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序章

その4 その人の名は、花咲心優

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 朝靄(あさもや)の残る八幡神社に走り着いた穂明里は、
「たしか、この辺りの筈なんだけどな」
 家の窓から見えた辺りに翠色の光を探していると、神社の本殿の方から一人の女子高生らしき女の子が向かってくるのが見えて、咄嗟に穂明里は鳥居の陰にさっと隠れた。
  ――もしかして、あの人がみひろさん?
 見慣れない白い制服に紅いリボンが鮮やかだ。
 ――紅いリボン、可愛いな。確か、夢心さんの記憶の中にあった高校のだ。
 彼女は銀杏の木の下から何かを拾い上げた。一度だけ、キラリと太陽の光を反射したそれは、それはどうやら腕時計のようだった。
 すると彼女は急に顔を上げて、あたりをキョロキョロと見渡し始めた。次に何かを思い立ったように、穂明里の方に足(あし)早(ばや)に向かってきた。
 ――やっばっ!
「どくん!」と、心臓を鳴らして穂明里は思わず、鼻先を突(つつ)かれた亀のようにしゅっと、顔を鳥居の陰に引っ込めた。
 鳥居の所までやってきた彼女は「違う」と呟くと、穂明里のいる方とは反対の方向、神社の西の方に向かって走り出した。
 ――ちょ、ちょっと、待って。
 鳥居の柱から出て穂明里は彼女の跡を追う。彼女は角の公園のところでで足を止めた。
 決して広くない公園の中を彼女は何度も何度も行き来して、その様子はまるで、そこに何か建物があって、どこか入り口を探しているようにも見えた。
 ――あんなとこで、なにしてんだろ?
 そこに自転車に乗ったおじさんがやってきた。すると、おじさんの前に立ち塞がるように彼女は飛び出した。
  ――あぶな。
 おじさんは慌ててブレーキをかけて、自転車は、ぎぎーっと、錆びた音を立てて止まった。
 自転車の前に立ち塞がった心優は、おじさんに必死に何かを尋ねている。
 耳を欹てた穂明里の耳に、「紅絹(もみ)、紅絹高校です」と言う彼女の声が聞こえた。
 ――もみこうこう?
「もみ高校? ここら辺の学校じゃねえな。で、何の用だ? 俺も急いでるんでね」
 急に自転車の前に飛び出されて、明らかにおじさんは怒っていた。それでも、心優は必死に食い下がる。
「あの、ここに蟠桃堂(ばんとうどう)って喫茶店があったはずなんですが、どうなったかご存じありませんか?」
 ――蟠桃堂。
 夢心の記憶の中にあった喫茶店だ。ここにあったんだ。ということは、みひろさんは蟠桃堂を探してたってことか。
「蟠桃堂? 喫茶店? 知らねえな。ここは昔っから公園だ。ときどき遊具が入れ替わるけどな。あんた、こんな朝早くからその蟠桃堂ってのを探してんのかい?」
「え、あ……、はい。まあ……」
「なんだい、はっきりしねえ姉ちゃんだな。それじゃ、あそこの花屋にあんたくらいの娘がいるから、店が開いたら、行って訊いてみたらいい」
 それだけ言うと、おじさんは再び自転車を漕ぎ出して、穂明里の方に向かってきた。
 穂明里は、みひろに背を向けるようにして自転車をやり過ごした。おじさんをやり過ごして振り返ると心優は再び走り出していた。
 ――ちょ、ちょっと、待って!
  慌てて穂明里も心優を追う。
 穂明里の足は速いほうだが、心優も速いと素直に穂明里は思った。
 道路向かいの角を曲がったところの大きな公園に彼女は走り込んだ。そこは、空き地の真ん中辺りに小さな池がある。池の畔(ほとり)に小さいながらも立派な藤棚があるところだ。
 追いついた穂明里は、公園の入り口から心優の様子を窺う。
 心優は呆然と公園を見渡すと、見るからに肩を落として、とぼとぼと歩いては、藤棚の下のベンチに腰を下ろした。しばらく俯(うつむ)いていたあと、彼女は傍(かたわ)らの石を拾い上げては、ゆっくりと腕を振って池に放り込んで、拡がっては消えていく円の波動をぼんやりと見つめていた。
 間違いない。みひろさんだ。そう思った瞬間、自然と足が動いた。穂明里はゆっくりと心優に近づいて声を掛けた。
「お姉さん?」
 自分でもびっくりするくらいの大きな声が出た。
「えっ!」
 穂明里の声に驚いて、ものすごい勢いでベンチから立ち上がって振り返った彼女の胸で翡翠が鮮やかな翠色の光を放った。
 夢心の声が穂明里の頭の中に蘇る。
「翡翠の勾玉を持った女の子。その人が、花咲心優さん」
 ――間違いない。
 確信を持って穂明里は訊いた。
「お姉さん。もしかして、はなさきみひろさん?」

 それが、穂明里と心優の最初の出会いだった。

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