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第十章 仮面のキス

第二話 菊と月見

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ドアが開いた瞬間、一冴は心臓が止まりかけた。

現れたのは紅子だ。不安そうな眼差しを送っている。

「蘭先輩が――いなくなる?」

一冴は固まっていた。今の今まで、男の声を自分は出していたのだ。視線だけ動かすと、菊花と梨恵も同じ顔をしている。部屋の中の三人は何も答えられない。

やがて菊花が口を開く。

「紅子――今の話、聴いてたの?」

「うん――。」申し訳なさそうに紅子は目を伏せる。「だって――みんな――私に何も話してくれないじゃないか。それで、菊花がこの部屋に這入ってくのを見たから――いや、申し訳ないとは思ったんだが。」

「――どこまで聞いたの?」

「とりあえず、蘭先輩がいなくなるってとこだけ。それ以外は、よく聞こえなかった。」

ひそかに一冴は胸をなでおろした。

菊花や梨恵も安堵したような顔をしている。

男の声は聞かれなかったようだ。

「それで――蘭先輩がいなくなるって、どういうことだ? よかったら、私にも聴かせてもらえないか?」

「うん――いいけど。」

ちらりと菊花は目を向ける。ここは一冴と梨恵の部屋だ。

梨恵が口を開く。

「ええよ、這入って来なぃ。」

うん――と言い、紅子は部屋に這入った。ドアを閉め、テーブルの前のクッションに坐る。

菊花は一冴へ視線を向けた。

「いちごちゃん――お願いだから話だけでも聴いてほしいの。私を疑うのも仕方ない。けど、そのことについては今ここでは話せない。それでも――お話ししなきゃいけないことがあるの。」

何と答えるべきか一冴は迷った。

同時に、こいねがうような梨恵の視線に気づく。

紅子がいる以上、自分の秘密に触れる話は確かにできない。それに、蘭がいなくなるという言葉も気になる。あまり意固地になる時ではないのかもしれない。

女子の声へと切り替える。

「分かった。――話は聴く。」

「ありがとう。」

紅子の対面に一冴と梨恵は坐る。

いつもの席順で菊花も坐った。盆を置き、紅茶を淹れ始める。カップは三つしかない。紅朽葉あかくちばに充たされたカップを友人たちにさしだす。

菊花の前だけ唯一カップはない。

白磁のカップには真鍮のさじが添えられていた。砂糖壷を一瞥したものの一冴は動かない。何となく飲みづらかった。

「どこから話したらいいか分からないんだけど――」

迷いながら菊花は語り始める。

「みんな、山吹って知ってる? あの、お祖父さまの秘書の人。」

梨恵はうなづく。

「うん、あのサングラスの。」

「あの人なのよ――いちごちゃんや梨恵の前に現れた女の先生は。」

一冴はまぶしそうな顔となる。言葉の意味がよく分からない。

「どういう――こと?」

「あれ女装なの。」

刹那、世界が少しずれたような感覚がした。菊花を眺めつつ何度か目をまたたかせる。そして、あの紅い口紅の教師の姿を想い起そうとした。

驚いたのは梨恵も同じだ。

「ほんにぇ?」

「そうだよ。」

一冴は眉間に手を当てる。

――やっぱり、からかわれてるのか?

あの女教師と山吹の顔が重ならない。いや、そもそも山吹の顔はサングラスで隠れている。しかし、背丈は同じ程度だった。加えて、山吹ならば監視カメラの場所も確かに知られたはずだ。

――女装してたのは俺だけじゃなかったのか。

菊花は静かに続ける。

「お祖父さま――理事長の権限を利用して生徒に悪戯いたずらばかりしてるでしょ。それが酷いものだから、山吹、女装して、生徒たちに接近して、あまり酷い目に遭わないようこっそり手助けしてたんだって。」

