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第十章 仮面のキス

第十七話 女装男子と百合乙女の夢

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等間隔に街灯の竝ぶ坂を一冴は下る。

下り切り、ちょうど到着した路面電車に乗った。

重々しい機械音を立て、バスのような電車は走り出す。流星のようにネオンが残像を曳いた。周囲の視線が少しだけ刺さる。だが――もはや人目など気にしていられない。たとえ偽物であったとしても、今は行くしかないのだ。

     *

真っ暗な空をヘリは進んだ。

東京を飛び立って数十分――鈴宮市へと差しかかる。
 自分が生まれ育った街を、空から初めて蘭は見た。湾岸に沿って拡がる七色の光――無数の輝きは街の中枢に密集し、山際まで迫っている。

この街に、菊花はいるのだ。

光の集まる県庁付近へとヘリは近寄る。しかし、山際の暗い広場に沈んでいった。

――ここは。

鈴宮城の三の丸跡地だ。

鈴宮城は山城である。山頂に本丸が、ふもとに造られた石垣の上に二の丸が、堀に囲われた平地に三の丸がある。石垣と堀を除けば何もない。――廃墟の城だ。

窓の暗さを変えないまま、ヘリは着地した。

羽の回転がゆるやかとなり、停止する。

こんな処になぜ来たのか不思議に思った。

スマートフォンを山吹は取り出し、画面を見る。

「菊花お嬢様から伝言です――芍薬丸へ来るようにと。」

「芍薬丸へですか?」

「そうです。――参りましょう。」

ヘリから山吹は降りる。

助手席へ回り、ドアを開け、手を差し伸べた。

少し不審に感じたものの、信じることとする。菊花の命令で山吹は来た。ここにいるのだという希望にすがりたい。だからこそ、差し伸べられた手を取った。

ヘリから降り、荒れ果てた城跡を進む。

草と土のかすかな匂いがした。

城跡にあるのは、複雑に重なった石垣と、僅かな樹々、街灯のみだ。石垣の上に、往時の建築物は何もない。

涙は既に乾いていた。ほほがひりひりする。

石段を昇り、雛壇状の石垣を進む。

鈴宮城は、蘭の祖先が建てた。それどころか、鈴宮市の全てが鈴宮家の領地だった。

もちろん今の蘭には何もない。この城に何もないように。葉月王との関係は失敗し、父との関係も破綻した。あるのは一つの希望のみだ。

やがて二の丸の頂点――芍薬丸に辿り着く。

石段を昇り終えたとき、それまで隠れていた景色――宝石箱を広げたような夜景が拡がった。その前には、逆光となった小柄な後ろ姿がある。

羽のように両肩に拡がるフリルと、ひなげしを逆さにしたような濃紺のスカート――。菊花に贈るつもりだったメイド服だ。

蘭の手を山吹は離した。

戸惑いつつも蘭は近づく――日本人形のように切り揃えられた髪へと、フリルつきカチューシャや、側頭部に流れる白いリボンへと。

「菊花ちゃん――?」


そして一冴は振り返った。


目元には、切れ長の目に見えるようなメイクが施されている。菊花に似た、しかも蘭の小説に登場する侍女によく似たメイドがいた。

「あなた――」

一冴は目を伏せる。居た堪れない気持ちでいっぱいだった。

「ごめんなさい――。菊花ちゃんに、ここに来るように言われました。」

「菊花ちゃんに?」

「はい。――代わりに行ってほしいと言われました。そして――蘭先輩に会って、仲直りしてほしいと。」

蘭は振り返り、山吹に目をやる。

男装の彼女は動じない――ただ、静かな眼差しを蘭に注いでいる。

やがて、眼差しの意味を蘭は察した。自分の思い違いを悟って山吹から顔を逸らす。戸惑いと悲しみの織り混ざった感情が湧き上がってきた。

「あの――わたくしは――」

失望が言葉となって出る。

「菊花ちゃんがゐると聞いたから――」

しかし、その声は次第にしぼんでいった。

ここに菊花がいないと知って、代わりに一冴がいると知って、山吹は蘭を連れてきた。それが、菊花の命令であることは明らかだった。

強い罪悪感を一冴は覚え、深々と頭を下げる。

「ごめんなさい――本当に。菊花ちゃんの代わりに、決して私がなれないことは分かっています。」

蘭は顔を戻した。

頭を上げた一冴と目が合う。切り揃えられた前髪の下、黒い瞳が悲しげに輝いた。しかし、痛い物にでも触れたかのように一冴は目を伏せる。

「けれど――仕方なかったんです。蘭先輩と私が仲直りしないと、菊花ちゃんは蘭先輩と仲直りしたくないと言っています。だから――この姿で行ってほしいと言われました。」

菊花が送ったメッセージを蘭は思い出した。

――仲直りしたいです。

――けど、一冴とも仲直りしてください。

蘭は、少しずつ冷静になってゆく。

菊花は蘭を愛せない――蘭が一冴を愛せないように。菊花の好意は一冴に向いている。きっと、菊花の好意を一冴は知らないに違いない。その上で、菊花は一冴をここに向かわせた。

