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天才少女?
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新しい出会いでも後押しするような四月の温暖な春風が、やわくマンションの共通廊下を吹き抜ける。
蟹江陽太は右手にコンビニのビニール袋を提げ、上り階段の最後の一段を踏み越えて自室へと続く共通廊下の角を曲がった。
普段ならそのまま足が進むであろうが、この日は廊下の光景に見慣れぬ人の姿が混ざっている。
蟹江は階段を昇り切ったところで足を止め、自室の前に立っている人物に目を凝らした。
近くの中学校の女子制服、ブラウン色のボブカットの髪、幼さの残る横顔。
「誰だ?」
蟹江は訝しげに少女を見た。
す、と少女が廊下で立ち止まっている蟹江に気付いて、顔を向けると、
少女の口があっ、という形を作る。
話しかけてくるのか、と蟹江は少女の口から言葉を待ったが、少女はまじまじと蟹江に視線を固定していた。
視線をまともに合わせた身として、立ち去る気も引けて蟹江はドアの前の少女に近づいた。
「どうしたんだ?」
声をかけられて、少女は蟹江を見上げる。
その瞳には見つかった恥ずかしさだとか、知らない男の人に話しかけられた警戒心だとか、そういった怯くような感情は含んでいなかった。
蟹江を崇める瞳だった。
「あ――」
少女が口を開く。
「あたしを弟子にしてください!」
隣室の住人が何の音だろう、と首を傾げるくらいの声量で少女は言い放った。
蟹江は少女から視線を外さず、首を傾げ腕を組む。
蟹江の頭の中は、疑問が乱れ飛んでいた。
この少女は誰なのか? この少女は何故弟子にしてほしいと言っているのか? そもそも何故自分の部屋のドアの前にいるのか?
「お願いします」
蟹江が何も言わないので、少女は駄目押しで頭を下げた。
「あのさ」
蟹江は表情を崩さずに尋ねる。
「君は何がしたいの?」
「へ?」
少女は蟹江の返答に、呆けた声を出す。
「何がしたいの?」
「ええと、蟹江さんに会いにきました」
「俺に?」
「はい」
「どうして?」
「それは、蟹江さんの弟子になりたいと思いまして」
「弟子って、何の?」
蟹江の質問に、少女はポカンとした。
会話が進展しないまま、五秒ほど沈黙が通り過ぎていった。
「そりゃ」
少女はようやく言葉を継ぐ。
「トランプ記憶ですよ」
「そうか。トランプ記憶か」
蟹江は合点がいき、鸚鵡返しに言った。
来意を理解した蟹江に、少女は笑顔で願い出る。
「蟹江さん、あたしを弟子にしてください」
「断る」
「ありがとうござ……ええっ?」
了承されたつもりで頭を下げかけたが、腰を半端に折った姿勢で蟹江に仰天の視線を向けた。
「な、なんでですか?」
「特別に個人だけで指導することはしたくない」
「そこをなんとか、あたしは蟹江さんの弟子になりたいんです」
「そもそも弟子を取る気はない。どうしても俺に習いたいなら、駅近くにあるテナントビル二階に来い。そこなら生徒として教えてやれる」
「……うう、わかりました」
少女はとても残念そうに肩を落とし、蟹江の横を通って駆け去っていった。
次の日、蟹江が大学から帰ってくると、またしても制服の少女が、昨日と同じくドアの前にいた。
蟹江はデジャビュを見るような気分で、少女に近づく。
「どうした?」
「蟹江さん!」
少女は蟹江に声をかけられるなり、真剣な目で見上げた。
「あたしを弟子にしてください」
「昨日言っただろ。お断りだって」
「そう言うだろうと思って、今日はトランプを持ってきました」
意気込んだ口調で告げ、武器でもちからつかせるかのように通学鞄からトランプを二ケース取り出した。
裏をかかれたように、蟹江の目の色が驚きに変わる。
「お前。俺を説得するためにトランプを持ってきたのか」
「はい。蟹江さんがあたしを弟子にしてくれないなら、あたしの実力を見せてあげます。そうすればきっと蟹江さんの考えも変わるはずです」
「なるほど。そこまで言うなら見せてもらおうかな」
蟹江は少女から測り知れない自信を感じ取って、彼女の実力を見てみたいと俄然興味が湧いた。
