25 / 25
外伝 「恋人」
しおりを挟む
「ねえ、舞由ちゃんも弓道、やってみない?」
姉の舞耶の友達……遠藤琴恵から誘われたのは、中学一年と二年の境目、春休みのことだった。
「弓道?」
姉と一緒に、琴恵の作ってきてくれたアップルパイを食べながら、舞由はきょとんとした表情で、姉と、その話を持ち出してきた琴恵とを見比べた。
「ちょっと、琴恵……」
舞耶はそんな琴恵に向かって、少し非難がましい視線を向けたけれども、琴恵自身は、その視線はまったく無視して、
「一コ上の先輩にね、近藤さん、って人がいるんだけどね。その人が、この近くで仲間と一緒に弓道をやっているんだって」
楽しそうにいいながら、琴恵は意味ありげに舞耶の方を見た。
「んもう……」
ふくれっ面を浮かべる姉の頬が、心なしか赤い。そんな姉の姿に、舞由は、「ふうん」とうなずき、
「お姉ちゃんの彼氏? その、近藤さん、って人?」
問うてから、アップルパイを口に放り込む。
「舞由ちゃん、鋭いじゃない」
うれしそうに、琴恵はいった。
「琴恵っ!」
今度こそ、顔を真っ赤にして、舞耶は琴恵を怒鳴りつけた。けれども、友人のそんな態度などどこ吹く風と、琴恵は平然とした顔で、アップルパイをつつく。そんな姉の態度が、なんだかひどく不思議で、舞由は小さく首を傾げた。
口の中のものを飲み込み、舞由は「ね、お姉ちゃん。聞いていい?」
「なに?」
「弓道って、おもしろいの?」
琴恵の誘いを承諾したのは、その「姉の彼氏」とやらを見てみたい、という好奇心が半分と、そして、どうやらすでに弓道を始めているらしい姉が「おもしろいよ」といったことが半分、だった。
そして、数日後の夜。
近くにある駐車場……この駐車場の管理人が弓道家で、この近辺の弓道連盟の会長をやっているらしかった……に集合して、実際の練習が始まった。
「会場」に集合したのは、舞由と舞耶の青木姉妹、舞由を誘った琴恵、そして噂の姉の「彼氏」である近藤と、その友人数名と、弓道連盟の会長である、この駐車場の管理人だった。
初顔の舞由が自己紹介をすませ、集まったメンバーで準備を始める。駐車場の隅に設置された道具入れの中から、的や防護ネットを取り出し、それらをてきぱきと設置していく。準備運動をして、すでに経験のある者達は自分の弓を準備する。
弓を持った者達が巻藁に向かうのを見ながら、舞由はまず、弓道連盟の会長……山根という、五十歳ほどの男だった……から、弓道の基本動作である「射法八節」についての解説を受けた。
その概略の説明が終わるのと同時に。
「じゃ、お先に」
一人の男がそういって、的の前に立った。その声を聞きつけ、山根が、
「ちょうどいい。近藤くんがやるのを、見ていなさい」と、舞由にそちらを注視するよう、うながした。
そして。
あのときの感動……そう、陳腐ないい方ではあったが、それを「感動」と呼ばずしてなんと呼ぼう……を、舞由は二度と忘れることができなかった。
まっすぐに的を見つめる真剣な眼差し。射法八節に従って弓を引いてゆく、その力強い動き。弓を引ききったとき、そして矢が放たれるまでの緊張感。
放たれた矢が、まっすぐに的に吸い込まれてゆく。
残る三射もすべて的に中て、近藤は場所をはずした。と、周りでそれを見ていた男が一人、ひゅう、と口笛を吹いた。
「いきなり皆中か……。調子がいいじゃないか」
ははは、と、照れたふうに笑って、近藤は「まぐれだよ」と返した。
「じゃあ、矢、取ってくるな」
そういってかけをはずした近藤の姿を見ながら、舞由はたったそれだけのことで、すべてが理解できたような気がした。
