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零章 第四部『加速と収束の戦場』
六十七話 「RD事変 其の六十六 『紅虎の動き⑥ 男たちの挽歌』」
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「もう死にたい」
心の声が思わず外に漏れたことも、今のエイゾウムにとっては些細なことである。彼にとっては、この場に居続けることこそ、死よりもつらい地獄であるから。
「エイゾウム陛下、お色直し」
誰が言ったのかすでに覚えていない。おそらく衛兵が言ったのだろうが、なんとも言い得て妙である。
お色直しは結婚に関する用語であり、三日間白無垢を着て過ごしたあと、色付きの服に着替えて相手の家(色)に染まることを許されることから、その名がついたものである。
たしかに白いものを吐き出して、紅虎の色に染まってしまったという意味では否定はできないが、これはエイゾウムの心をさらに抉ることになる。すでに死んでいる相手に対してまで刀を突き刺す非情な行為である。
だが、悪気があったわけではない。何かちょっと面白いことを言って慰めようとしたのかもしれない。それが空回りしたにすぎないのだ。なぜならば、衛兵だって男だったからだ。
下着に触れると気持ち悪いので、腰を引きながら歩くエイゾウムを見て笑う男はいない。普通の男がやれば笑い話だが、いかんせん国王である。貴賓相手にそのようなことはできないし、相手が紅虎とわかれば同情の念も湧くというものだ。
あの惨事のあと、エイゾウムはサイキュロたちによって保護され、中が見えないように周囲を守られながら一時退避した。男たちの慈悲によって守られた壁は鉄壁で、誰であろうと様子をうかがうことはできなかった。
そして、召し物を変えて戻ってきたのだが、エイゾウムは誰とも視線を合わせなかった。いや、合わせられなかった。
男からは同情の視線が向けられているが、女性の反応は、意図して見ていないのでわからないが、好意的な視線は一つもないといってよいだろう。
奇異、軽蔑、苦笑、嘲笑。それがエイゾウムの気のせいだとしても、そういったものが向けられているように思えるのだ。
「ひっ」
突然、エイゾウムが身体を震わせる。
誰も触れてはいない。誰も見てもいない。だが、過去は彼を逃さない。最後に見たンダ・ペペの眼差し。それが脳裏をよぎっては怯えるようになっていた。
年上の女性ならば理解もあろう。子供ならば不思議がろう。だが、同世代の異性というものは容赦がない。なまじ自分が意識してしまうがゆえに、その影響力も大きいのである。
自意識過剰と言われても仕方がない。されど、今の彼にとって他人の視線は恐怖の対象なのである。
その時である。エイゾウムの肩に手が乗せられた。
「ひぁっ」
「…大丈夫か?」
「あ、ああ…サイキュロ…さん…」
サイキュロはがっしりと肩を掴み、真摯な眼差しでエイゾウムを見つめる。その目にはいっさいの淀みはない。非常に澄んだ目だ。
「あれはしょうがない。しょうがないんだ」
だが、その目ですらエイゾウムは過剰反応し、思わず言い訳を口走る。
「ちがっ、違うんです!! いつもはあんな、あんなにすぐじゃないんです! 十分は…、いや、そうだ、十五分…! じゃなくて二十分はもつんです!! ほ、本当なんです! その、自分でやるときは、その…もっと…」
そう。あれはおかしかった。何かが変だったのだ。そんなに触れたわけじゃない。何回かこすれただけだ。しかもズボン越しだ。それがどうしてこうなったのだろうか。
そりゃ、興奮していたという事実はある。だが、それにしてもこれはないだろう。そうだ。思い当たることはある。エイロウ魔法王国は二週間前にはダマスカス入りし、その間は観光や各国との交流に努めていた。
その間、緊張と不安で【していない】。
この年頃の少年ならば毎日していたっていいはずなのに、エイゾウムは次々と集まってくる世界中の人間に目を奪われ、そうした気も失せていたのだ。
一応国王である。商談の話もあったし、それによって国の行く末が決まるのならば緊張するのも当然だ。人間、疲れているとなかなかそういう気持ちにはならないものである。
国ではお付きの人間など、執事兼護衛の老人くらいだし、彼だって夜には別の部屋に行く。それ以外はエイト・パインズが付き従うくらいだ。だが、今回は護衛の意味もあって、常に周囲には人がいたのだ。扉の前に人がいると思うと、さすがに気恥ずかしい。
だから、だからか、だからこんなことになったのか!!!
「違うんです! 私はその、けっして…早いとか、そういうわけじゃなくて! あっ、皮は…けっこう余ってますが、けっしてそういうのでは…!」
「いいんだ。もういいんだよ」
何かまずいことを口走っているエイゾウムを、優しくサイキュロは制止する。そこにはすべてを理解している、自分よりも成熟した男性の姿があった。
そして、刺激しないように優しく語る。
「ここは敵陣じゃない。俺たちは味方だ」
その言葉に周囲の男性陣も静かに頷く。いつしか周囲には男性陣が集まり、強固なフォーメーションを生み出していた。これには見覚えがある。エイゾウムを守りながら移動していた、あの鉄壁の布陣だ。それが再び組まれたのだ。
誰かが言い出したことじゃない。一人、また一人と自然に集まってできたものだ。だからこそ尊いのだ。
「俺たちはいつだって間違いを犯す。この歳になっても同じだ。それが若い頃なら毎日のように失敗ばかりさ」
そのサイキュロの言葉をきっかけに、周囲から同意の声が相次ぐ。
「そうだ。俺だって初めての時は、触られただけで終わってしまったもんだ。指先一つだぜ? なさけないよな。それからあとは全然駄目で、死にたいと思ったこともある」
「だが、俺たちは生きている。今も、新しい発見をしながら毎日を生きているんだ。男は探究心を失ったら終わりだ。いいんだよ、それで。俺たちはそれでいいんだ」
「一回の失敗がなんだっていうんだ。それで死んでいたら、俺はもう百回は死んでいるさ。何回切腹すりゃいいんだよ」
「俺だって、人前で漏らしたことがある。好きな子の前だったんだ。だから緊張したんだろうな…。どっちかって? まあ、大きいほうさ。結果か? そりゃ駄目だったさ。だが、後悔はしていない。俺は間違っていないはずだ」
「俺も、ついうっかり秘密をばらしたら、次の日からあだ名が『ローション』になっちまった。それで仕事を辞めたこともある。さすがの俺もローションさん呼ばわりは無理だったよ」
「アホだったんだろうな。血が噴き出したときは終わったと思ったよ」
「皮が伸びてな…。もう戻らないと知ったときは、死のうと思ったよ。いいか、だからといって焦がしては駄目だ。手術は駄目だ。あれは駄目なんだ」
「男の魅力は、大きさとか耐久力じゃない。おおらかな優しさだよ。それがわからないやつは、本当の愛を知らないやつさ」
「み、みなさん…」
エイゾウムは知った。
ここには仲間がいるのだ。
仲間たちはいつだって仲間のままだ。
そんな温かさに、エイゾウムは思わず涙ぐむ。
「ぼく、僕は…こんなに嬉しいことはありません!!」
「ああ、俺たちはいつだって一緒だ。何があってもな」
この場に国王とか術士などの立場は存在しない。ただお互いを思い合い、相談し合い、笑って過ごせる仲間だけがいた。エイゾウムも、いつしか飾らない自分を出していることに気がつく。
人は人なんだ。
地位や立場で縛られるものじゃないんだ。
ここに差別はない。垣根なんてないんだ。
いつしかここに男たちの友情が生まれようとしていた。
