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第一〇章 崩落
崩落(6)
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生徒指導室を抜け出して、一人廊下を歩く。
鞄は教室に置きっぱなしだけど、それはもうどうでも良い気がしてきた。
冬の寒さが染みる廊下を歩くうちに、頭の熱を冬の冷気が奪っていく。
荒ぶっていた心臓の拍動は、少しずつ規則的なリズムへと収束し始める。
前のめり気味に曲げて歩いていた上体も、少しずつ起こせるようになる。
荒く吐いていた呼気。それも細かくて、小さなものへと変わっていく。
それでも息は浅くて、貧血のときみたいに頭ははっきりしなかった。
ただ身体中が言うことを聞かないみたいだった。身体は内側から軋んでいた。
階段の手すりに捕まって、僕は階段を、傷病者みたいに一段ずつ降りていく。
気を抜くと倒れ込んで、上体から階段を転がり落ちてしまいそうだった。
遠のいていきそうな意識の中で、僕は一歩ずつ足を進める。
一階まで降りてきた。何人かの生徒とすれ違った。
視線を一瞬こっちに向ける生徒もいたけれど、声をかけることもなく通り過ぎていく。
体調不良の人間くらい、日常から校舎の中にはいくらでもいる。
お腹が痛いのかもしれないし、熱っぽいのかもしれない。
そんな他人にわざわざ声なんて掛けないのだろう、僕らは。
もしかしたら中には「あ、あの校内放送で大告白の人だ。体調が悪そうだなぁ。まぁ、幸せがあれば不幸もあるよね」とか思っていた生徒がいたかもしれない。
――でも、そんなことは、どうだっていい。
ふらつきながら廊下を抜ける。保健室の前までやってきた。
引き戸のノブに手を掛けると、扉を開いて部屋の中へと、足を踏み入れた。
「小石川先生……。小石川先生……」
息も絶え絶えに先生の座る席へと足を動かす。――自分でも酷い状態だなと思いながら。
もう少しで先生に会える。もう少しで僕は小石川先生に話を聞いてもらえる。もう少しで小石川先生に癒してもらえる。そう自分に言い聞かせていた。
そして辿り着いた保健室のいつもの座席に――小石川稔里先生は居なかった。
「――小石川先生なら、今日はもう帰られましたよ?」
カーテンで仕切られたベッドの奥の方から出てきたのはポニーテールの女の子だった。
襟章を見る限り一年生みたいだ。きっと放課後の当番をする保健委員だろう。
「……どうかされました? もしよかったら頭痛薬とか胃腸薬くらいなら勝手にお渡しすることもできますけれど?」
顔立ちは普通。やたら飾り気がなくてはきはきした印象の女の子だった。
さっきまで明莉の裸を見ていたから、頭の中が性的になっていてついつい女性の裸を想像してしまう思考回路になってしまっている気がしていた。でもその女の子の制服姿からはまったくその裸体は想起されなかった。
そういう意味で全く色気のない一年生で――逆になんだか凄いなとも思った。
「――いや、いいよ。小石川先生がおられたら相談したいこともあったんだけど、――もう帰られたのなら仕方ないよね」
「なんだかすみません。私じゃ多分代わりになれないやつですよね? ――でも大丈夫ですか? かなり顔色悪いですよ。もし良かったらベッドで休んでいきます? いま誰も寝ていませんし、十分でも二十分でも横になると気分が楽になることもありますよ?」
「――そうだな。ありがとう。……そうするかな。じゃあ、その前に麦茶一杯もらっていいかな?」
「あ……麦茶。先輩……その存在を知っている人なんですね~。まぁ、いいですよ。そこに座って待っていてください」
そのポニーテールの女の子は、しばらくすると保健室の奥にある冷蔵庫からボトルを持ってきてくれて、麦茶をグラスに注いでから渡してくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そう言って受け取ると、少しずつ傾けるように麦茶を煽る。
異常な興奮状態が続いたから、喉がからからになっていた。
全部飲み干すと、僕はぷはぁと息を吐いた。
「――先輩かなり疲れていますね。――っていうか、もしかして元保健委員とかですか? 麦茶の存在を知っているなんて」
「違うよ。保険委員じゃないよ。保健室に来慣れているだけ。――君は保健委員……だよね? 今年度の後期から?」
「あ、よくわかりましたね? そうです。一年生の後期から保健委員になった後発組です。木戸美里香って言います。以後お見知りおきのほどを」
そう言って木戸さんは麦茶のペットボトルを抱えたまま、頭を一つ下げた。
平均的な容姿と、野暮ったいポニーテールが、麦茶とセットで、何だかほっこりした。
「よろしく。僕は悠木秋翔。二年生だよ。――前期の間は保健室の主みたいな存在だったんだけどね。――保健室登校だったんだ。……ちょっと色々あって、精神を病んじゃってね」
「へー、そうなんですね。――あっ、もしかして盗作問題の?」
いきなりど直球な木戸さん。僕は思わず苦笑いを浮かべた。
「――よく知っているね。それ、君が入学するよりも以前の事件だと思うんだけど?」
「あ、ごめんなさい。すみません。仲の良い友達に噂話が大好きな友達がいて……。本当にすみません」
もう一度頭を下げる木戸さん。
その素朴な姿勢に、なんだか憑き物が取れるような感じがした。
「――別にいいよ。まぁ、そういう理由だから。保健室の中のことにも詳しいし、あと――小石川先生には凄くお世話になっているってこと」
「そうなんですね。なんとなくわかります。小石川先生――本当にいい先生ですもんねぇ~」
そう言って木戸さんは麦茶のペットボトルを抱えながら「うんうん」と頷く。――もしかしたらこの子も小石川先生にひとかたならずお世話になったのかもしれないな。
僕は麦茶の入っていたグラスを木戸さんに渡すと、円形のパイプ椅子から立ち上がる。
「先輩。ベッドは好きなのを使ってもらったらいいですからね? 全部あいていますし」
「ありがとう。――でもいいよ。なんだか麦茶を貰って、君と少し話したら、何だか落ち着いてきたから……、ベッドで寝ていかなくても大丈夫だと思う」
それに今、ベッドの上で目を閉じると、変な妄想をしてしまいそうな気がするのだ。
明莉と真白先生の汗を流した性交のシーン。さっき見たイメージとそれに引き起こされた感情は、今もまだ脳内で濁流みたいに渦巻いている。
「そうですか? だったらいいんですけど。無理はしないでくださいね? 健康第一!」
「心配してくれて、ありがとう。多分大丈夫だから」
扉口へ向かう。
「じゃあ、麦茶ありがとう」
「はい。ではまた、何かあったら来てくださいね~。先輩」
僕は保険委員さん――木戸美里香にお礼を言うと自分のクラスへと向かった。
保健室にやってきた時よりかは幾分軽快な足取りで。
その道の途中で僕はとにかく、真白先生と明莉に会わないことだけをを願った。今二人と遭遇すると、自分自身の正気を保てる自信がまるで無かった。
無事教室に戻り鞄をピックアップすると、靴置き場を抜けて、僕は校門へと向かう。
体育館からはバスケットボール部の練習の音。ドリブルの音や掛け声が聞こえてきた。
――森さんは水上と仲直り出来たんだろうか?
昨日、自分の腕で抱いた親友の彼女――森美樹の笑顔を思い出す。
親友の彼女は僕の親友でもある。その親友と僕はセックスをしたのだ。
その裸体のイメージを思い出す。浮かび上がった肌色の映像とその身体が揺れる中で上がった嬌声。でも頭の中で映像のように再生されたそのイメージは、徐々にさっき見た明莉のものへと脳内で变化していった。――だから僕は頭を振ってそのイメージを追い払った。
自信に満ちた真白先生の表情を思い出す。出し抜くつもりだった僕の手は尽く潰された。
だからって全ての手が封じられたわけでも、完全に敗北したわけでもない。
僕は唇を噛みしめる。真白先生に抱かれた明莉の蕩けた表情を思い出しながら。
明莉は真白先生を選んだのだと言う。――少なくとも今は選んでいる。
でもそれが未来永劫続く、真白先生の勝利を意味しているわけではない。
ただ形勢は大きく変わった。情勢は激変した。僕は立て直さなければならない。
僕自身が唯一無二の真実だと信じる世界線を描くために。
もう一度――もう一度、僕に主導権を。――もう一度、――もう一度。
肩で息をしながら僕は校門を抜けた。まなじりに熱いものを感じながら。
校門脇の塀に背中を預ける。僕はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面をタップする。目的のアカウント名を見つけると、音声通話の発信ボタンを押した。
何度か発信音が鳴って、スマートフォンの向こう側に目的の人物が現れる。
「――もしもし? どうしたの? 突然電話を掛けてくるなんて、珍しいじゃない? 学校は終わったところ?」
電話口に現れた声は大人っぽくて、それでいて艶のある――優しい声だった。
今の僕にとって彼女が――縋るべき存在に思えたのだ。
「……突然ごめん。今から会えないかな? ――香奈恵さん」
鞄は教室に置きっぱなしだけど、それはもうどうでも良い気がしてきた。
冬の寒さが染みる廊下を歩くうちに、頭の熱を冬の冷気が奪っていく。
荒ぶっていた心臓の拍動は、少しずつ規則的なリズムへと収束し始める。
前のめり気味に曲げて歩いていた上体も、少しずつ起こせるようになる。
荒く吐いていた呼気。それも細かくて、小さなものへと変わっていく。
それでも息は浅くて、貧血のときみたいに頭ははっきりしなかった。
ただ身体中が言うことを聞かないみたいだった。身体は内側から軋んでいた。
階段の手すりに捕まって、僕は階段を、傷病者みたいに一段ずつ降りていく。
気を抜くと倒れ込んで、上体から階段を転がり落ちてしまいそうだった。
遠のいていきそうな意識の中で、僕は一歩ずつ足を進める。
一階まで降りてきた。何人かの生徒とすれ違った。
視線を一瞬こっちに向ける生徒もいたけれど、声をかけることもなく通り過ぎていく。
体調不良の人間くらい、日常から校舎の中にはいくらでもいる。
お腹が痛いのかもしれないし、熱っぽいのかもしれない。
そんな他人にわざわざ声なんて掛けないのだろう、僕らは。
もしかしたら中には「あ、あの校内放送で大告白の人だ。体調が悪そうだなぁ。まぁ、幸せがあれば不幸もあるよね」とか思っていた生徒がいたかもしれない。
――でも、そんなことは、どうだっていい。
ふらつきながら廊下を抜ける。保健室の前までやってきた。
引き戸のノブに手を掛けると、扉を開いて部屋の中へと、足を踏み入れた。
「小石川先生……。小石川先生……」
息も絶え絶えに先生の座る席へと足を動かす。――自分でも酷い状態だなと思いながら。
もう少しで先生に会える。もう少しで僕は小石川先生に話を聞いてもらえる。もう少しで小石川先生に癒してもらえる。そう自分に言い聞かせていた。
そして辿り着いた保健室のいつもの座席に――小石川稔里先生は居なかった。
「――小石川先生なら、今日はもう帰られましたよ?」
カーテンで仕切られたベッドの奥の方から出てきたのはポニーテールの女の子だった。
襟章を見る限り一年生みたいだ。きっと放課後の当番をする保健委員だろう。
「……どうかされました? もしよかったら頭痛薬とか胃腸薬くらいなら勝手にお渡しすることもできますけれど?」
顔立ちは普通。やたら飾り気がなくてはきはきした印象の女の子だった。
さっきまで明莉の裸を見ていたから、頭の中が性的になっていてついつい女性の裸を想像してしまう思考回路になってしまっている気がしていた。でもその女の子の制服姿からはまったくその裸体は想起されなかった。
そういう意味で全く色気のない一年生で――逆になんだか凄いなとも思った。
「――いや、いいよ。小石川先生がおられたら相談したいこともあったんだけど、――もう帰られたのなら仕方ないよね」
「なんだかすみません。私じゃ多分代わりになれないやつですよね? ――でも大丈夫ですか? かなり顔色悪いですよ。もし良かったらベッドで休んでいきます? いま誰も寝ていませんし、十分でも二十分でも横になると気分が楽になることもありますよ?」
「――そうだな。ありがとう。……そうするかな。じゃあ、その前に麦茶一杯もらっていいかな?」
「あ……麦茶。先輩……その存在を知っている人なんですね~。まぁ、いいですよ。そこに座って待っていてください」
そのポニーテールの女の子は、しばらくすると保健室の奥にある冷蔵庫からボトルを持ってきてくれて、麦茶をグラスに注いでから渡してくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そう言って受け取ると、少しずつ傾けるように麦茶を煽る。
異常な興奮状態が続いたから、喉がからからになっていた。
全部飲み干すと、僕はぷはぁと息を吐いた。
「――先輩かなり疲れていますね。――っていうか、もしかして元保健委員とかですか? 麦茶の存在を知っているなんて」
「違うよ。保険委員じゃないよ。保健室に来慣れているだけ。――君は保健委員……だよね? 今年度の後期から?」
「あ、よくわかりましたね? そうです。一年生の後期から保健委員になった後発組です。木戸美里香って言います。以後お見知りおきのほどを」
そう言って木戸さんは麦茶のペットボトルを抱えたまま、頭を一つ下げた。
平均的な容姿と、野暮ったいポニーテールが、麦茶とセットで、何だかほっこりした。
