7 / 7
恋心
3
しおりを挟む
彼女は、いつもと変わらぬ大きな眼で、まっすぐに俺を見つめている。
「片想いでもいいもの。わたしの気持ちをあなたが迷惑に思っていないなら、よかった……」
少女の世界は、とても狭い。
幼いころから、過ごしてきたフランスという国を離れて、知り合いもいない国に来たばかりだ。
彼女の小さな世界では、たまたま身近にいた俺という男を『恋愛』の対象として見ているだけにすぎないんだ。
もっといろんな世界へ彼女は、羽ばたける翼を持っている。
この先、彼女がもっと広い視野を持って、まったく別の世界を見た時には、もう俺なんて振り向きもしないだろう。
アニエスは、俺の半分の時もまだ生きていないのだから。
小さな島の社会科教師。
両親の同僚。
聖母マリア騎士修道会に所属する聖職者。
父親ほども年上の男……。
彼女は、無意識のうちに自分を傷つけないであろう相手を、選んでいるに過ぎない。
――ねぇ……。
微かな羽ばたきの音。
ほとんど聞こえないくらいの小さな物音にまぎれて、さらに小さな声が聞こえる。
――ねぇ、リョータロウ。
幼い子供が甘えるような口ぶり。
よくよく注意していないと、聞き逃しそうなほどの細い小さな声だ。
――ステキなことだよ。ねえ、リョータロウ?
俺は、その声を黙って聞いてた。
ずっと昔に同じことがあった。
あのころの俺は、髭を剃っていた。
だけど、今は髭を伸ばして、すっかりオジサンになってしまったんだ。
――だからさぁ、聞いてよ。リョータロウ?
俺だけに聞こえる小さな声は、俺が返事をするまで囁き続ける。
「聞いてるよ。セキレイ」
俺は、自分の左肩の上にのった小さな友人に応える。
「ずっと、ご無沙汰だったね」
――ヨハネス。こっちだ。
今度は、右肩から声が聞こえる。
「フクロウ。きみもだよ」
やっぱり、彼は羽音をたてない。
静かにひっそりと俺の肩にのっている。
「久しぶりだね。きみは、相変わらず俺のことをそんな古風に呼ぶんだね」
――久しぶりなどではないぞ。われわれは、ずっとヨハネスのそばにいた。
「でも、聞こえなかったんだよ」
――それは仕方がない。お前が望まなければ、我々の声は聞こえぬからな。
「そんなことないよ。俺は……」
言いかけて、言葉がつまった。
俺は、とても寂しかったのだ。
彼らの姿が消えてしまってから……ずっと、あの声が聞こえないかと、耳を澄ませていたのに。
――知ってるよ。リョータロウ。俺たちはずっときみのそばにいて、見守ってきたんだ。
――なぜって、聞くのかい。そりゃ愛しているからだよ。
セキレイの言葉に俺は、恥ずかしくなってしまった。
それでも、この古い友人のことを大好きだったし、愛されているのは、やっぱり嬉しい。
だから、俺も恥ずかしい言葉を返してやった。
「俺も愛しているよ。セキレイ」
――当たり前のことを言うのだな。ヨハネス。
重々しい声でフクロウが言う。
だけど、俺の右肩は、重くはないのだ。羽根が乗っているほどにも感じない。
「きみも俺を愛してくれているのかい?」
――当然だな。
珍しくフクロウが、優しい口ぶりで言う。
おや? と思う間もなくすぐに、いつもの厳しい声に変わった。
――失敗しないように、事前によく考えるのではない。
すると今度は、セキレイが歌うように陽気に声をあげる。
――すべてを任せてごらん。
「だけど、それじゃ彼女は、幸せになれないんだ」
彼女のために、今の俺が何をできたと言うのだろう。
もし、彼女が俺のパートナーとなったら?
