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第十三章 新世界
新世界(6)
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「では私――木戸美里香が真白先生の奥さんを学校案内してまいります!」
「よろしくね、木戸さん」
「じゃあね、悠木くん――」
「あ、……はい」
校舎中を見て回りたいという香奈恵さんに保健委員の木戸さんが案内役を買って出た。
木戸さんに連れられて、香奈恵さんは保健室から廊下へと出ていった。
学校へと急に現れた香奈恵さんに、僕の心は激しく揺さぶられた。
でも木戸さんが香奈恵さん連れ出して、保健室にはまた僕と小石川先生だけが残された。
起き出して制服を整える。
明莉が座っていたというパイプ椅子を動かして、先生の机の近くに座った。
「――大丈夫? 歩ける?」
「大丈夫です――。春先の最悪だった時期に比べればいくらかマシですよ」
「それはなんとも判断に困る比較基準ね。――はいホットミルクティー。特別よ?」
「あ……ありがとうございます」
マグカップを受け取る。温かかった。
たまのたまに小石川先生はミルクティーを入れてくれる。いつもは麦茶なのに。
春先にも何度かあった。それは小石川先生が特別に気を遣ってくれている時なのだ。
「――やっぱり、あの時かな? 悠木くん? 半月くらい前かな? 保健室に来て真白先生の家の住所を聞いた時。……実際に真白先生の家に行ったのね? そこで――香奈恵に会った?」
僕は頷いた。小石川先生には敵わない。
そして――僕を助けてくれる。きっと、今回もまた。
「でも、驚きました。先生と香奈恵さんに繋がりがあるなんて」
「うん、まぁ、私も驚いたんだけどね。――新任の物理教師の彼女が自分の後輩だって知った時には」
小石川先生は昔を思い出すように目を細めた。
「――それまで真白先生自身とは、面識なかったんですか?」
「それは無かったわね。香奈恵と真白先生は大学のサークルで知り合ったらしいけれど、私が卒業した後だったから」
先生達にも青春時代はあったのだ。
真白先生のことは、ただ明莉を寝取った教師として見ていた。
それ以上の存在として考えたことがなかった。
でも香奈恵さんと真白先生、そして小石川先生にも過去はあったのだ。
――当たり前のことだけれど。
「――それで悠木くんは、香奈恵のこと……どこまで知っているの?」
「え? ――どこまでって……どういうことですか?」
「どういうことって――病気のことだけど?」
「――病気?」
小石川先生が何のことを言っているのか分からなかった。
でも解釈を繋げると、少しずつ頭の中でバラバラだった糸が繋がり始めた。
時々見せた虚ろな瞳。
こちらが脅したはずなのに、気付けば彼女の方からもたれ掛かってきた依存性。
EL-SPYにまつわる奇怪な言動。
――普通ではなかった。
「もしかして……香奈恵さんって……」
「あ……悠木くん、知らなかったんだ――。でも、何処かで気づいていたんじゃないかな?」
保健室のデスクの前で先生は紅茶を啜った。
「本当は彼女のことを一生徒に話すべきじゃないんだろうけど、君は当事者だから。――それに真白先生と篠宮さんを挟んで色々問題を抱えていると思うから」
小石川先生が少しだけ躊躇うように、瞼を半分閉じた。
やがてまた開いて、僕に穏やかな笑顔を向けた。
「――だから悠木くんには話しておこうと思う。君が――それを望むなら」
僕はただ無言で首を縦に振った。
※
真白誠人と榎本香奈恵は大学生時代にサークル活動を通して知り合った。
それでも付き合い出したのは学生生活の終盤だったらしい。
普通の同級生カップルとして学生生活を終えた二人は一般企業へと就職する。
真白先生はもともと学校の先生になりたいという思いを持っていたが、教育業界の厳しさを聞き及ぶこともあり、二人共一般の民間企業へと就職したという。真白先生はメーカー系、香奈恵さんはIT関係。
でも真白先生は就職先でやりがいを見いだせず、元々の思いもあって、学校の教師への転職を企てた。そして運良く就職した先がこの学校ということらしい。
学校の先生職は激務の割に残業代もつかないために収入は今ひとつ。だから少し踏み出すことを躊躇った真白先生の背中を押したのは香奈恵さんだったという。「自分が支えるから収入は何も気にしなくていい、だから夢を追って」と。真白先生はだから決断して物理教師になり、そして映画好きが興じて放送部の顧問にもなった。
その頃、香奈恵さんの仕事は順調だった。
担当したプロジェクトは軒並み成功で、若手のホープのように扱われていたのだとか。
美人のやり手。華やかな存在だったに違いない。同僚にも恵まれていたという。
でも転機は訪れた。二年前の春に真白香奈恵は異動になり、上司が変わった。
この上司が問題だった。香奈恵さんの一回り年上のその男は、能力はあるのだけれどワンマンで、また女性に対する偏見を持つ人物だったという。端的に言って、合わなかった。
香奈恵さんが持っていた頑張り屋の側面も、正義感も全てが裏目に出たのだ。
上司との関係に関してはセクハラとパワハラのオンパレードだった。たとえそれが上司にとっては意図的なものでなかったにせよ。
真白香奈恵は歯を食いしばって堪えた。夫に「自分が支える」と言った手前、簡単に引くことは出来なかったのだという。何よりも彼女自身に誇りと自負があった。
でも長続きはしなかった。チームに不協和音が増すごとに上司ではなく、彼女自身の評価が低下しはじめた。意固地な彼女が足を引っ張っているのだと、そういう風評も現れだした。
彼女に出来ることは――今まで以上に頑張る、ことだけだった。
そして去年の冬――彼女は折れた。
「よろしくね、木戸さん」
「じゃあね、悠木くん――」
「あ、……はい」
校舎中を見て回りたいという香奈恵さんに保健委員の木戸さんが案内役を買って出た。
木戸さんに連れられて、香奈恵さんは保健室から廊下へと出ていった。
学校へと急に現れた香奈恵さんに、僕の心は激しく揺さぶられた。
でも木戸さんが香奈恵さん連れ出して、保健室にはまた僕と小石川先生だけが残された。
起き出して制服を整える。
明莉が座っていたというパイプ椅子を動かして、先生の机の近くに座った。
「――大丈夫? 歩ける?」
「大丈夫です――。春先の最悪だった時期に比べればいくらかマシですよ」
「それはなんとも判断に困る比較基準ね。――はいホットミルクティー。特別よ?」
「あ……ありがとうございます」
マグカップを受け取る。温かかった。
たまのたまに小石川先生はミルクティーを入れてくれる。いつもは麦茶なのに。
春先にも何度かあった。それは小石川先生が特別に気を遣ってくれている時なのだ。
「――やっぱり、あの時かな? 悠木くん? 半月くらい前かな? 保健室に来て真白先生の家の住所を聞いた時。……実際に真白先生の家に行ったのね? そこで――香奈恵に会った?」
僕は頷いた。小石川先生には敵わない。
そして――僕を助けてくれる。きっと、今回もまた。
「でも、驚きました。先生と香奈恵さんに繋がりがあるなんて」
「うん、まぁ、私も驚いたんだけどね。――新任の物理教師の彼女が自分の後輩だって知った時には」
小石川先生は昔を思い出すように目を細めた。
「――それまで真白先生自身とは、面識なかったんですか?」
「それは無かったわね。香奈恵と真白先生は大学のサークルで知り合ったらしいけれど、私が卒業した後だったから」
先生達にも青春時代はあったのだ。
真白先生のことは、ただ明莉を寝取った教師として見ていた。
それ以上の存在として考えたことがなかった。
でも香奈恵さんと真白先生、そして小石川先生にも過去はあったのだ。
――当たり前のことだけれど。
「――それで悠木くんは、香奈恵のこと……どこまで知っているの?」
「え? ――どこまでって……どういうことですか?」
「どういうことって――病気のことだけど?」
「――病気?」
小石川先生が何のことを言っているのか分からなかった。
でも解釈を繋げると、少しずつ頭の中でバラバラだった糸が繋がり始めた。
時々見せた虚ろな瞳。
こちらが脅したはずなのに、気付けば彼女の方からもたれ掛かってきた依存性。
EL-SPYにまつわる奇怪な言動。
――普通ではなかった。
「もしかして……香奈恵さんって……」
「あ……悠木くん、知らなかったんだ――。でも、何処かで気づいていたんじゃないかな?」
保健室のデスクの前で先生は紅茶を啜った。
「本当は彼女のことを一生徒に話すべきじゃないんだろうけど、君は当事者だから。――それに真白先生と篠宮さんを挟んで色々問題を抱えていると思うから」
小石川先生が少しだけ躊躇うように、瞼を半分閉じた。
やがてまた開いて、僕に穏やかな笑顔を向けた。
「――だから悠木くんには話しておこうと思う。君が――それを望むなら」
僕はただ無言で首を縦に振った。
※
真白誠人と榎本香奈恵は大学生時代にサークル活動を通して知り合った。
それでも付き合い出したのは学生生活の終盤だったらしい。
普通の同級生カップルとして学生生活を終えた二人は一般企業へと就職する。
真白先生はもともと学校の先生になりたいという思いを持っていたが、教育業界の厳しさを聞き及ぶこともあり、二人共一般の民間企業へと就職したという。真白先生はメーカー系、香奈恵さんはIT関係。
でも真白先生は就職先でやりがいを見いだせず、元々の思いもあって、学校の教師への転職を企てた。そして運良く就職した先がこの学校ということらしい。
学校の先生職は激務の割に残業代もつかないために収入は今ひとつ。だから少し踏み出すことを躊躇った真白先生の背中を押したのは香奈恵さんだったという。「自分が支えるから収入は何も気にしなくていい、だから夢を追って」と。真白先生はだから決断して物理教師になり、そして映画好きが興じて放送部の顧問にもなった。
その頃、香奈恵さんの仕事は順調だった。
担当したプロジェクトは軒並み成功で、若手のホープのように扱われていたのだとか。
美人のやり手。華やかな存在だったに違いない。同僚にも恵まれていたという。
でも転機は訪れた。二年前の春に真白香奈恵は異動になり、上司が変わった。
この上司が問題だった。香奈恵さんの一回り年上のその男は、能力はあるのだけれどワンマンで、また女性に対する偏見を持つ人物だったという。端的に言って、合わなかった。
香奈恵さんが持っていた頑張り屋の側面も、正義感も全てが裏目に出たのだ。
上司との関係に関してはセクハラとパワハラのオンパレードだった。たとえそれが上司にとっては意図的なものでなかったにせよ。
真白香奈恵は歯を食いしばって堪えた。夫に「自分が支える」と言った手前、簡単に引くことは出来なかったのだという。何よりも彼女自身に誇りと自負があった。
でも長続きはしなかった。チームに不協和音が増すごとに上司ではなく、彼女自身の評価が低下しはじめた。意固地な彼女が足を引っ張っているのだと、そういう風評も現れだした。
彼女に出来ることは――今まで以上に頑張る、ことだけだった。
そして去年の冬――彼女は折れた。
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