「よろしく。僕は悠木秋翔。二年生だよ。――前期の間は保健室の主みたいな存在だったんだけどね。――保健室登校だったんだ。……ちょっと色々あって、精神を病んじゃってね」
「へー、そうなんですね。――あっ、もしかして盗作問題の?」
いきなりど直球な木戸さん。僕は思わず苦笑いを浮かべた。
「――よく知っているね。それ、君が入学するよりも以前の事件だと思うんだけど?」
「あ、ごめんなさい。すみません。仲の良い友達に噂話が大好きな友達がいて……。本当にすみません」
もう一度頭を下げる木戸さん。
その素朴な姿勢に、なんだか憑き物が取れるような感じがした。
「――別にいいよ。まぁ、そういう理由だから。保健室の中のことにも詳しいし、あと――小石川先生には凄くお世話になっているってこと」
「そうなんですね。なんとなくわかります。小石川先生――本当にいい先生ですもんねぇ~」
そう言って木戸さんは麦茶のペットボトルを抱えながら「うんうん」と頷く。――もしかしたらこの子も小石川先生にひとかたならずお世話になったのかもしれないな。
僕は麦茶の入っていたグラスを木戸さんに渡すと、円形のパイプ椅子から立ち上がる。
「先輩。ベッドは好きなのを使ってもらったらいいですからね? 全部あいていますし」
「ありがとう。――でもいいよ。なんだか麦茶を貰って、君と少し話したら、何だか落ち着いてきたから……、ベッドで寝ていかなくても大丈夫だと思う」
それに今、ベッドの上で目を閉じると、変な妄想をしてしまいそうな気がするのだ。
明莉と真白先生の汗を流した性交のシーン。さっき見たイメージとそれに引き起こされた感情は、今もまだ脳内で濁流みたいに渦巻いている。
「そうですか? だったらいいんですけど。無理はしないでくださいね? 健康第一!」
「心配してくれて、ありがとう。多分大丈夫だから」
扉口へ向かう。
「じゃあ、麦茶ありがとう」
「はい。ではまた、何かあったら来てくださいね~。先輩」
僕は保険委員さん――木戸美里香にお礼を言うと自分のクラスへと向かった。
保健室にやってきた時よりかは幾分軽快な足取りで。
その道の途中で僕はとにかく、真白先生と明莉に会わないことだけをを願った。今二人と遭遇すると、自分自身の正気を保てる自信がまるで無かった。
無事教室に戻り鞄をピックアップすると、靴置き場を抜けて、僕は校門へと向かう。
体育館からはバスケットボール部の練習の音。ドリブルの音や掛け声が聞こえてきた。
――森さんは水上と仲直り出来たんだろうか?
昨日、自分の腕で抱いた親友の彼女――森美樹の笑顔を思い出す。
親友の彼女は僕の親友でもある。その親友と僕はセックスをしたのだ。
その裸体のイメージを思い出す。浮かび上がった肌色の映像とその身体が揺れる中で上がった嬌声。でも頭の中で映像のように再生されたそのイメージは、徐々にさっき見た明莉のものへと脳内で变化していった。――だから僕は頭を振ってそのイメージを追い払った。
自信に満ちた真白先生の表情を思い出す。出し抜くつもりだった僕の手は尽く潰された。
だからって全ての手が封じられたわけでも、完全に敗北したわけでもない。
僕は唇を噛みしめる。真白先生に抱かれた明莉の蕩けた表情を思い出しながら。
明莉は真白先生を選んだのだと言う。――少なくとも今は選んでいる。
でもそれが未来永劫続く、真白先生の勝利を意味しているわけではない。
ただ形勢は大きく変わった。情勢は激変した。僕は立て直さなければならない。
僕自身が唯一無二の真実だと信じる世界線を描くために。
もう一度――もう一度、僕に主導権を。――もう一度、――もう一度。
肩で息をしながら僕は校門を抜けた。まなじりに熱いものを感じながら。
校門脇の塀に背中を預ける。僕はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面をタップする。目的のアカウント名を見つけると、音声通話の発信ボタンを押した。
何度か発信音が鳴って、スマートフォンの向こう側に目的の人物が現れる。
「――もしもし? どうしたの? 突然電話を掛けてくるなんて、珍しいじゃない? 学校は終わったところ?」
電話口に現れた声は大人っぽくて、それでいて艶のある――優しい声だった。
今の僕にとって彼女が――縋るべき存在に思えたのだ。
「……突然ごめん。今から会えないかな? ――香奈恵さん」
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