「さう――ですか。」

一冴を見据える。女装した彼の背後には夜景が輝いていた。少年だと判る前のように、目の前の少年は少女にしか見えない。

手元のエプロンを一冴は握りしめた。

「どうか――私のことを許してください。」

再び、深々と頭を下げる。

「たとえ難しいのだとしても――許してほしいです。仮に転校されるのだとしても、蘭先輩から嫌われたまま別れるのは――厭です。」

一冴は頭を上げない。ただ、手元へと目を落とし続ける。

「今まで――本当に申し訳ありませんでした。」

エプロンを握る手が小刻みに震えた。同時に声も震えだす。

「女子寮や女子校に男性がいることが、どれだけ気持ち悪いか――どれだけ恐ろしいか――私は分かっているつもりでした。蘭先輩が男性を愛せないことも――。それなのに、性別を隠して告白してしまいました。蘭先輩が怒るのも当然です――白山から出て行こうとするのも。だから――」

一冴はつかえる。言い辛いことと――言いたくないことばかりだ。

それでも、言わなければならない。白山に一冴がいる権利はない。蘭を好きになる権利「さえ」ないのかもしれない。一冴が手に入れたかったものは、手に入れた時点で罪だ。

「仮に転校されないとしても――部を辞めてほしいのならば辞めます。近寄らないでほしいなら――」

一瞬、言葉が途切れた。

「近寄らないです。」

次第に目頭が熱くなる。

「けれども、学校を辞めることだけはできないんです――寮から出ることも。近寄らないでほしいのならば近寄りません。だから――」

少しのあいだ、言葉が再び途切れた。それでも、震えながら言う。

「どうか、学校にいることだけは許して下さい。」

二人の間に少しだけ時間が流れる。

潮騒に似た音が夜景から聞こえた。

蘭は、呆然としつつ一冴の姿を眺める。

菊花に着てほしくて買ったメイド服。小説に登場する侍女のイメージに近い姿。蘭が欲しかったものが目の前にある――男という点を除いて。

――仲直りしてほしいです。

菊花の言葉が蘇った。そして、かつて自分が一冴にかけた言葉を思い出す。

部を辞めろ、近寄るな、気持ち悪い――。一冴に動揺を与えるために菊花の名前も使った――蘭が好きな人の名前を。その結果、ほほを叩かれてしまう。死んじゃえ、とまで言われた。

「――さうですか。」

一冴を蘭は好きではない。だが、一冴を菊花は好きだ。

そして、そんな人を確かに自分は傷つけた。

ゆえに、ここへ来るまでに決めていた意思を口にする。

「転校は致しません。わたくしが男性を好きになることはないのですから――たとへ葉月王殿下でも。」

その言葉は、一冴を再び突き放していた。

「それに、理事長先生から無理やり入学させられたことは、菊花ちゃんから聞いてゐます。学校にゐることは構ひません。寮から出て行けとか、部活を辞めろとかと言ったのも言ひすぎでした。」

許しを得たように一冴は顔を上げる。

視線をそらしたのは蘭のほうだ。

「ですが――あなたの好意には――」

そのとき、堰を切ったように一冴の目から涙がこぼれた。

「分かってます――好きになれないのは。」

溢れた涙が、ほほを伝って次々と落ちる。

「嫌わないだけでもうれしいです。」

涙は止まらない。一冴は涙を拭わなかった。

「けれど、私は――蘭先輩が好きで、蘭先輩に憧れ続けてきました。中学一年生のときの六月、図書室で初めて姿を見かけ、その声を聞いたときから――」

透き通るような声を聞いた時から、見知らぬ女子とのキスをこっそりと木陰から見た時から。

「ずっと――ずっと想い続けてきました。三年間も胸に秘め続けてきて、ようやく言うことができたんです。この気持ちだけは――本当ですから。」

ついに一冴は目を拭いだした。

細い指がいくら掬っても涙は止まらない。透明な雫は流れ落ちる。

しばらくは、かすれたような声だけが響いた。

そんな一冴の姿を蘭は眺め続ける。

胸が痛んだ。一冴の恋は永久に叶わない。そうであっても――そうであるからこそ眺める他にない。一冴と蘭では愛する性別が違う。愛する人も違っている。

菊花が泣いたところを蘭は見たことがない。だが、蘭が好きな人にこの人は似ている。

――ならば。

ふっと、寂さを感じた。その理由は明らかだ。

永久に叶わないという点では蘭の恋も同じだ。

だからこそ、この舞台を菊花は用意した――蘭のために、そして一冴のために。

王子との恋愛を強いられた蘭を、男装の麗人が救った。そうして、星空の中を駆けて廃墟の城まで来た。目の前にいるのは、イメージ通りの侍女だ。

小説の結末は――。

一冴へと、静かに蘭は近づいた。

「泣かないで――あなたの気持ちは分かったから。」

そして、フリルの拡がる両肩に手を置く。

その感触に少し驚き、一冴は顔を上げた。

涙でかすんだ視界。そんな中、レンズのピントが合うように蘭の顔が明瞭となる。悲しげでいて――寂しげな表情だった。しかし、今までないほど近くに初恋の人の顔は近づいている。

硝子細工の鳴るような声が赦しを告げた。

「だから――もう泣かないで。今まで通りのまゝで行きませう。あなたは、今まで通りいちごちゃんでいゝから。」

その言葉に一冴は怯える。優しくされたことが逆に怖い。それに、あの日常が元に戻るなど信じられなかった。見開いた目から、大粒の涙が再び零れる。

「本当に――こんな私が隣にいていいんですか?」

刹那、細漣さざなみが立つように蘭はまばたいた。

やがて、その表情が柔らかくなる。

「自分を『こんな』なんて言はないで。」

一冴の顔へと蘭は顔を近づけた。

唇と唇が重なる。

相手が少女ではないことを知った上での――仮面のキス。叶わない恋であるとお互いに知った上で、少女と、偽りの少女は唇を重ねる。

しかし、軽く触れただけでも融ける雪のように唇は柔らかかった。
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