――この人、お姉ちゃんが好きになって、当たり前だ……。
近藤は、舞由が予感したとおりの人物だった。
陽気で気さくで。そしてそんな中にも、まっすぐで確固とした「自分」を持っている。
本当に、弓道が好きなのだろう。弓道の話をしているときは目を輝かせ、それがいかにすばらしいものであるかを力説する。
姉の舞耶が……そして舞由自身が、そんな近藤の言葉に引かれるように、弓道の本当の魅力を少しずつ知っていくのも、当然といえば当然のことだった。
そして、また。
やはり、どこか姉と「趣味」が似通っているのだろう。舞由は生まれて初めて、姉の恋人であるはずの近藤を、異性として意識するようになっていた。
……もちろん、年齢差や、その他諸々のことを考えれば、舞由がどんなに背伸びをしたところで姉に勝てるはずもなかった。それに……舞耶がどれほどに近藤のことを好きであるかは、普段の、そして弓道の練習家のときの姉の態度を見ていれば一目瞭然で、そこに舞由が割ってはいるような余地は、なかったのである。
もちろん舞由自身も、そのことは重々承知していた。だからこそ、彼女は、「二人にとって、よき『妹』でいよう」という、いってみればそれなりに悲痛な選択をしたのだった。
そんな中で、時間だけは過ぎてゆき。
夏休みの始まった、七月の終わり。舞由は初めて、的前に立った。
的の近くから矢を射ることを始め、矢が安定して的の付近に中るようになったら、徐々に距離を伸ばしていく。それを続けながら、ようやく舞由も、正規の距離である、二十八メートルの位置から、矢を射れるようになったのである。
初めての射は、いうまでもなく全射はずれであったが。
「おめでとう、舞由ちゃん」
皆が口々に、舞由が的前からの射ができるようになったことを祝福してくれた。
「ありがとうございます」
舞由はえへへ、とはにかんで、「じゃあ、矢、取ってきますね」と矢を取りに向かった。
そして、矢を取ってきた舞由に、
「ね、舞由ちゃん」
声をかけてきたのは、琴恵だった。
「はい」
返事を返して琴恵の方を見る。琴恵は、にこにこと笑いながら、舞由の顔を見ていた。
「的前に立てたお祝いに、何か、おごってあげようか?」
「え? ほんとですか?」
その言葉に、舞由は単純に喜んだ。けれども、「琴恵……」驚きの表情で、舞耶もまた琴恵の方を見る。
「いいじゃない? せっかく的前に立てるようになったんだし。舞由ちゃん、いつもがんばっているし。ちょっとはご褒美があったって」
琴恵は楽しそうに笑った。
「そうそう! お姉ちゃんだって、的前に立ったとき、近藤さんとどこか、いったでしょ?」
「あれは……たまたま……」
やはり「前例」を作ってしまっただけに、あまり強いこともいえないのか、舞耶は口の中でもごもごと何かをつぶやいた。
「じゃ、明日舞由ちゃん、借りるね」
琴恵はそういって微笑み、舞由は単純に「ご褒美」がもらえることを喜んでいた。
そして、翌日。
わざわざ家まで迎えに来てくれた琴恵とともに、舞由は隣にある茅野市まで出かけた。電車に乗って、駅に着いたのは昼の少し前だった。
「ちょっと早いけど、お昼にしよっか?」
という琴恵に連れられて、駅の近くにある喫茶店で軽い昼食にする。「おごってやる」という約束の通りに、そこでの代金は琴恵がすべて持ってくれた。
そして、食事を終えた二人は店を出て、
「ね、舞由ちゃん、どこかいきたいところとか、ある?」
「え? あ……そういえば……考えていませんでした」
舞由の素直な言葉に、琴恵はくすりと笑って、「じゃ、さ。ちょっと、つきあってもらえるかな?」
「え? あ、いいですよ」
舞由の言葉にうれしそうに微笑んで、「じゃ、こっち」と、琴恵は、駅裏のほうへと舞由を誘った。
琴恵に案内されて訪れたのは、市立の美術館だった。琴恵が二人分の入場料を払い、二人は、順路に沿って、館内の展示品を見て回った。館内の人はさほど多くはなく、二人はずいぶんとゆっくりとしたペースで歩いてゆく。こういった場所に、あまり縁がなかった舞由は、展示物の一つ一つを、興味深そうに眺めていた。
順路の半ばほどに、休憩用のベンチが備えつけられていた。琴恵の提案で、二人は少し休憩を取ることにして、そこに腰を下ろした。
舞由が先にベンチに腰掛けたのを見てから、琴恵がその横に座る。そして琴恵は、
「退屈だったかな? こんなところ?」
と、少し不安げに問うた。
「あ、ううん。楽しいです」
琴恵の言葉に、舞由はあわてて返す。その言葉は、もちろん本心だった。
「そう。よかった」
うれしそうに琴恵は応え、
「この間知り合った友達にね、絵を描いている人がいるんだ。……その人が、すごく楽しそうに絵を描くから……私もちょっと興味が出てきて。最近、こういうところにも足を運ぶようになったの」
「へえ」
舞由は素直に、感心の声を出した。
「……でも、そうですね。改めてこういうところで『芸術作品』っていうのを見てみると、なんだか、こういうのもいいなあ、って思いますよね」
「そうね」
また、琴恵はうれしそうに微笑み、そして不意に、横に座っている舞由の顔をじっと見つめた。
「……? どうしたんですか?」
その視線が、ひどく真摯なものに感じられ、舞由は思わず居住まいを正していた。そんな舞由に、
「ねえ、舞由ちゃん……今、好きな人、いるでしょ?」
「え?」
思わず出した声は。意識していなかったにせよ、かなり大きかった。
「……どうして……」
「見てればわかるよ、そんなこと」琴恵は優しく微笑む。
「近藤さんのときだけ、あからさまに態度が違うじゃない」
もっともといえばもっともな指摘に、舞由は返す言葉を失っていた。そんな舞由の態度を見ながら、
「夏休みの、ちょっと前かな? 舞耶に、相談されたんだ。舞由ちゃんが、近藤さんのこと、好きなんじゃないか、って」
琴恵が気づいていることだ。琴恵以上に身近な存在である舞耶が、そのことに気づかないはずはなかったのだ。舞由は小さく、顔を伏せた。そんな舞由の頭を、琴恵は優しくぽんぽんと叩いた。
「舞由ちゃんは、いい子だね。お姉さん想いで」
琴恵の言葉に、舞由は顔を伏せたまま「そんなんじゃ、ないです」小さく応えた。
「どんなにがんばったって、私が入る隙間なんてなさそうだったから。だからせめて、近藤さんのそばにいられるときくらいは……って」
つぶやくようにいった舞由の言葉を聞きながら。その頭をやさしく叩いていた琴恵は、今度は「いい子いい子」をするように、舞由の頭をそっと撫でた。
「舞耶もそうだけど……舞由ちゃんも、本当に、強いんだね……。それに、人を思いやる優しさを持ってる……。私も、見習いたいくらい」
そして琴恵は、そっと、舞由の頭から手を離した。
「大丈夫だよ……なんていえるほど、私も人生経験豊富なわけじゃないけどさ」そういって琴恵は一度苦笑して、
「今は、つらいかもしれないけど……舞由ちゃんだって、いつかきっと、近藤さんよりすてきな人を見つけられるんだから、ね? でも……もしもつらくてつらくてどうしようもなくなったら、いつでもいって。……私じゃ、愚痴を聞いてあげるとか、そのくらいしかできないけど。できるだけ、力になってあげるから」
