神送りの夜

千石杏香

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第五章 霜降

4 禁忌への報い

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十月二十二日水曜日は、朝から小雨が降っていた。

風の吹く中、砂粒のような雨が傘に当たり続ける。

丁字路に差し掛かった。消火栓の前で、幸子が傘を差している。遣る瀬ない顔で独り彳んでいた。いつも竝んで立っているはずの由香はいない。

「おはよう、幸子。」

「うん、おはよう。」

いつも由香が立っている場所に、電柱に巻かれた黄色と黒の塗炭が見える。それが不安を掻き立てた。

「由香――まだ来ていないの?」

「うん――。」心配そうに幸子は眉を垂らす。「ひょっとしたら体調が悪いんかも。」

由香の顔色は、一昨日、先日と、日を追うごとに悪化していた。特に先日は、倒れそうなほど蒼かったのだ。

「――大丈夫かなあ?」

「分からん――。なんか、えらい悪げだったけど。それだのに、あの子は全く気にしとらなんだにぃ。」

不安が高じてスマートフォンを取り出した。

「LIИE入れてみようか?」

「うん、お願い。」

硝子板を叩き、ダイレクトメッセージを送る。

「由香、体調は大丈夫?」
「学校これるの?」

打ちながら、昭の顔を思い出す。元から、顔色はよいほうではなかった。それが、一昨年から急に体調を崩し、急激に青ざめていったのだ。

遠くから海鳴りが聞こえ続けていた。冬が始まる。制服だけでは耐え難いほど寒い。気温が落ちると同時に荒波も激しさを増してゆく。

やがて、二台の自転車が丁字路に停まった。その両方に、レインコートをまとった男子が乗っている。手前は冬樹で、隣は芳賀だ。

コートの透明な庇の下で、切れ長の目が細まった。

「実相寺、まだ来とらんだか?」

うん――と言い、美邦は目を伏せる。

「LIИEにも既読がついてないの。」

芳賀が心配そうな顔をする。

「珍しいな――あの実相寺さんが?」

「――うん。」

冬樹が振り返った。

「何だぁ、えらい体調悪げだったけどな――」

だが、二人にはどうしょうもないのだろう。ペダルに足をかけ、とりあえず先に――と冬樹は言った。また後で――と芳賀も言う。そうして、学校の方へと二人は去った。

小粒の雫が、ぱらぱらと傘に当たる。画面を何度見ても既読はつかない。やがて、始業時間が近づいた。幸子と顔を合わせ、先に登校することとする。

学校に着く。

当然、由香の姿は教室にもない。美邦の隣には、暗い影の差す席があった。そんな中、硝子に雫が当たって、細く垂れてゆく。

朝学活が始まった。

出席を取っているとき、鳩村の表情が固まる。

「実相寺さんは、来ていないんですか?」

廊下側の席から幸子が手を上げる。

「朝から来てません。――何か、連絡はなかったんですか?」

刹那、厭な顔を鳩村はした。

「いえ、何もありません。」

そして、何か知ってる人はいませんか――と問う。誰も何も答えない。教室に静寂が沈んでいる。それは、普段の由香から想像もできないからか。

授業が始まった。

隣の空席が気にかかる。顔色から察するに、体調を崩したとなれば一大事のはずだ。

一時間目が終わる。休み時間――次の授業の準備をしているとき、跫音を高く響かせて鳩村が戻ってきた。神経質な顔が、いつにも増して険しい。

「大原さんと、古泉さんはいますか?」

教室の両端から幸子と視線を交わす。恐る恐る首を動かし、険しい顔へ目を向けた。

「ちょっと来てください。」

不安を覚えつつも立ち上がる。

そして、幸子と共に教室を出た。

ひとけのない階段の裏側まで連れてこられる。二人の前に立ちはだかり、冷たい声で鳩村は問うた。

「ついさっき、家の人から連絡がありました――今朝から、実相寺さんの姿が見えないそうです。何か、心当たりはないですか?」

潮風に煽られ、窓硝子が震える。

――姿が見えない。

ちらりと幸子を見やった。刹那、厚いレンズの向こうに怯えが現れる。

当然、由香がいないことはいま知らされたのだ。ましてや、心当たりなどあるはずもない。

美邦は顔を伏せ、ありませんが――と答えた。幸子も、私もです――と同意する。

鳩村は目を曇らせた。

「そうですか――」

由香を心配し、顔を上げる。

「あの――姿が見えないって、どういうことですか?」

「そのままの意味です。朝から姿が見えなくなっていたそうです。実相寺さんは、家庭の事情でお母さんが家に帰って来るのが遅いので、気づくのも遅れたそうですが。」

「姿が――見えない?」

――どうして。

あの蒼い顔で――どこにいるのか。

「どうあれ、行方が今は分かっていません。実相寺さんについて、ここ最近で、何か変わったことは知らないですか?」

再び、幸子と視線を交わす。

変わったことはあった――。どこまで役に立つ情報かは分からないが、ひとまず述べてみる。

「月曜日くらいから、体調が悪そうでしたが――すごく顔色が悪くなってて。」

硝子が再び震えた。

少し黙ったあと、鳩村は諦めた表情となる。

「実相寺さんの行方については、今、警察の方に調べてもらっています。友達が行方不明になって不安かもしれませんが、結果が分かるまで、落ち着いた行動を心掛けて下さい。私から聞いたことも、あまり触れ回らないように。」

     *

――由香がいなくなった。

動揺の中、先日の調査結果を思い出す。十年前は九人が亡くなり、九年前は四人が亡くなった。今も、不審死や失踪は年に二件ほどあるという。昨年は、女子高生が溺死した。

――どうして。

千秋の言葉が蘇る。

――北朝鮮とかから船が来て。

二時間目の授業が終わった。

そして、冬樹と芳賀が呼び出される。しばらくして二人は帰って来た。冬樹の顔は蒼い。その隣から、心配そうな視線を芳賀が送る。

ろうそくの火が消えるように教室が静かになった。

いつもは元気な由香が登校していない。そして、由香とつるんでいた四人が呼び出された。何が起きたかは、誰の目にも明らかだ。

やがて、教室中で何かがささやかれる。

――を。――た。

詳しくは聞こえない。だが、「見た」「来た」などの言葉が次々と耳に入る。

――が。

三時間目の授業が始まる。

途中、板書が何度も融けた。白墨チョークで書かれた文字が、露のように垂れてゆく。そのたびに目をすがめた。いま、読んでくれる者はいない。

転校して一か月も経たないうちに――隣の席の生徒が消えた。その事実が、一つの懸念につながる。

――私のせいで?

神社を隠す者がいる。理由は分からないが、隠さなければならないのだ。その事実に美邦は触れた――由香を巻き添えにして。だから、

――お母さんと同じように。

しかし――なぜ由香なのか。

     *

雨は急に弱まった。代わりに気温は酷く落ちる。見るからに外は寒そうだ。

三時間目のあと、手洗いへ立った。用を済ませ、洗面台で手を洗う。そんなとき、水銀の欠けた鏡に人影が写った。

「大原さん――ちょっとええ?」

振り返る。

背後を塞ぐように三人の女子が立っていた。先頭は――確か、冬樹の隣の席の田中だったか。他の二人は、クラスメイトということしか覚えていない。

三人に詰め寄られ、顔を伏せる。

「えと――何?」

「実相寺さんがいなくなったって、本当?」

口籠らざるを得ない。

鳩村からは、軽率に話してはならないと言われている。しかし、田中の声は――六つの瞳は――答えるのが当然だとばかりに威圧的だった

「いや――ちょっと――分からなくて。」

「鳩村先生から、何か聞いたでないの?」

「あ――うん。」言葉を少し選ぶ。「家にいないらしいとは聞いたけど。」

見知らぬ女子が非難した。

「なんだ! 失踪しとったの知っとったがん。」

「えっ――?」

「さっき、知らんって言ったが?」

田中も顔を歪める。

「失踪しとるのに何で嘘ついた?」

険のある視線をもう一人が向けた。

「実相寺さんが心配でないだか?」

予想外の反応にたじろぐ。言葉に詰まり身を縮めた。

「貴女たち、いい加減にしたらどうですか?」

聞き慣れた声に顔を上げる。

岩井が立っていた。

「大原さん、困ってらっしゃるじゃありませんか。」

不満げな顔を田中は向ける。

「だって岩井さん、気に掛からせんの? クラスメイトが行方不明になっとるっていうに。」

「その気持ちは、もちろん解りますよ? けれども大原さんは内向的な性格なので、あまり寄ってたかって質問を浴びせては可哀想です。」

混乱し、唖然とする。

「ところでみなさん、実相寺さんが失踪したなどということを、どうして御存知なのですか? 私でさえ、何も聞かされていませんのですけれど――」

「ああ」と一人が答えた。「お母さんからLIИEがあっただが。なんか、警察の人が実相寺さんを探しとるらしいって。それで私達、心配になって――」

「LIИEって――電話なんか学校に持ち込まないで下さい!」

「いちいちうるせえなあ。」

「何かあった時のための連絡用だがぁ。」文句を垂れたあと、田中が顔を向ける。「じゃ、大原さん――時間取らせちゃってごめんねえ。」

「じゃあね。」

「バイビー。」

面倒臭そうに三人は去ってゆく。

「まったく――」岩井は呆れ果てる。「大原さん、申し訳ありませんね。けれども、みなさん実相寺さんのことを心配しているのです。」

「ああ、うん――別に。」

聞こえよがしに、なじるような声が聞こえてくる。

ばちが当たっただが。」

顔を上げると、何者かの去る姿が廊下に見えた。

「こら! 笹倉さん!」手洗いから岩井は顔を出す。「どうして貴女は、実相寺さんに対してそんなに意地悪なんですか!」

しばらくの間、美邦は呆然とした。

――おかしいよ、みんな。

悔しい思いが込み上げてくる。

――岩井さんも、あんなこと言うなんてどうかしてるよ。

     *

給食時間が終わり、昼休みに入る。

教室に居づらかったため、美邦は廊下へ出た。幸子も同じだったようだ。そこへ、冬樹と芳賀も来る。ひとまず、クラスから離れるように教室棟を出た。

