【完結】ある神父の恋

真守 輪

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恋心

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 彼女は、いつもと変わらぬ大きな眼で、まっすぐに俺を見つめている。
「片想いでもいいもの。わたしの気持ちをあなたが迷惑に思っていないなら、よかった……」

 少女の世界は、とても狭い。
 幼いころから、過ごしてきたフランスという国を離れて、知り合いもいない国に来たばかりだ。
 彼女の小さな世界では、たまたま身近にいた俺という男を『恋愛』の対象として見ているだけにすぎないんだ。
 もっといろんな世界へ彼女は、羽ばたける翼を持っている。
 この先、彼女がもっと広い視野を持って、まったく別の世界を見た時には、もう俺なんて振り向きもしないだろう。
 アニエスは、俺の半分の時もまだ生きていないのだから。

 小さな島の社会科教師。
 両親の同僚。
 聖母マリア騎士修道会に所属する聖職者。
 父親ほども年上の男……。
 彼女は、無意識のうちに自分を傷つけないであろう相手を、選んでいるに過ぎない。



 ――ねぇ……。
 微かな羽ばたきの音。
 ほとんど聞こえないくらいの小さな物音にまぎれて、さらに小さな声が聞こえる。

 ――ねぇ、リョータロウ。
 幼い子供が甘えるような口ぶり。
 よくよく注意していないと、聞き逃しそうなほどの細い小さな声だ。

 ――ステキなことだよ。ねえ、リョータロウ?
 俺は、その声を黙って聞いてた。
 ずっと昔に同じことがあった。
 あのころの俺は、髭を剃っていた。
 だけど、今は髭を伸ばして、すっかりオジサンになってしまったんだ。

 ――だからさぁ、聞いてよ。リョータロウ? 
 俺だけに聞こえる小さな声は、俺が返事をするまで囁き続ける。
「聞いてるよ。セキレイ」
 俺は、自分の左肩の上にのった小さな友人に応える。
「ずっと、ご無沙汰だったね」

 ――ヨハネス。こっちだ。
 今度は、右肩から声が聞こえる。
「フクロウ。きみもだよ」
 やっぱり、彼は羽音をたてない。
 静かにひっそりと俺の肩にのっている。
「久しぶりだね。きみは、相変わらず俺のことをそんな古風に呼ぶんだね」

 ――久しぶりなどではないぞ。われわれは、ずっとヨハネスのそばにいた。
「でも、聞こえなかったんだよ」

 ――それは仕方がない。お前が望まなければ、我々の声は聞こえぬからな。
「そんなことないよ。俺は……」
 言いかけて、言葉がつまった。
 俺は、とても寂しかったのだ。
 彼らの姿が消えてしまってから……ずっと、あの声が聞こえないかと、耳を澄ませていたのに。

 ――知ってるよ。リョータロウ。俺たちはずっときみのそばにいて、見守ってきたんだ。
 ――なぜって、聞くのかい。そりゃ愛しているからだよ。

 セキレイの言葉に俺は、恥ずかしくなってしまった。
 それでも、この古い友人のことを大好きだったし、愛されているのは、やっぱり嬉しい。
 だから、俺も恥ずかしい言葉を返してやった。
「俺も愛しているよ。セキレイ」

 ――当たり前のことを言うのだな。ヨハネス。
 重々しい声でフクロウが言う。
 だけど、俺の右肩は、重くはないのだ。羽根が乗っているほどにも感じない。
「きみも俺を愛してくれているのかい?」

 ――当然だな。
 珍しくフクロウが、優しい口ぶりで言う。
 おや? と思う間もなくすぐに、いつもの厳しい声に変わった。
 ――失敗しないように、事前によく考えるのではない。

 すると今度は、セキレイが歌うように陽気に声をあげる。
 ――すべてを任せてごらん。

「だけど、それじゃ彼女は、幸せになれないんだ」
 彼女のために、今の俺が何をできたと言うのだろう。
 もし、彼女が俺のパートナーとなったら?
 彼女によく似た可愛い子供、孫に囲まれる人生……それは、きっとステキなことだろう。
 実際、自分だけの愛する存在を見つけて、神父を辞めていった人だっているのだ。
 だけど、俺には、そんな愛すべき家族を持つほどの余裕はない。
 彼女が言った『神父という職業』だから、その義務感だけで生涯、独身で勤めに励む……というのとは違う。

 俺は、自分をいつでも投げ出すように、独りでありたいと思っているに過ぎない。
 何もかもを捨てて、とことん自分の信じる道を進んでいきたい。
 そのために、身軽でいたい。
 独りでいたいんだ。

 愛すべき人がいる……それは、とてもステキなことだけど、
 俺は、今の自分を、全てを知っていてくれる、包み込んでくれる神様についていきたかった。
 その存在を知らなければ、きっと、俺は、普通に恋をしていたかもしれない。
 だけど、今の俺は、神様という大きな存在を知っている。
 そのせいで、普通の恋愛とか、家庭というものに、満足できない。
 彼女がどんなに素晴らしい女性であっても、俺は『物足りなさ』を感じてしまうのだろう。
 それどころか、閉塞感に耐えきれなくなってしまうかもしれない。
 自分自身や愛する人たちのことよりも、優先したいことが、今の俺にはある。

「俺は、アニエスと過ごす日々を楽しいと思った。でも、それは、彼女の幸せじゃないんだ」
 ――なぜ、無力なお前が彼女を幸せにできるなんて思うのだ。
 厳めしい重い声が、ほとんど囁くような声音になる。
「俺は、彼女に『見返り』を求められても、何も返せやしない……」
 胸の底にある想いを口に出すと、恥ずかしさに顔から火を噴きそうだ。

 ――それは、彼女も同じだよ。鏡を見るように、彼女はきみの心を写しているんだよ。
 ―― 情愛エロス友愛フィリア。それとも 無償の愛アガペー


   ◆◇◆◇


 それから俺は、やはり彼女と、町はずれの森を散策したり、カフェでのたわいないお喋りをしている。
 俺たちは、ともに過ごす時間を、何よりも大切にしていた。
 確かに彼女の言うとおり、俺は、今、この瞬間にも幸せなのだ。
 自分自身を投影したはずの人物画は、なぜかアニエスにも似ていた。
 完成したその絵をアニエスは、いたく喜んでくれる。

「だって、凉太朗。これってわたし、そのままだわ。まるでもう一人のわたしがここにいるようだもの」
「そうかな……でも、そう言ってもらえると、嬉しいよ」
 ちょっと照れて、俺は笑った。
 もう一人の自分。
 もしかしたら、俺たちは互いに相手の中に自分を見出していたのかもしれない。鏡を見るように……。

「きみに、もらってもらえると、もっと嬉しいんだけど」
「え、ダメよ。こんなすばらしいものをいただけないわ。今度の個展に出すつもりだったんでしょう?」
 そう言いながらも彼女は、俺の絵をしっかりと抱え込んでいた。
 こうして共通の時間を過ごせるのは、そう長いことでもない。
 いつか、アニエスも本当の恋をする。
 その時には、俺は父親のような顔をして、アニエスに祝福を送ろう。

 <終>
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