日本一の俺にここまで言うんだ、相当の自信があるのだろう。
「ここじゃ風があってトランプが飛ぶから、中に入るか」
「はい。お邪魔します」
女子中学生を自宅に誘い込む、という傍から見れば犯罪でも、蟹江も少女も気に掛けていない。
蟹江がドアを開けて先に入り、少女が後に続いて部屋に上がった。
トランプ記憶が出来そうな場所を、主の蟹江は検討する。
さして選択肢があるわけではなかった。自身がいつも使っている所にした。
「ダイニングテーブルでいいか?」
「はい」
少女は文句も言わず頷く。
蟹江は少女を連れて、リビングへ案内する。
あまり使った形跡のないキッチンの横に、ダイニングテーブルはある。
「席はどこでもいいぞ」
二対で向かい合う四つの椅子の、一番手前の席に少女は座る。
少女の傍に立って、蟹江はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。
「時間はスマホで測るけど問題ないか?」
「はい」
決意を窺わせる短い返事の後、少女はトランプを二つのケースから抜き、一束は左手の外側、もう一束をシャッフルしてから裏面を向けて正面に置いた。
「準備はいいか?」
少女は意を決した顔で頷く。
「それじゃ、はじめ」
蟹江がスマホのストップウォッチをスタートさせた。
右手から左手へ、少女の細指がめまぐるしくトランプを捲りはじめる。
予想を超える少女のトランプを繰るスピードに、蟹江は目を瞠った。
トランプ五十二枚が少女の左手に全て移り、トランプは伏せられた。
そこで蟹江はストップウォッチの計測を止める。
44秒76。
シャッフルされたトランプ52枚の順列を正確に記憶するのに、上級者でも一分近く、蟹江を除く日本のトップ層でも四十秒前後はかかる。
信じられない思いで、蟹江は少女のタイムから目が離せなかった。
蟹江の驚きには気付かぬ様子で、少女は配列用のもう一方のトランプで、頭に入れたトランプの順番を再現して積んでいく。
五十二枚が積んだところで、蟹江を振り向いた。
「答え合わせを始めても……」
「その必要はない。五十二枚合ってるよ」
確信ある声で蟹江は遮った。
少女は嬉しそうに満面で笑う。
「さりげなく覚えてたんですね。さすがですね蟹江さん」
「いつからスピードカード始めたんだ?」
自分を褒め上げる少女に、蟹江が重大事の口ぶりで唐突に追及する。
態度が一変した蟹江を前に、少女はたじろいだ。
「ええと、確か去年のクリスマスのちょっと前でしたけど」
「それじゃ大体、三か月か」
「そうなりますね。それがどうかしたんですか?」
本当に意味が分からず、少女は訊く。
どうかしてるよ、と内心で蟹江は肩をすくめる。
「三か月で一分切れるなんて、俄かに信じられない」
「疑ってるんですか?」
心外というふうに口を突き出す。
蟹江はそんなわけないだろ、と迷わず否定した。
「トランプに作為はないし、シャッフルにもインチキするような手の動きはなかった」
「それなら信じてください。そしてあたしを弟子にしてください」
蟹江が疑っていないとわかるなり、弟子入りを志願した。
彼女の実力を認め弟子として迎え入れたい気持ちと、彼女だけ特別視していいのか心が揺れて、蟹江はすぐに答えが出せない。
「迷うぐらいなら弟子にしてください」
決めかねる蟹江がじれったく、念押しするように蟹江の視界がいっぱいになるほど顔を近づけた。
少女の懇願に、半ば根負けした形で蟹江は言葉を継ぐ。
「わかった。弟子にしてやるから、今日は帰れ」
「ほんとですか。弟子にしてくれるんですか。ありがとうございます!」
蟹江が弟子入りを容認すると、近づけていた顔を離して嬉々として頭を下げた。
「師匠のいいつけ通り、今日は帰ります」
嬉しさが隠し切れない笑みを浮かべ、必要ない敬礼をしてから、トランプを片づけるのも忘れ蟹江の住処から足早に去っていった。
少女の足音がなくなってから、蟹江は少女の出ていったドアのある方向を振り返って溜息を吐きながら独りごちる。
「どうして俺の弟子に拘るんだろうな?」
昨日、自宅先で顔見知りになったばかりの、名前も知らない少女。彼女への疑問は尽きないが、一つだけ期待できることがあった。
才能は確実に持っている。
蟹江はそのことだけに期待して、弟子にしてやると言ってしまったのだ。
蟹江陽太は右手にコンビニのビニール袋を提げ、上り階段の最後の一段を踏み越えて自室へと続く共通廊下の角を曲がった。
普段ならそのまま足が進むであろうが、この日は廊下の光景に見慣れぬ人の姿が混ざっている。
蟹江は階段を昇り切ったところで足を止め、自室の前に立っている人物に目を凝らした。
近くの中学校の女子制服、ブラウン色のボブカットの髪、幼さの残る横顔。
「誰だ?」
蟹江は訝しげに少女を見た。
す、と少女が廊下で立ち止まっている蟹江に気付いて、顔を向けると、
少女の口があっ、という形を作る。
話しかけてくるのか、と蟹江は少女の口から言葉を待ったが、少女はまじまじと蟹江に視線を固定していた。
視線をまともに合わせた身として、立ち去る気も引けて蟹江はドアの前の少女に近づいた。
「どうしたんだ?」
声をかけられて、少女は蟹江を見上げる。
その瞳には見つかった恥ずかしさだとか、知らない男の人に話しかけられた警戒心だとか、そういった怯くような感情は含んでいなかった。
蟹江を崇める瞳だった。
「あ――」
少女が口を開く。
「あたしを弟子にしてください!」
隣室の住人が何の音だろう、と首を傾げるくらいの声量で少女は言い放った。
蟹江は少女から視線を外さず、首を傾げ腕を組む。
蟹江の頭の中は、疑問が乱れ飛んでいた。
この少女は誰なのか? この少女は何故弟子にしてほしいと言っているのか? そもそも何故自分の部屋のドアの前にいるのか?
「お願いします」
蟹江が何も言わないので、少女は駄目押しで頭を下げた。
「あのさ」
蟹江は表情を崩さずに尋ねる。
「君は何がしたいの?」
「へ?」
少女は蟹江の返答に、呆けた声を出す。
「何がしたいの?」
「ええと、蟹江さんに会いにきました」
「俺に?」
「はい」
「どうして?」
「それは、蟹江さんの弟子になりたいと思いまして」
「弟子って、何の?」
蟹江の質問に、少女はポカンとした。
会話が進展しないまま、五秒ほど沈黙が通り過ぎていった。
「そりゃ」
少女はようやく言葉を継ぐ。
「トランプ記憶ですよ」
「そうか。トランプ記憶か」
蟹江は合点がいき、鸚鵡返しに言った。
来意を理解した蟹江に、少女は笑顔で願い出る。
「蟹江さん、あたしを弟子にしてください」
「断る」
「ありがとうござ……ええっ?」
了承されたつもりで頭を下げかけたが、腰を半端に折った姿勢で蟹江に仰天の視線を向けた。
「な、なんでですか?」
「特別に個人だけで指導することはしたくない」
「そこをなんとか、あたしは蟹江さんの弟子になりたいんです」
「そもそも弟子を取る気はない。どうしても俺に習いたいなら、駅近くにあるテナントビル二階に来い。そこなら生徒として教えてやれる」
「……うう、わかりました」
少女はとても残念そうに肩を落とし、蟹江の横を通って駆け去っていった。
次の日、蟹江が大学から帰ってくると、またしても制服の少女が、昨日と同じくドアの前にいた。
蟹江はデジャビュを見るような気分で、少女に近づく。
「どうした?」
「蟹江さん!」
少女は蟹江に声をかけられるなり、真剣な目で見上げた。
「あたしを弟子にしてください」
「昨日言っただろ。お断りだって」
「そう言うだろうと思って、今日はトランプを持ってきました」
意気込んだ口調で告げ、武器でもちからつかせるかのように通学鞄からトランプを二ケース取り出した。
裏をかかれたように、蟹江の目の色が驚きに変わる。
「お前。俺を説得するためにトランプを持ってきたのか」
「はい。蟹江さんがあたしを弟子にしてくれないなら、あたしの実力を見せてあげます。そうすればきっと蟹江さんの考えも変わるはずです」
「なるほど。そこまで言うなら見せてもらおうかな」
蟹江は少女から測り知れない自信を感じ取って、彼女の実力を見てみたいと俄然興味が湧いた。
日本一の俺にここまで言うんだ、相当の自信があるのだろう。
「ここじゃ風があってトランプが飛ぶから、中に入るか」
「はい。お邪魔します」
女子中学生を自宅に誘い込む、という傍から見れば犯罪でも、蟹江も少女も気に掛けていない。