彼女によく似た可愛い子供、孫に囲まれる人生……それは、きっとステキなことだろう。
実際、自分だけの愛する存在を見つけて、神父を辞めていった人だっているのだ。
だけど、俺には、そんな愛すべき家族を持つほどの余裕はない。
彼女が言った『神父という職業』だから、その義務感だけで生涯、独身で勤めに励む……というのとは違う。
俺は、自分をいつでも投げ出すように、独りでありたいと思っているに過ぎない。
何もかもを捨てて、とことん自分の信じる道を進んでいきたい。
そのために、身軽でいたい。
独りでいたいんだ。
愛すべき人がいる……それは、とてもステキなことだけど、
俺は、今の自分を、全てを知っていてくれる、包み込んでくれる神様についていきたかった。
その存在を知らなければ、きっと、俺は、普通に恋をしていたかもしれない。
だけど、今の俺は、神様という大きな存在を知っている。
そのせいで、普通の恋愛とか、家庭というものに、満足できない。
彼女がどんなに素晴らしい女性であっても、俺は『物足りなさ』を感じてしまうのだろう。
それどころか、閉塞感に耐えきれなくなってしまうかもしれない。
自分自身や愛する人たちのことよりも、優先したいことが、今の俺にはある。
「俺は、アニエスと過ごす日々を楽しいと思った。でも、それは、彼女の幸せじゃないんだ」
――なぜ、無力なお前が彼女を幸せにできるなんて思うのだ。
厳めしい重い声が、ほとんど囁くような声音になる。
「俺は、彼女に『見返り』を求められても、何も返せやしない……」
胸の底にある想いを口に出すと、恥ずかしさに顔から火を噴きそうだ。
――それは、彼女も同じだよ。鏡を見るように、彼女はきみの心を写しているんだよ。
―― 情愛、友愛。それとも 無償の愛。
◆◇◆◇
それから俺は、やはり彼女と、町はずれの森を散策したり、カフェでのたわいないお喋りをしている。
俺たちは、ともに過ごす時間を、何よりも大切にしていた。
確かに彼女の言うとおり、俺は、今、この瞬間にも幸せなのだ。
自分自身を投影したはずの人物画は、なぜかアニエスにも似ていた。
完成したその絵をアニエスは、いたく喜んでくれる。
「だって、凉太朗。これってわたし、そのままだわ。まるでもう一人のわたしがここにいるようだもの」
「そうかな……でも、そう言ってもらえると、嬉しいよ」
ちょっと照れて、俺は笑った。
もう一人の自分。
もしかしたら、俺たちは互いに相手の中に自分を見出していたのかもしれない。鏡を見るように……。
「きみに、もらってもらえると、もっと嬉しいんだけど」
「え、ダメよ。こんなすばらしいものをいただけないわ。今度の個展に出すつもりだったんでしょう?」
そう言いながらも彼女は、俺の絵をしっかりと抱え込んでいた。
こうして共通の時間を過ごせるのは、そう長いことでもない。
いつか、アニエスも本当の恋をする。
その時には、俺は父親のような顔をして、アニエスに祝福を送ろう。
<終>
「片想いでもいいもの。わたしの気持ちをあなたが迷惑に思っていないなら、よかった……」
少女の世界は、とても狭い。
幼いころから、過ごしてきたフランスという国を離れて、知り合いもいない国に来たばかりだ。
彼女の小さな世界では、たまたま身近にいた俺という男を『恋愛』の対象として見ているだけにすぎないんだ。
もっといろんな世界へ彼女は、羽ばたける翼を持っている。
この先、彼女がもっと広い視野を持って、まったく別の世界を見た時には、もう俺なんて振り向きもしないだろう。
アニエスは、俺の半分の時もまだ生きていないのだから。
小さな島の社会科教師。
両親の同僚。
聖母マリア騎士修道会に所属する聖職者。
父親ほども年上の男……。
彼女は、無意識のうちに自分を傷つけないであろう相手を、選んでいるに過ぎない。
――ねぇ……。
微かな羽ばたきの音。
ほとんど聞こえないくらいの小さな物音にまぎれて、さらに小さな声が聞こえる。
――ねぇ、リョータロウ。
幼い子供が甘えるような口ぶり。
よくよく注意していないと、聞き逃しそうなほどの細い小さな声だ。
――ステキなことだよ。ねえ、リョータロウ?
俺は、その声を黙って聞いてた。
ずっと昔に同じことがあった。
あのころの俺は、髭を剃っていた。
だけど、今は髭を伸ばして、すっかりオジサンになってしまったんだ。
――だからさぁ、聞いてよ。リョータロウ?
俺だけに聞こえる小さな声は、俺が返事をするまで囁き続ける。
「聞いてるよ。セキレイ」
俺は、自分の左肩の上にのった小さな友人に応える。
「ずっと、ご無沙汰だったね」
――ヨハネス。こっちだ。
今度は、右肩から声が聞こえる。
「フクロウ。きみもだよ」
やっぱり、彼は羽音をたてない。
静かにひっそりと俺の肩にのっている。
「久しぶりだね。きみは、相変わらず俺のことをそんな古風に呼ぶんだね」
――久しぶりなどではないぞ。われわれは、ずっとヨハネスのそばにいた。
「でも、聞こえなかったんだよ」
――それは仕方がない。お前が望まなければ、我々の声は聞こえぬからな。
「そんなことないよ。俺は……」
言いかけて、言葉がつまった。
俺は、とても寂しかったのだ。
彼らの姿が消えてしまってから……ずっと、あの声が聞こえないかと、耳を澄ませていたのに。
――知ってるよ。リョータロウ。俺たちはずっときみのそばにいて、見守ってきたんだ。
――なぜって、聞くのかい。そりゃ愛しているからだよ。
セキレイの言葉に俺は、恥ずかしくなってしまった。
それでも、この古い友人のことを大好きだったし、愛されているのは、やっぱり嬉しい。
だから、俺も恥ずかしい言葉を返してやった。
「俺も愛しているよ。セキレイ」
――当たり前のことを言うのだな。ヨハネス。
重々しい声でフクロウが言う。
だけど、俺の右肩は、重くはないのだ。羽根が乗っているほどにも感じない。
「きみも俺を愛してくれているのかい?」
――当然だな。
珍しくフクロウが、優しい口ぶりで言う。
おや? と思う間もなくすぐに、いつもの厳しい声に変わった。
――失敗しないように、事前によく考えるのではない。
すると今度は、セキレイが歌うように陽気に声をあげる。
――すべてを任せてごらん。
「だけど、それじゃ彼女は、幸せになれないんだ」
彼女のために、今の俺が何をできたと言うのだろう。
もし、彼女が俺のパートナーとなったら?
彼女によく似た可愛い子供、孫に囲まれる人生……それは、きっとステキなことだろう。
実際、自分だけの愛する存在を見つけて、神父を辞めていった人だっているのだ。
だけど、俺には、そんな愛すべき家族を持つほどの余裕はない。
彼女が言った『神父という職業』だから、その義務感だけで生涯、独身で勤めに励む……というのとは違う。
俺は、自分をいつでも投げ出すように、独りでありたいと思っているに過ぎない。
何もかもを捨てて、とことん自分の信じる道を進んでいきたい。
そのために、身軽でいたい。
独りでいたいんだ。
愛すべき人がいる……それは、とてもステキなことだけど、
俺は、今の自分を、全てを知っていてくれる、包み込んでくれる神様についていきたかった。
その存在を知らなければ、きっと、俺は、普通に恋をしていたかもしれない。
だけど、今の俺は、神様という大きな存在を知っている。
そのせいで、普通の恋愛とか、家庭というものに、満足できない。
彼女がどんなに素晴らしい女性であっても、俺は『物足りなさ』を感じてしまうのだろう。
それどころか、閉塞感に耐えきれなくなってしまうかもしれない。
自分自身や愛する人たちのことよりも、優先したいことが、今の俺にはある。
「俺は、アニエスと過ごす日々を楽しいと思った。でも、それは、彼女の幸せじゃないんだ」
――なぜ、無力なお前が彼女を幸せにできるなんて思うのだ。
厳めしい重い声が、ほとんど囁くような声音になる。
「俺は、彼女に『見返り』を求められても、何も返せやしない……」
胸の底にある想いを口に出すと、恥ずかしさに顔から火を噴きそうだ。
――それは、彼女も同じだよ。鏡を見るように、彼女はきみの心を写しているんだよ。
―― 情愛、友愛。それとも 無償の愛。
◆◇◆◇
それから俺は、やはり彼女と、町はずれの森を散策したり、カフェでのたわいないお喋りをしている。
俺たちは、ともに過ごす時間を、何よりも大切にしていた。
確かに彼女の言うとおり、俺は、今、この瞬間にも幸せなのだ。
自分自身を投影したはずの人物画は、なぜかアニエスにも似ていた。
完成したその絵をアニエスは、いたく喜んでくれる。
「だって、凉太朗。これってわたし、そのままだわ。まるでもう一人のわたしがここにいるようだもの」
「そうかな……でも、そう言ってもらえると、嬉しいよ」
ちょっと照れて、俺は笑った。
もう一人の自分。
もしかしたら、俺たちは互いに相手の中に自分を見出していたのかもしれない。鏡を見るように……。
「きみに、もらってもらえると、もっと嬉しいんだけど」
「え、ダメよ。こんなすばらしいものをいただけないわ。今度の個展に出すつもりだったんでしょう?」
そう言いながらも彼女は、俺の絵をしっかりと抱え込んでいた。
こうして共通の時間を過ごせるのは、そう長いことでもない。
いつか、アニエスも本当の恋をする。
その時には、俺は父親のような顔をして、アニエスに祝福を送ろう。
<終>
0
お気に入りに追加
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
夜食屋ふくろう
森園ことり
ライト文芸
森のはずれで喫茶店『梟(ふくろう)』を営む双子の紅と祭。祖父のお店を受け継いだものの、立地が悪くて潰れかけている。そこで二人は、深夜にお客の家に赴いて夜食を作る『夜食屋ふくろう』をはじめることにした。眠れずに夜食を注文したお客たちの身の上話に耳を傾けながら、おいしい夜食を作る双子たち。また、紅は一年前に姿を消した幼なじみの昴流の身を案じていた……。
(※この作品はエブリスタにも投稿しています)
お昼ごはんはすべての始まり
山いい奈
ライト文芸
大阪あびこに住まう紗奈は、新卒で天王寺のデザイン会社に就職する。
その職場には「お料理部」なるものがあり、交代でお昼ごはんを作っている。
そこに誘われる紗奈。だがお料理がほとんどできない紗奈は断る。だが先輩が教えてくれると言ってくれたので、甘えることにした。
このお話は、紗奈がお料理やお仕事、恋人の雪哉さんと関わり合うことで成長していく物語です。
アッキーラ・エンサィオ006『彼女が僕のほっぺたを舐めてくれたんだ』
二市アキラ(フタツシ アキラ)
ライト文芸
多元宇宙並行世界の移動中に遭難してしまった訳あり美少年・鯉太郎のアダルトサバイバルゲーム。あるいは変態する変形合体マトリューシカ式エッセイ。(一応、物語としての起承転結はありますが、どこで読んでも楽しめます。)グローリーな万華鏡BLを追体験!てな、はやい話が"男の娘日記"です。
野良インコと元飼主~山で高校生活送ります~
浅葱
ライト文芸
小学生の頃、不注意で逃がしてしまったオカメインコと山の中の高校で再会した少年。
男子高校生たちと生き物たちのわちゃわちゃ青春物語、ここに開幕!
オカメインコはおとなしく臆病だと言われているのに、再会したピー太は目つきも鋭く凶暴になっていた。
学校側に乞われて男子校の治安維持部隊をしているピー太。
ピー太、お前はいったいこの学校で何をやってるわけ?
頭がよすぎるのとサバイバル生活ですっかり強くなったオカメインコと、
なかなか背が伸びなくてちっちゃいとからかわれる高校生男子が織りなす物語です。
周りもなかなか個性的ですが、主人公以外にはBLっぽい内容もありますのでご注意ください。(主人公はBLになりません)
ハッピーエンドです。R15は保険です。
表紙の写真は写真ACさんからお借りしました。
タイムトラベル同好会
小松広和
ライト文芸
とある有名私立高校にあるタイムトラベル同好会。その名の通りタイムマシンを制作して過去に行くのが目的のクラブだ。だが、なぜか誰も俺のこの壮大なる夢を理解する者がいない。あえて言えば幼なじみの胡桃が付き合ってくれるくらいか。あっ、いやこれは彼女として付き合うという意味では決してない。胡桃はただの幼なじみだ。誤解をしないようにしてくれ。俺と胡桃の平凡な日常のはずが突然・・・・。
気になる方はぜひ読んでみてください。SFっぽい恋愛っぽいストーリーです。よろしくお願いします。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる