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恋慕
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先週、去年買ったトレンチコートを引っ張り出したばかりなのに、今朝はノーカラーのロングコートをクローゼットの奥から出してきた。昼間はスーツだけでも暑いぐらいだったのに、ここ数日は季節が急速に進んだようで夜はトレンチコートでは間に合わないくらい肌寒く感じるようになった。
足元で銀杏の葉がかさかさと風に舞っているのを見ながら、容赦ない時の流れを感じていた。
碧川さんとは職場の外で偶然会うことがあっても仕事以外の話はしないし、彼の中で私は完全に過去の人になっているようだった。最初から奥さんより好きになることはない相手だったのかもしれないけれど、私と距離を置くことが彼なりの愛なんだと思い込むことでどうにか精神のバランスを保っている。
バランスが崩れたらどうなってしまうのか、自分でも怖い。
ほんの一瞬でも好きな人のカノジョになれたのだからいいじゃないと割り切れたら幸せだったのに、あの甘く濃密な時間はもう戻らないのかと思う度、熟し過ぎた果実のように腐って崩れ落ちそうになる。
婚外カノジョなんかにならずただ想い続けているだけだったら、今ごろもっとスムーズに小山内くんに気持ちが向いていたのかもしれない。
今さら後悔したところで時計の針を戻すことはできないし、未来に向かって一歩踏み出すしか道はないのに。秋の空みたいに簡単に移ろわない心もある。
『連絡が遅くなって申し訳ありません。今週末に部屋を片付けて、鍵は碧川さんにお返ししておきます。ありがとうございました。』
いつまでもだらだら逃げないように奥さんにメッセージを送り、まずは思い出の部屋と決別することを決めた。
少しずつでも前に進まなければ。
「わー、イチハじゃないか。遊び来たの? Welcomeよぉ」
マンションの入口をくぐると、ちょうどこれから出かけるのであろうパオちゃんに出くわしてしまった。
「大和まだ寝てるやで。起こすから待ってくださいねー」
まさか、四階でバッドガイと逢引していたなんて知るはずもないパオちゃんは、自分たちの部屋に遊びに来たものだと信じて疑わなかった。
「あ、ううん。違うの。今日は遊びに来たんじゃないの。四階に知ってる人が住んでるから」
「四階に知ってるの人いる? 男か?」
「……ううん、女の人」
「ワタクシの家来ない?」
「うん。ごめんね。今日は行かない」
「哎呀~。 そっか。また次、来るやで」
「分かった。また今度遊びに行くね」
あからさまにがっかりしている姿を見ると、心が痛む。
でも、小山内くんには何の連絡もしていないし、寧ろここにいることは知られたくない。
パオちゃんと別れて四階へ上がると、今度は電話がかかってきた。
『今うちのマンションおるってほんますか?』
名乗りもせず、もしもしも言わず、小山内くんは寝起き丸出しの掠れた声で訊いてきた。
どうやらパオちゃんが彼を起こして、私がいることをしゃべってしまったらしい。口止めもしなかったので仕方がないけれど。
電話の向こうから『ワタクシ、嘘吐かないやで』というパオちゃんの声が聞こえる。本当に可愛い子だ。
『俺とデートしたいんすか?』
「違うよ。たまたま知り合いが住んでるから来ただけ。パオちゃんに今度またご飯行こうねって言っておいて」
『俺もでしょ? 照れんなって。一緒にラブホ行った仲やん』
「そういう誤解を招く言い方は止めてって言ってるでしょ! じゃあ、私は予定があるから切るね」
どんどん口調が馴れ馴れしくなって、全然先輩と思ってないじゃんとぶつぶつ文句を言いながら久しぶりにドアを開けた。風に乗って、私が置いたホワイトムスクの香りが漂ってくる……と思いきや、もっとお高そうな香水の匂いが漂ってきた。
「あら、一葉さん。早かったのね」
「お、奥さん……? どうしてここに」
さっきまでの小山内くんへのもやもやは吹き飛び、私の体は一瞬にして緊張の糸に縛られた。
「今日片付けるって連絡くれてたから、手伝いに来たのよ」
「わざわざそんな……。一人で大丈夫ですよ、言うほど荷物もないですし」
まさか、私と碧川さんが使っていたものを確認しにきた、とか? すべて知りたい人ってそういうものなのかな。私には分からない。
「気にしないで。手伝いは単なる口実で、本当は一葉さんにお会いしたかったのよ」
「私に、ですか?」
関係が終わったら、改めて慰謝料請求するとかじゃないよね……? もう完全にそっちのことは忘れていたけど、いつ何時奥さんの気が変わって訴えを起こされるか分かったものじゃない。別れたから許されるってものではないのだ。私は碧川さんにとって特別な存在ではなくなったわけだし、攻撃の対象になってもおかしくはない。
つやつやした美しい顔に湛えた笑みが恐ろしく思えた。
初めてこの部屋に来た時と同じように、奥さんは紅茶を淹れてくれた。
茶葉をティープレスに入れ、お湯を注ぎ、蒸らしてからティープレスのフィルターをゆっくりと下ろす。
部屋中にベルガモットの爽やかな香りが広がる。紅茶は香りと色を楽しむものだと、昔誰かに教わった気がするけど、本当にその通りだなと思う。
「主人とは本当に別れてしまったのね」
紅茶を運んでくると、奥さんは残念そうに言った。
「はい……そうなんです」
「この間、一緒にいた彼とお付き合いするために別れたの?」
「あ……いえ。彼は会社の後輩で、お付き合いはしてないんです」
「まあ、そうなの。私はてっきり、あの彼と真剣に付き合うから主人とは別れたのかと思ってたわ」
私に好きな人ができるまで――それがヨリを戻す条件だった。今回別れた理由が他の人と真剣にお付き合いしたいから、だったらどんなによかっただろう。
嘘でも毎日のように小山内くんを好き好き言っていたら、自分に暗示をかけられるだろうか。いっそ、暗示でも催眠でもかかってしまいたい。
「主人にどうして別れたのか訊いても、彼女には彼女の人生があるからって曖昧なことしか言わないからよく分からなくて。お互いに好きなら別れることないのにって、私なんかは思っちゃう」
「……普通の関係だったらそうなんですけど、私は所詮愛人だし将来的に結婚できるわけでもないですから」
そこまで焦ってはいないけれど、一生独身でいるつもりもない。いつかは好きな人と結ばれて、子どもだってもうけたい。おじいちゃん、おばあちゃんになっても手を繋いで歩くような夫婦に憧れだってある。
結婚している友達には理想と現実は違うよってよく言われるけど、恋人同士から生活を共にするパートナーに変わっていく様も私には羨ましいでしかない。
私は今目の前にいる碧川環が羨ましくて仕方がない。SF漫画みたいに雷が落ちて中身が入れ替わってしまう、みたいなことがあればいいのにと本気で思う。
碧川さんの奥さんになれる人生がよかった。
「不躾なこと訊くようだけど、一葉さんは主人と結婚したかったの?」
こんなことを訊いて何になるのか知らないけど、そんなに聞きたいのなら素直に答えようと思った。
「そうですね。許されることなら結婚したかったです。実は、私が奥さんと離婚してくださいって頼んだからフラれたんです。もう碧川さんから聞いてるかもしれませんけど」
「あら、そうなの? それは知らなかったわ」
頗る性格が悪いけど、表情を曇らせる奥さんを見て、何だ知らないんだって少し気分が高揚するのを感じた。
