神送りの夜

千石杏香

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第一章 秋分

1 終末病棟

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大原おおはら美邦みくには、父が入院する病院へ今日も足を運んでいた。

美邦は中学二年生の十三歳だ。一か月前まで、京都市内のマンションで父と二人で暮らしていた。母親はいない。美邦が幼い頃に亡くなったのだ。美邦にとって、父は唯一の家族であり、庇護者でもあった。

そんな父が今、命の危機に瀕している。

病院へ向け、鴨川沿いの道を歩んでゆく。九月半ばのこと、紺色こんいろのブレザーはまだ暑い。腰まで届く二つの三つ編みの根元では汗が滲んでいる。

路肩の植え込みには彼岸花が咲いていた。紅い彼岸花、白い彼岸花。どれだけ歩みを進めても、鏡写しのように同じ花が現れる。

学校から離れていない場所に総合病院はあった。

受付で要件を言い、病室へ足を進める。

薬臭い病棟は霊廟を思い起こさせる。病む者たち、死にゆく者たちを閉じ込める石造りの建物。随所には、半透明の黒い人影がたたずむ。

人影は、窓硝子ガラスが反射する風景に似ていた。遠目には明瞭に見えるが、近づくにつれ消えてゆく――点滴スタンドを片手にたたずむ男も、担架に乗せられた老人も。

長い廊下を進み、奥にある個室へ這入る。

そこは、普通の病室ではない。

緩和ケア病棟――治らない患者が最期を迎える場所だ。その狭い空間に、父――大原おおはらあきらは閉じ込められているようだった。

右の肘裏ひじうらには、二割ほど花弁はなびらの白い彼岸花が咲く。目を凝らすと、人工透析器に繋がる二つの紅いチューブと、点滴に繋がるチューブだった。

昭は顔を傾ける。

「ああ。美邦か。」

「うん。」

ベッドに近寄り、椅子へ腰を下した。

昭の顔は、死人のように白い。肌はたるみ、白髪も多い。本当は四十代後半だが、六十代にしか見えない。顔色は元から悪かったが、一か月で激変した。命がついえかけている証拠だ。

その左手を取る。

幼い頃から自分の手を繋いできた手は――もう消えるのだ。

「体調は大丈夫? 昨日と変わったとこはない?」

昭は少し口ごもり、何も変わらないさ、と言った。

「いつだって同じだ。悪くなることはあっても、よくなることはないんだから。」

悲しみが、痛みとなって胸にみる。

恢復かいふくの見込みがないことは分かっていた。それゆえか、昭の言葉は日に日に投げやりとなる。いずれ独りになる美邦を気遣う余裕もない。

ややあって、自分の言葉に昭は反省したようだ。

「すまないな――美邦。」

「ううん、気にしないで。」首を軽く横に振る。「治ることが難しいのは解っているの。それでも私は、苦しい思いをできるだけしてほしくないだけ。」

人工透析器の中央では、風車かざぐるまのようなポンプが静かに回る。チューブが紅いのは血が流れているためだ。血を浄化して送り出す機械――これこそが昭の今の腎臓だ。

――恐らくは一か月も持たないでしょう。

入院したとき、医師からそう言われた。

――片方の腎臓だけで本当によく持ちました。膵臓も脾臓も悪いのに、美邦さんの献身の結果でしょう。でも、これからのことを考えておくべきです。

今、一か月が過ぎる。

耐え難い不安がやってきた。そこから逃れるため、入院する前と変わりない話題を出す。

「今日ね――中間テストが終わったの。国語と社会はほとんど解けたよ。けど、英語はあまり分からなかった。ただ、赤点は免れそう。」

昭は微笑む。

「それはよかった。」

「紗雪と由月がね、私が大変だからって教えてくれるの。だから大丈夫。勉強は安心して。」

あとは――と言い、先日の出来事について思い出す。

「生命保険証書を谷川さんが返しに来たわ。手続きは無事に終わったみたい。その――保険とか契約とか私には分かんないから、大切なことはみんな谷川さん任せになっちゃったけど。」

「子供に分からんことは谷川に任せればいい。」

ふっと、昭から笑みが消えた。

「社長は何か言ってなかったか?」

言葉に少し詰まる。

やがて、正直に述べた。

「退職する必要はないって。そんなことより、早く元気になれって言ってたわ。あと、何かあった場合は、費用は負担してくれるって。でも――私をあずかることは難しいみたい。」

「そうか。」昭は目を細める。「じゃあ施設にあずけるしかないな。」

背筋が冷えた。

昭が亡くなるときの覚悟はできていない。施設という言葉も冷たく感じられる。何より、見ず知らずの他人に預けられるのが怖い。

これから自分がどうなるか分からない。しかも、自分がどこから来たかも美邦は知らないのだ。

今まで何度も繰り返したことを尋ねる。

「ねえ――お母さんと暮らしてた町はどこなの?」

昭の顔が強張こわばった。

「――知ってどうする?」

昭に添えられていない方の手が、膝元のスカートを握りしめる。

「だって、親戚がいることさえ知らなかったのよ?」

母が生きていた時――見ず知らずの町で美邦は暮らしていた。

物心つく前のことだ。それでも、大きな神社のある港町だったことは覚えている。その町がどこなのか、美邦は今まで何度も昭に尋ねた。だが、答えが返ってきたことはない。親戚については数日前に初めて知った。

「それに、谷川さんが、親戚の元に預けられたほうがいいんじゃないかって言うの。でも――どこに住んでいるかも分からないし、どんな人かも知らないし。」

「そんな人に預けられたいのか?」

美邦は黙った。人見知りの自分が、顔も知らない親戚に預けられるのは難しい。

「友達とだって別れて暮らすことになるんだぞ? 全く知らん田舎で暮らすより、今までどおり京都で暮らした方がいい。あっちとこっちじゃ環境が違いすぎるんだから。」

胸が熱くなる。この話題に触れると、昭は必ず話を逸らす。母と暮らしていた町について何も教えてくれない。

「心配するな――美邦は普通の女の子になれる。」

天井へ向け、しゃがれた声が響く。

「お父さんがいなくとも、美邦は生きていける。お母さんがいなかった分、自分のことは一人でやって来たじゃないか。施設だって酷い処じゃない。何かがあれば谷川を頼ればいい。」

言葉とは裏腹に、「普通の女の子」というスタートラインに立てない娘を昭は心配していた。

美邦は何も答えられない。

やがて、うわごとのように昭は繰り返す。

「すまないな――美邦。本当に。」
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