吐息を聞かせてやりながら、彼はじっと男の顔を眺めていた。
(まだ、わかっていないのだな?)
(お前がケブネカイゼと呼ぶ女など、はじめからいなかったのだということを)
侯爵は妻の下着を剥がして、胸に顔をうずめるのに夢中だった。
(お前は……お前たちは、私がただの遊びのままごとで、男のふりをしていたと思っていたのだろうな。そして、それを余興のように面白がっていたのだろうな)
(私がどうしてこうなったか、お前らには永久に理解できぬのだろう。他人の痛み、苦しみ、悲しみ、狂気を生み出すほどの絶望……どれも、お前らには分からない)
蔑みに満ちた眼差しで、男を見つめ、
(お前らにできるのは金で作った鳥籠に、捕まえてきた女を閉じ込めることだけ)
(……だが、お生憎だったな)
キルティスは口許をつり上げた。
(私は手に入れた……)
(籠を壊す本当の力……本当の勇気を)
枕の下に手を伸ばし、
隠してあったものを握りしめる。
自由への狂おしい渇望が、体を駆けめぐった。
(ああ……フローラ)
心の中でその名をつぶやき、
(僕は……)
(僕は、やっと……)
息を吸い込む。
そして、
男の首筋めがけて
彼は短剣を振り上げた。
ENDING BGM "CROSS TO BEAR"
by IMPELLITTERI
翌朝、早くに目を覚ますと、彼は身支度を整えはじめた。数日間何も食べず、部屋に閉じ籠もって弱り果てていた体は、久しぶりにぐっすりと眠ったことでだいぶ回復していた。
侍女に部屋まで湯桶を運ばせ、体を洗い、髪をくしけずった。真新しいチュニックに袖を通し、ズボンをはくと気持がすっきりとした。髪は金髪のまま後ろに束ねた。
キルティスは部屋を出た。屋敷を出る前に、すれ違ったリュプリックと目があったが、無言でその横を通りすぎた。
彼の考える、「最後の一日」が始まろうとしていた。
馬に乗ったキルティスが屋敷の門を出たとき、前方から別の馬が近づいてきた。
まるで自分を待っていたように、馬上から手を振ったのはレイナルドだった。
驚きもせず、キルティスは鷹揚に相手にうなずきかけた。
二人の馬は並んで歩きだした。
「どうして俺が現れたのか、あんたはもう分かっているみたいだな」
「ああ」
キルティスは馬上でうなずいた。
「お前は、私を見張りに来たのだろう。私がなにか妙なことをせぬように。それがお前の仕事なのだろう」
「……ああ、そうだ」
「お前は、リュプリックに雇われていたのだな。はじめから。私を見張っていたのだろう。泥棒のふりをして。偶然をよそおい私を助けたのも、それから……あの日、私を抱こうとしたのも、みなお前の仕事だったのだろう」
「ああ……そうだ」
レイナルドはそれを認めた。
「お前は正直だな。それに、確かにいい奴だ」
キルティスはふっと笑いをもらした。
「お前となら、もしかしたら本当に友人になれるかもしれないとも思ったが。まあ、どちらにしろもういいさ」
さばさばとそう言う相手を、レイナルドは心配そうに馬上から見つめた。
「これからどうするつもりなんだ?」
「べつに。なにせ、お前がこうして見張っているのだからな。なにもたいそうなことはできやしないさ。でも、そうだな……公爵の屋敷にゆく前に、行きたいところがある」
「どこへ行くんだ?」
キルティスは無言で笑っただけだった。
オードレリン伯爵邸は、緑に囲まれた庭園を持つ見事な屋敷だった。
キルティスは馬を降りた。屋敷の扉を叩くとすぐに侍女が現れた。
彼が「伯爵夫人にお会いしたい」と申し出ると、侍女は屋敷に引っ込んでいった。
少々待たされてから、再び扉が開いた。
現れたオードレリン伯夫人は、キルティスの姿を見て声を少しうわずらせた。
「まあ、キルティスさま?」
「こんにちは。伯爵夫人。こんなに朝早くに失礼かとは思いましたが」
「まあ……いらっしゃいませ。お久しぶりですこと」
夫人が驚いていたのは、突然の訪問のせいだけではなかった。
「御無沙汰していましたね。お元気でおられましたか」
「ええ。あなた様も、お元気そうで、でも少しお痩せになったようですわ。それに……その髪は、どうなされたのでしょう」
