108 / 133
第九章 恋に先立つ失恋
第十話 鈴宮邸
しおりを挟む
鈴宮邸までタクシーで蘭は帰って来た。
日は落ちかかっている。広い庭と池。水面に写るのは薄暗い空だ。白ぬりの小さな洋館に灯るのは、だいだい色の暖かな明かりである。
玄関には母――鈴宮知由が待っていた。
知由と少し言葉を交わし、自分の部屋へ帰る。
自分の部屋であるにも拘わらず、ここへ来るのはゴールデンウィーク以来だ。ベッドも、学習机も、ぬいぐるみも、ピアノも――高校に入るまで蘭を見守ってきた物は、みんなここに置きっぱなしにしてきた。
ここへ帰ってくるのは――長期休暇のときだけだ。
自分の帰るべき場所はどこにあるのだろう。
菊花の姿が頭に浮かんだ。利発そうな表情や、黒い髮に流れた白いリボン、そして菊花と交わした言葉の数々――。その最後にやってくるのは、死んじゃえ、という言葉だった。
死のうか――とも少しだけ思った。
自分の行為は菊花との関係を無残に傷つけた。自分を育ててきたこの部屋はそのことを知らない。ここは、中学を卒業するまでの子供時代の抜けがらという感じがする。しかも、もうしばらくしたら別の場所へ行かなければならないかもしれないのだ。
七時ごろ、夕食時間となったことを召使いが知らせに来た。
廊下を進み、食堂へ這入る。
父と顔を合わせたのはこのときだ。
参議院議員――鈴宮祐介。
黒々した髪を持った神経質な顔立ち――男らしい、それでいて温かみのないこの顔が蘭は苦手だった。性格も顔立ちどおりである。
「お帰りなさいませ、お父様。」
蘭のその言葉に、祐介はうなづく。
「まあ、席に着け。」
言われるがまま、いつも自分が坐っていた席へ着く。
召使が食事を運んできた。
チキンステーキにパンにサラダにスープ。
純銀のナイフとフォークを手に取り、食事を始める。
しばらくは、無言のまま食事が続いた。
「蘭――転校のことについては決心がついたか?」
チキンステーキを切る蘭の手が止まる。
「いえ――まだ。」
知由が口を開く。
「簡単に決められる話ではありませんよ。お友達とも離れ離れにならなければならないのに。」
チキンステーキを見つめながら蘭は応える。
「それに――殿下ともまだお付き合ひするとは決まったわけでは――」
「不満なのか、殿下では?」
いえ――と蘭は言う。
「殿下は魅力的なお方です。けれども、殿下の御内意にしろ、はっきりとはまだ承ってをりません。真希さんとの関係も、まだ完全には終はってをられないのではないのですか?」
祐介は不愉快そうな顔となる。
「尾田の小娘となら別れたことくらゐ知っておらう。」
「えゝ、ですが――」
そこまで言い、何を言うべきか蘭は詰まった。
とりあえず、当たり障りのない言葉を述べる。
「――わたしくも、まだ心の準備が整ってをりませんの。」
「なに、問題はない。お前のことを殿下もお気に召されてをられる。そんなことくらゐ、何度も御目文字かのふてをるお前ならば分かるだらう。」
「――えゝ。」
祐介の顔に、やや陰りが見えた。
「それとも何だ――お前はまだ女にばかり興味を持ってをるのか?」
蘭は首を横に振る。
「いえ――そのやうなものはもう卒業いたしました。」
「さうだらう? それならば――女学院にゐる必要ももうないな。」
蘭は肩を落とす。
「――えゝ。」
「ともかくも――女ばかりの空間にゐてばかりではいかん。お前の年頃ともなれば、普通は男の一人や二人とも付き合ふものだ。それとも――何だ? 好きな男でもをるのか?」
「いゝえ。」
言ったあと、少し不味かったかとも思った。
いっそ、好きな男がいるとでも言ってしまえばよかっただろうか。そうなれば、「彼」とつきあう気がないとも言えたはずだ。
「ともかくも――誕生会は土曜日だ。それまでに決心しておけ。」
「はい。」
「理由がないのであれば――転校すべきだな。」
蘭はついに黙り込んだ。
日は落ちかかっている。広い庭と池。水面に写るのは薄暗い空だ。白ぬりの小さな洋館に灯るのは、だいだい色の暖かな明かりである。
玄関には母――鈴宮知由が待っていた。
知由と少し言葉を交わし、自分の部屋へ帰る。
自分の部屋であるにも拘わらず、ここへ来るのはゴールデンウィーク以来だ。ベッドも、学習机も、ぬいぐるみも、ピアノも――高校に入るまで蘭を見守ってきた物は、みんなここに置きっぱなしにしてきた。
ここへ帰ってくるのは――長期休暇のときだけだ。
自分の帰るべき場所はどこにあるのだろう。
菊花の姿が頭に浮かんだ。利発そうな表情や、黒い髮に流れた白いリボン、そして菊花と交わした言葉の数々――。その最後にやってくるのは、死んじゃえ、という言葉だった。
死のうか――とも少しだけ思った。
自分の行為は菊花との関係を無残に傷つけた。自分を育ててきたこの部屋はそのことを知らない。ここは、中学を卒業するまでの子供時代の抜けがらという感じがする。しかも、もうしばらくしたら別の場所へ行かなければならないかもしれないのだ。
七時ごろ、夕食時間となったことを召使いが知らせに来た。
廊下を進み、食堂へ這入る。
父と顔を合わせたのはこのときだ。
参議院議員――鈴宮祐介。
黒々した髪を持った神経質な顔立ち――男らしい、それでいて温かみのないこの顔が蘭は苦手だった。性格も顔立ちどおりである。
「お帰りなさいませ、お父様。」
蘭のその言葉に、祐介はうなづく。
「まあ、席に着け。」
言われるがまま、いつも自分が坐っていた席へ着く。
召使が食事を運んできた。
チキンステーキにパンにサラダにスープ。
純銀のナイフとフォークを手に取り、食事を始める。
しばらくは、無言のまま食事が続いた。
「蘭――転校のことについては決心がついたか?」
チキンステーキを切る蘭の手が止まる。
「いえ――まだ。」
知由が口を開く。
「簡単に決められる話ではありませんよ。お友達とも離れ離れにならなければならないのに。」
チキンステーキを見つめながら蘭は応える。
「それに――殿下ともまだお付き合ひするとは決まったわけでは――」
「不満なのか、殿下では?」
いえ――と蘭は言う。
「殿下は魅力的なお方です。けれども、殿下の御内意にしろ、はっきりとはまだ承ってをりません。真希さんとの関係も、まだ完全には終はってをられないのではないのですか?」
祐介は不愉快そうな顔となる。
「尾田の小娘となら別れたことくらゐ知っておらう。」
「えゝ、ですが――」
そこまで言い、何を言うべきか蘭は詰まった。
とりあえず、当たり障りのない言葉を述べる。
「――わたしくも、まだ心の準備が整ってをりませんの。」
「なに、問題はない。お前のことを殿下もお気に召されてをられる。そんなことくらゐ、何度も御目文字かのふてをるお前ならば分かるだらう。」
「――えゝ。」
祐介の顔に、やや陰りが見えた。
「それとも何だ――お前はまだ女にばかり興味を持ってをるのか?」
蘭は首を横に振る。
「いえ――そのやうなものはもう卒業いたしました。」
「さうだらう? それならば――女学院にゐる必要ももうないな。」
蘭は肩を落とす。
「――えゝ。」
「ともかくも――女ばかりの空間にゐてばかりではいかん。お前の年頃ともなれば、普通は男の一人や二人とも付き合ふものだ。それとも――何だ? 好きな男でもをるのか?」
「いゝえ。」
言ったあと、少し不味かったかとも思った。
いっそ、好きな男がいるとでも言ってしまえばよかっただろうか。そうなれば、「彼」とつきあう気がないとも言えたはずだ。
「ともかくも――誕生会は土曜日だ。それまでに決心しておけ。」
「はい。」
「理由がないのであれば――転校すべきだな。」
蘭はついに黙り込んだ。
0
お気に入りに追加
66
あなたにおすすめの小説
男子中学生から女子校生になった僕
葵
大衆娯楽
僕はある日突然、母と姉に強制的に女の子として育てられる事になった。
普通に男の子として過ごしていた主人公がJKで過ごした高校3年間のお話し。
強制女装、女性と性行為、男性と性行為、羞恥、屈辱などが好きな方は是非読んでみてください!
ずっと女の子になりたかった 男の娘の私
ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。
ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。
そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。
さくらと遥香
youmery
恋愛
国民的な人気を誇る女性アイドルグループの4期生として活動する、さくらと遥香(=かっきー)。
さくら視点で描かれる、かっきーとの百合恋愛ストーリーです。
◆あらすじ
さくらと遥香は、同じアイドルグループで活動する同期の2人。
さくらは"さくちゃん"、
遥香は名字にちなんで"かっきー"の愛称でメンバーやファンから愛されている。
同期の中で、加入当時から選抜メンバーに選ばれ続けているのはさくらと遥香だけ。
ときに"4期生のダブルエース"とも呼ばれる2人は、お互いに支え合いながら数々の試練を乗り越えてきた。
同期、仲間、戦友、コンビ。
2人の関係を表すにはどんな言葉がふさわしいか。それは2人にしか分からない。
そんな2人の関係に大きな変化が訪れたのは2022年2月、46時間の生配信番組の最中。
イラストを描くのが得意な遥香は、生配信中にメンバー全員の似顔絵を描き上げる企画に挑戦していた。
配信スタジオの一角を使って、休む間も惜しんで似顔絵を描き続ける遥香。
さくらは、眠そうな顔で頑張る遥香の姿を心配そうに見つめていた。
2日目の配信が終わった夜、さくらが遥香の様子を見に行くと誰もいないスタジオで2人きりに。
遥香の力になりたいさくらは、
「私に出来ることがあればなんでも言ってほしい」
と申し出る。
そこで、遥香から目をつむるように言われて待っていると、さくらは唇に柔らかい感触を感じて…
◆章構成と主な展開
・46時間TV編[完結]
(初キス、告白、両想い)
・付き合い始めた2人編[完結]
(交際スタート、グループ内での距離感の変化)
・かっきー1st写真集編[完結]
(少し大人なキス、肌と肌の触れ合い)
・お泊まり温泉旅行編[完結]
(お風呂、もう少し大人な関係へ)
・かっきー2回目のセンター編[完結]
(かっきーの誕生日お祝い)
・飛鳥さん卒コン編[完結]
(大好きな先輩に2人の関係を伝える)
・さくら1st写真集編[完結]
(お風呂で♡♡)
・Wセンター編[不定期更新中]
※女の子同士のキスやハグといった百合要素があります。抵抗のない方だけお楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる