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本編
6 箱入りとナイフ 後編
しおりを挟むベルティーユは、魔術師ラウルの元で役目と仕事を得た。
南の森の招かれざる訪問者を排除し、森が招くお客様を案内する。魔術師の従者。
本来、排除と案内は魔術師の弟子である準魔術師の務め。
けれど、南の森の居候となったベルティーユには、魔術師としての才能がない。生まれた子に、魔術師が精霊の祝福を授ける風習すら廃れた、東の大陸出身では当然なのだけれど。それでもラウルに頼み込み、彼女は従者の仕事に飛び込んだ。
あれから三年。今では同僚からも認められている、立派な従者の一人。
排除と案内。――排除というのは、もちろん実力行使のこと。魔術の才能はなくとも、こちらの素養は少なからずあったらしい。
「異常者だと。……この、僕が?」
床に手をつき脇腹を押さえる兄の頬は、引きつっている。とっさに身体を逸らしたのだろう。当分立てないにしても、蹴りの入りが少し浅かった。
――詰めが甘いって、グラスに知られたらお小言貰いそう。
体術とナイフの師である同僚グラスの顰めた顔を想像して、ベルティーユは嘆息した。
「実の妹に触れて鼻息を荒げるなんて、異常者でしょう? これまでは服の上から触れるしか出来なかった小心者なのに、いよいよ直接肌に触れるなんて。……気色悪い。金輪際、私の側に僅かでも寄らないでください」
この本音を口にするのに、三年の月日が必要だった。
けれどもう、暴力だって押し倒されたって、怖くはない。この愚かしい人を恐れたりなんてしない。
ベルティーユは笑顔で言葉のナイフを投げつける。加虐に加虐で返すなんて、子供じみている自覚はある。
兄は無言で、右手に掴んでいたナイフをベルティーユ目がけて投げつけた。
けれど銀色の刃はくるりと不自然な軌道を描き、彼女の目の前でぴたりと止まる。その刃と柄には、先程までは見えなかった、ひと繋がりの唐草の彫刻が青白く浮き上がっていた。
宙に浮いたままのナイフにベルティーユが右手を伸ばすと、刃は吸い付くように彼女の手のひらに収まる。
「無駄です。この刃は特別製ですもの。魔術師の呪いを施した道具は、定められた所有者にしか扱えず、決して所有者を傷付けないのですから。西では常識です。ご存じありません?」
しかも施したのはラウル。ベルティーユを認め、仕事を与えてくれた証。
にこりと微笑み首を傾げると、兄はとうとう取り繕う忍耐を手放した。
「……うるさい、うるさい、うるさいっ! このあばずれ。僕の所有物の分際で他の男に股を開きやがって!」
日頃は仮面のように美しい顔が、悪鬼のように歪んでいる。血を上らせた赤い顔で目を血走らせる姿は、優雅な外の顔でも、ベルティーユをいたぶる支配者の顔でもなかった。
「ラウル様をあなたと一緒にしないで」
ベルティーユの低い独り言は、兄の耳には届かない。
ラウルとの関係は、清々しいほど健全だ。こちらの方が本物の、兄妹であるかのように。
ただ彼は、触れることを許すだけ。ラウルから触れてくれたことなんてない。ローズの手は自分からだって掴むのに、ベルティーユには手を差し出し、いつも彼女が触れるまで待つ。驚かせようとくすぐれば、非難交じりの目で嗜めるのだ。
手を伸ばして掴まえるのは、いつだってベルティーユの方。
「どうして! 昔からお前は、僕に愛を返さないんだベルティーユ!」
幼子の癇癪のように叫ぶ兄に、ベルティーユは目を細めた。
「愛を返す? 返される何かを、ご自分が与えたことがあると? お兄様は、私のことなんて最初から愛していないでしょう。愛しているのは自分自身。欲しいのは、自分を引き立てる都合の良くて従順な虜囚ですもの」
兄の周りに集う人々は、異常なまでに兄を崇拝する。それには両親も含まれていた。
「違う! 愛しているから王女と婚約までして、お前を取り戻そうと……」
「ご自分の足で探すわけでもないのに?」
ぐっと兄が言葉に詰まる。
尤も、自ら足を運ばれたって兄への感情は毛先程も動かないけれど。
「怖い記憶や嫌な思い出は、いつだってお兄様に結びつく。十六年間ずっと怖くて、味方もいなくて、私はただの人形で玩具の振りをしていました。わざとじゃないなんて、言い訳はやめてくださいね。確かにあなたは私を嬲って楽しんでいたのですから。……けれど私は、お兄様の都合の良い捌け口なんかじゃない。意思を持った人間です。だから、あなたを私の人生から永遠に追い出すつもりでこの国を訪れました。転移陣を踏んだのも、無抵抗で連行されたのもこのため。――最低なあなたと血が繋がっている所為なんかで、大切な人を煩わせないために」
その為に、ベルティーユは一人で母国に戻ったのだから。
高位とはいえ一介の魔術師が、王族からの召喚状を無視して、ただで済むはずがない。最近の森への招かれざる客の多さには、同僚と共に辟易していた。この男のせいだったのだろう。自らは一歩も国を出ず、人を使って脅しを掛けようとする辺り、つくづく兄らしい。
己の兄がラウルを煩わせていたかと思うと、血が湧きたつほど不愉快だ。
この血の縁を、自らの手で断ち切ってみせる。
「お祖父様に呪い子のお前の、命乞いをしてやったのは僕だ。優しくだってしてやったじゃないか。可愛がってやっただろう!? 僕は、ベルティーユだから……」
「頼んでいません。迷惑です。生まれた時にどこぞに引き取られた方が、ずっとずっとマシでした」
ぴしゃりと述べると、兄はしばし無言になり、やがて低く笑った。
「それなら、仕方ない。動けないお前を連れて帰るよ。足の一本くらい別に使えなくても支障はないさ。庭になんて、部屋の外になんて一生出さない。……お前が生きるには僕が必要なんだって、よく思い出させないと」
言葉と共に懐から取り出されたのは、フロントロック式の銃。
兄の淀んだ目と銃口を、ベルティーユが見据える。
引き金が引かれる瞬間。
唐突に。
煙のように間に男が立つ。
「ふむ。本気で言っているなら、救いようがない愚かさだな。ベルに縋ってようやっと生きているのは、君の方だろう? グレンドール」
アメジストの瞳に、白に近い灰色の髪。珍しく結んでいない、おろされたままの髪がふわりと広がる。
兄とベルティーユの間に割って入ったのは、ラウル。
「ラウル、様」
「魔術師風情が僕を愚かだと? ――人攫いの奸夫め!」
叫ぶ声と銃声が重なる。
咄嗟にベルティーユはラウルの背に飛びつき、力を込めて彼の身体を引こうとした。けれどラウルは、姿を現す転移陣の軸をまだ解いていないらしく、触れられない。
動かすのを諦めて、滑るように二人の合間に強引に潜り込む。
弾丸はラウルに到達する前に中空で不自然に止まっていた。
「奸夫とはこれはまた。酷い言われようだ。――ベル、行先きくらい書いて出掛けなさい。心配する」
前半はグレンドールに、後半はベルティーユに向けて。ラウルがのんびりと笑い、指を鳴らした。止まったままだった弾丸は煙のように消え、次の瞬間には、ラウルの背後の壁にめり込む。
「お叱りでしたら、帰ってから如何様にも」
次の発砲の用意が整う前に。ベルティーユは素早くナイフを逆手に握り直すと、銃めがけて上へと力を込めて振りあげる。銃身がぐにゃりとひしゃげ、手から弾き飛ばされた。
間髪入れず低い体勢から起き上がるようにして、顎を蹴りあげる。上げた足を下ろす勢いを利用して、膝立ちのままの男の脳天に踵落としを一撃。どさりと重い音を立て、今度こそ兄が床に倒れた。
所有者の手を離れた銃の残骸を回収し振り向くと、しかめっ面でラウルに詰め寄った。
「ラウル様。転移陣の位置は常に正確にと、あれ程お願いしてますでしょう」
これは従者全員からの常のお願いである。彼はよく、ふらりと勝手に転移陣を結んで、所定ではない場所へ飛んでしまう。
「正確だっただろう? 君と兄上の間だ。私がこの位置なのはあえてだよ」
ラウルが片方の唇だけを上げる。してやったりという顔だ。
「私の腕はそんなに信用出来ませんか?」
まだ三年前と同じ庇護すべき者扱いなのだろうか。そんなの苦しい。じくじくと胸が痛む。同じ目線にあるアメジストの瞳を見返した。
出会った晩と変わらずラウルの瞳は美しく、そして何を考えているのか読めない。
「ベルのことは信頼しているし、実力も認めている。そうじゃなきゃ、私は刃なんて誂えない」
ベルティーユの片手に握られたままのナイフを、ラウルが指差す。
そうだ。
これは、ラウルがベルティーユに与えた特別製。
彼女が役割と居場所を得た証。
「でしたら、ちゃんと守らせてください。魔術師を物理から守るのが、従者の本来の役目でしょう? ……私はラウル様のお役に立ちたいのです」
役に立てば。必要とされるならば。
きっとその間は側に居られるから。
「もちろん役に立っているとも。十分すぎるほどだ。けれど、今回ばかりは駄目だ」
「私が過去に囚われて、兄に手心を加えると?」
その程度の覚悟だと思われているとしたら、悔しい。
唇を噛みしめると、何故かラウルは困った顔をして首を振った。
「あー……違う。そんな話ではないんだ」
「じゃあ何故ですか。はっきりおっしゃってください」
ラウルの元に引き取られて三年。
彼も、彼の従者やメイドも、皆もって回った言葉遊びは使わない。すっかりその一員となったベルティーユも、例外ではなかった。
「いや……それはあれだ、うん」
ラウルには珍しい、目を逸らして言い淀む姿に、内心疑問符を浮かべながらも逃すつもりはない。
「ラウル様、あれとは?」
一人分開いていた空間を、合間に踏み込みぐっと顔を近づける。
遠慮していたら何も成せない。欲しい明日も、目指す未来もやって来ないのだと、そもそもベルティーユに教えてくれたのはラウルだ。
踏み出すことを躊躇しない心と、前を向き続けるだけの力を、今の彼女は手に入れた。
外の世界に出て、沢山では無くても人々に揉まれて。ベルティーユはだいぶ逞しく成長した。出会った時にラウルが言っていた「枷が外れた姿」としては、少々行き過ぎかもしれない。
だから強引に距離を詰めるのは、いつもベルティーユ。
三年前では考えられない姿。
「ああもう、わかったから」
じっと見つめると、がしがしと頭を掻いた後、ラウルが顔を逸らしたまま続ける。
「私がこれ以上、ベルの視界にグレンドールを入れたくなかったんだ! ……ただの我儘だよ」
ラウルが少しだけ目元を赤くしてそんなことを口にするから。ベルティーユはきょとんと首を傾げた。
「それでご自分を遮蔽物に?」
「手っ取り早いだろう。銃なんぞ振りまわしているなら、余計だ」
「銃弾なんて、はじくか避けるかできました」
「分かっているさ。だからこれは、私の気分の問題だ。あれ以上ベルを見せて、グレンドールを喜ばせるなんて癪だ。……目減りするかもしれんだろ」
延びる兄に向けられたアメジストの瞳は、本気で不快そうである。
「見られたくらいで、減ったりしません」
くすくすと笑いながら、ベルティーユが応じる。
「いいや、減る。楽しい気分とか、絶対に減るぞ。――それに、あんな独りよがりの妄想は、さっさと遮るに限る」
「!!」
ラウルは、兄の言葉を遮るようにして現れた。
空間に関わる魔術に長け、煙のように人や物、自らを自在に移動させる『紫煙』のラウル。彼は把握したいと思った空間での出来事を、どこまで知っているのだろう。――どこまで見て、聞いていたのだろう。
ベルティーユの鼓動が、嫌な想像に早鐘を打つ。
「――ラウル様は」
「ん?」
呼びかけに応え、視線をベルティーユに戻したラウルの口元は、少しだけ緩められている。だからこれはきっといつもの軽口。ベルティーユに向ける表情は、彼女の良く知る館でのちょっと気の抜けたラウル。何も変わらない。
「赤くなってる。くそっ、会って早々妹に手を上げるとは、どんな精神構造しているんだあの男。……他に怪我はないか、ベル」
「怪我、ですか?」
顔の横に心配顔のラウルの右手が近づいて、ベルティーユは漸く思い出した。兄に押し倒された時に打たれた左の頬。かなり強く打たれた。きっと近づけば分かるほど、赤くなっていたのだろう。
癒しの魔術の柔らかな温かさがじんわりと伝わる。頬の痛みが引いていく。触れない距離がもどかしく、そして優しい。
それなのに。
優しい気遣いと温かさに癒されるより深く、心が底に落ちていく。
兄に見えるところを打たれたのは久しぶりだった。抓られ、服の上から触れられたのは三年ぶり。明確な意思を持ってドレスの中まで手が忍んだのは、初めてだった。
ああ、けれど。
十六年間のうちに、あの手に布越しに触れられていない場所なんて、この身体には数えるほどしか残されていない。
ラウルに丁寧に心配をしてもらう場所なんて、ベルティーユに残っているのだろうか?
「――ラウル様。ラウル様は、どこまで、兄の行いを……。私が、何をされていたのか……あの時の会話、聞い……」
喉が詰まってしまったように、上手く声が出てこない。
鏡を見なくても分かる。目の周りが熱い。きっと今、泣きそうな情けない顔をしているのだろう。
唐突に気付いてしまった。
――私はラウル様が好き。だから。
どうして今まで、ラウルの方から触れて欲しいなんて図々しいことを考えていたのか。この人に恋焦がれて、更に想いを返して欲しいと、自覚もせずに望んでいたから。
そんな自分の自惚れた気持ちに気付いてしまった。
ベルティーユは恥じ入るように、一歩下がった。
――私って、穢れている。
兄を打ち負かし、彼に与えられた仕打ちを完全に克服できたと思った。けれどそれは、ベルティーユの中だけの決着。
他者に知られたら、どんな風に思われるのだろうかなんて、考えが追いつかなかった。自分だけのことで精一杯で。
蓋をしていた、気持ちの悪い何かが溢れだす。
兄との会話を聞かれていたかもしれないと想像しただけで。
こんなにも怖い。
「ベル?」
俯き黙りこむベルティーユを訝しみ、ラウルが言葉を継ごうとしたのと、鍵の掛かった扉が駆け付けた王宮の兵によって破られたのは、同時だった。
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