きらめくような金色の髪を、夫人は眩しそうに見つめた。
「ええ、まあ……。いろいろとお話しすることがありますが……」
そう言ったキルティスの様子から、夫人は、彼がただ挨拶に訪れたわけではないことを察したようだった。
「とにかく、お入りになってください」
「いえ。僕はこれから、すぐにゆかなくてはならないもので。あまり時間がとれません。それに、実は、今日は……お別れに上がったのです」
「お別れ、ですって?」
「庭の方でお話ししましょう。よろしいですか」
「え、ええ……」
レイナルドを門の前に残して庭園の中ほどまで来ると、キルティスは夫人に向き直った。
「さて、あまり時間もありませんので。率直すぎるほどにお話しすることを、どうかお許しください。先程も申しましたが、僕は今日お別れを言いに来ました」
「それは、どういうことですの?」
「今はまだ、すべてをお話しするわけにはいきませんが、やはりあなたにだけは直接お会いして話さねばと思ったのです。サロンの中でもあなたとは一番長いお友達でしたし」
夫人は不安そうに首をかしげた。
「お別れ、ということは、どちらかへゆかれますの?」
「ええ。そして、たぶんあなたともうこの都市やサロンでお会いすることはないでしょう」
「まあ……」
キルティスは続けた。
「とにかく……僕は、あなたには言わなくてはならないことが山ほどあるのです。そう……まず、この僕の髪のことですが……」
「ええ、とても美しい金髪ですわ」
「ありがとう」
それからキルティスは、やや苦しそうに声を低くした。
「あなたの夫、オードレリン伯が殺された部屋で見つかった髪の毛を、覚えておいでですか?僕に見せてくれたあの髪の毛です」
「ええ……それが?」
言いかけて、夫人ははっとしたように目を見開いた。
「そう。あれはこの僕の髪です」
「そ、それは、どういうことですの?分かりませんわ」
夫人は困惑したように聞き返した。
「すみません。やはり……今はこれ以上言えそうにない。ああ、だが言わなくては。もう、逃げないのだ。そう誓った……」
そうつぶやき、拳に爪を食い込ませながら、彼はもう一度夫人を見た。
「あなたには、どんな謝罪の言葉もない。いや、こんなことが許されることはないと、それは分かっています。あなたの夫であるなどということは、考えもしなかった。いえ、もしかしたらどこかで気づいてはいたのかもしれない。しかし……」
「なんのことですの?いったい、あなたはなにを言ってらっしゃいますの?」
「僕の狂気が……憎悪に狂った僕の手が、短剣を握りしめた……それは確かなことです」
「いったい……なにを?」
夫人は不安げに両手を揉み絞った。
「つまり、オードレリン伯、あなたの夫である人の胸に短剣を突きたてたのは、この僕です」
「な……なにを、言っておられるの?」
夫人は、その場に凍りついたように立ち尽くした。
キルティスは続けて言った。
「あなたがこうして元気でおられるのが、せめてもの救いです。いや、そんなことは僕の自己保身でしかないが。そうです……とにかく、僕はもう覚悟を決めました。もし、あなたが今の僕の話に動転しておられるなら、僕が去ったあとで、もう一度今言ったことを考えてみてください。そして、宮廷騎士団なり護民兵になりお話しになるがよろしいでしょう。僕は、今日の夜までは自分の屋敷にいます。殺人犯として捕らえるならば、今日のうちなのです」
彼は覚悟していた。彼女の告発で捕らえられ、死刑になるのなら、と。
なんと言ってよいか分からぬ様子で、夫人はキルティスをじっと見つめていた。
「よくのみこめませんけれど。それは、だってとほうもないお話ですもの。とても、信じられません」
「では僕が去ったあと、また考えてみてください。僕はもう、いかなくてはならない」
「……」
「それと、あなたに、こんなことを頼めた義理ではないのですが……、どうかサロンのウィックリフ伯夫人にも、よろしくとお伝えください。もう直接お別れを言いに行くことはできないが、お世話になったということを伝えたくて……」