人間だから話したくないことだってある。例え奥さんでも、いや奥さんだからこそ話したくないことってあるはずだ。
秘密のないオープンな夫婦なんて、他人が介在したら実現は難しくなる。仕事にも行かず、家で四六時中一緒にいない限り、すべてを知り尽くすことなんて不可能だ。
人間なんて無意識に嘘を吐くこともあるし、頭で考えていることと口に出している言葉が必ずしも一致しているとは限らない。
結局、奥さんの理想は理想でしかない。
「……あの人ってほんと、頭が固いところがあるっていうか、遊びの恋ができないのよね。私がどんなに気にしないって言っても常に罪悪感を持ってるのよ。女好きの男なら若い女の子と浮気してきた後なんて馬鹿みたいにルンルンだと思うんだけど、あの人にはそういうのがほとんどなかったわ。あなたのこと、本気で好きになっちゃったんでしょうね、きっと。だから、あなたをこれ以上傷つけたくないと思ったんだと思うわ」
不謹慎かもしれないけど、内心ではそうだったら嬉しいなと思っていた。
本気で好きになったからこそ、私と別れたのであればこの想いもどうにか成仏させられるかもしれない。
愛された記憶があれば、この先も生きていける。
「もう主人とヨリを戻す気はないのよね? 後輩の彼とのお付き合いを前向きに考えている感じ?」
「そうですね。もうヨリを戻すことはできないと思います。しばらくは誰ともお付き合いはしないかもしれません。後輩のことはまだ異性として好きっていうところまでいってないですし」
「そうなんだ。世の中って本当に皮肉ね」
「私もそう思います」
初めて奥さんと意見が一致した。
碧川さんを好きだと思っているのと同じくらい、小山内くんのことを好きになれたらすべて解決するのに。
どうしてダメなんだろう。
時々、ラブホテルでのことを思い出して寿命が縮む思いはするけれど、まだ “好き” の手前で立ち往生している気がする。
「私の個人的な思いを言うとね。本当に残念なのよ。一葉さんと主人が別れたこと。主人があなたに会いに行くのを私も楽しみにしてたから」
意見が一致したのは一瞬だけで、やはりこの奥さんの言うことは私の理解のはるか上をいっている。自分の旦那さんが愛人に会いに行くのを楽しみにする感覚ってどんなだろう。独身貴族だった息子にようやく花嫁候補ができた母親の感覚に似ているのだろうか。私には想像もつかない。
「そんな顔しないで。私はね、あなたのことが好きなのよ、一葉さん」
「え……?」
妖艶な笑みを浮かべながら、奥さんは私の隣に移動してきた。座り慣れているはずのソファーに緊張が走る。
「ホテルのレストランで初めてあなたに会った時、体中に電気が流れて感電したみたいだった。ああ、これが一目惚れなのかしらって思ったわ」
「何、言ってるんですか?」
理解も想像も追いつかない、夥しいほどの情報に全身が蝕まれていくようだった。
体中に電気が流れた? 一目惚れ? 寒くもないのに身震いした。
「一葉さんは異性愛者以外は理解できない人?」
「い、いえ、そんなことないです」
「それはよかった。私ね、バイセクシャルなのよ」
予想だにしなかった告白に、度肝を抜かれてしまった。
生物学上パオちゃんだってゲイだけど、私は素敵だと思っている。差別や偏見はない。
でも、自分が同性愛者の対象になるなんて考えたこともなかった。
しかも、相手は好きな人の奥さん……。
世の中には色んな性的指向がある。バイセクシャルだって悪いことではない。頭では解っているのに、奥さんの手が肩に触れた瞬間、振り払いたい衝動に駆られた。
「ずっと主人が羨ましかったのよね。あなたに触れることができる主人が。私も一葉さんに触れたいって。三人で愛し合えたらどんなに素敵だろうって、いつも思ってたの」
寝取らるのが好きとかじゃなくて、奥さんは私が好きってこと?
流れるような手つきで奥さんの指が、私の頬に触れた。差別や偏見はなくても、私はバイセクシャルではない。女性に触れられることに違和感しかなかった。
「ご、ごめんなさい! あの、差別とか偏見は持ってないですけど、私は女性のことは……」
「ええ、それは解ってるわ。別に私のことを好きになってほしいなんて思ってないの。ただ、一度でいいからあなたに触れてみたかっただけ」
逃げるようにソファーから立ち上がると、なぜか目眩がしてその場に尻餅をついてしまった。極度の緊張が体にも影響を及ぼしているのだろうか。
あれ……。おかしい。体に力が入らない。急にどうしたんだろう。意識が遠のいていく。
「ごめんなさいね」
薄れゆく意識の中、最後に見たのは奥さんの妖しい微笑みだった。
柔らかい感触に目が覚めそうで覚めない。私は一体どうなってしまったんだろう。眠くて堪らない。
「あなたは本当にきれいね。可愛いわ……」
夢現の耳に女性の囁きが聞こえる。
接着剤でもついているのかと思うほど重い瞼をこじ開けると、すぐそばに奥さんの顔があった。
気持ち的に驚いて飛び起きているのに、体が言うことを聞かない。まるで金縛りにでもあっているかのように、体の自由が利かないのだ。
「大丈夫よ。怖がらないで」
囁きとともに、奥さんは私の体に触れているようだった。
もしかして私、服を脱がされている? 奥さんの手が素肌に触れているような感覚がある。
「いや……止め……て……」
声も思うように発せない。どうしよう、怖い。逃げたいのに逃げられない。
「ダメよ。無理に動いたら危ないわよ」
子どもにでも言い聞かせるような口調で奥さんは言う。私はそんなに落ち着いた気分でいられず、必死に手足を動かす。動いた拍子に何かを踏んだ。その瞬間、妙な声が聞こえてきた。
力の限りに視線を向けると、大きな壁掛けのテレビ画面にこの部屋の様子が映し出されていた。あれって、今の映像じゃないよね? 待って。ベッドにいるのって、私と碧川さん……?
もしかして、ずっと奥さんに盗撮されてたってこと?
「あ、あれは……」
「ああ。この部屋に防犯用のカメラつけてたのをすっかり忘れてたのよ。この部屋って住んでるわけじゃないからほぼ無人でしょ? 以前、この近所で空き巣騒ぎがあった時に、怖いから取り付けたのよ。それを切り忘れてただけ。わざとじゃないのよ」
意識朦朧として頭ははっきりしないけど、奥さんの言っていることは嘘だと思った。
私と碧川さんが愛し合っているところを見せてと言っていたし、この部屋を貸したのは盗撮が目的だったんだ。
今さら気が付いてもどうにもならないけれど。
「なんで……こんな……」
「心配しないで。絶対にネットで公開したりしないから。主人にさえ見せてないんだから。他人になんか見せてやらないわ」
申し訳ないけど、聞けば聞くほど恐怖が増す。
奥さんが旦那さんの不倫相手を好きになるなんて聞いたことがない。それも、気が合うとか友達になるとかじゃなく、恋愛対象として好きだなんて。
オープンマリッジにも度肝を抜かれたけれど、今日の出来事はそれとは比にならない。
やはり上手い話には裏があるのだ。
高額な慰謝料を請求されたり、社会的信用を失ったりしない代わりに、私は今、好きな人の奥さんから襲われそうになっている。
これが天罰なのかもしれないと思った。
例え、奥さんが許可していようと不倫は不倫でしかない。刑法には触れなくても民法には触れるのだ。
私は人の道に外れたことをしてしまった。その代償を払わなければいけない。
情けなくて自然と涙がこぼれていた。止めることも拭うこともできない。
「あらあら。泣かないで、一葉さん。あなたはじっと眠っててくれたらいいのよ。痛いことはしないから。安心して」
そういう問題じゃないと思いながら、動きの鈍い体で必死に抵抗を試みる。夢の中で上手く走れない、声も出せないみたいなジレンマと気持ち悪さに、心が折れそうになる。