琴恵の言葉に、舞由は顔を伏せたまま、小さくうなずいた。それに安心したかのように、琴恵はまた、優しい微笑みを浮かべる。
「じゃ、いこっか。……舞由ちゃんにね、見てもらいたい絵があるの」
「絵……ですか……?」
「うん。……たぶん舞由ちゃん、気に入ってくれると思うんだけど。……もしそうじゃなかったら、ごめんね」
そう前置きして、琴恵は舞由を立たせると、順路をどんどん進んでいった。そして。そろそろ出口が見えかかってきた一角にある、さして目立つ要素の何もない……といってしまえば、その作品に対して失礼だったろうが……一枚の絵の前で、琴恵は立ち止まった。
それは、「恋人」と題された、一枚の風景画だった。作者は、聞いたことのない名前の日本人。
どこかの高台から、町を写生したのだろう。ごくごくありふれた町が、青空をバックに描かれている。
舞由は少しの間戸惑ったように、その絵と、その絵を楽しそうに見つめる琴恵とを、見比べていた。
「……これが、見せたかった絵、なんですか?」
「うん」
琴恵はまっすぐにうなずいた。
「恋人」というタイトルと、どう考えても不釣り合いな一枚の風景画。
「……この絵が……どうして……?」
知らず知らずのうちに。舞由の口から、思っていた疑問がそのまま飛び出してきていた。
「……舞由ちゃんは、何も、感じない?」
その問いに答えて、だろうか。逆に琴恵が問い返してくる。
「え……?」
戸惑い気味に言葉を返して、舞由はまた、その絵に目を向ける。一枚の、なんの変哲もない風景と、「恋人」というタイトル。こんな風景が、なぜ「恋人」なのだろうと、舞由は首を傾げ、その絵を見続けていた。
「この絵の風景の……」
唐突に、琴恵が口を開いた。
「この絵の風景のどこかに、この絵を描いた人の『恋人』の家があるんじゃないかな?」
その言葉に、はっとして。
舞由はその絵を、じっと見つめた。
なんの変哲もない風景。青い空をバックにした、ただの町並み。それがなぜ、青い空でなければならなかったのか。そしてなぜ、この絵の作者が、この、なんの変哲もない町並みを描かなければならなかったのか。
唐突に、舞由は理解した。
しばらくの間。
舞由は、食い入るように、その絵を眺めていた。
やがて彼女がその絵から目を離すと、琴恵が、微笑みながら彼女を見つめていた。
「いこっか?」
琴恵にいわれ、「はい」うなずきを返す。
「絵って、すごいよね……。風景一つで、それ以外のたくさんのものを、表現することができるの」
「そう……ですね」
「いやなこととか、つらいこととか、あったときにね。大好きな絵を、じっと見ていると、それだけで、ちょっと、元気が出てくるの。……その絵を描いた人が、どんな気持ちでその絵を描いたのか、それから、その絵の外側にある、どんなものを描きたかったのか。そんなことを考えるとね、つまんないことでいじけていた自分が、なんてばかだったんだろう、って思えてきて」
そして琴恵は、照れくさそうに笑った。
「私もいつか、ああいう絵を描いてくれるような、すてきな彼氏がほしいな、なんて思っているんだけどね」
舞由は、くすりと笑った。
「大丈夫ですよ、琴恵さんなら」
けれども。
そのちょうど一年後。琴恵は交通事故によって命を落としてしまうことになる。
それからさらに半年。高校入試を間近に控えた舞由が、「息抜きのために」と訪れた市立美術館で開催されていた、県の絵画コンクールの入選作品展に足を運んだときに見つけた、三枚の絵。
「組曲 屋上の風景」と題された三枚の絵。
その絵につけられていた金賞の印と、その絵の作者の名前は、彼女の脳裏に張り付いたまま、消えることはなかった。
Fin.
姉の舞耶の友達……遠藤琴恵から誘われたのは、中学一年と二年の境目、春休みのことだった。
「弓道?」
姉と一緒に、琴恵の作ってきてくれたアップルパイを食べながら、舞由はきょとんとした表情で、姉と、その話を持ち出してきた琴恵とを見比べた。
「ちょっと、琴恵……」
舞耶はそんな琴恵に向かって、少し非難がましい視線を向けたけれども、琴恵自身は、その視線はまったく無視して、
「一コ上の先輩にね、近藤さん、って人がいるんだけどね。その人が、この近くで仲間と一緒に弓道をやっているんだって」
楽しそうにいいながら、琴恵は意味ありげに舞耶の方を見た。
「んもう……」
ふくれっ面を浮かべる姉の頬が、心なしか赤い。そんな姉の姿に、舞由は、「ふうん」とうなずき、
「お姉ちゃんの彼氏? その、近藤さん、って人?」
問うてから、アップルパイを口に放り込む。
「舞由ちゃん、鋭いじゃない」
うれしそうに、琴恵はいった。
「琴恵っ!」
今度こそ、顔を真っ赤にして、舞耶は琴恵を怒鳴りつけた。けれども、友人のそんな態度などどこ吹く風と、琴恵は平然とした顔で、アップルパイをつつく。そんな姉の態度が、なんだかひどく不思議で、舞由は小さく首を傾げた。
口の中のものを飲み込み、舞由は「ね、お姉ちゃん。聞いていい?」
「なに?」
「弓道って、おもしろいの?」
琴恵の誘いを承諾したのは、その「姉の彼氏」とやらを見てみたい、という好奇心が半分と、そして、どうやらすでに弓道を始めているらしい姉が「おもしろいよ」といったことが半分、だった。
そして、数日後の夜。
近くにある駐車場……この駐車場の管理人が弓道家で、この近辺の弓道連盟の会長をやっているらしかった……に集合して、実際の練習が始まった。
「会場」に集合したのは、舞由と舞耶の青木姉妹、舞由を誘った琴恵、そして噂の姉の「彼氏」である近藤と、その友人数名と、弓道連盟の会長である、この駐車場の管理人だった。
初顔の舞由が自己紹介をすませ、集まったメンバーで準備を始める。駐車場の隅に設置された道具入れの中から、的や防護ネットを取り出し、それらをてきぱきと設置していく。準備運動をして、すでに経験のある者達は自分の弓を準備する。
弓を持った者達が巻藁に向かうのを見ながら、舞由はまず、弓道連盟の会長……山根という、五十歳ほどの男だった……から、弓道の基本動作である「射法八節」についての解説を受けた。
その概略の説明が終わるのと同時に。
「じゃ、お先に」
一人の男がそういって、的の前に立った。その声を聞きつけ、山根が、
「ちょうどいい。近藤くんがやるのを、見ていなさい」と、舞由にそちらを注視するよう、うながした。
そして。
あのときの感動……そう、陳腐ないい方ではあったが、それを「感動」と呼ばずしてなんと呼ぼう……を、舞由は二度と忘れることができなかった。
まっすぐに的を見つめる真剣な眼差し。射法八節に従って弓を引いてゆく、その力強い動き。弓を引ききったとき、そして矢が放たれるまでの緊張感。
放たれた矢が、まっすぐに的に吸い込まれてゆく。
残る三射もすべて的に中て、近藤は場所をはずした。と、周りでそれを見ていた男が一人、ひゅう、と口笛を吹いた。
「いきなり皆中か……。調子がいいじゃないか」
ははは、と、照れたふうに笑って、近藤は「まぐれだよ」と返した。
「じゃあ、矢、取ってくるな」
そういってかけをはずした近藤の姿を見ながら、舞由はたったそれだけのことで、すべてが理解できたような気がした。
――この人、お姉ちゃんが好きになって、当たり前だ……。
近藤は、舞由が予感したとおりの人物だった。
陽気で気さくで。そしてそんな中にも、まっすぐで確固とした「自分」を持っている。
本当に、弓道が好きなのだろう。弓道の話をしているときは目を輝かせ、それがいかにすばらしいものであるかを力説する。
姉の舞耶が……そして舞由自身が、そんな近藤の言葉に引かれるように、弓道の本当の魅力を少しずつ知っていくのも、当然といえば当然のことだった。
そして、また。
やはり、どこか姉と「趣味」が似通っているのだろう。舞由は生まれて初めて、姉の恋人であるはずの近藤を、異性として意識するようになっていた。
……もちろん、年齢差や、その他諸々のことを考えれば、舞由がどんなに背伸びをしたところで姉に勝てるはずもなかった。それに……舞耶がどれほどに近藤のことを好きであるかは、普段の、そして弓道の練習家のときの姉の態度を見ていれば一目瞭然で、そこに舞由が割ってはいるような余地は、なかったのである。
もちろん舞由自身も、そのことは重々承知していた。だからこそ、彼女は、「二人にとって、よき『妹』でいよう」という、いってみればそれなりに悲痛な選択をしたのだった。
そんな中で、時間だけは過ぎてゆき。
夏休みの始まった、七月の終わり。舞由は初めて、的前に立った。
的の近くから矢を射ることを始め、矢が安定して的の付近に中るようになったら、徐々に距離を伸ばしていく。それを続けながら、ようやく舞由も、正規の距離である、二十八メートルの位置から、矢を射れるようになったのである。
初めての射は、いうまでもなく全射はずれであったが。
「おめでとう、舞由ちゃん」
皆が口々に、舞由が的前からの射ができるようになったことを祝福してくれた。
「ありがとうございます」
舞由はえへへ、とはにかんで、「じゃあ、矢、取ってきますね」と矢を取りに向かった。
そして、矢を取ってきた舞由に、
「ね、舞由ちゃん」
声をかけてきたのは、琴恵だった。
「はい」
返事を返して琴恵の方を見る。琴恵は、にこにこと笑いながら、舞由の顔を見ていた。
「的前に立てたお祝いに、何か、おごってあげようか?」
「え? ほんとですか?」
その言葉に、舞由は単純に喜んだ。けれども、「琴恵……」驚きの表情で、舞耶もまた琴恵の方を見る。
「いいじゃない? せっかく的前に立てるようになったんだし。舞由ちゃん、いつもがんばっているし。ちょっとはご褒美があったって」
琴恵は楽しそうに笑った。
「そうそう! お姉ちゃんだって、的前に立ったとき、近藤さんとどこか、いったでしょ?」
「あれは……たまたま……」
やはり「前例」を作ってしまっただけに、あまり強いこともいえないのか、舞耶は口の中でもごもごと何かをつぶやいた。
「じゃ、明日舞由ちゃん、借りるね」
琴恵はそういって微笑み、舞由は単純に「ご褒美」がもらえることを喜んでいた。
そして、翌日。
わざわざ家まで迎えに来てくれた琴恵とともに、舞由は隣にある茅野市まで出かけた。電車に乗って、駅に着いたのは昼の少し前だった。
「ちょっと早いけど、お昼にしよっか?」
という琴恵に連れられて、駅の近くにある喫茶店で軽い昼食にする。「おごってやる」という約束の通りに、そこでの代金は琴恵がすべて持ってくれた。
そして、食事を終えた二人は店を出て、
「ね、舞由ちゃん、どこかいきたいところとか、ある?」
「え? あ……そういえば……考えていませんでした」
舞由の素直な言葉に、琴恵はくすりと笑って、「じゃ、さ。ちょっと、つきあってもらえるかな?」
「え? あ、いいですよ」
舞由の言葉にうれしそうに微笑んで、「じゃ、こっち」と、琴恵は、駅裏のほうへと舞由を誘った。
琴恵に案内されて訪れたのは、市立の美術館だった。琴恵が二人分の入場料を払い、二人は、順路に沿って、館内の展示品を見て回った。館内の人はさほど多くはなく、二人はずいぶんとゆっくりとしたペースで歩いてゆく。こういった場所に、あまり縁がなかった舞由は、展示物の一つ一つを、興味深そうに眺めていた。