夫人はうなずいた。
「では、きっとクリセンテも悲しみますわね、あの娘はキルティス様が大好きでしたから」
「ああ……。そうだ、それからマルガレーテにも。彼女にも謝りたかったのです。僕は、彼女に罪をなすりつけるようなことを言ってしまった」
「あの娘は大丈夫ですわ。私と同じくらい図太いのですもの。されに、あの娘はダンスが得意でしたから、キルティス様ともう踊れないことを残念に思うでしょうね」
そう言ってくすりと笑った夫人に、キルティスは心からの礼を言った。もしもフローラが現れなかったら、この黒髪の夫人と恋に落ちていただろうかと、一瞬考えながら。
「キルティスさま……もし私が、あなたを騎士団に告発しても、お恨みになりませんか?」
「ええ、もちろん」
「私、夫を亡くしましたが、そのときよりも、今日のほうがずっと悲しい気がします」
キルティスは、それにただ微笑を返した。
「ごきげんよう。オードレリン伯夫人」
「ごきげんよう。キルティス様」
いつものサロンでの別れのような挨拶を交わし、キルティスは馬に飛び乗った。
次にサーモンド公爵の屋敷を訪れたが、あいにく公爵は留守であった。キルティスは、紐で綴じられた羊皮紙の束を取り出し、それを屋敷の執事に預けた。くれぐれも公爵に渡してくれるように念を押すと、もう用は済んだとばかりに、彼は馬上でレイナルドにうなずきかけた。
部屋に並べられた婚礼用の衣装を見つめながら、フローラはひっそりと椅子に腰掛けていた。
真珠を縫い込んだ豪華なサテンのドレスに、絹の手袋、宝石の詰まった首飾り、頭にかぶるレースのヴェールにもたくさんの真珠が光っている。
彼女は、明日侯爵の妻になる。五番目の妻なのか、六番目なのかは知らなかった。ただ、この屋敷を与えられ、生活に必要な金をもらい、ひっそりと暮らしてゆくのだ。
彼女は一人だった。
静かな昼下がり。遠くで、かすかな馬のいななきが聞こえた。
がたんと窓の方で音がして、彼女は顔を上げた。
風が吹いた。
「フローラ」
窓を乗り越え、「彼」が部屋の中に降り立った。
「来たよ。フローラ」
やさしく微笑み。その声。
彼女の目に、みるみる涙が溢れた。
「キルティス様、キルティ……」
「おいで」
彼女は、両手を広げたキルティスの胸に飛び込んでいた。
「ああ……、キルティスさま……ああ」
「ごめんよ。フローラ……ごめん」
「ああ……わたし。私……」
泣きじゃくるフローラを強く抱きしめる。
「ごめんよ……僕が悪かった。僕が間違っていた」
「ああ、キルティスさま……ああ、」
フローラの体の震えが伝わってくる。
そのかぼそい体をしっかりと抱き、キルティスは優しく囁いた。
「ごめんよ。フローラ……本当に。君は悪くない。ひどいことを言ったのは、僕の方だ」
「キルティスさま」
「ね。フローラ、聞いて。一度しか言わない」
その声の響きに、彼女はそっと顔を上げた。
「君は、何もかも知っていながら僕を選んでくれた。だから……僕も君を選ぶ」
涙に濡れる恋人の頬をそっと指で撫で、彼は告げた。
「愛している。フローラ、君を。君だけを」
「キルティ……」
「僕と……この僕と一緒に来ておくれ」
「あ……」
フローラの瞳が一瞬輝いた。だが、すぐに彼女は目を伏せた。
「わ、わたし……」
「家族のことが心配なんだろう?君はそのためにここにいたのだから」
分かっていると、キルティスはうなずいた。
「大丈夫さ。僕を信じて、フローラ。僕に任せておいて。僕はもう逃げないよ。運命からも、自分自身の弱さからも。ねえ、この髪を見て」
差し込む陽光に輝く髪を指さし、
「僕はもう僕だ。僕はキルティスだよ。髪の色も、心の色も同じだ。隠すことはもうない。十五年かかって仮面がとれた」
キルティスはにっこりと微笑んだ。
「男も、女もなく、一人の人間として。君を愛している」
「キルティスさま」
頬を染めるフローラの手を取り、引き寄せる。
「ああ、でも……、でも私はただの農家の娘です」
「初めて会ったときにも言ったよ、お互いの身分素性などは関係ないと」
「でもきっと、ご迷惑になりますわ。私などを連れて……だって、足手まといですし、それにあなたは何と非難されるでしょう」
「そんなことかまうものか。この国も、世界中だって、すべて敵にまわしたっていいさ」
彼女の最後の抵抗に、キルティスは敢然と宣言した。
「僕は、これから君をひっさらってゆくよ。文句あるか?」
「あ……」
フローラの目から、大粒の涙が溢れた。
「ありません。ありま……」
「フローラ!」
二人は抱き合つた。
「あなたは……。ああ、あなたは……」
「なんだい?フローラ」
涙と微笑みを同時に浮かべて、彼女は息を吸い込んだ。
「あなたは、おさな子ではなく……、とてつもないやんちゃなきかん坊ですわ!」
「そうさ。そして今は、貴女の忠実な騎士でもある」
二人の唇が合わさった。
宝石も指輪も、白いドレスも必要なかった。彼らは、互いの瞳に宿した相手を、その地位や性別さえも越えて、ついに手に入れたのだった。
門の前に戻ると、馬上のレイナルドがにやりと笑った。
「もういいのか?」
「ああ。リュプリックに報告するかい?なにもかも」
「いや……俺の仕事は、ただあんたを見張ることだけだからな。それに、今日かぎりで俺の仕事も終わりだ。あんたとももう会うこともないだろう。そうなると、あの隠れ家もお払い箱ってわけだな」
むしろ愉快そうにレイナルドは言った。
「じゃあ気をつけてな。あんたに貸したままになっている俺の服はもっていってもいいぜ」
「そりゃどうも」
キルティスは、なぜだか自分を騙していたこの男が、そう嫌いではなくなっていた。
「あばよ。キルティスさん」
「ありがとう。レイナルド」
最後に互いの名を呼び合って、二人は別れた。
屋敷に戻ったキルティスは、さっそく部屋に侍女を呼んだ。
「お前にもいろいろと世話になったね」
部屋に入ってきた侍女に、彼はまるで別れの挨拶のような言葉を告げた。
「それに、いつだかは叩いたりしてしまって、すまなかったな」
「め、めっそうもありません奥様、いえ……キルティス様」
「ふふ。もう、いつだってキルティスさ」
鏡台の前に腰掛けながら、キルティスは笑って言った。
念入りな化粧と着替えを済ませると、彼は侍女を下がらせた。
鏡に映った己の顔を見つめ、つぶやく。
「これが……最後の仮面」
憎み、憎み続けた顔が目の前にある。
白く塗られた顔と、血の色のような唇。つり上がった眉の下に光る、憎悪を隠した緑の瞳。
「ケブネカイゼ……」
その名を口に出すとき、かつてのような戦慄にも似た嫌悪はすでにない。あるのはただ、己がかぶり続けた、このひびの入った仮面への悲哀だけだった。
彼は待った。
鏡の向こうの己を見ながら。その最後の姿を目に焼き付けるようにして。
夕刻までは、息の詰まるような時間が流れていった。その間は、さながら死刑宣告を待つ罪人のような心持ちであった。
オードレリン伯夫人が、彼の罪を騎士団や護民兵に訴え、殺人犯として彼を捕らえに来た騎士たちが扉を荒々しく叩く音を、彼は何度も想像した。廊下を渡ってくる足音を耳にすると、恐ろしさに飛び上がりそうになる自分を必死に抑えた。
後悔はしなかった。自分の罪の一端を夫人に打ち明けたときから、心はもう定まっていた。もし捕らえられ、処刑されても、それは仕方がないことだ。夜までにそれが起こったなら、自分はその運命を受け入れようと、彼はそう思っていた。
ただ彼は待った。いつもなら憎しみに狂いそうになる恐ろしい夕闇の訪れ、汚らわしい男の妻とならねばならない、ケブネカイゼにならねばならないこの時間の訪れを、これほど待ったことは、彼の人生で一度もなかった。
そして、日が落ちた。
彼を捕らえにくる騎士たちの足音も、彼の罪を読み上げる護民兵も検察官も、現れることはなかった。
侯爵の帰りを告げる馬車の音が聞こえた。キルティスは侍女を呼んだ。
「侯爵は、今宵は屋敷に泊まられるようか?」
「そう存じあげております」
「では、私からお話があることを侯爵にお伝えして。よろしければ寝室にてお待ちすると」
「かしこまりました」
侍女が下がると、キルティスは鏡の前に立ち、用意に取りかかった。
そのとき扉がノックされた。
「失礼いたします。ケブネカイゼさま」
部屋に入ってきたのは、黒ずくめの執事、リュプリックだった。
「まだ入ってよいとは言っておらぬが」
「申し訳ありません。しばらく、よろしいでしょうか」
「まあいい。じつのところ、お前とも話をしたいとは思っていた」
キルティスは男を部屋に入れると、扉に鍵をかけた。
「レイナルドに報告を受けたか?」
「キルティスさま、」
決して表情を変えることのなかった執事が、今はその顔に焦慮をにじませているようだった。
「なにをなさるおつもりです?」
「ふん。何も。……というのは嘘だよ」
キルティスはにやりと唇をつり上げた。
「私がこれからすることを、お前は止めようというのか?」
「できますれば」
「ほう。どうやって?力ずくでか?この私を取り押さえるか?」
キルティスは落ち着いていた。すでに心は決まり、たとえ何者が立ちはだかろうとも、己の定めた道を進まずにはおけないという、決然たる空気をその身にまとわせて。
「思えば、お前とも長い付き合いになったものだな。あれからもう十五年間か……。私がこの屋敷に来たときから、お前はなにも変わっていない。その無表情も、けっして己をさらけ出さないその態度も。まあ、少々髪が薄くなったくらいのものか」
くすりと笑ったキルティスは、楽しそうですらあった。
「正直、ずっとお前のことが憎くて仕方がなかった。あの女好きの侯爵と同様にな。お前も分かっていたろう?私の憎悪がときどきお前にも向けられるのを。私はときどき、もしかしてお前こそが、私にとっての檻そのものではないかと思ったものさ。だってそうだろう?キルティスとなった私が、夕方になるとお前の馬車で屋敷に連れ戻される。それは私にとっては、私を暗闇の中に捕らえる地獄の使者のようなものだった。私は屋敷に戻り、仕方なくまた妻となり、あの男に抱かれなくてはならなかった」
じつと無言の執事にはかまわず、キルティスは己の言葉を続けた。
「そんな私を変えてくれたのがあの娘だった。シャルライン、誰がその名を付けたのは知らないがね。もしお前なら、なかなかセンスのいいネーミングだったと、褒めてやりたいな。貴族っぽいけど、そう嫌味でなく、あの娘にはぴったりの名前だった。まあ、でもむろん、僕はフローラという方が好きだけど。そう、だから、お前にはある意味感謝をしなくてはね。お前がフローラを僕のもとに連れてきてくれたのだから。たとえそれが、あの男の妻になる運命をもった娘であったにしろ」
キルティスは話し続けた。すべての決着を付けるこの最後の日に、何もかもを吐き出してしまいたいというように。
「それから、もう一つ礼を言わなくてはなるまい。お前はとうに知っていながら、侯爵や他のものには話さずにいたな。私が夜な夜な人殺しをしていたことを。お前はレイナルドを使って私を見張らせながら、さりげなく私を助けていた。もちろん、お前は侯爵の従順な下僕だから、その妻の不祥事の尻拭いをし、それを世間から隠そうとしただけなのだろうが。今思えば、私が捕まらずに、こうしてのうのうと生き延びることができたのは、お前のおかげもあったことは認めなくてはなるまいさ」
少し話し疲れて、キルティスは椅子に腰掛けた。
「さて、今となっては、私はお前がそれほど憎くはなくなった。一般的に見ても、お前はよく働く立派な執事であり、侯爵の片腕であるといってもよいだろう。それに、私を含めて侯爵の六人の妻は、みなお前が見つけ出してやったわけだからな。そういう意味でも、あの豚侯爵はお前には頭が上がらんだろうさ」
「ケブネカイゼさま……何をなさるおつもりですか?」
ようやく男が口を開いた。何かを予期したような、不安めいたかすれ声で。
「あの手紙は、おまえだな?」
「それは、なんのことで?」
「ふふ。もう分かっているよ。レイナルドのわけがない。私にあてたあの手紙。私のよく知る公爵、つまりサーモンド公爵のもとに彼女、シャルラインの手掛かりがあると、わざわざ私に知らせてくれたあの手紙だよ。あの手紙が、暗闇のどん底にいた私に、かすかな光をもたらしてくれた。あれは、お前が書いたものだな?リュプリック」
