神送りの夜

千石杏香

文字の大きさ
上 下
11 / 96
第二章 神無月

1 サイレンの鳴る町

しおりを挟む
海岸沿いの県道を下った先が平坂町だった。

高い崖の上を車は進んだ。鉛色の海が窓に広がっている。その景色に見飽きてきたとき、運転席から叔母が声を上げた。

「ほら、あれが平坂町だが。」

県道が大きく曲がった。同時に、サイドウィンドウに港が映る。鉤爪かぎづめがたに突き出た陸地に屋根が波打っていた。突堤が海を囲い、漁船が連なる。あれが、

――お父さんと、お母さんの生まれた育った町。

そして、自分の故郷なのだ。

吸い込まれるように町に入る。

サイドウィンドウに映る景色が、紅い布の垂れた民家に変わった。

写真で見た通りの雰囲気だ。うっすらと鳥肌が立つ。覚えている物は何もない。それなのに、懐かしさは覚えるのだ。

ゆるやかに湾曲する道を、ゆるやかに上下しつつ車は進む。海側には、民家の屋根や二階部分が竝んでいた。その合間から紅い点が見え隠れする――紅い灯台だ。

やがて車は減速し、駐車場に停まった。

バッグを取り、車から降りる。

海から風が渡り、紅い布が一斉になびいた。同時に思い出す――この潮の香りは覚えている。町にいたとき、常に嗅いでいたはずだ。

周囲を見回す。

全く見知らぬ町だった。しかし、美邦の底に眠っていた何かへ確実に響いてきている。

「どお? 懐かしいでしょ。何か覚えとるものなとあるでない?」

少し迷ったが、相槌を打つ。

「何となく覚えてる気がします――あの紅い布のこととか。」

「それか。」

こっちだで――と言い、詠歌は歩きだす。そのあとに美邦は続いた。

階段状の路地を上る。

迷路のように折れ曲がった坂道の先――石垣の上に渡辺家はあった。半世紀近く建つこの家は、随所でリフォームした以外は変わっていないという。

玄関には、外界との境界を示す紅い布が吊るされている。

父の生家に上がると、他人の家の匂いがした。

靴を脱いでいるとき、跫音あしおとが聞こえてくる。隣接する階段から千秋が現れた。刹那、鏡を覗いたような気持ちとなる。しかし、千秋は自分より一回り小さく、両眼も揃っている。

「お姉さん、おかえりんさい。」

自分と似た声に、ここに昔から住んでいたと錯覚しかけた。

恐る恐る、ただいま――と応えた。しかし、何だか可笑しくなる。

「けど――ここは千秋ちゃんの家なのに。」

「まあ、ええが。お姉さんも今日から住むにぃ。」

似ていても、やはり訛りは違う。

「うん。」嬉しくとも気恥ずかった。「よろしくね――今日から。」

「こちらこそ、よろしく。」

そのやり取りを見ていた詠歌が微笑む。

「こうして見ると、ほんに姉妹みたいだな。」

ちらりと千秋へ視線をやる。

だが、劣等感を覚えて逸らした。

千秋の両眼は褐色だ――自分の右眼と同じように。だが、片眼だけが別方向に行くことはない。何より、自分と違っておどおどした感じが千秋にはない。

「とりあえず、お父さんに先に挨拶しやか。」

「ええ。」

仏間へと案内された。

あとから千秋がついてくる。

仏壇に、昭の遺影が載せられていた。霊前に坐り、線香に火をつけ、かねを鳴らす。合掌し、帰ってきたことを伝えた。ただし、祈りが通じるかは分からない。

立ちあがろうとしたとき、美邦のバッグに千秋が手をかける。

「京都から五時間も車だら? 持ったげる。」

「うん――ありがとう。」

詠歌に導かれ、元来た廊下を戻った。

薄暗い階段を昇る。

二階の廊下を突き当たった処が新しい部屋だった。殺風景な六畳には、京都から送った荷物が置かれている。

千秋が窓に近寄り、障子を開けた。自分と違い、この家に千秋は住んできたのだ――と、当然のことを感じると同時に、新しい景色が目に入った。

山がある。

引き寄せられるように窓へ近寄る。

サッシに手を掛けた。

張り巡らされた電線や、瓦ぶきの屋根――その彼方に、綺麗な円錐形の山が見える。灰色掛かった空の下、青黒い巨躯を横たえていた。

自分と似た声で我に帰る。

「お姉さん、気になるん?」

うん――と美邦はうなづいた。

「綺麗な形の山だな――って思って。まるでピラミッドみたい。」

背後から詠歌が答える。

「あれは伊吹山だが。美邦ちゃんの通うことになる学校も、あの麓にあるだで? こっからじゃ、屋根が邪魔になって見えんけど。」

「そう――なんですね。」

端正な稜線に見入った。遠くからは海の音も聞こえる。父もまた、この窓から山を眺めていたのだろう。見慣れた光景だったに違いない。

だが、唐突に違和感を覚える。

――なにか変。

山そのものというより、窓から見える風景が。まるで、本物そっくりの偽物を見せられたかのようなのだ。おかえり――と言われたのに、嘘をつかれているような感じさえした。

詠歌が声をかける。

「とりあえず、大きな荷物は明日来るけん。小さな荷物を先に片付けちゃっといて。」

「はい。」

「千秋も、美邦ちゃん手伝ったげてぇな。」

「うん。」

あと――と言い、声のトーンが落ちる。

「言っとくけど、暗くなったら外に出んでぇな。」

え――と訊き返した声がかすれた。

「この町は複雑な地形だけん、夜になると交通事故とかが多いだけぇ。そうでなくても、京都と違って、暗くなってからは人通りが全くと言っていいほどないし、色々と危ないかも。」

「そう――なんですか。」

隣から千秋が補足する。

「あたしらもあんま出歩かんにぃ。なんか、とても寂しぃなるけん。」

作ったように詠歌は笑んだ。

「別に、治安が悪いとか、そういうことでないけどな。町の外で働いている人でも、遅くまで帰って来ないということは、あまりないかな。」

慎重に言葉を選んでいるような――含んだものがある言い方だった。

     *

段ボールを開き、収納ボックスを押し入れへと入れる。

片づけを手伝いつつ、千秋が初めて発した言葉はこれだった。

「お姉さんの推しは何ぃ?」

衣類を手にして固まる。

「――おし?」

「たとえば、漫画とかアニメとか、ゲームとか、歌い手とか。」

推しという漢字に思いあたり、ああ、とうなづく。少し考え――ここ数年、エンターテインメントにほぼ触れていないことに気づいた。

「私――そういうのあまり見てないの。お父さんの体調が悪くなってから――家事とか看病とかで忙しかったから。だから――うまく話せないのだけど。」

少し寂しそうな顔が現れる。

「――それなん。」

白けさせまいと思って美邦は言葉を継いだ。

「でも、これからは余裕ができるだろうし、そういったのも愉しめそう。なにか、お勧めがあったら教えてほしいな。」

ぱっと千秋は明るくなる。

「もちろん! あたし、たくさん推しはあるけぇ、お姉さんに色々教えたげられる!」

「――よかった。」

部屋を片付けつつ、自分が好きなアニメについて千秋は語った。

――普通の子にならなきゃ。

できる自信はないが、新しいクラスメイトに溶け込む必要がある。話を合わせるために、流行について知らなければならない。ただ――。

心配なのは、ジャンルに偏りがないかというところだ。

どうやら、千秋は少しオタク気質のようだった。

渡辺家に着いたときには十六時を回っていた。ゆえに、片付けが終わると同時に外は暗くなる。

そして、サイレンが聞こえた。

ウゥウゥゥゥ――――ゥゥゥ―――――――――。

何かを警告するような音が十数秒ほど響き続ける。

ゥゥゥゥ――――ゥゥ―――ゥ。――――。――。

長い余韻を引きながら夕闇へと消えた。

「あの音は何?」

千秋はきょとんとする。

「サイレン? 五時の時報だが?」

「こっちでは、そんなの鳴るの?」

「うん。正午と五時に。――京都ではなかったん?」

「うん。――なかったけど。」

――暗くなったら外に出てはならない。

サイレンは、詠歌のその言葉を思い出させた。

十九時ごろ、啓が帰ってくる。

居間へ集まり、夕食が始まった。美邦にとって数年ぶりの団欒だ。テーブルには、平坂町産の刺身や蟹が竝んでいた。

蟹の食べかたを千秋から教わる。爪先を取り、切られた脚の断面から押せば簡単に身が出るという。平坂町の者にとって、蟹は身近な食べ物らしい。

神社の話題が出てきたのはそんなときだ。

不思議そうに千秋は訊き返す。

「神社?」

そうそう――と詠歌はうなづいた。

「美邦ちゃんな、この町にいたとき神社にお参りしただって。山の中にある大きな神社。けど、私には心当たりなくて。」

「あたしも、そんな神社が町にあるなんて知らんかったけどなあ。荒神様ならあるけど、あれは『祠』だしなあ。」

どうしても気に掛かることが美邦にはあった。

「でも、七五三とか初詣とかはどうしてるの?」

「初詣ってアニメに出てくるやつ?」

一瞬、言葉を失う。

「――え?」

答えたのは詠歌だ。

「初詣は――市内の神社にお参りする人もおるけど、人によりけりでないかな? 七五三も同じ。お寺さんが近かったら、そっちでする人もおるみたいだけど。」

「そう――ですか。」

千秋が何かに気づく。

「ひょっとして、お姉さん、七五三とか初詣とか京都にはあったん?」

「え――あったけど?」

「屋台で水風船買ったりとかもした?」

「したけど――?」

「ええなあ――ほんにアニメみたい。」

詠歌が苦笑する。

「まあ、京都は神社やお寺がたくさんあるだけえ。平坂町とは違うわいな。」

「そう――ですか。」

落ち込んだ美邦を気にしてか、啓がフォローした。

「まあ――平坂町ってったって広いだけえ。探してみたら、山ん中にでもあるかもしらんが?」

「そうね――。そんな気になるんなら、荒神様だって行ってみりゃええが。美邦ちゃん小さかったけん、祠が大きく見えただけかも知らんでぇ?」

千秋が身を乗り出す。

「じゃあ、あたし案内してあげやあか?」

「――荒神さまに?」

「うん。ほかに町のこととかも。」

少しほっとする。新しい暮らしに不安を感じていたが、千秋とは打ち解けられそうだった。

「ありがとう。」

「それがええな。」詠歌も微笑む。「美邦ちゃん、この町について、なぁんも知らんもんな。」

     *

風呂上り――寝間着に着替えて部屋へ戻った。

ふすまを開けたとき、窓の外に人影が見えた。しかし闇に目が慣るにつれて消えてゆく。

照明をつける。部屋の闇が追い払われた。だが、窓の外までは明るくならない。

美邦はそっと窓へ近寄る。

伊吹山は暗闇の中に姿を消していた。

海から渡り来る風の唸り声が聞こえる。あるいは、遠くから轟く海鳴うみなりの残滓ざんしかもしれない。家々から漏れる光は少なかった。街燈の光が闇を薄くしている部分があり、それが不気味に感じられる。

今になって、詠歌が発した言葉の意味を理解した。

言われなくとも、外へ出るのが躊躇ためらわれる夜だ。闇の中から、何かがやって来そうな気がする。特に――夜闇に隠れているあの伊吹山の中から。

美邦はそっと障子を閉じた。

     *

その晩、夢を見た。

目の前に、大きなドールハウスがある。向かい側には、小学生低学年ほどの女の子がすわっていた。

彼女は美邦の姉なのだ。自分に姉などいないはずなのに、夢の中の美邦は「妹」だった。

――だけんね、ちーちゃん。

さとすように「姉」は言う。

――わたしとちーちゃんにしか見えんもんは、他の人にしゃべっちゃだめだで。でないと、またお母さんも怒っちゃうけん。ひょっとしたら、この子らも捨てられちゃうかもしらん。

美邦は、手元の着せ替え人形を握りしめる。

わかった――と答える。

――それじゃあ、指切りしやぁか。

それから姉妹は、小指を絡ませ約束を交わした。

ただそれだけのことなのに、酷く懐かしい感触がする。このときになり、自分の帰るべき場所に帰ってこれたような気さえした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
よくよく考えると ん? となるようなお話を書いてゆくつもりです 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【一話完結】3分で読める背筋の凍る怖い話

冬一こもる
ホラー
本当に怖いのはありそうな恐怖。日常に潜むあり得る恐怖。 読者の日常に不安の種を植え付けます。 きっといつか不安の花は開く。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

すべて実話

さつきのいろどり
ホラー
タイトル通り全て実話のホラー体験です。 友人から聞いたものや著者本人の実体験を書かせていただきます。 長編として登録していますが、短編をいつくか載せていこうと思っていますので、追加配信しましたら覗きに来て下さいね^^*

お庭の小人

五厘
ホラー
僕は庭にある小人の置き物を一つ割ってしまった

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

処理中です...