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神后の名前

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「あんた、やっぱり可愛いぜ」
 無駄に機嫌のよいアーレスの言いぐさが頭にくる。
 だが、それ以上に、足は痛む。
 結局のところ幼馴染の男に背負われてあたしは、母の許へと帰るはめになってしまった。
 こんな姿を夫が見たら、どうするだろう。
 想像しただけで恐ろしい。
 だが、約束したのは、半年間の自由だ。
 この島の中では、どこで何をしていようと、嫉妬深い夫の監視からは逃れることができる。
 以前に、あたしに想いを寄せた男が冥界まで忍び込んできたことがあった。
 当然、ただでは済まされない。
 その男は、今も生きることも死ぬこともできず、地下深く毒虫にたかられながら“忘却の椅子”に捕らわれているという。

 可愛い可愛い……と、
 何度も言われて今のあたしは、茹でタコのように赤くなっていたに違いない。
 怒りで脳が煮えそうな気分だ。
「名前、教えろよ。あんたもいい加減、強情だよな」
「……無礼者に教える名など、ありませんから」
「どうせ、里帰り中だろ? ちょっとした浮気ぐらいオリュンポスの神々ならアリだぜ?」
「あなたがたにアリでも、あたしにはナシですから」
「あいからわらず、頭が固いな」
 アーレスは、わざとらしい吐息をついたが、その背は広く温かだった。
 ゆられていると、不思議と心がなごんでしまうのだ。
 子供のころをちょっと思い出す。

 あのころは、何の屈託もなかった。
 野原を駆け回っていたあの小さな男の子も、女の子も……もう、どこにもいなくなってしまった。
「あんたがいなくなってから、この地上に春がなくなっちまったな」
「だから、ときどき里帰りしているでしょ」
「短けぇ春だけどな」
「夫は、里帰りが多いと言ってるわ」
「冥府の王はよくばりだよ。あらゆる富を持っているくせに、春の女神まで連れ去っちまった」
 春の女神に恋慕した冥府の神が、強引に連れ去ったのは、地上どころか雲居のオリュンポスまで知れ渡っているらしい。



「タクシーさえ捕まればそこで降ろしていただいて、けっこうよ。お礼はあとで母のほうから……」
「礼なら今、頂いてる」
 そう言いながら、この男はさわさわと、あたしの脚を撫で回すように触る。
「ほんと、はいい脚してるぜ。目も眩むような光ペルセポネーは」
 あたしは無言のまま、男の脳天を正拳突きする。
 突き出す側の手に、自分の体重を乗せるとより破壊力があるのだ。
「ぐえっ」とまるで蛙を潰したような声を洩らしてアーレスは、その場にしゃがむ。
 あたしは知らん顔して、さっさと男の背中から降りた。
 油断も隙もない。まったくこの男は、どこであたしの名を知ったのか。
「痛いじゃねえか。このタコ!」
 噛みつきそうな勢いで怒鳴るアーレスに「バーカ」と言って舌を出したやった。そのとたん、自分の脳天にも衝撃がきた。



「本当に“タコ”ですね」
 背後から聞こえた声にあたしは、総毛だった。
 頭を抱えて振り返ると、あたしの頭上に脳天締めを見事に決めて、ドヤ顔で笑う夫がいる。
 パンクラチオン(古代ギリシャの格闘技)というより、動画で観たプロレス技かもしれない。相手のこめかみを手でつかみ、握力だけで締め付ける技だ。
 正面からではなく、背後からやられたのだが、いちおうは、手加減をしてくれているらしい。
 彼の本気の力を出せば、私の頭蓋骨など、リンゴを握りつぶすみたいに割られるだろう。
 夫は、冥府の王とか呼ばれているが、見た目だけは、落ち着いた中年紳士だ。
 レスラーみたいな巨躯をゼニアのスーツの中に隠している。
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