岡の上の宮

垂水わらび

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氷高皇女

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 老女帝・鸕野もまた、報告を受けて困惑した。 
 大来皇女の庇護者は、名目上は鸕野ということになっている。
 しかし、女帝が皇女の一人一人の世話までできるわけがない。実質的には大来皇女は高市皇子の庇護下にあった。先帝が大切にした斎宮と太政大臣が手を結べば、何を起こせるか鸕野はよく承知していた。
 女帝・鸕野は大来皇女の宮には皇太妃・阿閇皇女を通じて子飼の采女を送り込んでいた。
 大津皇子おとうととは異なり、用心深い大来はあまり頻繁に高市皇子の宮を訪れなかった。だからこそ、今まで二人は生き延びることができた。
 阿閇皇女は、年齢の近い大来皇女が若さに執着し始めたことに理解を示した。大したこととは思わず、大来皇女についての報告を伝えながら女帝に言った。
「可留の東宮冊立の祝いには、斎宮さまには舞を披露していただかねばなりませんから、そのためでございましょう」
 女帝は思う。
ーそうは言っても大来あれはまだ四十前ではないか
 女帝にとって大来は、未だにあの那津で裳にしがみついていた幼女である。 
 阿閇は話を変えた。
「娘たちの縁談についてでございますが」
 高市皇子の最後の願いとして、氷高皇女と長屋王の縁組が望まれていた。
 これは草壁の遺言であったとも聞けば、鸕野はしぶしぶではあったが内諾した。
 草壁以上に、可留は虚弱だ。それは鸕野も認めざるを得ない。その次を考えておかねば、忍壁皇子や弓削皇子や舎人皇子といった鸕野を嫡母とする先帝の庶子たちの他に、鸕野の異母弟の志貴皇子が担がれて争い始めるのが目に見えている。
ー大乱は避けねばならぬ
 高市が可留と競うことは許さなかった。
 しかし、可留に何かがあれば、必ず争いが起きる。その次を定めておいて悪い者ではない。
 その相手として、草壁の遺言があるならば、高市皇子の子らを候補に挙げて悪いものでもないだろう。
「帝は受け入れられましたよ」
 阿閇皇女は姉の御名部皇女に伝えていた。
 そこで、高市皇子の正妃・御名部皇女から正式に氷高皇女と長屋王、吉備皇女と庶子の鈴鹿王の縁組の願いが出されたのだ。
 阿閇皇女はここでひっくり返されてはたまらないと念を押した。
「よろしゅうございますね?」
 草壁皇子と高市皇子は、異母の兄弟だった。氷高・吉備姉妹と長屋王は父方でいとこにあたる。さらに、阿閇皇女と御名部皇女は同母の姉妹である。氷高・吉備姉妹は長屋王と母方でもいとこ関係にある。
 古来から異母の兄弟姉妹の間の縁組は許されてきた上に、いとこ間の縁組はよくあるものである。それにしても、繰り返されてきた縁組の中で血はすでに濃い。
 唐人がこの王朝の人間関係を知って顔をしかめたというではないか。
ーあまりに濃すぎる血は、弱さをもたらす
 可留やその父の草壁の虚弱さはそのせいであったかと阿閇皇女は思ったのである
 御名部皇女は血の繋がらぬ庶子の鈴鹿王に吉備皇女を求めた。
 あくまで、御名部は高市皇子の血にこだわった。
 異母妹たちの意図を汲んで、鸕野は受け入れざるをえない。
 しかし、側に近寄りもしない吉備皇女は吉備皇女で、相手が庶子であることに不満を持っている模様である。
 今、脇で控える氷高皇女の方は、自らの縁談だというのに表情一つ変えない。
 女帝・鸕野は祖母の宝大王を思い出した。
 鸕野にとっては、抱かれた記憶もない、多少近寄りがたい祖母・宝大王たからのおおきみだった。数多い兄弟姉妹の中で一番可愛がられたのは、おそらく同母弟の建だ。まっすぐに座ることができず、多少異様な顔をしていたが、いつもふんわりとにこにことしていた建。
 そして、奇跡の子と呼ばれた大友。
 日照りの年に祈りを捧げると、雷雨が続いたという、天に祝福された宝大王は、乙巳の変で、蘇我入鹿の血がその衣に飛んでも顔色ひとつ変えなかったというお人でもある。
ー氷高は宝大王そっくりになってきた
 女帝・鸕野は二人の孫娘たちの婚姻を認める前に人を払った。いつものように下がろうとする氷高皇女を引き止め、残ろうとした阿閇皇女を下がらせた。
「氷高や氷高」
 鸕野は、なぜ残されたのかという不満さえ見せない氷高皇女の手を取った。小さいがハリのある肌だ。
「そなた、長屋王をそれほど良くは思わないのではないか」
 氷高皇女は微かにうなずいた。
 しかし、皇女に生まれれば好きか嫌いかで男を選べるわけではない。皇子か王かしか選べないのだ。目の前にいる祖母も、母もそのようにして配された。
 そのようなものだと思っている。
「無理に通わせれば、男の心は離れていく」
 そのように配された祖母が、熱烈に祖父を愛したことは皆が知っている。しかし、祖父には妃嬪がたくさんおり、祖母は父一人しか産まなかった。
「氷高や。そなたにはこの国を任せよう」
 何を言うのかと氷高皇女は思う。
「悲しいことだが、朕は可留が長生きするとは思えぬ。朕は可留が早逝した場合のことを考えねばならぬ」
 確かに、弟は病弱な子だ。
「朕は帝位を朕の血を引かぬものには譲りたくない。可留が子を成さずに終われば、氷高が即位せよ」
 氷高皇女はうなずいた。
「可留が幼い子を残して終われば、氷高が即位して親代におなり」
 氷高皇女はごくりと唾を飲んだ。
「長屋王は吉備におやり。吉備に何人も子を産ませよ。長屋王はあの父親同様に悪い男ではない。だが、氷高や。即位するのはそなたじゃ。即位して、長生きするのじゃ。可留に子がなく終われば、吉備の産んだ子に譲位せよ」
「しかし、」氷高皇女が顔をしかめて珍しく口を開いた。
「なんじゃ」
「可留から私では、弟から姉へ譲ることになるではありませんか。先日姉から妹への譲位についての話が出たばかりです」
 鸕野はうなずいた。
「可留にもしものことがあれば、まずは母に譲れ。祖母から孫、息子から母、母から娘へ渡せば問題は一切ない」
 氷高皇女は顔を綻ばせた。
「そのように解決していくのですか」
 鸕野は笑った。
「あれはふひとと朕が、葛野王を使って打った芝居じゃ。何も知らされてなかった大来に、忍壁と志貴が良く空気を読んだものよ」
 鸕野は氷高皇女の頬に手を当てて言った。
「無理に正面を突破することはない」
 氷高皇女はその言葉を胸にしまった。
「ところで大来の話をどう思う」
 問われて氷高は頭を傾けた。若い氷高皇女には年老いつつある伯母が若さに執着して醜悪だと思うだけだ。ただ、醜悪だとは口に出せない。それくらいの思慮はある。
「男ができたのかもしれぬなあ」
 女帝が目を細めて言えば、ますます醜く邪なものに思えてくる。
「斎宮のくせに。男を捕まえて処罰なさいますか」
 女帝は首を振った。
「そのようなことをするでない。大来あれはこれから自由を得る」
 皇女の身に生まれて、自由などあるわけがない。
大来あれが親しかった大津も高市もすでにこの世にいない。草壁も川島もいない。残る忍壁・志貴の二人とはあまり親しくもない。朕もこの世からもうすぐいなくなる。そもそも、可留が即位すれば、新たに伊勢に斎宮を送る。そうすれば、斎宮と呼ばれることもなくなろう。まだ大来あれは四十前じゃもの。誰であれ好きな男を通わせれば良い」
「お子ができたらどうするのですか」
 声を潜めて氷高皇女が言った。
「子をなすには少し年齢がいきすぎよの。しかし、生まれたら生まれたで、どこかの寺にでも送れば良いではないか」
 そもそも、なぜあんな、ぱっとしない伯母の話をするのかが氷高にはよくわからない。
「氷高や。そういう風に見るでない。自らを律して過ごした大来が少し羽目を外しただけじゃ。良いな、氷高。そなたの役割は別にある。可留や可留の子が長生きしなければ、そなたにこの国を任せる。その代わりに可留や可留の子が長生きすれば、そなたは好きなところで好きなように過ごせば良い。男を通わせたければ男を通わせれば良い。通わせたくなければ通わせなければ良い」
 大来皇女の若作りは、そんな下衆な理由なのだろうかと氷高皇女は思う。
 しかし、妹の吉備と自分と、別々の荷を背負うのかと思えば、少しは気が楽になった。
 少なくとも、吉備は吉備で歩む道は楽ではない。男児でも女児でも、吉備が出産できるとは限らない。
 そもそも、即位した氷高が吉備と長屋王の間に生まれた子に譲位することがあるならば。そのとき二人がこの世にいることはありえないのだ。
ー大来皇女になるか。それとも、女帝になるか
 氷高皇女にはどちらも選びたいものではなかった。
 しかし、道はなかった。

 大来皇女は毎日が楽しい。
 夜はいそいそと寝台に潜り込み、朝が来れば日の光も愛おしい。
 全てが美しく輝いて見える。
 あの、淡海の夏のように。
「我が妃よ」
 牡丹の花弁のような唇で大友はささやく。
 夜は髪を撫で、肌に這うたくましい手が「愛おしい」と告げる。
 昼は身支度する様子を後ろから楽しそうに見る視線を感じる。
 なんと美しい人だろう。
「…我が君」
 采女たちから見れば、大来皇女は空に微笑みかける人である。
ーもっと早くに味わいたかった
 これが近江の京の後宮ならば、大后を始めとして多くの妃嬪と分け合わねばならない。
 しかし、今ならば。今ならば、独占できる。
 そう思えば、悪くはないかもしれない。
 だが、皇女は若い采女の体つきを見て、次に己の体つきを見る。
 明らかに年齢を感じる。肌の溌剌としたハリやツヤというものはいったいどこから生まれ、どうやって失われていくのだろう。
「いいじゃない」
 抱き寄せる大友は決して否定しない。
 四十を前にした女が、美豆良の男を侍らせているのである。
 醜悪だと思う。
「歳を取らない存在はいいものねえ」
 なじってみることもある。
十市皇女あねうえはどこにおられるの」
 気になるのは、大友の正妃のことだ。
 同じく歳を取らない存在になっていれば、美しく若々しくいるだろう。
 考えるだけで胸が痛くなる。
「葛野王のところにおられるの?」
 大友は大来皇女の腹の上に手を滑らせて答えた。
「十市は、すでに去った」
 大友はぽつんと呟いた。
「十市は、朕に留まれと命じたのだが、自分はさっさと根の国に去ったのだよ」
「兄上は?」
「高市も去った」
「大津や、草壁は?」
 大友は悲しげに言った。
「みな、去った」
「一人ここに残っておりますよ」
 すでに若さを失いつつある大来皇女は、若々しい男の唇に吸いつき、押し倒した。
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