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第四章 寄神
6 亡き母が国
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――今朝も見た気がする。
冷たい鏡を覗き込んで美邦は思う。
色違いの瞳も含め、姿見に写る姿は自分に他ならない。同時に、自分ではない。褐色の瞳と鉛色の瞳は左右逆の位置にある。自分であるのに――自分ではないのだ。
スマートフォンが鳴った。
姿見から目を離し、画面に目をやる。LIИEに、由香からのメッセージが入っていた。
「着いたで」
すぐに返信した。
「わかった。今いく」
バッグを手に取り、部屋を出る。
同時に、千秋と廊下で顔を合わせた。居間へ向かう途中だったらしく、ゲーム機を抱えている。
刹那、鏡を見たような錯覚を覚えた。
「お姉さん、今からお出かけ?」
「うん。」
最近、自分ではない者になった夢を見る。どういうわけか、それは千秋のような気がしていた。
――そんなわけない。
自分と千秋は違うのだ。
「千秋ちゃんは? せっかくの土曜日なのに――?」
「今日はゲームクリアするにぃ。」
やはり千秋はオタク気質らしい。常に、何かしらのゲームや漫画に嵌っている。
「ああ――推しがいるんだっけ。」
「うん。」
竝んで階段を下りた。背格好も顔も似ている。だが、生まれも育ちも違うのだ。
玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
空は灰色に蒼い。寒さは、今、厳しくなりつつある。石垣を下り、複雑に折れる路地を進む。軒には紅い布が閃いていた――天然痘から身を守る色が。
中通りへ出る。
鉛色の海を背に、電信柱の下で二人は待っていた。
由香は、名探偵のような上着と帽子をつけている。ただし似合ってはいない。幸子と同じ前髪を見ると、「ぱっつんトリオ」という芳賀の言葉が、不本意ながら鋭く感じられた。
「おはよ、美邦ちゃん。」
そう言った由香の顔に違和感を覚える。
幸子が突っ込んだ。
「もう、お昼だけん『こんにちは』でない?」
「おはようには遅すぎるよね。」
「まあ、ええが。」中通りの西へ顔を向ける。「とりあえず、早ぁ行かぁで。藤村君らも待っとるだらぁにぃ。」
「うん。」
ゆるやかに上下する道を進む。以前と同じ場所に幻視は見えた――喪服を着た男女の群れや、廃屋から覗く人影、焼け焦げたような影も。
坂道が多いのは、接する海が急に深くなっており、その海底と同じ地形をしているからだ。箱庭に似たこの町で、不審死や失踪は続いている。
不満げに幸子は唇を尖らせた。
「にしても――手伝うって美邦が言ったときはびっくりした。一年分の官報と、三年分の新聞だで?」
目を落とす。
「別に――私がやりたいだけだから。幸子や由香は、興味なかったら帰っていいし。」
つんと幸子は顔を逸らした。
「でも――美邦がそう言うなら、手伝わんで帰るなんて気が引けるが。だけん、調べたいって言うなら、手伝ってあげんこともないけど。」
由香は苦笑する。
「でも――藤村君も味気ないなあ。本を貸してそれで終わりって。」
「いや――それでも私は構わないから。」
先日、一冊の文庫を冬樹は美邦に貸した。表紙には、夕闇に染まる海が写っていた。
『常世論 日本人の魂のゆくえ』
それが題名だった。
「昨日から読み始めてるんだけど――少し難しいかな。それでも、ついつい読み込んだけど。」
日本人の心には、未知の空間があるという。
彼岸や盆には、祖先が帰ってくる。だが、どこから来るのかは知られていない。そこが、常世と呼ばれていた。
万物の根源であり、亡き母のいる国。海を渡ってこの国へ辿り着いた人々の記憶も常世に眠っている。
幼少期のことを思い出す。
――あそこには、神様がいた。
説明のつかない国から来た存在が。
――今はいない。
この町の――どこにも。
ため息を由香はついた。
「でも――教えてほしいってせっかく言っただけえ、もっと親身に教えてあげてもええだあが。何しろ、三年分も調べるだけえ。」
「あ。」幸子は少し意地悪な顔になる。「何なら、藤村と二人きりにして帰ってもええだけど?」
美邦は慌てふためいた。
「あ、あ、あ、それは――困る。」
「冗談冗談。」
やや小声で由香は言った。
「幸子――あんま茶化るでないがあ。」
ふっと――違和感を再び覚える。
由香は、先日と同じ由香だろうか。何かが違う。心なしか、少しだけ顔も蒼く見えた。
同じ違和感を覚えたらしく、幸子は真顔になる。
「由香――まさか元気ない?」
由香は目を瞬かせる。
「え、何で?」
「なんてかさ――由香のテンション、いつもより一オクターヴ下がっとる気がするだけど。」
「私も――何だかそんな気がするよ?」
由香は考え込む。
「テンションが一億ターブも下がったら、うつ病になっとると思うけどなあ。」
冷たい風が吹いた。
そして、由香は顔を上げる。
「ああ――だけど、確かに今日は、ちょっと身体が軽いやな気がする。風邪でも引いたかいな?」
「大丈夫かえ?」幸子は眉を寄せる。「風邪は引き始めが重要だけん、早めに葛根湯でも呑んどきないよ?」
「わかった。」
やがて、十字路に出た。
バス停と、琺瑯看板や広告の貼られた待合室がある。以前、荒神塚へ行った際に見た時とは違う印象を受けた。
十字路を、駅へ向けて折れる。
しばらくして、シャッターの閉まった店が現れる。電器屋や酒屋――写真館もあった。営業しているものはない。その景色に既視感を覚える。
――ここは、来たことがある。
少し考え、慄然とした。
――夢の中で見た。
紅い布の垂れたシャッターも、郵便局も、薬局も同じだ。初めて来る場所を――夢の中で歩いていた。
当然、三歳まで美邦は町に住んでいたのだ。その時に来ていたのだとしても可怪しくはない。だが、
――踏切へ向かっていた。
死のうとしていたのだ。
平坂神社の主祭神は、大国主命の奇魂・幸魂だという。それは、自分の一部が幽体離脱したものであり、もう一人の自分なのだ。
――自分ではない自分。
幼児期の記憶や夢に現れた光景は――自分の記憶なのだろうか。何しろ、この町に来て以来、見たことがないはずのものを見ているのだ。
道路をまたぐアーチ状の看板が現れた。錆の流れた表面には、「平坂商店街」と書かれている。
駅前の広場につく。
そこには、冬樹と芳賀が待っていた。
由香の顔を目にし、クールなのか不愛想なのか分からない顔で芳賀は言う。
「実相寺さん、いつもよりコケシに似とるなあ。」
由香はむっとする。
「何、その『いつもより』って?」
怪訝に眉を芳賀はゆがめている。
「いや、新品のコケシっぽいっていうか、白い。」
「ああ。」由香は少し安心する。「なんか風邪の引き始めっぽいにぃ。」
冬樹は目を瞬かせた。
「ん? 風邪ってあの病気の風邪――?」
「もう、私が他にどんな風邪ひくの!」線路の方へ足を向けた。「とりあえず、はやぁ郷土史家さん家ぇ行かあで。あんま待たせてもいけんが。藤村君、知っとるでないの?」
「ああ。」
冬樹を先頭にして、上里へと歩きだす。
広場から東へ少し逸れた処に――。
踏切があった。
美邦は立ち止まる。
夢で見たのと全く同じ踏切だ。しかも、三、四体ほどの黒い影が屯している。立ったり、しゃがんだりして折り重なっていた。
幸子が声をかける。
「美邦、どうしたん?」
「いや――何でもない。ちょっと、幻視があっただけだから。」
幻視が目に入ることは、気持ちのいいことではない。しかし、しょせん幻視は幻視だ。祟りがあったり、攻撃してきたりするわけではない――無害な立体映像と同じなのだ。
――これは、特別なものでも何でもないんだ。
脳の誤作動が作り出した幻影にすぎないのだ。
美邦は目を閉じ、踏切を渡る。
踏切の先には田畑が拡がっていた。美邦が京都に住んでいた頃、漠然と想像していた「田舎」の姿だ。
踏切から離れ、美邦はふと問うた。
「あの踏切って、過去に何かがあったのかしら?」
由香は小首をかしげる。
「うん? どしてぇ?」
「いや――何だか、変な感じがしていたから。」
前方から芳賀が口を開く。
「事故が多いみたいだで。ただでさえ――この町は多いけぇ。」
冷たい鏡を覗き込んで美邦は思う。
色違いの瞳も含め、姿見に写る姿は自分に他ならない。同時に、自分ではない。褐色の瞳と鉛色の瞳は左右逆の位置にある。自分であるのに――自分ではないのだ。
スマートフォンが鳴った。
姿見から目を離し、画面に目をやる。LIИEに、由香からのメッセージが入っていた。
「着いたで」
すぐに返信した。
「わかった。今いく」
バッグを手に取り、部屋を出る。
同時に、千秋と廊下で顔を合わせた。居間へ向かう途中だったらしく、ゲーム機を抱えている。
刹那、鏡を見たような錯覚を覚えた。
「お姉さん、今からお出かけ?」
「うん。」
最近、自分ではない者になった夢を見る。どういうわけか、それは千秋のような気がしていた。
――そんなわけない。
自分と千秋は違うのだ。
「千秋ちゃんは? せっかくの土曜日なのに――?」
「今日はゲームクリアするにぃ。」
やはり千秋はオタク気質らしい。常に、何かしらのゲームや漫画に嵌っている。
「ああ――推しがいるんだっけ。」
「うん。」
竝んで階段を下りた。背格好も顔も似ている。だが、生まれも育ちも違うのだ。
玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
空は灰色に蒼い。寒さは、今、厳しくなりつつある。石垣を下り、複雑に折れる路地を進む。軒には紅い布が閃いていた――天然痘から身を守る色が。
中通りへ出る。
鉛色の海を背に、電信柱の下で二人は待っていた。
由香は、名探偵のような上着と帽子をつけている。ただし似合ってはいない。幸子と同じ前髪を見ると、「ぱっつんトリオ」という芳賀の言葉が、不本意ながら鋭く感じられた。
「おはよ、美邦ちゃん。」
そう言った由香の顔に違和感を覚える。
幸子が突っ込んだ。
「もう、お昼だけん『こんにちは』でない?」
「おはようには遅すぎるよね。」
「まあ、ええが。」中通りの西へ顔を向ける。「とりあえず、早ぁ行かぁで。藤村君らも待っとるだらぁにぃ。」
「うん。」
ゆるやかに上下する道を進む。以前と同じ場所に幻視は見えた――喪服を着た男女の群れや、廃屋から覗く人影、焼け焦げたような影も。
坂道が多いのは、接する海が急に深くなっており、その海底と同じ地形をしているからだ。箱庭に似たこの町で、不審死や失踪は続いている。
不満げに幸子は唇を尖らせた。
「にしても――手伝うって美邦が言ったときはびっくりした。一年分の官報と、三年分の新聞だで?」
目を落とす。
「別に――私がやりたいだけだから。幸子や由香は、興味なかったら帰っていいし。」
つんと幸子は顔を逸らした。
「でも――美邦がそう言うなら、手伝わんで帰るなんて気が引けるが。だけん、調べたいって言うなら、手伝ってあげんこともないけど。」
由香は苦笑する。
「でも――藤村君も味気ないなあ。本を貸してそれで終わりって。」
「いや――それでも私は構わないから。」
先日、一冊の文庫を冬樹は美邦に貸した。表紙には、夕闇に染まる海が写っていた。
『常世論 日本人の魂のゆくえ』
それが題名だった。
「昨日から読み始めてるんだけど――少し難しいかな。それでも、ついつい読み込んだけど。」
日本人の心には、未知の空間があるという。
彼岸や盆には、祖先が帰ってくる。だが、どこから来るのかは知られていない。そこが、常世と呼ばれていた。
万物の根源であり、亡き母のいる国。海を渡ってこの国へ辿り着いた人々の記憶も常世に眠っている。
幼少期のことを思い出す。
――あそこには、神様がいた。
説明のつかない国から来た存在が。
――今はいない。
この町の――どこにも。
ため息を由香はついた。
「でも――教えてほしいってせっかく言っただけえ、もっと親身に教えてあげてもええだあが。何しろ、三年分も調べるだけえ。」
「あ。」幸子は少し意地悪な顔になる。「何なら、藤村と二人きりにして帰ってもええだけど?」
美邦は慌てふためいた。
「あ、あ、あ、それは――困る。」
「冗談冗談。」
やや小声で由香は言った。
「幸子――あんま茶化るでないがあ。」
ふっと――違和感を再び覚える。
由香は、先日と同じ由香だろうか。何かが違う。心なしか、少しだけ顔も蒼く見えた。
同じ違和感を覚えたらしく、幸子は真顔になる。
「由香――まさか元気ない?」
由香は目を瞬かせる。
「え、何で?」
「なんてかさ――由香のテンション、いつもより一オクターヴ下がっとる気がするだけど。」
「私も――何だかそんな気がするよ?」
由香は考え込む。
「テンションが一億ターブも下がったら、うつ病になっとると思うけどなあ。」
冷たい風が吹いた。
そして、由香は顔を上げる。
「ああ――だけど、確かに今日は、ちょっと身体が軽いやな気がする。風邪でも引いたかいな?」
「大丈夫かえ?」幸子は眉を寄せる。「風邪は引き始めが重要だけん、早めに葛根湯でも呑んどきないよ?」
「わかった。」
やがて、十字路に出た。
バス停と、琺瑯看板や広告の貼られた待合室がある。以前、荒神塚へ行った際に見た時とは違う印象を受けた。
十字路を、駅へ向けて折れる。
しばらくして、シャッターの閉まった店が現れる。電器屋や酒屋――写真館もあった。営業しているものはない。その景色に既視感を覚える。
――ここは、来たことがある。
少し考え、慄然とした。
――夢の中で見た。
紅い布の垂れたシャッターも、郵便局も、薬局も同じだ。初めて来る場所を――夢の中で歩いていた。
当然、三歳まで美邦は町に住んでいたのだ。その時に来ていたのだとしても可怪しくはない。だが、
――踏切へ向かっていた。
死のうとしていたのだ。
平坂神社の主祭神は、大国主命の奇魂・幸魂だという。それは、自分の一部が幽体離脱したものであり、もう一人の自分なのだ。
――自分ではない自分。
幼児期の記憶や夢に現れた光景は――自分の記憶なのだろうか。何しろ、この町に来て以来、見たことがないはずのものを見ているのだ。
道路をまたぐアーチ状の看板が現れた。錆の流れた表面には、「平坂商店街」と書かれている。
駅前の広場につく。
そこには、冬樹と芳賀が待っていた。
由香の顔を目にし、クールなのか不愛想なのか分からない顔で芳賀は言う。
「実相寺さん、いつもよりコケシに似とるなあ。」
由香はむっとする。
「何、その『いつもより』って?」
怪訝に眉を芳賀はゆがめている。
「いや、新品のコケシっぽいっていうか、白い。」
「ああ。」由香は少し安心する。「なんか風邪の引き始めっぽいにぃ。」
冬樹は目を瞬かせた。
「ん? 風邪ってあの病気の風邪――?」
「もう、私が他にどんな風邪ひくの!」線路の方へ足を向けた。「とりあえず、はやぁ郷土史家さん家ぇ行かあで。あんま待たせてもいけんが。藤村君、知っとるでないの?」
「ああ。」
冬樹を先頭にして、上里へと歩きだす。
広場から東へ少し逸れた処に――。
踏切があった。
美邦は立ち止まる。
夢で見たのと全く同じ踏切だ。しかも、三、四体ほどの黒い影が屯している。立ったり、しゃがんだりして折り重なっていた。
幸子が声をかける。
「美邦、どうしたん?」
「いや――何でもない。ちょっと、幻視があっただけだから。」
幻視が目に入ることは、気持ちのいいことではない。しかし、しょせん幻視は幻視だ。祟りがあったり、攻撃してきたりするわけではない――無害な立体映像と同じなのだ。
――これは、特別なものでも何でもないんだ。
脳の誤作動が作り出した幻影にすぎないのだ。
美邦は目を閉じ、踏切を渡る。
踏切の先には田畑が拡がっていた。美邦が京都に住んでいた頃、漠然と想像していた「田舎」の姿だ。
踏切から離れ、美邦はふと問うた。
「あの踏切って、過去に何かがあったのかしら?」
由香は小首をかしげる。
「うん? どしてぇ?」
「いや――何だか、変な感じがしていたから。」
前方から芳賀が口を開く。
「事故が多いみたいだで。ただでさえ――この町は多いけぇ。」
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