「あー、そろそろ大丈夫?」
そんなところにやってきたのは、すべての元凶である悪魔(紅虎)である。一応、今回の責任をちょっとだけ、本当にちょっとだけ感じているようで、顔は若干苦笑いである。
べつにエイゾウムをからかおうとか、恥をかかせようと思っていたわけではない。紅虎にとっての最大の快感というものが、自分ではなく相手の快楽だからである。
彼女の肉体自身はさほど敏感なわけではないので、肉体同士の接触だけでは快楽は得られない。だが、心は違う。相手が興奮していること、相手がぞくぞくしていること、そうした相手の緊張や気持ちの高まりが伝わってくれば、紅虎の心も強く満たされるのだ。
だから少年を好むともいえる。ウブな少年ほど敏感で、ちょっとしたことにも過大に反応する。その高揚した心が、紅虎にとっては大好物なのである。
一方で、これもマリスに通じる無私の行為である。自分よりも相手のことを想い、相手が心地よくなってくれることだけを願うからこそ、その心が満たされる。実に理にかなったものなのだ。もちろん、そこに趣味がないとは言えないが…
「ごめんごめん。終わったらいくらでもやらせて…」
「うっ!! だ、駄目です! また…!」
紅虎を見たエイゾウムにトラウマが蘇る。すでに鎧を着て胸は元通りであるのだが、一度負った傷は簡単に癒えない。
人間とは不思議なものである。どんなにいけないと思っていても、身体は勝手に反応してしまう。特に肉体的刺激を受けたあとは敏感になっており、過去のもっとも心地よかった瞬間を思い出してしまう。
そして、また味わいたいと思う。
それによって再び衝動が訪れる。あらがいがたい強烈なものだ。再び及び腰になり、必死に股間をローブで覆う。
もう完全な発情期である。紅虎という存在が、もはや一つのトリガーになっており、紅虎=エロ、という図式が頭に刷り込まれてしまったようだ。これはまずい。非常にまずい。下手をすれば連盟会議中、ずっと立ちっぱなしということにもなりかねない。
「…………」
それをンダ・ペペの視線がまた射抜くのがわかった。冷徹で容赦のないものである。
「守れ! 守るんだ!!」
男たちが紅虎たち女性陣との間に壁を作る。この視線は危険だ。それだけで死んでしまう。悪魔。こいつらは悪魔である。油断してはいけない。
「大丈夫か、エイゾウム君!」
「サイキュロさん、だ、駄目です! 視覚と嗅覚が完全にやられています! こ、このままじゃまた…僕はまた!」
腰を引いた状態で暮らすことを余儀なくされる。それは男として、とてもまずい状態である。当人は望んでいるわけではない。それでも勝手になるのだ。これが若さゆえの過ちである。あるいは紅虎の恐ろしさか。
このままでは紅虎の近くにいることはできない。されど、紅虎がエイゾウムを逃がすことも考えにくい。となれば、方法は一つである。
サイキュロはローブからマスクを取り出す。少しガスマスクに似ているが、どこぞの部族の仮面のように、何やら怪しいペイントが施されていた。
「これを使うんだ。これが守ってくれる」
「こ、これは…まさか! 聖者の仮面ではないですか!? どうしてこんなところに!?」
「これは形見…、いや、いざというときのお守りだったんだが、今こそ使うに相応しい場面だ。さあ、使いたまえ」
「で、でも、こんな貴重なものを僕のためになんて使えません!」
「気にするな。道具は使うためにあるんだ。これは俺たちからの気持ちだ」
「みなさん…」
エイゾウムが見回すと、男たちは頷いた。
ある者は笑い、ある者はサムズアップし、ある者は感慨深けに目を瞑る。
これは総意だった。みんなの気持ちである。
その温かさに、エイゾウムは再び泣いた。
「では、では、ありがたく…、本当にありがたく…うう…」
このような光景はどこかで見たことがある。そういえばユニサンもガガーランドの賦気で泣いていたが、これも負けず劣らず重みがある涙であった。男として感動するという意味では同じである。
たぶんだが。
「お待たせしました。コーホー、コーホー」
再び紅虎の前に現れたエイゾウムは、奇妙な仮面を被っていた。サイキュロからもらった聖者の仮面である。
聖者の仮面。【欲圧と聖欲の十三仮面】と呼ばれる伝説のS級術具の一つである。それぞれの仮面には、特定の影響力を完全に遮断する術式が込められており、それを被った者に完全なる加護が与えられる。
たとえば無物の仮面と呼ばれるものは、あらゆる物欲を完全にシャットアウトするというもので、つけた者は本当に必要最低限以外のものを欲しがらなくなる。
友愛の仮面をつけると、あらゆるものに対して好印象を与え、どんなに性格の悪い人間でも友達が増えていく。また、つけた人間の性格すら温和になっていくという強制力をもった、実に強力な術具である。
そして聖者の仮面。一部では【性者の仮面】とも揶揄されるように、あらゆる性欲を抑制させる効果を宿している。つけた者は、まるで仏のように心静かになり、いっさいの情欲から解放されるという。
実際にエイゾウムからは動揺を感じない。紅虎の前にいても、もはや何もないかのように振舞うことができる。当然、股間も反応していない。なんと素晴らしく、なんと恐ろしい能力だろうか。
この性能の高さから、これを模倣した量産型を作って性犯罪者に被せて矯正させるという案も出ているほどだ。ただ、やはり伝説級の術具なので、効果の薄いものは作れても、このレベルのものは簡単に複製はできないようである。
もちろん、これには弱点もある。
それは、デザインが非常に気持ち悪いので、被っていると非常に恥ずかしいのと、これを被っているということは、性欲に翻弄されていることを衆人に告白しているようなものである。
また、仮面を外すと抑圧された欲求が噴き出すので、むしろつける前よりも激しい情念に苦しむことになる。一時的とはいえ、これはなかなか苦しいものである。結局、自己の欲求は自己で解決するしかない、ということだろう。
しかし、もう手段は選んではいられない。マスクから怪しげな呼吸音をこぼしながら、エイゾウムは悟りを開く。
「紅虎様、問題ないですよね?」
「あー、うん。それでいいなら、べつにいいけど…」
サイキュロが紅虎に確認を取る。その顔は、仲間を守る漢の顔。紅虎も何も言えない。
「こほん。じゃあ、話を戻そうか。えっと、そうそう結界の張り方だけど、直接行ってもらうにはリスクが高いわ。だから、彼の術を使うつもりよ」
そう言って、紅虎は仮面を被ったエイゾウムを指差す。その顔というよりは、その【魔杖】に対してだ。
「その杖は【駕蠟痰の魔杖】よね? 何体出せる?」
「どれくらいの大きさにもよりますが…、コーホー」
「耐久度を考えれば、普通の人くらい大きさと、ゴーレム程度の硬さは欲しいかな」
「コーホー、それならば猿獣が適任ですね。コーホー。あれなら三百くらいはいけると思います。コーホー」
「上出来よ。見込んだだけのことはあるわね」
駕蠟痰の魔杖。英蠟王が持っていた杖の一つであり、国王だけが持つことを許される魔杖だ。
能力は、蝋人形のような無機物を生み出して操ることができる、というもの。
英蠟王の名の由来となった、蝋。いわゆるロウソク、ワックスと呼ばれるものだが、それらを使ってゴーレムを生み出し使役したことで、彼はいつしか英蠟王と呼ばれるようになっていた。
駕蠟痰の杖は、自身の魔力と大気中の塵などを化合させ、蝋人形の素体をほぼ無尽蔵に生み出すことができる優れものである。厳密には蝋以外の要素も加わるのだが、色が白いことからそう呼ばれている。
これを千体生み出せば単純な労働力にもなるし、燃えやすい性質もあるので、火矢代わりに燃やして突貫させるということにも使える。魔力が続く限り作り続けられ、特に元手もいらないので強力なアイテムだといえる。
ただ、これを扱うには相当高い魔力が必要で、仮に魔杖に認められても、一般の術者ならば二十体も生み出せば魔力は空になる。それを千体生み出した英蠟王はさすがであるし、三百体はいけると豪語したエイゾウムの実力は飛び抜けていた。
さらに無操術の心得も必要で、資質がないと思ったように動かすことができない。いくら数を生み出せても、それらが烏合の衆では意味がない。その点においてもエイゾウムは優秀で、一体一体に指示を出せるうえに、すべての個体の状況を常に把握できる。
今までのやり取りを見ていても、彼は自信過剰な人物ではない。その彼が言うのだから、おそらくはそれ以上の生成も可能だと思われた。
ただ、弱点もある。
「コーホー、自分でも便利だとは思いますが、人形には術式を付与できません。そうなると維持に貢献できるかどうか…コーホー」
生み出した人形に特殊な能力はない。硬さを調節すれば通常のゴーレム以上の力は出せるが、術式という意味では役に立たない。それは、この杖が生み出した人形には術耐性が組み込まれているからだ。
普通に使えば、術攻撃を凌ぐ壁として優秀な効果を発揮する。蝋とはいっても固まれば硬いし、人間の兵士の群れを蹴散らすパワーもある。場合によっては柔軟に姿を変えて、狭い通路にも侵入できる応用力もある。
エイゾウムがこの杖を好んで持っているのは、いざというときに壁として使用するつもりだからだ。単体でもっと強力なゴーレムを作る杖もあるが、やはり身を守るためには物量が大切である。大量のゴーレムに守られれば、それだけ他の従者の命も安全となる。
が、今回の用途としては少しばかり不安が残る。そして、当然ながら飛行はできない。放射型以外で上空に結界を張るのは現状では不可能に思えた。
だが、そんなことは紅虎も承知の上である。
「それは考えてあるわ。あなたにやってほしいのは、あくまで身代わり人形を作ること。それなら安心でしょ?」
「なるほど、コーホー。みなさんの身の安全が図れるならコーホー、私はかまいません。コーホー」
「…それ、苦しくないの?」
「この程度の苦しみ、なんともありません。コーホーコーホー」
「…そう。それならいいけど」
あの体験を経たエイゾウムにとって、この世にはもう苦痛と呼べるものは存在しなかった。もう一生仮面をつけていてもいいくらいだと思える。
(世界は美しい。欲のない世界は美しい。ああ、これが愛なのだろうか。この仮面を量産すれば世界は平和になるに違いない)
余談ではあるが、すべてが終わったあとに仮面を外したエイゾウムは、数日間勃起が収まらないという悪夢に見舞われることになるが、それはまた別のお話である。
「いい、予定ではエイゾウムの人形に魔力を流して術式を展開するわ。それぞれが自分の代わりというわけね。でも、このままでは出来ない。このままではね」
紅虎はそう言うと、一人の少女を見る。
ンダ・ペペである。
「ンダ・ペペ、あれを見せて」
「………」
ンダ・ペペから返事はなかったが、彼女のコートの裾がわずかに動き、何かが這い出てきた。ボトン、コロコロと地面に転がる。
妙に丸い物体であるが…
「ひゃぁああああ!」
「ひぃっ!」
突如のことに何人から悲鳴が上がる。
たしかに何かがいきなり出てくれば怖い。それが服からならば、なおさらだろう。しかし、これが可愛い動物ならば、このような悲鳴は上がらなかったに違いない。
出てきたものは、ムカデ。
最初は丸まっていて何かわからなかったが、身体を伸ばしたそれは、明らかにムカデと呼ぶに相応しい姿をしていた。
大きい触覚と頑強な顎を持ち、全長は五十センチはありそうなほど長い。横幅も太く、かなり大型のムカデであることがわかる。身体の色は、ンダ・ペペの髪と同じ艶のある桜色、二十三対ある足は色を反射しない真っ黒である。
普通のムカデと多少違うのが、その背中に羽が生えていることだろうか。ムカデは羽を広げると、ンダ・ペペの顔のところまで飛ぶ。不思議なことに、羽ばたいていないのに浮遊していた。
「ふーん、それがあなたの【神器】の姿ね」
「……侘毘埜百足。いい子、怖くない」
ンダ・ペペが、人差し指でムカデの背中を撫でると、ムカデは嬉しそうに身をよじらす。どうやら知能はかなり高いらしく、素直にンダ・ペペの言う通りに動いている。
しかし、そのたびに女性陣からは悲鳴が上がる。それが無害だとわかっていても生理的に受け付けないのだ。一瞬でンダ・ペペの周囲から女性が消えた。残っているのは紅虎とアルファ隊、それと男性陣である。
この光景、メラキ序列三十一位のリ・ジュミンが、初めて口から蛆虫を出したときと同じ状況である。やはり女性は蟲があまり好きではないようだ。
侘毘埜百足
ンダ・ペペが持つ神器によって生み出された【人工生命体】であり、神器の名前そのものである。
生み出せるものはムカデ状と決まっているので、誰が使ったとしてもムカデにしかならない。ただし、当人の魔力を吸収して生み出されることから、使用者によって形状は変化するらしい。
このムカデには精神系の術式を完全に無効化する能力があり、蟲単体だけではなく、張り付いている(守護している)状態であれば、その対象者も完全に護られる優れものだ。
それは魅了から精神感応まで、あらゆる攻撃から精神を守る。さらには反撃能力も有し、それらの術式を跳ね返す力もある。
また、攻撃時には強力な精神攻撃を仕掛け、対象者の精神を破壊するという恐ろしい側面も持つ。見た通り飛行が可能であり、かなりの数を同時に使役できるという点も長所である。
欠点は、それがムカデであり、仲間からも忌み嫌われるということ。また、エイゾウムの駕蠟痰の魔杖のように、使用者の精神力を著しく奪うということ。
それ以上に最後の欠点が問題である。神器を体内に埋め込まないと使えない、という点はなかなかに大変である。移植手術のようなものなので、適合しなければ拒絶反応で死ぬこともありえるからだ。
ただし、適合すれば肉体と同化するため、死ぬまで失われることはないのは長所といえば長所であろうか。
そして、ンダ・ペペから、わらわらとムカデが大量に出てきた。
「「「ひっ―――!」」」
「「「ひぎゃっ―――!」」」
淑女らしからぬ悲鳴を上げて逃げ惑う女性陣。その光景は、蟲が嫌いな人間からすれば地獄絵図だろう。妙に太いムカデが重なりあって蠢いているのだ。恐怖でしかない。女性陣は、さらに後退する。
が、そんな彼女たちに対して、紅虎は死刑宣告を発する。
「じゃあ、各人にもそいつを配ってね。ああ、私やシュトラたちは除外で大丈夫よ。もともと精神攻撃は効かないし」
その言葉に、女性陣の顔色がいっせいに悪くなる。下手をすれば、卒倒しそうな色合いである。
「無理です!!! 無理無理無理!!!」
「いやぁああああああ!! 近寄らないでぇええ!」
「これは…死ぬわ」
羽を広げて飛びながら接近してくるムカデ。地面を張って、うねうねと近寄ってくるムカデ。そのどれもが気色悪い。ピンク色だから多少は気も紛れるかと思ったが、やはりムカデはムカデである。
(くくく、苦しめ。苦しむのです。コーホー)
そんな女性陣を、エイゾウムは喜悦の心情で見つめていた。自分を汚物のように見ていた女性陣が苦しむさまは、今のエイゾウムには最高のご馳走であった。
(あれ? コーホー。どうしてこんなことを思うのだろう? コーホー。
もしや、この仮面って呪いのアイテムだった、コーホー?)
そもそも感情や欲求を強引に抑制するので、これも精神抑制の術式がかかっているといえる。こうした術式には副作用があるものなので、長時間つけていると精神に影響が出るかもしれない。
この仮面は、呪われている。間違いない。
ンダ・ペペが無感情で無愛想なのも、精神系の神器と融合したためと思われる。すべての精神攻撃から守られる代償に、自身の精神が異常に鎮まっている状態なのだろう。
「はいはい、逃げない、逃げない。あんたたちを守るものだからね。それがないと死ぬよ。いや、死ぬよりつらい目に遭うからね」
「…とても大事。やらないと心が死ぬ」
紅虎とンダ・ペペの言葉に、女性陣はさらに引きつる。引くも地獄、引かずとも地獄。どちらにしても地獄しかない。
そんな彼女たちが葛藤している間に、ムカデは服に張り付き、しっかりと節足で固定される。服の中に入ってこないことだけが唯一の救いであろうか。いきなり静かになったと思ったら、何人かの女性は失神しているようだ。
当然、エイゾウムたち男性陣にも張り付く。が、なぜかエイゾウムだけ服ではなく、聖者の仮面にしがみついた。
「え? なんで? コーホー」
「…それの電波、好き」
「電波? 電波って? コーホー」
この仮面、何やら怪しい電波を発しているようである。その振動を好んでムカデは仮面に張り付いたようだ。類は友を呼ぶ。まさにこのことだ。
そんなエイゾウムの疑問をよそに、話は最後の段階に至る。
「エイゾウムが作った人形に、このムカデたちを張り付けるわ。このムカデを媒介にして魔力を通すわけね。同時に、この子たちが結界の核となるのよ」
侘毘埜百足は、それ自体が精神系防御結界の媒介として成り立つ。単体での核としてはさほど持久力はないので、そこに各術者が遠隔で魔力を供給するという仕組みだ。これならば術者に危険は少ない。
他の術者はンダ・ペペに魔力を供給する【魔力タンク】としての役割を果たす。そのために精神力が高く、持久力のある術者を中心に集められていた。
「上空の担当はパクシュにお願いするわ」
「お任せなのね」
パクシュは大量のムカデを抱えていた。身体中がムカデに包まれているので、ぱっと見ると何かの鎧をまとっているようにさえ見えていた。さすが直系の一人。こんなものでは怯えないらしい。
「アン・アデイモンは私と一緒に行動。最後に力を借りるわ」
「心得ております」
「んっ、これで一通りは説明が終わったかな。事が起こるまでは準備に専念すること。以上、一時解散」
紅虎の号令によって、各人が準備に取りかかる。こうして紅虎が戦闘準備をしていることから、かなりの事態であることを再度認識する。
エイゾウムは人形の維持。壊れた場合はその修復と再生産。ンダ・ペペはムカデの維持と魔力管理。アルファ隊はその補佐と護衛ということになった。
それからチーム分けが行われ、各人が配置につく。
エイゾウムは言われた通りに人間大の人形を次々と生み出す。といっても、それは人型というわけではなく、腕の長い猿に似た造詣であった。大きさや姿は自由に作れるが、街などの地形で動かすにはこれが最適だという判断からだ。
その蝋猿にムカデが次々と張り付いていく。蝋なので滑るのか、一番張り付きやすいのが首らしく、マフラーのように丸まってくっついていた。
こんな異様な存在と街で出会ったら、確実に逃げるレベルのキモさである。味方の兵士に攻撃されないか若干心配になる。そのあたりは周知が必要だろうか。
そんな光景を見つめながら、エイゾウムはンダ・ペペのことを考える。
(この蟲って、普通の蟲じゃないよね。コーホー。凄い力を感じるし。コーホー。それに簡単に生み出しているけど、それだけでもかなり消耗するはず。コーホー)
蝋人形を簡単に生み出すエイゾウムも凄いのだが、それと同じ数のムカデを造作もなく生み出していくンダ・ペペに驚愕する。しかもこの蟲には、かなり特殊な能力が宿っている。こんなものは見たこともないし、聞いたこともない。
(魔王城には、蟲型の鬼神さんもいるって聞いたけど…。コーホー。何か不思議なアイテムを持っているのかな? コーホー。そういえば、さっき紅虎様が神器とか言ってたっけ? コーホー)
エイゾウムは神器という言葉に心当たりがなかった。なんとなれば、そう名付けてしまえば何でも神器と呼ぶことができるからだ。各国各団体、それぞれに神器というものがあってもおかしくはない。
エイゾウムが持っている駕蠟痰の魔杖も、神器と呼んでも差し支えないものである。ただ、神器というよりは魔器と呼んだほうがよさそうな外見をしているが。
「……何?」
「え!? コーホー」
いろいろと考えていたせいか、どうやら長時間見つめていたようだ。その視線にンダ・ペペが反応を示した。無口で無愛想な彼女にしては珍しいことだ。
(なんか嬉しいな。嫌われていると思っていたから)
ただの会話。されど会話。あのような失態を犯したエイゾウムと会話してくれるだけでも、なんだか嬉しくなってしまう。まだ嫌われていないのだ。そう思えるからだ。
もしかしたら、エイゾウムに気が…
「……変な顔」
あるわけもない。
単純に変な仮面をつけていたので、その視線が気になっただけのようだ。しかもそこにはムカデが張り付いているので、さらにキモいことになっている。見た目も中身もキモいとなれば、もう少年は爆死するしかない。
(死にたい。コーホー。仮面をつけても駄目。コーホー。外しても駄目。コーホー。どうすればいいんだ。コーホー。)
つまりは、もう駄目である。
しかし、エイゾウムにその考えはない。もしそれを認めてしまえば、国王としても男としても生きていくことができないからだ。
「はぁ…コーホー」
「そんなに恥ずかしいのですか?」
「そりゃそうですよ。コーホー。どうしてあんなことを…」
「勃起するのは正常な男性の証拠。素晴らしいと思いますけど?」
「それはそうですが…コーホー。時と場所というものが…コーホー!? コホコホッ!」
いつの間にか、エイゾウムの隣にアン・アデイモンがいた。まったく気配がないうえに、いきなり肩を掴んでくるので怖い。普通に勃起とか言うところも怖い。そして、終始笑顔なのも怖い。
「いえ、その…コーホー。恥ずかしいので、その…コーホー。忘れてください。コーホー」
「外に出してしまうなんて、勿体ない。次は私の中に出してくれませんか?」
「だから忘れて―――コーホー!?」
その発言を理解するまでに三十秒くらいかかった。その間、エイゾウムの瞳は見開かれ、いっさい瞬きをしなかったという。もちろん、その顔は仮面に隠れていて見えなかったが。
そして、思考を整えるためにピンクのムカデを握り締め、「ちくちくするけど案外柔らかいな」などと思いながら、落ち着きを取り戻す。それから、恐る恐る訊いてみた。
「あの……アン・アデイモンさんは……女性ですよね? コーホー」
そこである。気になったのはそこである。
いや、大事だ。その確認はとても大事だ。
顔は綺麗であるが、必ずしも女性とは限らない。
もしこれが同性であれば、もっと違う意味を持つからだ。
その場合、もう立ち直れないことになる。
アン・アデイモンは、相変わらず笑顔のまま、そっと伝える。
「七割は」
「なるほどやっぱり女性…―――あとの三割は何なんですか!?」
なんというノリツッコミ。
怪しい仮面にムカデをつけた少年が、見事にノリツッコミを果たす姿は非常にレアである。
半分は女性、という話はたまに聞く。両性具有ということもあるので、半分は男性ということもあるだろう。だが、なぜか七割である。その七割がどれくらいのもので、どのあたりまで七割なのかが知りたい。
もし大事な部分が七割の範疇に含まれないのだとすれば、それはもう一大事である。だが、怖くて聞き出すことはできない。
そんなエイゾウムの心配をよそに、アン・アデイモンはいつもの笑顔を崩さない。
「私の竜眼は特別です。それゆえに琥硝姫様と同じく子供ができにくいのです。でも、これほどの力と精力があれば、琥硝姫様は無理でも私くらいは……くく」
「ひぃっ…」
まるで蛇のような瞳がエイゾウムを見つめる。この時、なぜアン・アデイモンがエイゾウムの近くにずっといたのかを理解した。
狙っていたのである。
まさに獲物を見つめる蛇。いや、竜のように。
強い力を持つことはすぐにわかった。しかも若くて精力に満ちている。これほどの人材は、なかなか見つけられない。竜人の女性(七割)なら、狙って当然である。
「た、助け…コーホー」
「………」
隣のンダ・ペペに助けを求めるが、ガン無視である。完全に見放されている。それどころか眼中にすら入っていなかった。
精神が落ち着いているのは神器の副作用だとしても、すぐに興味が逸れるのは、単純に彼女の気質である。戦闘以外では、同じ対象に続けて意識を向けられないのだ。つまりは飽きやすい。
もはや誰の助けもない。
そして、悟った。
(私はこれからどうなってしまうのだろう。コーホー。もう戻れない気がする…コーホー)
紅虎に関わってしまったばかりに人生を壊される。そんなことはよくあることだ。だが、エイゾウムはその中でも悲惨なほうであろう。
彼の今後が心配でならない。
「もう死にたい」
心の声が思わず外に漏れたことも、今のエイゾウムにとっては些細なことである。彼にとっては、この場に居続けることこそ、死よりもつらい地獄であるから。
「エイゾウム陛下、お色直し」
誰が言ったのかすでに覚えていない。おそらく衛兵が言ったのだろうが、なんとも言い得て妙である。
お色直しは結婚に関する用語であり、三日間白無垢を着て過ごしたあと、色付きの服に着替えて相手の家(色)に染まることを許されることから、その名がついたものである。
たしかに白いものを吐き出して、紅虎の色に染まってしまったという意味では否定はできないが、これはエイゾウムの心をさらに抉ることになる。すでに死んでいる相手に対してまで刀を突き刺す非情な行為である。
だが、悪気があったわけではない。何かちょっと面白いことを言って慰めようとしたのかもしれない。それが空回りしたにすぎないのだ。なぜならば、衛兵だって男だったからだ。
下着に触れると気持ち悪いので、腰を引きながら歩くエイゾウムを見て笑う男はいない。普通の男がやれば笑い話だが、いかんせん国王である。貴賓相手にそのようなことはできないし、相手が紅虎とわかれば同情の念も湧くというものだ。
あの惨事のあと、エイゾウムはサイキュロたちによって保護され、中が見えないように周囲を守られながら一時退避した。男たちの慈悲によって守られた壁は鉄壁で、誰であろうと様子をうかがうことはできなかった。
そして、召し物を変えて戻ってきたのだが、エイゾウムは誰とも視線を合わせなかった。いや、合わせられなかった。
男からは同情の視線が向けられているが、女性の反応は、意図して見ていないのでわからないが、好意的な視線は一つもないといってよいだろう。
奇異、軽蔑、苦笑、嘲笑。それがエイゾウムの気のせいだとしても、そういったものが向けられているように思えるのだ。
「ひっ」
突然、エイゾウムが身体を震わせる。
誰も触れてはいない。誰も見てもいない。だが、過去は彼を逃さない。最後に見たンダ・ペペの眼差し。それが脳裏をよぎっては怯えるようになっていた。
年上の女性ならば理解もあろう。子供ならば不思議がろう。だが、同世代の異性というものは容赦がない。なまじ自分が意識してしまうがゆえに、その影響力も大きいのである。
自意識過剰と言われても仕方がない。されど、今の彼にとって他人の視線は恐怖の対象なのである。
その時である。エイゾウムの肩に手が乗せられた。
「ひぁっ」
「…大丈夫か?」
「あ、ああ…サイキュロ…さん…」
サイキュロはがっしりと肩を掴み、真摯な眼差しでエイゾウムを見つめる。その目にはいっさいの淀みはない。非常に澄んだ目だ。
「あれはしょうがない。しょうがないんだ」
だが、その目ですらエイゾウムは過剰反応し、思わず言い訳を口走る。
「ちがっ、違うんです!! いつもはあんな、あんなにすぐじゃないんです! 十分は…、いや、そうだ、十五分…! じゃなくて二十分はもつんです!! ほ、本当なんです! その、自分でやるときは、その…もっと…」
そう。あれはおかしかった。何かが変だったのだ。そんなに触れたわけじゃない。何回かこすれただけだ。しかもズボン越しだ。それがどうしてこうなったのだろうか。
そりゃ、興奮していたという事実はある。だが、それにしてもこれはないだろう。そうだ。思い当たることはある。エイロウ魔法王国は二週間前にはダマスカス入りし、その間は観光や各国との交流に努めていた。
その間、緊張と不安で【していない】。
この年頃の少年ならば毎日していたっていいはずなのに、エイゾウムは次々と集まってくる世界中の人間に目を奪われ、そうした気も失せていたのだ。
一応国王である。商談の話もあったし、それによって国の行く末が決まるのならば緊張するのも当然だ。人間、疲れているとなかなかそういう気持ちにはならないものである。
国ではお付きの人間など、執事兼護衛の老人くらいだし、彼だって夜には別の部屋に行く。それ以外はエイト・パインズが付き従うくらいだ。だが、今回は護衛の意味もあって、常に周囲には人がいたのだ。扉の前に人がいると思うと、さすがに気恥ずかしい。
だから、だからか、だからこんなことになったのか!!!
「違うんです! 私はその、けっして…早いとか、そういうわけじゃなくて! あっ、皮は…けっこう余ってますが、けっしてそういうのでは…!」
「いいんだ。もういいんだよ」
何かまずいことを口走っているエイゾウムを、優しくサイキュロは制止する。そこにはすべてを理解している、自分よりも成熟した男性の姿があった。
そして、刺激しないように優しく語る。
「ここは敵陣じゃない。俺たちは味方だ」
その言葉に周囲の男性陣も静かに頷く。いつしか周囲には男性陣が集まり、強固なフォーメーションを生み出していた。これには見覚えがある。エイゾウムを守りながら移動していた、あの鉄壁の布陣だ。それが再び組まれたのだ。
誰かが言い出したことじゃない。一人、また一人と自然に集まってできたものだ。だからこそ尊いのだ。
「俺たちはいつだって間違いを犯す。この歳になっても同じだ。それが若い頃なら毎日のように失敗ばかりさ」
そのサイキュロの言葉をきっかけに、周囲から同意の声が相次ぐ。
「そうだ。俺だって初めての時は、触られただけで終わってしまったもんだ。指先一つだぜ? なさけないよな。それからあとは全然駄目で、死にたいと思ったこともある」
「だが、俺たちは生きている。今も、新しい発見をしながら毎日を生きているんだ。男は探究心を失ったら終わりだ。いいんだよ、それで。俺たちはそれでいいんだ」
「一回の失敗がなんだっていうんだ。それで死んでいたら、俺はもう百回は死んでいるさ。何回切腹すりゃいいんだよ」
「俺だって、人前で漏らしたことがある。好きな子の前だったんだ。だから緊張したんだろうな…。どっちかって? まあ、大きいほうさ。結果か? そりゃ駄目だったさ。だが、後悔はしていない。俺は間違っていないはずだ」
「俺も、ついうっかり秘密をばらしたら、次の日からあだ名が『ローション』になっちまった。それで仕事を辞めたこともある。さすがの俺もローションさん呼ばわりは無理だったよ」
「アホだったんだろうな。血が噴き出したときは終わったと思ったよ」
「皮が伸びてな…。もう戻らないと知ったときは、死のうと思ったよ。いいか、だからといって焦がしては駄目だ。手術は駄目だ。あれは駄目なんだ」
「男の魅力は、大きさとか耐久力じゃない。おおらかな優しさだよ。それがわからないやつは、本当の愛を知らないやつさ」
「み、みなさん…」
エイゾウムは知った。
ここには仲間がいるのだ。
仲間たちはいつだって仲間のままだ。
そんな温かさに、エイゾウムは思わず涙ぐむ。
「ぼく、僕は…こんなに嬉しいことはありません!!」
「ああ、俺たちはいつだって一緒だ。何があってもな」
この場に国王とか術士などの立場は存在しない。ただお互いを思い合い、相談し合い、笑って過ごせる仲間だけがいた。エイゾウムも、いつしか飾らない自分を出していることに気がつく。
人は人なんだ。
地位や立場で縛られるものじゃないんだ。
ここに差別はない。垣根なんてないんだ。
いつしかここに男たちの友情が生まれようとしていた。
「あー、そろそろ大丈夫?」
そんなところにやってきたのは、すべての元凶である悪魔(紅虎)である。一応、今回の責任をちょっとだけ、本当にちょっとだけ感じているようで、顔は若干苦笑いである。
べつにエイゾウムをからかおうとか、恥をかかせようと思っていたわけではない。紅虎にとっての最大の快感というものが、自分ではなく相手の快楽だからである。
彼女の肉体自身はさほど敏感なわけではないので、肉体同士の接触だけでは快楽は得られない。だが、心は違う。相手が興奮していること、相手がぞくぞくしていること、そうした相手の緊張や気持ちの高まりが伝わってくれば、紅虎の心も強く満たされるのだ。
だから少年を好むともいえる。ウブな少年ほど敏感で、ちょっとしたことにも過大に反応する。その高揚した心が、紅虎にとっては大好物なのである。
一方で、これもマリスに通じる無私の行為である。自分よりも相手のことを想い、相手が心地よくなってくれることだけを願うからこそ、その心が満たされる。実に理にかなったものなのだ。もちろん、そこに趣味がないとは言えないが…
「ごめんごめん。終わったらいくらでもやらせて…」
「うっ!! だ、駄目です! また…!」
紅虎を見たエイゾウムにトラウマが蘇る。すでに鎧を着て胸は元通りであるのだが、一度負った傷は簡単に癒えない。
人間とは不思議なものである。どんなにいけないと思っていても、身体は勝手に反応してしまう。特に肉体的刺激を受けたあとは敏感になっており、過去のもっとも心地よかった瞬間を思い出してしまう。
そして、また味わいたいと思う。
それによって再び衝動が訪れる。あらがいがたい強烈なものだ。再び及び腰になり、必死に股間をローブで覆う。
もう完全な発情期である。紅虎という存在が、もはや一つのトリガーになっており、紅虎=エロ、という図式が頭に刷り込まれてしまったようだ。これはまずい。非常にまずい。下手をすれば連盟会議中、ずっと立ちっぱなしということにもなりかねない。
「…………」
それをンダ・ペペの視線がまた射抜くのがわかった。冷徹で容赦のないものである。
「守れ! 守るんだ!!」
男たちが紅虎たち女性陣との間に壁を作る。この視線は危険だ。それだけで死んでしまう。悪魔。こいつらは悪魔である。油断してはいけない。
「大丈夫か、エイゾウム君!」
「サイキュロさん、だ、駄目です! 視覚と嗅覚が完全にやられています! こ、このままじゃまた…僕はまた!」
腰を引いた状態で暮らすことを余儀なくされる。それは男として、とてもまずい状態である。当人は望んでいるわけではない。それでも勝手になるのだ。これが若さゆえの過ちである。あるいは紅虎の恐ろしさか。
このままでは紅虎の近くにいることはできない。されど、紅虎がエイゾウムを逃がすことも考えにくい。となれば、方法は一つである。
サイキュロはローブからマスクを取り出す。少しガスマスクに似ているが、どこぞの部族の仮面のように、何やら怪しいペイントが施されていた。
「これを使うんだ。これが守ってくれる」
「こ、これは…まさか! 聖者の仮面ではないですか!? どうしてこんなところに!?」
「これは形見…、いや、いざというときのお守りだったんだが、今こそ使うに相応しい場面だ。さあ、使いたまえ」
「で、でも、こんな貴重なものを僕のためになんて使えません!」
「気にするな。道具は使うためにあるんだ。これは俺たちからの気持ちだ」
「みなさん…」
エイゾウムが見回すと、男たちは頷いた。
ある者は笑い、ある者はサムズアップし、ある者は感慨深けに目を瞑る。
これは総意だった。みんなの気持ちである。
その温かさに、エイゾウムは再び泣いた。
「では、では、ありがたく…、本当にありがたく…うう…」
このような光景はどこかで見たことがある。そういえばユニサンもガガーランドの賦気で泣いていたが、これも負けず劣らず重みがある涙であった。男として感動するという意味では同じである。
たぶんだが。
「お待たせしました。コーホー、コーホー」
再び紅虎の前に現れたエイゾウムは、奇妙な仮面を被っていた。サイキュロからもらった聖者の仮面である。
聖者の仮面。【欲圧と聖欲の十三仮面】と呼ばれる伝説のS級術具の一つである。それぞれの仮面には、特定の影響力を完全に遮断する術式が込められており、それを被った者に完全なる加護が与えられる。
たとえば無物の仮面と呼ばれるものは、あらゆる物欲を完全にシャットアウトするというもので、つけた者は本当に必要最低限以外のものを欲しがらなくなる。
友愛の仮面をつけると、あらゆるものに対して好印象を与え、どんなに性格の悪い人間でも友達が増えていく。また、つけた人間の性格すら温和になっていくという強制力をもった、実に強力な術具である。
そして聖者の仮面。一部では【性者の仮面】とも揶揄されるように、あらゆる性欲を抑制させる効果を宿している。つけた者は、まるで仏のように心静かになり、いっさいの情欲から解放されるという。
実際にエイゾウムからは動揺を感じない。紅虎の前にいても、もはや何もないかのように振舞うことができる。当然、股間も反応していない。なんと素晴らしく、なんと恐ろしい能力だろうか。
この性能の高さから、これを模倣した量産型を作って性犯罪者に被せて矯正させるという案も出ているほどだ。ただ、やはり伝説級の術具なので、効果の薄いものは作れても、このレベルのものは簡単に複製はできないようである。
もちろん、これには弱点もある。
それは、デザインが非常に気持ち悪いので、被っていると非常に恥ずかしいのと、これを被っているということは、性欲に翻弄されていることを衆人に告白しているようなものである。
また、仮面を外すと抑圧された欲求が噴き出すので、むしろつける前よりも激しい情念に苦しむことになる。一時的とはいえ、これはなかなか苦しいものである。結局、自己の欲求は自己で解決するしかない、ということだろう。
しかし、もう手段は選んではいられない。マスクから怪しげな呼吸音をこぼしながら、エイゾウムは悟りを開く。
「紅虎様、問題ないですよね?」
「あー、うん。それでいいなら、べつにいいけど…」
サイキュロが紅虎に確認を取る。その顔は、仲間を守る漢の顔。紅虎も何も言えない。
「こほん。じゃあ、話を戻そうか。えっと、そうそう結界の張り方だけど、直接行ってもらうにはリスクが高いわ。だから、彼の術を使うつもりよ」
そう言って、紅虎は仮面を被ったエイゾウムを指差す。その顔というよりは、その【魔杖】に対してだ。
「その杖は【駕蠟痰の魔杖】よね? 何体出せる?」
「どれくらいの大きさにもよりますが…、コーホー」
「耐久度を考えれば、普通の人くらい大きさと、ゴーレム程度の硬さは欲しいかな」
「コーホー、それならば猿獣が適任ですね。コーホー。あれなら三百くらいはいけると思います。コーホー」
「上出来よ。見込んだだけのことはあるわね」
駕蠟痰の魔杖。英蠟王が持っていた杖の一つであり、国王だけが持つことを許される魔杖だ。
能力は、蝋人形のような無機物を生み出して操ることができる、というもの。
英蠟王の名の由来となった、蝋。いわゆるロウソク、ワックスと呼ばれるものだが、それらを使ってゴーレムを生み出し使役したことで、彼はいつしか英蠟王と呼ばれるようになっていた。
駕蠟痰の杖は、自身の魔力と大気中の塵などを化合させ、蝋人形の素体をほぼ無尽蔵に生み出すことができる優れものである。厳密には蝋以外の要素も加わるのだが、色が白いことからそう呼ばれている。
これを千体生み出せば単純な労働力にもなるし、燃えやすい性質もあるので、火矢代わりに燃やして突貫させるということにも使える。魔力が続く限り作り続けられ、特に元手もいらないので強力なアイテムだといえる。
ただ、これを扱うには相当高い魔力が必要で、仮に魔杖に認められても、一般の術者ならば二十体も生み出せば魔力は空になる。それを千体生み出した英蠟王はさすがであるし、三百体はいけると豪語したエイゾウムの実力は飛び抜けていた。
さらに無操術の心得も必要で、資質がないと思ったように動かすことができない。いくら数を生み出せても、それらが烏合の衆では意味がない。その点においてもエイゾウムは優秀で、一体一体に指示を出せるうえに、すべての個体の状況を常に把握できる。
今までのやり取りを見ていても、彼は自信過剰な人物ではない。その彼が言うのだから、おそらくはそれ以上の生成も可能だと思われた。
ただ、弱点もある。
「コーホー、自分でも便利だとは思いますが、人形には術式を付与できません。そうなると維持に貢献できるかどうか…コーホー」
生み出した人形に特殊な能力はない。硬さを調節すれば通常のゴーレム以上の力は出せるが、術式という意味では役に立たない。それは、この杖が生み出した人形には術耐性が組み込まれているからだ。
普通に使えば、術攻撃を凌ぐ壁として優秀な効果を発揮する。蝋とはいっても固まれば硬いし、人間の兵士の群れを蹴散らすパワーもある。場合によっては柔軟に姿を変えて、狭い通路にも侵入できる応用力もある。
エイゾウムがこの杖を好んで持っているのは、いざというときに壁として使用するつもりだからだ。単体でもっと強力なゴーレムを作る杖もあるが、やはり身を守るためには物量が大切である。大量のゴーレムに守られれば、それだけ他の従者の命も安全となる。
が、今回の用途としては少しばかり不安が残る。そして、当然ながら飛行はできない。放射型以外で上空に結界を張るのは現状では不可能に思えた。
だが、そんなことは紅虎も承知の上である。
「それは考えてあるわ。あなたにやってほしいのは、あくまで身代わり人形を作ること。それなら安心でしょ?」
「なるほど、コーホー。みなさんの身の安全が図れるならコーホー、私はかまいません。コーホー」
「…それ、苦しくないの?」
「この程度の苦しみ、なんともありません。コーホーコーホー」
「…そう。それならいいけど」
あの体験を経たエイゾウムにとって、この世にはもう苦痛と呼べるものは存在しなかった。もう一生仮面をつけていてもいいくらいだと思える。
(世界は美しい。欲のない世界は美しい。ああ、これが愛なのだろうか。この仮面を量産すれば世界は平和になるに違いない)
余談ではあるが、すべてが終わったあとに仮面を外したエイゾウムは、数日間勃起が収まらないという悪夢に見舞われることになるが、それはまた別のお話である。
「いい、予定ではエイゾウムの人形に魔力を流して術式を展開するわ。それぞれが自分の代わりというわけね。でも、このままでは出来ない。このままではね」
紅虎はそう言うと、一人の少女を見る。
ンダ・ペペである。
「ンダ・ペペ、あれを見せて」
「………」
ンダ・ペペから返事はなかったが、彼女のコートの裾がわずかに動き、何かが這い出てきた。ボトン、コロコロと地面に転がる。
妙に丸い物体であるが…
「ひゃぁああああ!」
「ひぃっ!」
突如のことに何人から悲鳴が上がる。
たしかに何かがいきなり出てくれば怖い。それが服からならば、なおさらだろう。しかし、これが可愛い動物ならば、このような悲鳴は上がらなかったに違いない。
出てきたものは、ムカデ。
最初は丸まっていて何かわからなかったが、身体を伸ばしたそれは、明らかにムカデと呼ぶに相応しい姿をしていた。
大きい触覚と頑強な顎を持ち、全長は五十センチはありそうなほど長い。横幅も太く、かなり大型のムカデであることがわかる。身体の色は、ンダ・ペペの髪と同じ艶のある桜色、二十三対ある足は色を反射しない真っ黒である。
普通のムカデと多少違うのが、その背中に羽が生えていることだろうか。ムカデは羽を広げると、ンダ・ペペの顔のところまで飛ぶ。不思議なことに、羽ばたいていないのに浮遊していた。
「ふーん、それがあなたの【神器】の姿ね」
「……侘毘埜百足。いい子、怖くない」
ンダ・ペペが、人差し指でムカデの背中を撫でると、ムカデは嬉しそうに身をよじらす。どうやら知能はかなり高いらしく、素直にンダ・ペペの言う通りに動いている。
しかし、そのたびに女性陣からは悲鳴が上がる。それが無害だとわかっていても生理的に受け付けないのだ。一瞬でンダ・ペペの周囲から女性が消えた。残っているのは紅虎とアルファ隊、それと男性陣である。
この光景、メラキ序列三十一位のリ・ジュミンが、初めて口から蛆虫を出したときと同じ状況である。やはり女性は蟲があまり好きではないようだ。
侘毘埜百足
ンダ・ペペが持つ神器によって生み出された【人工生命体】であり、神器の名前そのものである。
生み出せるものはムカデ状と決まっているので、誰が使ったとしてもムカデにしかならない。ただし、当人の魔力を吸収して生み出されることから、使用者によって形状は変化するらしい。
このムカデには精神系の術式を完全に無効化する能力があり、蟲単体だけではなく、張り付いている(守護している)状態であれば、その対象者も完全に護られる優れものだ。
それは魅了から精神感応まで、あらゆる攻撃から精神を守る。さらには反撃能力も有し、それらの術式を跳ね返す力もある。
また、攻撃時には強力な精神攻撃を仕掛け、対象者の精神を破壊するという恐ろしい側面も持つ。見た通り飛行が可能であり、かなりの数を同時に使役できるという点も長所である。
欠点は、それがムカデであり、仲間からも忌み嫌われるということ。また、エイゾウムの駕蠟痰の魔杖のように、使用者の精神力を著しく奪うということ。
それ以上に最後の欠点が問題である。神器を体内に埋め込まないと使えない、という点はなかなかに大変である。移植手術のようなものなので、適合しなければ拒絶反応で死ぬこともありえるからだ。
ただし、適合すれば肉体と同化するため、死ぬまで失われることはないのは長所といえば長所であろうか。
そして、ンダ・ペペから、わらわらとムカデが大量に出てきた。
「「「ひっ―――!」」」
「「「ひぎゃっ―――!」」」
淑女らしからぬ悲鳴を上げて逃げ惑う女性陣。その光景は、蟲が嫌いな人間からすれば地獄絵図だろう。妙に太いムカデが重なりあって蠢いているのだ。恐怖でしかない。女性陣は、さらに後退する。
が、そんな彼女たちに対して、紅虎は死刑宣告を発する。
「じゃあ、各人にもそいつを配ってね。ああ、私やシュトラたちは除外で大丈夫よ。もともと精神攻撃は効かないし」
その言葉に、女性陣の顔色がいっせいに悪くなる。下手をすれば、卒倒しそうな色合いである。
「無理です!!! 無理無理無理!!!」
「いやぁああああああ!! 近寄らないでぇええ!」
「これは…死ぬわ」
羽を広げて飛びながら接近してくるムカデ。地面を張って、うねうねと近寄ってくるムカデ。そのどれもが気色悪い。ピンク色だから多少は気も紛れるかと思ったが、やはりムカデはムカデである。
(くくく、苦しめ。苦しむのです。コーホー)
そんな女性陣を、エイゾウムは喜悦の心情で見つめていた。自分を汚物のように見ていた女性陣が苦しむさまは、今のエイゾウムには最高のご馳走であった。
(あれ? コーホー。どうしてこんなことを思うのだろう? コーホー。
もしや、この仮面って呪いのアイテムだった、コーホー?)