順路の半ばほどに、休憩用のベンチが備えつけられていた。琴恵の提案で、二人は少し休憩を取ることにして、そこに腰を下ろした。
舞由が先にベンチに腰掛けたのを見てから、琴恵がその横に座る。そして琴恵は、
「退屈だったかな? こんなところ?」
と、少し不安げに問うた。
「あ、ううん。楽しいです」
琴恵の言葉に、舞由はあわてて返す。その言葉は、もちろん本心だった。
「そう。よかった」
うれしそうに琴恵は応え、
「この間知り合った友達にね、絵を描いている人がいるんだ。……その人が、すごく楽しそうに絵を描くから……私もちょっと興味が出てきて。最近、こういうところにも足を運ぶようになったの」
「へえ」
舞由は素直に、感心の声を出した。
「……でも、そうですね。改めてこういうところで『芸術作品』っていうのを見てみると、なんだか、こういうのもいいなあ、って思いますよね」
「そうね」
また、琴恵はうれしそうに微笑み、そして不意に、横に座っている舞由の顔をじっと見つめた。
「……? どうしたんですか?」
その視線が、ひどく真摯なものに感じられ、舞由は思わず居住まいを正していた。そんな舞由に、
「ねえ、舞由ちゃん……今、好きな人、いるでしょ?」
「え?」
思わず出した声は。意識していなかったにせよ、かなり大きかった。
「……どうして……」
「見てればわかるよ、そんなこと」琴恵は優しく微笑む。
「近藤さんのときだけ、あからさまに態度が違うじゃない」
もっともといえばもっともな指摘に、舞由は返す言葉を失っていた。そんな舞由の態度を見ながら、
「夏休みの、ちょっと前かな? 舞耶に、相談されたんだ。舞由ちゃんが、近藤さんのこと、好きなんじゃないか、って」
琴恵が気づいていることだ。琴恵以上に身近な存在である舞耶が、そのことに気づかないはずはなかったのだ。舞由は小さく、顔を伏せた。そんな舞由の頭を、琴恵は優しくぽんぽんと叩いた。
「舞由ちゃんは、いい子だね。お姉さん想いで」
琴恵の言葉に、舞由は顔を伏せたまま「そんなんじゃ、ないです」小さく応えた。
「どんなにがんばったって、私が入る隙間なんてなさそうだったから。だからせめて、近藤さんのそばにいられるときくらいは……って」
つぶやくようにいった舞由の言葉を聞きながら。その頭をやさしく叩いていた琴恵は、今度は「いい子いい子」をするように、舞由の頭をそっと撫でた。
「舞耶もそうだけど……舞由ちゃんも、本当に、強いんだね……。それに、人を思いやる優しさを持ってる……。私も、見習いたいくらい」
そして琴恵は、そっと、舞由の頭から手を離した。
「大丈夫だよ……なんていえるほど、私も人生経験豊富なわけじゃないけどさ」そういって琴恵は一度苦笑して、
「今は、つらいかもしれないけど……舞由ちゃんだって、いつかきっと、近藤さんよりすてきな人を見つけられるんだから、ね? でも……もしもつらくてつらくてどうしようもなくなったら、いつでもいって。……私じゃ、愚痴を聞いてあげるとか、そのくらいしかできないけど。できるだけ、力になってあげるから」
琴恵の言葉に、舞由は顔を伏せたまま、小さくうなずいた。それに安心したかのように、琴恵はまた、優しい微笑みを浮かべる。
「じゃ、いこっか。……舞由ちゃんにね、見てもらいたい絵があるの」
「絵……ですか……?」
「うん。……たぶん舞由ちゃん、気に入ってくれると思うんだけど。……もしそうじゃなかったら、ごめんね」
そう前置きして、琴恵は舞由を立たせると、順路をどんどん進んでいった。そして。そろそろ出口が見えかかってきた一角にある、さして目立つ要素の何もない……といってしまえば、その作品に対して失礼だったろうが……一枚の絵の前で、琴恵は立ち止まった。
それは、「恋人」と題された、一枚の風景画だった。作者は、聞いたことのない名前の日本人。
どこかの高台から、町を写生したのだろう。ごくごくありふれた町が、青空をバックに描かれている。
舞由は少しの間戸惑ったように、その絵と、その絵を楽しそうに見つめる琴恵とを、見比べていた。
「……これが、見せたかった絵、なんですか?」
「うん」
琴恵はまっすぐにうなずいた。
「恋人」というタイトルと、どう考えても不釣り合いな一枚の風景画。
「……この絵が……どうして……?」
知らず知らずのうちに。舞由の口から、思っていた疑問がそのまま飛び出してきていた。
「……舞由ちゃんは、何も、感じない?」
その問いに答えて、だろうか。逆に琴恵が問い返してくる。
「え……?」
戸惑い気味に言葉を返して、舞由はまた、その絵に目を向ける。一枚の、なんの変哲もない風景と、「恋人」というタイトル。こんな風景が、なぜ「恋人」なのだろうと、舞由は首を傾げ、その絵を見続けていた。
「この絵の風景の……」
唐突に、琴恵が口を開いた。
「この絵の風景のどこかに、この絵を描いた人の『恋人』の家があるんじゃないかな?」
その言葉に、はっとして。
舞由はその絵を、じっと見つめた。
なんの変哲もない風景。青い空をバックにした、ただの町並み。それがなぜ、青い空でなければならなかったのか。そしてなぜ、この絵の作者が、この、なんの変哲もない町並みを描かなければならなかったのか。
唐突に、舞由は理解した。
しばらくの間。
舞由は、食い入るように、その絵を眺めていた。
やがて彼女がその絵から目を離すと、琴恵が、微笑みながら彼女を見つめていた。
「いこっか?」
琴恵にいわれ、「はい」うなずきを返す。
「絵って、すごいよね……。風景一つで、それ以外のたくさんのものを、表現することができるの」
「そう……ですね」
「いやなこととか、つらいこととか、あったときにね。大好きな絵を、じっと見ていると、それだけで、ちょっと、元気が出てくるの。……その絵を描いた人が、どんな気持ちでその絵を描いたのか、それから、その絵の外側にある、どんなものを描きたかったのか。そんなことを考えるとね、つまんないことでいじけていた自分が、なんてばかだったんだろう、って思えてきて」
そして琴恵は、照れくさそうに笑った。
「私もいつか、ああいう絵を描いてくれるような、すてきな彼氏がほしいな、なんて思っているんだけどね」
舞由は、くすりと笑った。
「大丈夫ですよ、琴恵さんなら」
けれども。
そのちょうど一年後。琴恵は交通事故によって命を落としてしまうことになる。
それからさらに半年。高校入試を間近に控えた舞由が、「息抜きのために」と訪れた市立美術館で開催されていた、県の絵画コンクールの入選作品展に足を運んだときに見つけた、三枚の絵。
「組曲 屋上の風景」と題された三枚の絵。
その絵につけられていた金賞の印と、その絵の作者の名前は、彼女の脳裏に張り付いたまま、消えることはなかった。
Fin.
0
お気に入りに追加
5
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
早春の向日葵
千年砂漠
青春
中学三年生の高野美咲は父の不倫とそれを苦に自殺を計った母に悩み精神的に荒れて、通っていた中学校で友人との喧嘩による騒ぎを起こし、受験まで後三カ月に迫った一月に隣町に住む伯母の家に引き取られ転校した。
その中学で美咲は篠原太陽という、同じクラスの少し不思議な男子と出会う。彼は誰かがいる所では美咲に話しかけて来なかったが何かと助けてくれ、美咲は好意以上の思いを抱いた。が、彼には好きな子がいると彼自身の口から聞き、思いを告げられないでいた。
自分ではどうしようもない家庭の不和に傷ついた多感な少女に起こるファンタジー。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる