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少女
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学生食堂のメニューは日替わりで、メインも数種類あって、前菜、スープ、デザートまで充実している。
過去に島に赴任してきた司祭は、日本人ばかりではなかった。そのため食事の内容は非常に国際的だ。これには、歴代の司祭たちに感謝しなくてはならないだろう。
彼女は、ローストダック。俺はビーフのクリーム煮に、チーズをからめたポテト。ついでにビールも注文した。
「 乾杯」
俺がグラスを掲げると、彼女もフランス語で答えた。
「あなたの健康に」
彼女は、いたずらっぽく笑った。彼女のグラスの中身は、オレンジジュースだ。
「神父さまも、昼間からビール飲んだりするんですか?」
「そりゃ、学生食堂に置いてるぐらいだからね」
この島のビールは、しっかりした味とコクがあるのに喉越しがいい。ただ、ついつい飲み過ぎてしまうのが、唯一にして最大の欠点だ。
「せっかく一緒に食事をするなら、その『神父さま』はよしてくれないかな?」
『さま』づけで呼ばれるのは、なれていない。
高齢の信者の方々には、そう呼ばれることもあるが、実のところ落ち着かないのだ。
「あ、すいません。先生とお呼びしたほうが、いいですか?」
「確かに先生には違いないけど、きみは俺の教え子ではないでしょう?」
「そう……ですね。ごめんなさい」
なぜか、俺の言葉に傷ついたように彼女は、うつむいてしまった。
「いや、そんなつもりじゃなかったんだよ」
あわてて俺は、言った。普通に苗字で呼んでもらえたら……と思っていたのだ。
彼女は、食事の手を止めると、まじまじと俺を見つめた。
「では、凉太朗」
「あ、はい」
いきなりの名前呼びに、つい、返事をしてしまった。
まさか、女の子に名前を、それも呼び捨てにされるとは思ってもみなかったのだ。
いや、それがいけないというわけではないが……突然すぎて驚いた。
たぶん外国では、それが当たり前なのだろう。
そう言えば、彼女の母親は苗字で呼ぶが、フランス人の父親は名前呼びにしていたことを思い出した。
こちらの国の流儀を通そうとするのは、ちょっと傲慢だったかな……そんな考えが頭の隅をよぎる。
複雑な俺の心境とは、裏腹に、それまで硬かった彼女の表情が、また変わった。
花が開くように笑う……とは陳腐な表現だが、まさに、そんな印象だ。
朝露に濡れた光がこぼれるようで、まぶしかった。
若い女性とは、こんなにもクルクルと表情が変わるものだろうか。
いいや、違う。
彼女は、自分の心を隠そうともしない。
思ったこと。感じたことをそのままに、顔に出してしまう。
あまりにも無防備で、善良すぎて、それを覗き見る俺自身を後ろめたく感じる。
比喩的な意味でもなんでもなくて、本当に彼女の笑顔は、目に沁みるほどきれいだったから。
「あの……わたしの名前、アニエスです」
「アニエス。聖女アニエスと同じ名前だね。若い少女たちの守護聖人だ」
そうだ。思い出した。
彼女の名前……確か、両親に紹介された時に聞いていたけど、すっかり忘れていた。
「でも、聖女アニエスは、たった13歳で殉教してしまったんですよ」
自分と同じ名前の聖人のことを、アニエスはよく知っているようだ。日本では、聖アグネスと呼ばれている。
「でも、よかったよ。きみのような美しい女性が、たった13歳で散ってしまわなくて」
何気なく俺が言ったことで、アニエスの白い顔は、耳まで赤く染まった。
これは、まずいな。まるで、小さな女の子に手出しする悪いおじさんみたいじゃないか。
俺は、飲みかけのビールを一気にあおった。
「あの……わたし、日本語の名前もあるんです」
もじもじと、手もとのナフキンを弄りながら、アニエスは言う。
俺のほうが、黙ってしまったから、話の接ぎ穂を探していたのかもしれない。
「そう言えば、きみは、日本語がとても上手だね」
「フランスにいるころから、母に教わりました。でも、日本の流行には、うとくて……わたし、まだ……ここでは、お友達がいないんです……」
「大丈夫。きみなら、たくさんの友達ができるよ。それに俺たちだって、もう友達でしょう?」
「あ、ありがとうございます」