鉄筋校舎に這入る。冷たい校舎に人はいなかった。二階に上がり、港を一望できるバルコニーに出る。雨は既に上がっていた。突堤の先に、点のように小さな紅い灯台が見える。

寒さのため、芳賀の頬が紅みを帯びた。

「実相寺さん――大丈夫かなあ。」

「うん。」美邦は相槌を打つ。「無事だと――いいんだけど。」

「何か――悩んどることあったんかな。」

冷たい風が吹く。

冬樹は、欄干に手をついて黙り込んでいた。その表情の端々に、冷静さを保とうとする努力が浮かんでいる。

不審死と神社との関連性を突き止めたのは冬樹だ。しかも、それによって父親を失っている。

幸子が声を震わす。

「もっと心配しときゃよかった。」

レンズの隔てて、まつ毛が下がる。

「由香な――いつも家で独りだにぃ。」

その言葉が気にかかった。

「――そうなの?」

「由香のお父さんな、何年か前に事業に失敗しただけど、それ以来、無気力でお酒ばっかだって。今は、お母さんが一人で働いとんさるだけど――。だけぇ、体調が悪ぅなったとしても、誰も心配せんかったのかもしらん。」

不安が強まる。あの蒼い顔で、自覚症状もなかったのだ。だが、気遣う大人はいなかった。結果、前後不覚になったのかもしれない。

冬樹が頭へ手を当てる。

「こがなことになるなんて。」

胸が痛んだ。

同時に思い出す。転校初日――神社の話題を由香に告げたのはこの場所だった。ずっと感じていた不安が――負い目が言葉となる。

「――私のせいなのかな。」

それは、恐らく誰もが感じていることであり、負い目を抱いているはずのことだった。

「神社のことを調べたいって言ったばかりに――」

幸子が声を張り上げた。

「美邦は悪ぅないに!」

しかし、自信を失ったようにまつ毛が下がる。

「きっと家出しただが。あんまものぉ考えん子だけん、迷子になって――寒くて震えとるに。けれども、そのうち警察に保護されると思う。」

自分の言葉に反省したのか、冬樹が言う。

「大原さん――考えすぎだぁが。だいたい、神社のことに首を突っ込んだのは俺だで?」

芳賀もうなづく。

「まだ、帰って来とらんとしか分かっとらんにぃ。」

だが、その言葉の裏には、自分の行動と由香の失踪に関連はないと信じたい気持ちがあるようだ。

「――うん。」

港へ目をやる。

たとえ帰っていなくとも――どこかにいる。

ふと――さらに思い出すことがあった。転校初日、この場所で、お祭りがあったような気がすると由香は言ったのだ。つまり、神社の痕跡を覚えていた。

「幸子――由香の家って、どのあたり?」

「――え?」

えっと――と幸子は言い、欄干に近寄った。

「中通りを少し南に行って、あの角を曲がって――」

そして、伊吹の一角――鞘川の付近を指さす。

「――あのあたりだけど。」

指さされた先を見つめる。

やはり――平坂神社は近い。

怪訝そうに冬樹は目を細める。

「大原さん――なにか気にかかるん?」

うん――と美邦はうなづく。

「由香ね、お祭りがあった気がするって言ってたの――この場所で。ひょっとしたら、秋のお彼岸のお祭りかもしれない。」

切れ長の目がまたたく。

「そうなん――?」

「うん――。」顔を上げた。「芳賀君の考えだと――町ぐるみで神社は隠されたんだよね? なら、あれだけ近いんだし、由香の両親も神社を知ってると思う。けど――」

次第に、自分の言葉に胸騒ぎを覚え始める。

――娘の失踪に親が加担するだろうか。

では――。

芳賀が、反抗的な目を向ける。

「いや――実相寺さん、家出かもしらんが? それに、一部の町の人だけがやったとも考えられる。」

当然、その主張は強引だった。しかし、気にかかることはほかにもある。

「子供はみんなGPSつけてるんだよね?」

冬樹が息を吸う。

「だでな――。しかも、集団下校もさせとるに――町ぐるみで犯人なんてことあるか?」

不安を感じ、港へ目をやる。

やはり――この町にはなにもいない。だが、人が消えている。連れ去る何者かがいるのだ。

芳賀が反論を試みる。

「いや――けど――町ぐるみで隠すとなれば――」

幸子の声が響いた。

「やめて!」

顔を向ければ、厚いレンズの向こうで目が潤んでいた。幸子は声を震わせる。

「そんなふうに言ったら――由香が帰ってこんやになるみたいだが。」

いつもは見せない姿だった。

胸が痛むと同時に後悔する。

ごめん――と芳賀が口にした。

美邦もまた頭を下げる。

「ごめん。」

由香のことを自分も心配しているはずだ。しかし、正体不明の者に連れ去られた可能性に触れてしまった――幸子の気持ちも考えず。

バルコニーの入口に目をやる。そこに、

笹倉が立っていた。
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