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90.神像がまとう空気
しおりを挟む神殿には、クロエさんの言う通り簡単に入ることができた。すれ違う神官達が普通に挨拶をしてくる辺り、サミュエルはクロエさんの家出を大事にしていないようだった。
(それにしても家出か……本人がいない時を狙ったと言ったけれど、随分前から計画してたんだろうな)
聞いた話だと、私が助けたあの日は予行練習だったそう。上手く行けばそのまま神殿に向かうことを考えたようだが、一人の力では難しいというのが得た結果だった。
あの日を思い出しながら、気になることを尋ねた。それは今とあの日、加えて今日出会った時と言葉遣いが変わってきてるということ。
「実は丁寧な言葉遣いは逃亡用なんです。こういう口調も、捜索の時手がかりになるでしょう? 普段の自分とかけはなれた口調なら、撹乱できると思って」
この発言から、クロエさんが長い時間をかけて計画を練ってきたことがよくわかった。その上切実さまで感じたため、ますます怪しむ気持ちが薄まってしまった。
私達の中には常に緊張感が流れており、神殿に足を踏み入れてからはさらに高まっていた。
神殿の奥に進むと、神像のある部屋が現れる。ここの神像はどの教会の神像よりも大きい。だからかはわからないが、ここでは神聖力も強まるという話を本で読んだ。
(明らかに空気が他の部屋と違う。…………以前とも)
初めてここに来た時、厳かで神秘的な、でも圧を感じていた。誰も寄せ付けないような、唯一無二の空間。それでもどこか温かさを感じる不思議な場所だった。
(今は……恐ろしいほどに暗くて、寒くて、怖い)
まるで部屋の主が変わったと言わんばかりの変貌ぶりには、レビノレアの存在が頭を過った。
(ここでなら……通じるかな)
不安げな面持ちで神像を見つめていると、沈黙をクロエさんが破った。
「こんな場所だったんですね……神殿の中核は」
「初めていらっしゃるんですか?」
アルフォンスの声と共にクロエさんの方を見る。
「サミュエルは……決して中に入れてくれなかったので」
「申し出たことはあるんですね」
「はい、何度も。……回帰する中で、彼の答えが変わることはありませんでした」
(…………この部屋に入れたくない理由)
部屋の中を見渡した。
何か解決の糸口になるものがあるのかと、二回ほど首を動かす。ここには神像以外に引かれるものはなく、他は無に近い空間だった。
(……神像にクロエさんを近付けたくなかった?)
ならばどうして。
答えがわかりそうでわからないもどかしさに襲われる。
「入ってはならないと、断られた時に何か理由は?」
「決まって、ここは大神官のみが入室を許可された場所だと。……でもよく考えたらおかしいですよね。ここで儀式や祈祷が行われるなら、他の人だって入るのだから」
「確かに」
(……理由があるのは間違いないだろうな)
そう思いながら、再び神像の方に目線を向けた。改めて、この中核がどんな場所なのか考えてみる。
(……ここは、神に一番近い場所。確か、お告げを聞く時も、祝福をもらう時もこの場所が使われたはず)
そこまで考えてみて、ある仮説にたどり着く。
(もしかしたら、ここならレビノレア……神が唯一私達に干渉できる場所なのかもしれない)
希望を抱けるような仮説だったが、実際浮かんだのは苦しさだった。
(……でも。恐らくレビノレアは今ここにいない)
あの日感じた温かさがレビノレアなら……彼の不在、それがわかるほどの冷たい空気だった。
「トルミネ嬢。貴女はどのように回帰を終わらせるつもりなのですか」
回帰を終わらせるにはサミュエルを止める他ない。私もそう思って、今日の対峙を選んだ。切り札として、自分の祝福があるから。でもクロエさんは違う。彼女は貴族とはいえ、なんの祝福も持たない人間だ。
(……でも、今日神殿に来ることを選んだのなら、何か手段があるんだろうな)
そっとクロエさんの方に視線を向けた。
「聖女様にお助けいただくことも考えております」
「……も、ということは、他にも手段があるんですね?」
意味ありげな表現をするクロエさんに、アルフォンスが追求を続けた。
「はい、ご安心ください。最終手段は考えております。……あくまでも最終手段なので。できれば使わずにすむことを望んでます」
(使いたくない最終手段……)
心の中で復唱すれば、クロエさんは私と目を合わせた。
「ですがこれは私のわがままなので。いざというときは必ず使うことをお約束いたします」
「失礼かもしれませんが、それを教えていただくことはーー」
そうアルフォンスが尋ね始めた瞬間、私は彼の腕を引っ張った。
「ルミエーラ様」
(……アルフォンス。それ以上は聞かなくて良いわ)
ふるふると首を横に振りながら、複雑な思いでアルフォンスを見た。
「……わかりました」
意図が伝わったようで、穏やかな笑みで頷いてくれた。
目を合わせた時、クロエさんは笑顔であっても、今までにない悲しく苦しい表情になっていたのだ。
「ありがとうございます、聖女様」
悲しげな声が響いた瞬間、誰かが部屋に踏み入る足音が響いた。
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