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嘆きの谷

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嘆きの谷の底は、初夏の照り付ける日差しとは無縁かのように冷え冷えとしている。

あと少しで完成する祭壇は、嘆きの谷の最深部に用心深くしつらえられていた。

その様子を、フードをかぶった男は静かに見つめている。

そのそばに、静かに歩み寄る黒装束の男に気付くと、視線をそちらへ向ける。

「戻ったか。そろそろ巫女を祭壇に迎える準備をするように言いつけられた」

相変わらず、表情を読ませず、淡々と次の指示を告げる。

「 おいおい、人使いが荒ぇなぁ。首尾は?とか他に言うことねえのかよ」

「言いつけた仕事を全まっとうせずに姿を現すほど厚顔でもあるまい?ガルディア」

黒装束の男、ガルディアを見据えて、男はフードを外す。短く切りそろえられた

黒髪は、ガルディアの炎を思わせる赤とは違って、飲み込まれそうな漆黒をしていた。

この男流の軽口に、ガルディアも鼻を鳴らす。

「刻ときが来る。 もうひと働きしてもらおうか」

「おっと、その前に聞きてえことがある。この一件が片付いたら……」

ガルディアが男に疑問をぶつけようとした時に、鋭い視線で男はそれを制す。

そして、岩陰に隠れているように無言で指示する。瞬間、ガルディアは消えた。

かすかに足音が響き、そしてそれは次第に大きくなっていく。

「祭壇の準備は整ったようだな?さすが手際がいいものだよ、トラヴァー」

ユーラーティの神殿兵を従えて、ザーコボル・グラーティは機嫌よく現れる。

トラヴァーは何も言わない。が、ザーコボルは気にせず言葉を続ける。

「赤毛のドブネズミは役立っているか? お前が珍しく部下によこせという位だから

色々と使い道が有るのだろうが、アダラが口惜しがっていたぞ」

「アダラは、私の手に余る。悪いが、扱いきれない人間は不要だ」

「アダラも哀れなものだな、そこまで邪険にされるとは。そこそこ使い道もあるのだがな」

ザーコボルは忍び笑いを漏らす。

「忙しい身の貴方が、こんなところまで何の用だ?」

ガルディアに見せていたのよりは明らかに感情が欠落している表情で、トラヴァーは

ザーコボルに問いかける。

「儀式の日が迫ってきた。私はどれほど待ち望んでいただろう。わかるだろう?」

ザーコボルの真意を測りかねて無言を続けていると、ふと、ガルディアを隠した岩陰を

見て、ザーコボルは口を開く。

「この付近を嗅ぎまわっている、ドブネズミを捕まえてね。先日始末し損ねた分が

戻ってきたようだったので、巣に帰って残りを駆除する薬を仕込んだんだ。

お前の子飼いの赤毛のドブネズミも、せっかく飼い主が見つかったのだから

大人しくしているようにと釘をさしに来たのだ。命が惜しければな」


それだけを告げて、ザーコボルは元来た道を戻っていった。

再び、静寂が訪れ、もういいぞ、という言葉がかかるまで、ガルディアは拳を

握りしめ、強く握りすぎて血がにじんでいても気にも留めず、ザーコボルの消えた方を

睨み据えた。

「ガルディア、儀式まであと三日、今が正念場だ。わかるな?」

ガルディアは何も言わなかった。


☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・


嘆きの谷を後にしたザーコボルは、北の館に足を向けた。

いよいよ悲願達成までわずかになった。あの少女の忠誠を不動のものにする為に

ナバートに作るように命じていた薬が出来ているか、確認する為だ。


ザーコボルが、護衛によって開けられた玄関をくぐった時、なぜか違和感を感じた。

そして、ナバートの部屋の中から現れた護衛のひとりが蒼白な面持ちでひざまずく。

「ザーコボル様、ナバート先生がいらっしゃいません!」

「どういうことだ!説明しろ。あの老人が勝手に出ていくわけはない!」

説明しろと言いつつも、説明を聞くのももどかしく部屋に駆け込んだザーコボルは、

もともと散らかっていた部屋ではあるが異様な散らかり様と床に落ちて

粉々になった実験道具を目の当たりにして言葉が出なかった。

「やられましたわぁ」

よろよろと後方から現れた人影に、ザーコボルはにらみつける。

そこには、黒髪を方で切りそろえた女、鼻につく甘い声を出すアダラが立っていた。

「どういうことだ」

「先生のぉ、様子をぉ見に来たんですのよ、そうしたら、先生に刃物を振りかざしている

怪しい人間を見かけたんですぅ。トラヴァーの子飼いの赤毛の元仲間みたいですわ」

アダラは、滔々(とうとう)と話し始めた。

上目づかいでザーコボルを見上げるアダラに、不快感を露わにしたザーコボルは

冷ややかな視線で言い訳をとめどなく垂れ流すアダラを見つめていた。

「ではなぜ、その時に捕まえなかったのだ? お前ほどの腕はこの王都にも

そうおるまい? まったく、怠慢な女だな」

鋭くとがった言葉は、アダラの饒舌な舌を凍り付かせた。
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