蟹江がドアを開けて先に入り、少女が後に続いて部屋に上がった。
トランプ記憶が出来そうな場所を、主の蟹江は検討する。
さして選択肢があるわけではなかった。自身がいつも使っている所にした。
「ダイニングテーブルでいいか?」
「はい」
少女は文句も言わず頷く。
蟹江は少女を連れて、リビングへ案内する。
あまり使った形跡のないキッチンの横に、ダイニングテーブルはある。
「席はどこでもいいぞ」
二対で向かい合う四つの椅子の、一番手前の席に少女は座る。
少女の傍に立って、蟹江はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。
「時間はスマホで測るけど問題ないか?」
「はい」
決意を窺わせる短い返事の後、少女はトランプを二つのケースから抜き、一束は左手の外側、もう一束をシャッフルしてから裏面を向けて正面に置いた。
「準備はいいか?」
少女は意を決した顔で頷く。
「それじゃ、はじめ」
蟹江がスマホのストップウォッチをスタートさせた。
右手から左手へ、少女の細指がめまぐるしくトランプを捲りはじめる。
予想を超える少女のトランプを繰るスピードに、蟹江は目を瞠った。
トランプ五十二枚が少女の左手に全て移り、トランプは伏せられた。
そこで蟹江はストップウォッチの計測を止める。
44秒76。
シャッフルされたトランプ52枚の順列を正確に記憶するのに、上級者でも一分近く、蟹江を除く日本のトップ層でも四十秒前後はかかる。
信じられない思いで、蟹江は少女のタイムから目が離せなかった。
蟹江の驚きには気付かぬ様子で、少女は配列用のもう一方のトランプで、頭に入れたトランプの順番を再現して積んでいく。
五十二枚が積んだところで、蟹江を振り向いた。
「答え合わせを始めても……」
「その必要はない。五十二枚合ってるよ」
確信ある声で蟹江は遮った。
少女は嬉しそうに満面で笑う。
「さりげなく覚えてたんですね。さすがですね蟹江さん」
「いつからスピードカード始めたんだ?」
自分を褒め上げる少女に、蟹江が重大事の口ぶりで唐突に追及する。
態度が一変した蟹江を前に、少女はたじろいだ。
「ええと、確か去年のクリスマスのちょっと前でしたけど」
「それじゃ大体、三か月か」
「そうなりますね。それがどうかしたんですか?」
本当に意味が分からず、少女は訊く。
どうかしてるよ、と内心で蟹江は肩をすくめる。
「三か月で一分切れるなんて、俄かに信じられない」
「疑ってるんですか?」
心外というふうに口を突き出す。
蟹江はそんなわけないだろ、と迷わず否定した。
「トランプに作為はないし、シャッフルにもインチキするような手の動きはなかった」
「それなら信じてください。そしてあたしを弟子にしてください」
蟹江が疑っていないとわかるなり、弟子入りを志願した。
彼女の実力を認め弟子として迎え入れたい気持ちと、彼女だけ特別視していいのか心が揺れて、蟹江はすぐに答えが出せない。
「迷うぐらいなら弟子にしてください」
決めかねる蟹江がじれったく、念押しするように蟹江の視界がいっぱいになるほど顔を近づけた。
少女の懇願に、半ば根負けした形で蟹江は言葉を継ぐ。
「わかった。弟子にしてやるから、今日は帰れ」
「ほんとですか。弟子にしてくれるんですか。ありがとうございます!」
蟹江が弟子入りを容認すると、近づけていた顔を離して嬉々として頭を下げた。
「師匠のいいつけ通り、今日は帰ります」
嬉しさが隠し切れない笑みを浮かべ、必要ない敬礼をしてから、トランプを片づけるのも忘れ蟹江の住処から足早に去っていった。
少女の足音がなくなってから、蟹江は少女の出ていったドアのある方向を振り返って溜息を吐きながら独りごちる。
「どうして俺の弟子に拘るんだろうな?」
昨日、自宅先で顔見知りになったばかりの、名前も知らない少女。彼女への疑問は尽きないが、一つだけ期待できることがあった。
才能は確実に持っている。
蟹江はそのことだけに期待して、弟子にしてやると言ってしまったのだ。
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