何かに掴まって起き上がろうとしても、体に力が入らない。
あちこち手を伸ばしたせいでソファーの上に置いてあったバッグも落ちてしまった。この眠気と緩慢さが抜けない限り助けも呼べそうにない。
私が嫌がるのを楽しむかのように、奥さんは背後から覆いかぶさってくる。
「胸もお尻もボリュームがあって素敵よ。腰のカーブも美しい。惚れ惚れしちゃう。実物は想像した以上にきれいだわ」
艶めかしい声で囁きながら、奥さんは私の肌に指を滑らせる。
「いや……止めて……お願い、助けて……」
「透き通るような白い肌って、一葉さんみたいな人のことを言うのね」
うつ伏せになって必死に這おうとしているのに、まったく進まない。気持ちばかりが焦る中、ブラのホックが外された感覚があった。
こんなに惨めな思いをするくらいなら、ぐっすり眠っていた方がよかったのかもしれない。
いっそ、どこかに頭でもぶつけて気絶しようか。
私を殺したりする気はないようだけど、これから自分の身に何が起こるのかと思うと、怖くて堪らなかった。
足元で銀杏の葉がかさかさと風に舞っているのを見ながら、容赦ない時の流れを感じていた。
碧川さんとは職場の外で偶然会うことがあっても仕事以外の話はしないし、彼の中で私は完全に過去の人になっているようだった。最初から奥さんより好きになることはない相手だったのかもしれないけれど、私と距離を置くことが彼なりの愛なんだと思い込むことでどうにか精神のバランスを保っている。
バランスが崩れたらどうなってしまうのか、自分でも怖い。
ほんの一瞬でも好きな人のカノジョになれたのだからいいじゃないと割り切れたら幸せだったのに、あの甘く濃密な時間はもう戻らないのかと思う度、熟し過ぎた果実のように腐って崩れ落ちそうになる。
婚外カノジョなんかにならずただ想い続けているだけだったら、今ごろもっとスムーズに小山内くんに気持ちが向いていたのかもしれない。
今さら後悔したところで時計の針を戻すことはできないし、未来に向かって一歩踏み出すしか道はないのに。秋の空みたいに簡単に移ろわない心もある。
『連絡が遅くなって申し訳ありません。今週末に部屋を片付けて、鍵は碧川さんにお返ししておきます。ありがとうございました。』
いつまでもだらだら逃げないように奥さんにメッセージを送り、まずは思い出の部屋と決別することを決めた。
少しずつでも前に進まなければ。
「わー、イチハじゃないか。遊び来たの? Welcomeよぉ」
マンションの入口をくぐると、ちょうどこれから出かけるのであろうパオちゃんに出くわしてしまった。
「大和まだ寝てるやで。起こすから待ってくださいねー」
まさか、四階でバッドガイと逢引していたなんて知るはずもないパオちゃんは、自分たちの部屋に遊びに来たものだと信じて疑わなかった。
「あ、ううん。違うの。今日は遊びに来たんじゃないの。四階に知ってる人が住んでるから」
「四階に知ってるの人いる? 男か?」
「……ううん、女の人」
「ワタクシの家来ない?」
「うん。ごめんね。今日は行かない」
「哎呀~。 そっか。また次、来るやで」
「分かった。また今度遊びに行くね」
あからさまにがっかりしている姿を見ると、心が痛む。
でも、小山内くんには何の連絡もしていないし、寧ろここにいることは知られたくない。
パオちゃんと別れて四階へ上がると、今度は電話がかかってきた。
『今うちのマンションおるってほんますか?』
名乗りもせず、もしもしも言わず、小山内くんは寝起き丸出しの掠れた声で訊いてきた。
どうやらパオちゃんが彼を起こして、私がいることをしゃべってしまったらしい。口止めもしなかったので仕方がないけれど。
電話の向こうから『ワタクシ、嘘吐かないやで』というパオちゃんの声が聞こえる。本当に可愛い子だ。
『俺とデートしたいんすか?』
「違うよ。たまたま知り合いが住んでるから来ただけ。パオちゃんに今度またご飯行こうねって言っておいて」