そもそも感情や欲求を強引に抑制するので、これも精神抑制の術式がかかっているといえる。こうした術式には副作用があるものなので、長時間つけていると精神に影響が出るかもしれない。
この仮面は、呪われている。間違いない。
ンダ・ペペが無感情で無愛想なのも、精神系の神器と融合したためと思われる。すべての精神攻撃から守られる代償に、自身の精神が異常に鎮まっている状態なのだろう。
「はいはい、逃げない、逃げない。あんたたちを守るものだからね。それがないと死ぬよ。いや、死ぬよりつらい目に遭うからね」
「…とても大事。やらないと心が死ぬ」
紅虎とンダ・ペペの言葉に、女性陣はさらに引きつる。引くも地獄、引かずとも地獄。どちらにしても地獄しかない。
そんな彼女たちが葛藤している間に、ムカデは服に張り付き、しっかりと節足で固定される。服の中に入ってこないことだけが唯一の救いであろうか。いきなり静かになったと思ったら、何人かの女性は失神しているようだ。
当然、エイゾウムたち男性陣にも張り付く。が、なぜかエイゾウムだけ服ではなく、聖者の仮面にしがみついた。
「え? なんで? コーホー」
「…それの電波、好き」
「電波? 電波って? コーホー」
この仮面、何やら怪しい電波を発しているようである。その振動を好んでムカデは仮面に張り付いたようだ。類は友を呼ぶ。まさにこのことだ。
そんなエイゾウムの疑問をよそに、話は最後の段階に至る。
「エイゾウムが作った人形に、このムカデたちを張り付けるわ。このムカデを媒介にして魔力を通すわけね。同時に、この子たちが結界の核となるのよ」
侘毘埜百足は、それ自体が精神系防御結界の媒介として成り立つ。単体での核としてはさほど持久力はないので、そこに各術者が遠隔で魔力を供給するという仕組みだ。これならば術者に危険は少ない。
他の術者はンダ・ペペに魔力を供給する【魔力タンク】としての役割を果たす。そのために精神力が高く、持久力のある術者を中心に集められていた。
「上空の担当はパクシュにお願いするわ」
「お任せなのね」
パクシュは大量のムカデを抱えていた。身体中がムカデに包まれているので、ぱっと見ると何かの鎧をまとっているようにさえ見えていた。さすが直系の一人。こんなものでは怯えないらしい。
「アン・アデイモンは私と一緒に行動。最後に力を借りるわ」
「心得ております」
「んっ、これで一通りは説明が終わったかな。事が起こるまでは準備に専念すること。以上、一時解散」
紅虎の号令によって、各人が準備に取りかかる。こうして紅虎が戦闘準備をしていることから、かなりの事態であることを再度認識する。
エイゾウムは人形の維持。壊れた場合はその修復と再生産。ンダ・ペペはムカデの維持と魔力管理。アルファ隊はその補佐と護衛ということになった。
それからチーム分けが行われ、各人が配置につく。
エイゾウムは言われた通りに人間大の人形を次々と生み出す。といっても、それは人型というわけではなく、腕の長い猿に似た造詣であった。大きさや姿は自由に作れるが、街などの地形で動かすにはこれが最適だという判断からだ。
その蝋猿にムカデが次々と張り付いていく。蝋なので滑るのか、一番張り付きやすいのが首らしく、マフラーのように丸まってくっついていた。
こんな異様な存在と街で出会ったら、確実に逃げるレベルのキモさである。味方の兵士に攻撃されないか若干心配になる。そのあたりは周知が必要だろうか。
そんな光景を見つめながら、エイゾウムはンダ・ペペのことを考える。
(この蟲って、普通の蟲じゃないよね。コーホー。凄い力を感じるし。コーホー。それに簡単に生み出しているけど、それだけでもかなり消耗するはず。コーホー)
蝋人形を簡単に生み出すエイゾウムも凄いのだが、それと同じ数のムカデを造作もなく生み出していくンダ・ペペに驚愕する。しかもこの蟲には、かなり特殊な能力が宿っている。こんなものは見たこともないし、聞いたこともない。
(魔王城には、蟲型の鬼神さんもいるって聞いたけど…。コーホー。何か不思議なアイテムを持っているのかな? コーホー。そういえば、さっき紅虎様が神器とか言ってたっけ? コーホー)
エイゾウムは神器という言葉に心当たりがなかった。なんとなれば、そう名付けてしまえば何でも神器と呼ぶことができるからだ。各国各団体、それぞれに神器というものがあってもおかしくはない。
エイゾウムが持っている駕蠟痰の魔杖も、神器と呼んでも差し支えないものである。ただ、神器というよりは魔器と呼んだほうがよさそうな外見をしているが。
「……何?」
「え!? コーホー」
いろいろと考えていたせいか、どうやら長時間見つめていたようだ。その視線にンダ・ペペが反応を示した。無口で無愛想な彼女にしては珍しいことだ。
(なんか嬉しいな。嫌われていると思っていたから)
ただの会話。されど会話。あのような失態を犯したエイゾウムと会話してくれるだけでも、なんだか嬉しくなってしまう。まだ嫌われていないのだ。そう思えるからだ。
もしかしたら、エイゾウムに気が…
「……変な顔」
あるわけもない。
単純に変な仮面をつけていたので、その視線が気になっただけのようだ。しかもそこにはムカデが張り付いているので、さらにキモいことになっている。見た目も中身もキモいとなれば、もう少年は爆死するしかない。
(死にたい。コーホー。仮面をつけても駄目。コーホー。外しても駄目。コーホー。どうすればいいんだ。コーホー。)
つまりは、もう駄目である。
しかし、エイゾウムにその考えはない。もしそれを認めてしまえば、国王としても男としても生きていくことができないからだ。
「はぁ…コーホー」
「そんなに恥ずかしいのですか?」
「そりゃそうですよ。コーホー。どうしてあんなことを…」
「勃起するのは正常な男性の証拠。素晴らしいと思いますけど?」
「それはそうですが…コーホー。時と場所というものが…コーホー!? コホコホッ!」
いつの間にか、エイゾウムの隣にアン・アデイモンがいた。まったく気配がないうえに、いきなり肩を掴んでくるので怖い。普通に勃起とか言うところも怖い。そして、終始笑顔なのも怖い。
「いえ、その…コーホー。恥ずかしいので、その…コーホー。忘れてください。コーホー」
「外に出してしまうなんて、勿体ない。次は私の中に出してくれませんか?」
「だから忘れて―――コーホー!?」
その発言を理解するまでに三十秒くらいかかった。その間、エイゾウムの瞳は見開かれ、いっさい瞬きをしなかったという。もちろん、その顔は仮面に隠れていて見えなかったが。
そして、思考を整えるためにピンクのムカデを握り締め、「ちくちくするけど案外柔らかいな」などと思いながら、落ち着きを取り戻す。それから、恐る恐る訊いてみた。
「あの……アン・アデイモンさんは……女性ですよね? コーホー」
そこである。気になったのはそこである。
いや、大事だ。その確認はとても大事だ。
顔は綺麗であるが、必ずしも女性とは限らない。
もしこれが同性であれば、もっと違う意味を持つからだ。
その場合、もう立ち直れないことになる。
アン・アデイモンは、相変わらず笑顔のまま、そっと伝える。
「七割は」
「なるほどやっぱり女性…―――あとの三割は何なんですか!?」
なんというノリツッコミ。
怪しい仮面にムカデをつけた少年が、見事にノリツッコミを果たす姿は非常にレアである。
半分は女性、という話はたまに聞く。両性具有ということもあるので、半分は男性ということもあるだろう。だが、なぜか七割である。その七割がどれくらいのもので、どのあたりまで七割なのかが知りたい。
もし大事な部分が七割の範疇に含まれないのだとすれば、それはもう一大事である。だが、怖くて聞き出すことはできない。
そんなエイゾウムの心配をよそに、アン・アデイモンはいつもの笑顔を崩さない。
「私の竜眼は特別です。それゆえに琥硝姫様と同じく子供ができにくいのです。でも、これほどの力と精力があれば、琥硝姫様は無理でも私くらいは……くく」
「ひぃっ…」
まるで蛇のような瞳がエイゾウムを見つめる。この時、なぜアン・アデイモンがエイゾウムの近くにずっといたのかを理解した。
狙っていたのである。
まさに獲物を見つめる蛇。いや、竜のように。
強い力を持つことはすぐにわかった。しかも若くて精力に満ちている。これほどの人材は、なかなか見つけられない。竜人の女性(七割)なら、狙って当然である。
「た、助け…コーホー」
「………」
隣のンダ・ペペに助けを求めるが、ガン無視である。完全に見放されている。それどころか眼中にすら入っていなかった。
精神が落ち着いているのは神器の副作用だとしても、すぐに興味が逸れるのは、単純に彼女の気質である。戦闘以外では、同じ対象に続けて意識を向けられないのだ。つまりは飽きやすい。
もはや誰の助けもない。
そして、悟った。
(私はこれからどうなってしまうのだろう。コーホー。もう戻れない気がする…コーホー)
紅虎に関わってしまったばかりに人生を壊される。そんなことはよくあることだ。だが、エイゾウムはその中でも悲惨なほうであろう。
彼の今後が心配でならない。
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