「私は……存じあげませぬ」
目をそらした男の様子に、キルティスは満足した。
「お前が私をあわれに思ったのかどうか、それは知らないがね。どちらにしても助けられたのだ、それについては礼を言っておく。お前には、なにもせぬ。もうその気は失せたからな」
リュプリックは、はっとしたように顔を上げた。
キルティスは穏やかに微笑んでいた。
「キルティス……さま」
「そうだ。それが僕の名前だ。分かるな?」
キルティスは男を見た。
「ケブネカイゼなどという女は、もういない。どこにもだ!」
「……」
普段は石のように無表情な執事の目が、徐々に見開かれた。
「分かったら、行け」
「どうか、おやめください……」
すでに一度殺されたかのような顔つきで、男は言った。
「そんなことをなさると……ただでは済みませんぞ」
「ただで済もうが済むまいが、知ったことか。私を止めるなら命をかけろ。私は、命をかけて今日を選んだ!」
キルティスの目が燃え上がった。
「どうする?この場で私を殺すか?私と、戦うのか?……どうする?」
何もかもを覚悟したような壮絶な微笑み。姿は貴婦人であったが、その目はまるで、死地に赴く戦士のものだった。
顔をそむけ、執事は力なく首を振った。
「私には、できません……」
「では、そこを通せ。私はゆく」
うなだれた執事の横を、剣をかざした騎士のように、彼は凛然とすり抜けた。
「部屋には外から鍵をかけてゆくぞ。お前にもそのほうが有り難かろう。すべてが終わったら、被害者の顔をしていればいいのだからな」
執事はもう何も言わなかった。
キルティスは部屋を出た。
(最後の……仮面だ)
心の中でつぶやき、彼は燭台の火がゆらゆらと揺れる回廊を、ドレスの裾を引きずりながら歩いていった。
ロイベルト侯爵が部屋に入ってくると、ドレス姿の妻は妖艶な笑みを見せた。
「おお、ケブネカイゼ。どうしたのだ?わしの部屋で待っておるとは。珍しいの」
「はい……」
少しうつむいて頬を染めてみせる。こうした恥じらいの仕種を、侯爵はもっとも好むのだ。
「久しくあなたに会えず、寂しかったのです。あなたはきっと若い娘のところへと」
「おお、そんなことはないケブネカイゼ。言ったろう、正妻はお前だけだと」
その顔に欲望をみなぎらせ、侯爵は寝台に座る妻を眺めた。
「わしもお前の体が恋しかったぞ。若いだけの小娘にはない色香がお前にはあるからな」
「彼女」は上目遣いに侯爵を見た。
「ふふふ。ケブネカイゼ、今抱いてやるぞ」
淫らな笑いを浮かべ、男は、自分の妻と信じる相手にのしかかっていった。
「……」
艶めいた吐息を聞かせてやりながら、彼はじっと男の顔を眺めていた。
(まだ、わかっていないのだな?)
(お前がケブネカイゼと呼ぶ女など、はじめからいなかったのだということを)
侯爵は妻の下着を剥がして、胸に顔をうずめるのに夢中だった。
(お前は……お前たちは、私がただの遊びのままごとで、男のふりをしていたと思っていたのだろうな。そして、それを余興のように面白がっていたのだろうな)
(私がどうしてこうなったか、お前らには永久に理解できぬのだろう。他人の痛み、苦しみ、悲しみ、狂気を生み出すほどの絶望……どれも、お前らには分からない)
蔑みに満ちた眼差しで、男を見つめ、
(お前らにできるのは金で作った鳥籠に、捕まえてきた女を閉じ込めることだけ)
(……だが、お生憎だったな)
キルティスは口許をつり上げた。
(私は手に入れた……)
(籠を壊す本当の力……本当の勇気を)
枕の下に手を伸ばし、
隠してあったものを握りしめる。
自由への狂おしい渇望が、体を駆けめぐった。
(ああ……フローラ)
心の中でその名をつぶやき、
(僕は……)
(僕は、やっと……)
息を吸い込む。
そして、
男の首筋めがけて
彼は短剣を振り上げた。
ENDING BGM "CROSS TO BEAR"
by IMPELLITTERI
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