『俺もでしょ? 照れんなって。一緒にラブホ行った仲やん』
「そういう誤解を招く言い方は止めてって言ってるでしょ! じゃあ、私は予定があるから切るね」
どんどん口調が馴れ馴れしくなって、全然先輩と思ってないじゃんとぶつぶつ文句を言いながら久しぶりにドアを開けた。風に乗って、私が置いたホワイトムスクの香りが漂ってくる……と思いきや、もっとお高そうな香水の匂いが漂ってきた。
「あら、一葉さん。早かったのね」
「お、奥さん……? どうしてここに」
さっきまでの小山内くんへのもやもやは吹き飛び、私の体は一瞬にして緊張の糸に縛られた。
「今日片付けるって連絡くれてたから、手伝いに来たのよ」
「わざわざそんな……。一人で大丈夫ですよ、言うほど荷物もないですし」
まさか、私と碧川さんが使っていたものを確認しにきた、とか? すべて知りたい人ってそういうものなのかな。私には分からない。
「気にしないで。手伝いは単なる口実で、本当は一葉さんにお会いしたかったのよ」
「私に、ですか?」
関係が終わったら、改めて慰謝料請求するとかじゃないよね……? もう完全にそっちのことは忘れていたけど、いつ何時奥さんの気が変わって訴えを起こされるか分かったものじゃない。別れたから許されるってものではないのだ。私は碧川さんにとって特別な存在ではなくなったわけだし、攻撃の対象になってもおかしくはない。
つやつやした美しい顔に湛えた笑みが恐ろしく思えた。
初めてこの部屋に来た時と同じように、奥さんは紅茶を淹れてくれた。
茶葉をティープレスに入れ、お湯を注ぎ、蒸らしてからティープレスのフィルターをゆっくりと下ろす。
部屋中にベルガモットの爽やかな香りが広がる。紅茶は香りと色を楽しむものだと、昔誰かに教わった気がするけど、本当にその通りだなと思う。
「主人とは本当に別れてしまったのね」
紅茶を運んでくると、奥さんは残念そうに言った。
「はい……そうなんです」
「この間、一緒にいた彼とお付き合いするために別れたの?」
「あ……いえ。彼は会社の後輩で、お付き合いはしてないんです」
「まあ、そうなの。私はてっきり、あの彼と真剣に付き合うから主人とは別れたのかと思ってたわ」
私に好きな人ができるまで――それがヨリを戻す条件だった。今回別れた理由が他の人と真剣にお付き合いしたいから、だったらどんなによかっただろう。
嘘でも毎日のように小山内くんを好き好き言っていたら、自分に暗示をかけられるだろうか。いっそ、暗示でも催眠でもかかってしまいたい。
「主人にどうして別れたのか訊いても、彼女には彼女の人生があるからって曖昧なことしか言わないからよく分からなくて。お互いに好きなら別れることないのにって、私なんかは思っちゃう」
「……普通の関係だったらそうなんですけど、私は所詮愛人だし将来的に結婚できるわけでもないですから」
そこまで焦ってはいないけれど、一生独身でいるつもりもない。いつかは好きな人と結ばれて、子どもだってもうけたい。おじいちゃん、おばあちゃんになっても手を繋いで歩くような夫婦に憧れだってある。
結婚している友達には理想と現実は違うよってよく言われるけど、恋人同士から生活を共にするパートナーに変わっていく様も私には羨ましいでしかない。
私は今目の前にいる碧川環が羨ましくて仕方がない。SF漫画みたいに雷が落ちて中身が入れ替わってしまう、みたいなことがあればいいのにと本気で思う。
碧川さんの奥さんになれる人生がよかった。
「不躾なこと訊くようだけど、一葉さんは主人と結婚したかったの?」
こんなことを訊いて何になるのか知らないけど、そんなに聞きたいのなら素直に答えようと思った。
「そうですね。許されることなら結婚したかったです。実は、私が奥さんと離婚してくださいって頼んだからフラれたんです。もう碧川さんから聞いてるかもしれませんけど」
「あら、そうなの? それは知らなかったわ」
頗る性格が悪いけど、表情を曇らせる奥さんを見て、何だ知らないんだって少し気分が高揚するのを感じた。
人間だから話したくないことだってある。例え奥さんでも、いや奥さんだからこそ話したくないことってあるはずだ。
秘密のないオープンな夫婦なんて、他人が介在したら実現は難しくなる。仕事にも行かず、家で四六時中一緒にいない限り、すべてを知り尽くすことなんて不可能だ。
人間なんて無意識に嘘を吐くこともあるし、頭で考えていることと口に出している言葉が必ずしも一致しているとは限らない。
結局、奥さんの理想は理想でしかない。
「……あの人ってほんと、頭が固いところがあるっていうか、遊びの恋ができないのよね。私がどんなに気にしないって言っても常に罪悪感を持ってるのよ。女好きの男なら若い女の子と浮気してきた後なんて馬鹿みたいにルンルンだと思うんだけど、あの人にはそういうのがほとんどなかったわ。あなたのこと、本気で好きになっちゃったんでしょうね、きっと。だから、あなたをこれ以上傷つけたくないと思ったんだと思うわ」
不謹慎かもしれないけど、内心ではそうだったら嬉しいなと思っていた。
本気で好きになったからこそ、私と別れたのであればこの想いもどうにか成仏させられるかもしれない。
愛された記憶があれば、この先も生きていける。
「もう主人とヨリを戻す気はないのよね? 後輩の彼とのお付き合いを前向きに考えている感じ?」
「そうですね。もうヨリを戻すことはできないと思います。しばらくは誰ともお付き合いはしないかもしれません。後輩のことはまだ異性として好きっていうところまでいってないですし」
「そうなんだ。世の中って本当に皮肉ね」
「私もそう思います」
初めて奥さんと意見が一致した。
碧川さんを好きだと思っているのと同じくらい、小山内くんのことを好きになれたらすべて解決するのに。
どうしてダメなんだろう。
時々、ラブホテルでのことを思い出して寿命が縮む思いはするけれど、まだ “好き” の手前で立ち往生している気がする。
「私の個人的な思いを言うとね。本当に残念なのよ。一葉さんと主人が別れたこと。主人があなたに会いに行くのを私も楽しみにしてたから」
意見が一致したのは一瞬だけで、やはりこの奥さんの言うことは私の理解のはるか上をいっている。自分の旦那さんが愛人に会いに行くのを楽しみにする感覚ってどんなだろう。独身貴族だった息子にようやく花嫁候補ができた母親の感覚に似ているのだろうか。私には想像もつかない。
「そんな顔しないで。私はね、あなたのことが好きなのよ、一葉さん」
「え……?」
妖艶な笑みを浮かべながら、奥さんは私の隣に移動してきた。座り慣れているはずのソファーに緊張が走る。
「ホテルのレストランで初めてあなたに会った時、体中に電気が流れて感電したみたいだった。ああ、これが一目惚れなのかしらって思ったわ」
「何、言ってるんですか?」
理解も想像も追いつかない、夥しいほどの情報に全身が蝕まれていくようだった。
体中に電気が流れた? 一目惚れ? 寒くもないのに身震いした。
「一葉さんは異性愛者以外は理解できない人?」
「い、いえ、そんなことないです」
「それはよかった。私ね、バイセクシャルなのよ」
予想だにしなかった告白に、度肝を抜かれてしまった。
生物学上パオちゃんだってゲイだけど、私は素敵だと思っている。差別や偏見はない。
でも、自分が同性愛者の対象になるなんて考えたこともなかった。
しかも、相手は好きな人の奥さん……。
世の中には色んな性的指向がある。バイセクシャルだって悪いことではない。頭では解っているのに、奥さんの手が肩に触れた瞬間、振り払いたい衝動に駆られた。
「ずっと主人が羨ましかったのよね。あなたに触れることができる主人が。私も一葉さんに触れたいって。三人で愛し合えたらどんなに素敵だろうって、いつも思ってたの」
寝取らるのが好きとかじゃなくて、奥さんは私が好きってこと?
流れるような手つきで奥さんの指が、私の頬に触れた。差別や偏見はなくても、私はバイセクシャルではない。女性に触れられることに違和感しかなかった。
「ご、ごめんなさい! あの、差別とか偏見は持ってないですけど、私は女性のことは……」
「ええ、それは解ってるわ。別に私のことを好きになってほしいなんて思ってないの。ただ、一度でいいからあなたに触れてみたかっただけ」
逃げるようにソファーから立ち上がると、なぜか目眩がしてその場に尻餅をついてしまった。極度の緊張が体にも影響を及ぼしているのだろうか。
あれ……。おかしい。体に力が入らない。急にどうしたんだろう。意識が遠のいていく。
「ごめんなさいね」
薄れゆく意識の中、最後に見たのは奥さんの妖しい微笑みだった。
柔らかい感触に目が覚めそうで覚めない。私は一体どうなってしまったんだろう。眠くて堪らない。
「あなたは本当にきれいね。可愛いわ……」
夢現の耳に女性の囁きが聞こえる。
接着剤でもついているのかと思うほど重い瞼をこじ開けると、すぐそばに奥さんの顔があった。
気持ち的に驚いて飛び起きているのに、体が言うことを聞かない。まるで金縛りにでもあっているかのように、体の自由が利かないのだ。
「大丈夫よ。怖がらないで」
囁きとともに、奥さんは私の体に触れているようだった。
もしかして私、服を脱がされている? 奥さんの手が素肌に触れているような感覚がある。
「いや……止め……て……」
声も思うように発せない。どうしよう、怖い。逃げたいのに逃げられない。
「ダメよ。無理に動いたら危ないわよ」
子どもにでも言い聞かせるような口調で奥さんは言う。私はそんなに落ち着いた気分でいられず、必死に手足を動かす。動いた拍子に何かを踏んだ。その瞬間、妙な声が聞こえてきた。
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もしかして、ずっと奥さんに盗撮されてたってこと?
「あ、あれは……」
「ああ。この部屋に防犯用のカメラつけてたのをすっかり忘れてたのよ。この部屋って住んでるわけじゃないからほぼ無人でしょ? 以前、この近所で空き巣騒ぎがあった時に、怖いから取り付けたのよ。それを切り忘れてただけ。わざとじゃないのよ」
意識朦朧として頭ははっきりしないけど、奥さんの言っていることは嘘だと思った。
私と碧川さんが愛し合っているところを見せてと言っていたし、この部屋を貸したのは盗撮が目的だったんだ。
今さら気が付いてもどうにもならないけれど。
「なんで……こんな……」
「心配しないで。絶対にネットで公開したりしないから。主人にさえ見せてないんだから。他人になんか見せてやらないわ」
申し訳ないけど、聞けば聞くほど恐怖が増す。
奥さんが旦那さんの不倫相手を好きになるなんて聞いたことがない。それも、気が合うとか友達になるとかじゃなく、恋愛対象として好きだなんて。
オープンマリッジにも度肝を抜かれたけれど、今日の出来事はそれとは比にならない。
やはり上手い話には裏があるのだ。
高額な慰謝料を請求されたり、社会的信用を失ったりしない代わりに、私は今、好きな人の奥さんから襲われそうになっている。
これが天罰なのかもしれないと思った。
例え、奥さんが許可していようと不倫は不倫でしかない。刑法には触れなくても民法には触れるのだ。
私は人の道に外れたことをしてしまった。その代償を払わなければいけない。
情けなくて自然と涙がこぼれていた。止めることも拭うこともできない。
「あらあら。泣かないで、一葉さん。あなたはじっと眠っててくれたらいいのよ。痛いことはしないから。安心して」
そういう問題じゃないと思いながら、動きの鈍い体で必死に抵抗を試みる。夢の中で上手く走れない、声も出せないみたいなジレンマと気持ち悪さに、心が折れそうになる。
何かに掴まって起き上がろうとしても、体に力が入らない。
あちこち手を伸ばしたせいでソファーの上に置いてあったバッグも落ちてしまった。この眠気と緩慢さが抜けない限り助けも呼べそうにない。
私が嫌がるのを楽しむかのように、奥さんは背後から覆いかぶさってくる。
「胸もお尻もボリュームがあって素敵よ。腰のカーブも美しい。惚れ惚れしちゃう。実物は想像した以上にきれいだわ」
艶めかしい声で囁きながら、奥さんは私の肌に指を滑らせる。
「いや……止めて……お願い、助けて……」
「透き通るような白い肌って、一葉さんみたいな人のことを言うのね」
うつ伏せになって必死に這おうとしているのに、まったく進まない。気持ちばかりが焦る中、ブラのホックが外された感覚があった。
こんなに惨めな思いをするくらいなら、ぐっすり眠っていた方がよかったのかもしれない。
いっそ、どこかに頭でもぶつけて気絶しようか。
私を殺したりする気はないようだけど、これから自分の身に何が起こるのかと思うと、怖くて堪らなかった。
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