彼女は、嬉しそうに笑った。
こんなふうに笑うことのできる子なら、心配しなくても友達は大勢できるだろう。
「それで、きみの日本語の名前は、なんだっけかな。ご両親から聞いていたんだけど……えっと」
「咲螺です」
「そう、そうだ。サクラ!」
「母がつけてくれたんです。わたしも自分の名前……好きなんです」
「サクラって、桜の花のこと?」
「あ、そうじゃないんです。花が『咲く』って言う意味で……」
「なるほど。どんな字を書くのかな」
「……ちょっと、ややこしいんですけど……」
アニエスは、バックからペンを取り出すと、テーブルにあったナプキンに書き出した。
「咲螺。これがわたしの日本語の名前……日本人でも、ちょっと読めないかもしれないんだけど」
「ずいぶん、難しい漢字だね」
「渦巻き形……とかって、あの奈良の大仏さまってご覧になったこと……ありますか?」
「ご覧になったこと、あるよ。その敬語もいらないよ」
俺がそう言うと、また彼女は、真っ赤になった。
「あ、……ええ、そう。あの……大仏さまの、ね……」
目の前に置かれたグラスの縁を触りながら、アニエスは言葉を探しているらしい。
「あの頭のブツブツって、知ってるかしら?」
「パンチパーマ?」
俺のくだらない冗談にも彼女は、楽しそうに笑う。
本当にアニエスは、よく笑う子だ。
若いということは、どんなことでも新鮮に見えるらしい。
それは、今の俺にも言える。
彼女といると、どんな些細なことでさえ、新しい発見のような気がした。
当たり前だった風景が瑞々しく感じられた。
もっとも彼女から見れば、俺も『若い』とは言いかねる年齢だ。
「きみが何を言いたいのか分かったよ。螺髪だ。あれは縮れて巻き毛になっているんだろう」
俺がそう言うと、彼女は、大きな眼を瞬かせる。
「そうなの? わたし、知らなかったわ」
「伸ばしたら、けっこうな長さになるかもしれないね。きみの髪みたいに」
アニエスの髪は、長く背中に解き流している。
「わたしの髪もクルクルに巻いたら、仏像にみたいになるかしら」
「それは、もったいないよ。こんなに綺麗な髪を丸めてしまうなんて、美の冒涜だ」
俺が大げさに言うと、アニエスは真っ赤になった。
そうして、まるで夢を見ている人のようにぼんやりとした視線を俺にあてる。
過去に島に赴任してきた司祭は、日本人ばかりではなかった。そのため食事の内容は非常に国際的だ。これには、歴代の司祭たちに感謝しなくてはならないだろう。
彼女は、ローストダック。俺はビーフのクリーム煮に、チーズをからめたポテト。ついでにビールも注文した。
「 乾杯」
俺がグラスを掲げると、彼女もフランス語で答えた。
「あなたの健康に」
彼女は、いたずらっぽく笑った。彼女のグラスの中身は、オレンジジュースだ。
「神父さまも、昼間からビール飲んだりするんですか?」
「そりゃ、学生食堂に置いてるぐらいだからね」
この島のビールは、しっかりした味とコクがあるのに喉越しがいい。ただ、ついつい飲み過ぎてしまうのが、唯一にして最大の欠点だ。
「せっかく一緒に食事をするなら、その『神父さま』はよしてくれないかな?」
『さま』づけで呼ばれるのは、なれていない。
高齢の信者の方々には、そう呼ばれることもあるが、実のところ落ち着かないのだ。
「あ、すいません。先生とお呼びしたほうが、いいですか?」
「確かに先生には違いないけど、きみは俺の教え子ではないでしょう?」
「そう……ですね。ごめんなさい」
なぜか、俺の言葉に傷ついたように彼女は、うつむいてしまった。
「いや、そんなつもりじゃなかったんだよ」
あわてて俺は、言った。普通に苗字で呼んでもらえたら……と思っていたのだ。
彼女は、食事の手を止めると、まじまじと俺を見つめた。
「では、凉太朗」
「あ、はい」
いきなりの名前呼びに、つい、返事をしてしまった。
まさか、女の子に名前を、それも呼び捨てにされるとは思ってもみなかったのだ。
いや、それがいけないというわけではないが……突然すぎて驚いた。
たぶん外国では、それが当たり前なのだろう。
そう言えば、彼女の母親は苗字で呼ぶが、フランス人の父親は名前呼びにしていたことを思い出した。
こちらの国の流儀を通そうとするのは、ちょっと傲慢だったかな……そんな考えが頭の隅をよぎる。
複雑な俺の心境とは、裏腹に、それまで硬かった彼女の表情が、また変わった。
花が開くように笑う……とは陳腐な表現だが、まさに、そんな印象だ。
朝露に濡れた光がこぼれるようで、まぶしかった。
若い女性とは、こんなにもクルクルと表情が変わるものだろうか。
いいや、違う。
彼女は、自分の心を隠そうともしない。
思ったこと。感じたことをそのままに、顔に出してしまう。
あまりにも無防備で、善良すぎて、それを覗き見る俺自身を後ろめたく感じる。
比喩的な意味でもなんでもなくて、本当に彼女の笑顔は、目に沁みるほどきれいだったから。
「あの……わたしの名前、アニエスです」
「アニエス。聖女アニエスと同じ名前だね。若い少女たちの守護聖人だ」
そうだ。思い出した。
彼女の名前……確か、両親に紹介された時に聞いていたけど、すっかり忘れていた。
「でも、聖女アニエスは、たった13歳で殉教してしまったんですよ」
自分と同じ名前の聖人のことを、アニエスはよく知っているようだ。日本では、聖アグネスと呼ばれている。
「でも、よかったよ。きみのような美しい女性が、たった13歳で散ってしまわなくて」
何気なく俺が言ったことで、アニエスの白い顔は、耳まで赤く染まった。
これは、まずいな。まるで、小さな女の子に手出しする悪いおじさんみたいじゃないか。
俺は、飲みかけのビールを一気にあおった。
「あの……わたし、日本語の名前もあるんです」
もじもじと、手もとのナフキンを弄りながら、アニエスは言う。
俺のほうが、黙ってしまったから、話の接ぎ穂を探していたのかもしれない。
「そう言えば、きみは、日本語がとても上手だね」
「フランスにいるころから、母に教わりました。でも、日本の流行には、うとくて……わたし、まだ……ここでは、お友達がいないんです……」
「大丈夫。きみなら、たくさんの友達ができるよ。それに俺たちだって、もう友達でしょう?」
「あ、ありがとうございます」
彼女は、嬉しそうに笑った。
こんなふうに笑うことのできる子なら、心配しなくても友達は大勢できるだろう。
「それで、きみの日本語の名前は、なんだっけかな。ご両親から聞いていたんだけど……えっと」
「咲螺です」
「そう、そうだ。サクラ!」
「母がつけてくれたんです。わたしも自分の名前……好きなんです」
「サクラって、桜の花のこと?」
「あ、そうじゃないんです。花が『咲く』って言う意味で……」
「なるほど。どんな字を書くのかな」
「……ちょっと、ややこしいんですけど……」
アニエスは、バックからペンを取り出すと、テーブルにあったナプキンに書き出した。
「咲螺。これがわたしの日本語の名前……日本人でも、ちょっと読めないかもしれないんだけど」
「ずいぶん、難しい漢字だね」
「渦巻き形……とかって、あの奈良の大仏さまってご覧になったこと……ありますか?」
「ご覧になったこと、あるよ。その敬語もいらないよ」
俺がそう言うと、また彼女は、真っ赤になった。
「あ、……ええ、そう。あの……大仏さまの、ね……」
目の前に置かれたグラスの縁を触りながら、アニエスは言葉を探しているらしい。
「あの頭のブツブツって、知ってるかしら?」
「パンチパーマ?」
俺のくだらない冗談にも彼女は、楽しそうに笑う。
本当にアニエスは、よく笑う子だ。
若いということは、どんなことでも新鮮に見えるらしい。
それは、今の俺にも言える。
彼女といると、どんな些細なことでさえ、新しい発見のような気がした。
当たり前だった風景が瑞々しく感じられた。
もっとも彼女から見れば、俺も『若い』とは言いかねる年齢だ。
「きみが何を言いたいのか分かったよ。螺髪だ。あれは縮れて巻き毛になっているんだろう」
俺がそう言うと、彼女は、大きな眼を瞬かせる。
「そうなの? わたし、知らなかったわ」
「伸ばしたら、けっこうな長さになるかもしれないね。きみの髪みたいに」
アニエスの髪は、長く背中に解き流している。
「わたしの髪もクルクルに巻いたら、仏像にみたいになるかしら」
「それは、もったいないよ。こんなに綺麗な髪を丸めてしまうなんて、美の冒涜だ」
俺が大げさに言うと、アニエスは真っ赤になった。
そうして、まるで夢を見ている人のようにぼんやりとした視線を俺にあてる。
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