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呆気なく落ちてしまった

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「うわ~!! ほんとに持ってきてくれた!! もういい匂いがする!」
 ヨハンが大量のスイーツを背負って件の岩場にやってくると、マーシャはすぐに姿を現した。あれからずっとヨハンが来るのを待ちわびていたらしい。
「他の二人は?」
「アマンダ姉さまは旦那様とデート、ブリアナ姉さまは子どものお迎えです」
「あ、そういう……二人の旦那もやっぱり人魚?」
「ブリアナ姉さまの旦那様は下半身がタコで、アマンダ姉さまの旦那様はサメの人魚です。どっちも素敵な方ですよ」
 そう言いながらマーシャの瞳は、ヨハンが持ってきたスイーツに釘付けだった。ヨハンは眉を下げて笑いつつ息をつくと、アップルパイの入った箱を手に取りマーシャに差し出す。わぁあ、とマーシャが瞳を輝かせながら手を伸ばしたところで、その箱をさっと引っ込めた。
「あれっ」
「ただで食わせてやると思ったか? 条件がある」
「条件? なんですか?」
「お前の住む国のことを教えてくれ。こんなに近くにあるのに、情報がほとんどない」
「え? そんなことなら全然構わないですよ。何でも聞いてください」
 何とでもないことのように、マーシャは頷いた。一応王族であるはずだが、危機感のようなものは見られない。ただのんきなのか、はたまた現国王である父を信頼しているのか。
(いや、多分……)
 早くアップルパイが食べたいだけだろう。
 先程から尾ひれを何度も水面に打ち付けて催促している。ヨハンはふ、と笑って、今度こそしっかり箱を差し出した。それを受け取ったマーシャはすぐに箱を開けて中を覗き見る。その瞳の輝きが、さらに増した。
「これ何です? 美味しそう!」
「アップルパイだ。リンゴで出来たケーキみたいなもんだな」
「リンゴ! リンゴ好きです! いただきます!」
 いくつかに分けられたうちのひとつを手にとって、ばくりと食べる。一口がでかい。マーシャはぱちりと目を見開いたかと思うと、次の瞬間には心底嬉しそうに笑顔を浮かべて頬に手を当てた。
「おいしい~! 甘酸っぱい!」
「そ、そんなにか?」
「はい! すごく美味しいです!」
 大袈裟にも見える反応であったが、それが真実であると彼女のきらきら輝く瞳が物語っていた。ヨハンはまたそわそわと落ち着かない感覚を覚え、別の箱をマーシャに差し出す。
「これはマーシャが言ってたシュークリーム。それとこっちはレモンケーキ」
「わぁあ! 全部食べて良いんですか?」
「あぁ、もちろん。……あ、お姉さんたちには残しておいた方がいいんじゃないか」
「は! そうですね、じゃあちょっとずつ残して……」
 そう言いながら、アップルパイは残り一切れである。ヨハンは思わず、ふはっ、と笑ってしまった。
「キミ、よく食べるなぁ」
 シュークリームを頬張りながら、もごもご何か言っている。
「あぁ、ゆっくり食え。そんで食ってから話してくれ」
 ん、と頷いて、マーシャはもぐもぐ咀嚼してごくんと飲み込んだ。
「だって、美味しいもの食べてると幸せなんです」
「……確かに、幸せそうだ」
「海の国の料理も美味しいけど、陸にはもっと色んな食べものがあるんだろうなって。だからこうして食べることが出来て、すっごい幸せです」
 そう言いながらマーシャは、二つ目のシュークリームを口にした。にっこりと嬉しそうな笑顔を浮かべて咀嚼する表情に、ヨハンは知らずに見惚れていた。
 ヨハンの知る限り、こんなに何でもかんでも美味しそうに食べるひとは見たことがない。そもそも令嬢たちは小鳥の餌のような量を口に運ぶのがほとんどで、こんなふうに豪快にかぶりついたりしないのだ。貴族の礼儀作法から言わせてみればマナー違反なのだろうが、ヨハンは余り気にならなかった。むしろもっと食べさせたい、とまで思っていた。
「それで、ええと……何王子でしたっけ」
「ヨハンだっての。本当に興味ないな、キミ」
「そ、そんなことないです。ヨハン王子は海の国の何を知りたいんですか?」
「え。えーと、そうだな……例えば、海の国にも政略結婚みたいなものはあるのか?」
「最近流行らないけど、まだあることはあります。ブリアナ姉様の旦那様は公爵家の方で、次期国王ですし。やっぱりこう、身分による考え方の不一致とかはあるんで……でも恋愛結婚も多いですよ。アマンダ姉様なんてまさにそれで、結婚してからもずっと仲良しなんです」
 説明しながら食べ続けていたマーシャははっとして手を止めた。
「も、もしかしてどっちかの姉さまに一目惚れとか……」
「いやそれはない絶対ない」
「姉さまたち海の国ではすごくモテるんですよ!」
「俺の好みはこう……その、……スレンダーな……美女、だから」
 ちらちらとマーシャの様子を伺い見つつ、ヨハンは答える。なぜこんなにも気を遣ってしまっているのか、自分でも理解していない。マーシャはぱち、と一度まばたきをして、それからまたはっとした表情を浮かべる。
「そ、そんな……」
 ショックを受けたような声にぎくりとして、ヨハンはどっと冷や汗をかいた。
「あ、いや、俺は」
「今口の中に入れたケーキ、一瞬でなくなっちゃった!!」
「……は?」
 マーシャが持っている箱の中に入っていたのは、ふわふわのシフォンケーキだった。
「味わおうとしたらすぐに溶けてなくなっちゃいました……」
「あー、うん、それな。まぁ、そういうケーキな。軽くてふわっふわで、しゅわっと無くなる感じが売りのやつな」
「なるほど……?! あ、ぅんまっ! 一瞬! 一瞬だ!」
 色気より食い気を実践されたヨハンは、思わず遠い目をした。
 こんなにも自分に無関心な令嬢が今までいただろうか。否、恐らくはいない。王位継承者でありながら文武両道、見目麗しいヨハンは周りの影響もあってそれなりにしっかりナルシストだった。女性が自分に惹かれるのは仕方がない、と思っていた。
 だけれど、どうだ。
 マーシャは自分よりも自分が持ってきた食べ物に夢中である。
(人魚は美的感覚が違うのか……あの二人がモテるっていうし、きっとそうだ)
 ナルシズム全開で失礼極まりないことを思いながらヨハンは、マーシャがお菓子を食べるさまを眺めていた。気づけばたくさん持ってきていたはずのお菓子の箱はほとんどからっぽになっていた。
 どのお菓子もマーシャは美味しい美味しいと笑顔を浮かべて食べ進め、ヨハンもそれを飽きずに眺める。
 それは数日に一回の頻度で行われ、時折言葉を交わしては、一緒に出てきた姉たちとも交流を重ねた。
「そういえば初めて会ったとき歌を歌ってたけど、歌うのは好きなのか?」
「大好きです! よく姉様たちと一緒に合唱するんですよ。ヨハンさんは?」
 王子をつける必要はない、と告げてから、マーシャはヨハンをさん付けで呼ぶ。年上の人を呼び捨てに出来ない性分なのだそうだ。
「俺も好きだな。正直、上手い」
「ヨハンさんてすっごい自信家ですよね。姉さまがそういうのは『ナルシスト』だって言ってました」
「ぐっ……否定はしないけどな、別に。本気で上手いし……それからダンスも」
「ダンスですか?」
「そう。ダンスパーティなんか行くと女が放っておかない」
 得意げにダンスをするジェスチャーをしてみるも、マーシャは「へぇ~!」と答えるだけである。
 何度会っても、何度言葉を交わしても、どうにも意識されない。ヨハンは気にしないふりをしていたが、それでも徐々に気が滅入ってきた。
 人間は好みの対象ではないのか。
 そんなふうに考えて、ぎくりとする。
 そんなはずはない、そんなわけはない。気付かないようにしていた「もしかして」が、じわじわと文字になって脳裏に浮かんでいた。


*****


「恋でしょう、それは。間違いなく」
 はっきりきっぱり告げたのは、ヨハンの従者の一人であるルイだ。黒髪で穏やかな面持ちの彼は、ヨハンの従者になってから長い。ゆえに物言いにも、遠慮や容赦はなかった。
 とうとう認めざるを得なくなってしまった現実に、ヨハンは頭を抱えて項垂れた。
「いやでも全然タイプじゃない……丸くてでかいモッチモチだし……人魚よりジュゴンだし……顔はかわいいけど……俺スレンダーな子が好みだし……」
「ですから、恋なんでしょう。タイプでもない人間……人魚に惹かれてるのですから」
「やっぱりそうかぁ~~~~??」
 薄々察してはいた。むしろ好みではないのだからと、気のせいだと思い込もうとしていた。
 だけれど恋であるとはっきり指摘されてしまうともう、認めざるを得ない。
 気づけばヨハンはいつも、もっちり人魚マーシャのことを考えていた。今日は何を持って行こうか、この食べ物は好きだろうか。これを持っていったら彼女はまた、あの嬉しそうな幸せそうな笑顔を見せるだろうか。
 マーシャは何でもかんでも、美味しそうに食べた。食べたことのあるものでも、美味しい!と瞳をきらきら輝かせて頬張った。
 その顔を見ると嬉しくなった。もっと喜ばせたいと考えるようになっていた。
「何をそう悩んでいるんです? 女性の扱いなんて殿下にとっては造作もないことでしょう」
「普通の女性ならな。でもマーシャは違う。……マーシャは俺のことを『食べ物運び王子』としか認識していない」
 ぶっ、と、ルイが吹き出した。失敬、と取り繕うも、肩が震えている。
「女性なら誰もが見惚れるこの顔よりも先に俺が持っている食べ物に目が言ってる。最初の頃は名前も覚えてなかった」
「……それはそれは」
 思い切りナルシストな発言であるが、それはもういつものことなのでルイはツッコミも入れない。
「人魚の国の美的感覚はこちらとは違うのだろうか……魚的な感覚? とでも言うのか……」