事態を上手く呑み込めていないのは紅子だ。

「えっと、つまり、あの黒づくめの人が、女装して、いちごちゃんや梨恵ちゃんの前に現れてたってことか?」

「そう。ただ、私も知らなかったんだけどね――まさか山吹が女装してるだなんて。」

不信感を覚え、一冴は再び尋ねる。

「今の話が本当だって――証明できる?」

それなら――と言い、スマートフォンを菊花は取り出す。

「山吹とはLIИEで繋がってるし、何なら通話して確認してもらってもいいよ。今――通話で出られるか分からないけど、試してみようか?」

それでもう充分だった。一冴は軽く首を横に振る。

「いや、いいよ。」

菊花は一息つき、スマートフォンをしまった。

「それでね――昨日、女装した山吹が私の前に現れて告白カミングアウトしたの。そして、蘭先輩のことについて教えてくれたのね。」

梨恵が身を乗り出す。

「――鈴宮先輩の?」

「うん。蘭先輩の家って、元・伯爵家でしょ? しかも、宮家とも遠縁に当たる名家で、お父さんは保守党の偉い人。それで蘭先輩のお父さんは、蘭先輩が葉月はづきさまとおつきあいされることを望んでるんだって。」

一瞬、その場の空気が静まり返った。唐突に、予想外の名前が出てきたからだ。しかし、聞き間違いではなく、その名前を確かに菊花は口にした。

恐る恐る紅子が尋ねる。

「葉月さまって――あの葉月さま?」

「うん、あの葉月さま。」

梨恵は首をかしげた。

「はづきさまって――誰?」

少しためらってから、菊花は口を開く。

月見宮つきみのみや草月かやつき王殿下の第二王子・葉月王殿下だよ。」

その場が再び静まり返る。

カップの紅い水面みなもを一冴は見た。どう反応したらいいか分からない。菊花を半ば信じ始めつつも、やはり疑念を拭えない自分がいた。

王――ということは、どれだけ離れているのだろう。だが、竹の園には変わりない。そんな人物と――蘭はつきあうと菊花は言ったのだ。

紅子は難しそうな顔をする。

「確か――今は十六歳だったんじゃないかな。このあいだ、葉月さまとつきあってた人の話がネットに流れてたけど。折り合いが悪くて関係が破綻したとか何とか。」

「うん。尾田さんね――尾田コーポレーションの令嬢の。」

「――まあ、あの性格じゃね。」

「知ってるの?」

「親の会社のパーティーで会ったことある。白山に落ちて東京の学校に行ったんだけど、糞田舎の学校に行かなくてよかったって言ってた。」

梨恵は首をかしげる。

「けれど、そがな人と鈴宮先輩が何でおつきあいせんといけんの? 男の人だでな? けれど、その、鈴宮先輩って、女の人が好きなんじゃ――」

「月見宮家と鈴宮家は親戚同士なの。蘭先輩も、月見宮家の方々と昔から顔を合わせてたんだって。それで、葉月さまは蘭先輩を気に入られてるわけ――誕生日も三か月しか違わないし。加えて、娘が王妃ともなれば、鈴宮議員も保守党の中で一目置かれるだろうし。」

一冴は黙り込む。

転校するかもしれない――、父から転校を勧められている――という蘭の言葉を思い出す。菊花の話はそれと付合する気がした。

紅子が尋ねる。

「王妃に――なるのか? 蘭先輩が?」

「まだ決まったわけじゃない。けど、おつきあいは望んでおられるって。それで、どうせおつきあいするのならば、同じ学校に入ったほうがいいんじゃないかってことで、蘭先輩のお父さんは転校を勧めてるの。」

視界の端で、真鍮の匙が小さく輝いている。

一冴は、静かに動揺していた。修復しようのない傷を残して蘭は転校する。菊花の話を信じるならば、そこで始まるのは蘭でさえ望まない恋だ。

「それでね――葉月さまには、四つ年上の兄君がいらっしゃるの。皆月みなづき王殿下という方だけれど。その方の誕生日が明日なの。明日、皆月さまは二十歳になられて、陛下から桐花とうか大綬章を授けられる。近々海外へご留学あらせられるという話だし、月見宮家の跡取りだし、御用邸に賓客を招いて祝賀会が開かれるの。――当然、蘭先輩も出席する。」

一冴は顔を上げた。

「――蘭先輩も?」

「うん。葉月さまが好意を寄せておられることは、蘭先輩の耳にもう入ってる。蘭先輩のお父さんも、葉月さまの好意に応える気が蘭先輩にあるって、職員を通じて既に伝えたみたい。あとは、顔を合わせた二人がお互いに言葉を交わすだけね。」
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