「そういえばネーレウス国王もおもしろ……いえ、特徴的な柄のタイをしてましたね」
「彼女の姉たちもかなりインパクトのある印象だったが、モテていたと聞くし……つまり俺は彼女の好みではないということか……」
「ですから、殿下。そもそもマーシャ様も、殿下の好みではないのでしょう? なのに彼女の好みでないからと言って傷つくのは都合が良すぎるのでは」
「う……それは、……そうだが」
 低く唸りながらヨハンは、頭を抱えた。仕えた王子のこんな悩む姿を見るのは、ルイにとっても初めてのことだった。ほとんどのことをそつなくこなし、自分が何をしなくとも女性たちは寄ってくる。王子であること、そしてその能力の高さゆえに彼を害そうとするような「内側」の敵もなく、ヨハンにはいつも余裕があった。
 それが今、この有様である。
 よほどマーシャという人魚に、心奪われているのだ。
「……最初は犬とか、腹を空かせた子どもに食料を与えてる感覚だった」
「はぁ」
「気づいたときにはなんとか食べ物を利用して、俺に興味を持たないかと考えていた。……俺に落とせない女はいない、とか、さすがにそこまで考えていたわけじゃないが……いや今までいなかったし実際……笑顔をみせて思わせぶりな言葉でも零せば簡単だった」
「言葉だけ聞いてるとすごいあの、クズですね」
「お前王子に向かって」
「私が言わないと誰も言わないから言ってるんです。だらだらお付き合いするような関係ではないのが唯一まだましだと思うくらいで、やってることはどうかと思います」
「運命を探してたんだ」
「マーシャ様がその運命だと?」
「……多分」
 はっきりと答えられないのは、やはりマーシャの心が自分に向いていないと思っているためだ。
 何度もマーシャのもとへ通って言葉を交わし、それなりに親しくなったつもりではある。マーシャもヨハンの顔を見れば嬉しそうに笑って――即座にその手にある食べ物に視線が行くが――いつでも楽しげに歌ったり、国のことを話したりしてくれる。
 だけれど、それだけなのだ。
 ヨハンがどれだけ結婚の話や社交パーティの話をしても、「へぇ~」「大変ですねぇ」と相づちを打つだけで、全く興味がなさそうなのである。
「告白したらよろしいのでは?」
「あっちが全然そういう空気じゃないのに? 振られたどうする」
「そういう経験も大切かと」
「駄目だ無理だ、マーシャに振られたら立ち直れない」
「心弱っ」
「それくらい本気なんだっての! 口いっぱいにものをつめて嬉しそうにニコニコしている彼女を見られなくなったら俺は……」
――どうやら、ルイの仕える王子ヨハンは。
 三十で初めて、本気の、ガチの恋に落ちてしまっているらしく。自身をそういう対象に見ていないであろう女性に対し、いつものようなスマートな振る舞いもわかりやすい愛情表現も叶わず、心底参ってしまっていた。
 ルイはふぅ、と短く息を吐いて、ヨハンに尋ねた。
「マーシャ様にお会いするときは、食べ物しか持っていっていないのですか?」
「あぁ、まぁ……それしか望まれていないしな……」
「ちょっと、ネガティブな思考は一旦止めておきましょう。だったら今度は花でも持っていかれたらいかかです?」
「……花?」
「えぇ。いつも食べ物しか持っていかなかったらそりゃあ『食べ物運び王子』と思われるでしょう。だから食べ物とは別に、心からの贈り物を持っていってはどうでしょう。花束でも飾りでも……そういうの選ぶのは得意でしょう」
 ルイの言葉にヨハンはぱちりと瞬きをした。言われて見れば今まで、彼女に請われるまま陸の食べ物を渡していたが、自分の気持ちでものを贈ったことはない。もちろん食べ物だって、彼女に喜んでもらおうと思って贈るものではあるが。
「そうか、うん。上手くいくかわからないが、やってみよう」
「解決したところで殿下、陛下からの伝言です。近日中に令嬢を集めたパーティーを開くから、今度こそしっかり婚約者を決めるようにと」
「いや話の流れ! 俺今好きな子いるんだって!」
「それはそれとして、王命です。……いっそマーシャ様もお呼びしたら良いのではないですか?」
「え、」
「ネーレウス国王だって陸に来られているのです。何らかの方法で陸に上がる方法があるのではないですか?」
 ヨハンの口元が少しずつ緩み、笑顔になる。それからルイの肩をバシバシと叩いて、嬉しそうな声で言った。
「お前は本当に出来た部下だ!」
「恋に溺れている殿下の判断力が落ちているだけですよ」
 辛辣な言葉であったが、上機嫌なヨハンは気にも留めない。何とでも言え、という様子だ。恋に溺れているのは否定しない。
 ルイはそんなヨハンの様子に何度目かのため息をつきつつ、これまで遊んでばかりであった王子の本気の恋の成就を、密かに願っているのだった。
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