上 下
75 / 105

番外編 ナーヴェの花嫁姿 二

しおりを挟む
     二

「アッズーロ、テゾーロがいるんだからね……?」
 口が離れた瞬間、ナーヴェが釘を刺してくる。アッズーロはその左耳へ口を寄せて囁いた。
「分かっておる。ただ少し、そなたを味見するだけだ」
「ぼくは別に、美味しくはないと思うんだけれど……」
 ぼやくようなナーヴェの言葉を無視して、アッズーロは青く長い髪を掻き上げ、形のいい耳を甘噛みする。ナーヴェは分かっていない。アッズーロが毎日考え抜いた料理を食べさせている肉体は、仄かな甘さと塩っぱさを兼ね備え、果物のような香りもさせていて、味わい深いのだ。アッズーロは宝の左耳から首筋へと口を移すと同時に、平らな胸元を守っている胸紐をするりと解いた。
「ちょっと、アッズーロ……」
 ナーヴェが些か焦った声を上げる。どうもアッズーロに対する信頼感が足りないらしい。
「案ずるな。鎖骨までだけだ」
 宥めて、アッズーロは細い首を舐め、透き通るように白い肌にところどころ赤い花を咲かせながら、鎖骨へ至った。いつ見ても艶めかしい鎖骨だ。そのしっとりとした窪みを舌で強くなぞると、ナーヴェがくすぐったそうに身動きする。心行くまで鎖骨の形を味わってから、アッズーロは上体を起こして、解いた胸紐を丁寧に結び直してやった。
「きみは時々、急にこういうことをするから、びっくりするよ」
 ナーヴェが押し倒された格好のまま、抗議してくる。
「ぼくの心拍が上がったから、テゾーロも興奮して、どきどきしている」
「父母の親密なことを、今の内から学べるであろう」
 アッズーロは勝ち誇って言った。
「きみはどんなことでも前向きに表現する才能があるよね……」
 呆れたように零して、ナーヴェは、ゆっくりと自分で起き上がろうとする。アッズーロはすぐにその背を支えて、注意深く起こしてやった。
「ありがとう」
 律儀な宝は、文句を言っていたことなど忘れたように微笑んだ。やはり可愛い。愛らしい。
「そなたはわが宝だ。ゆえに、たまにはこういう愛で方もしたいのだ。許せ」
「うん。それは分かっているし、愛でてくれるのは嬉しい。きみは、自分の言ったことは守るしね。たまになら、このぐらいは大丈夫だよ」
 ナーヴェは優しい口調で、しっかりと制限を設けてきた。
「『たまになら』か」
 アッズーロは溜め息をつき、口調を変える。
「では、そろそろ裁縫師にそなたの相手を譲るとしよう。身仕度ついでに、採寸されるがよい」
「裁縫師というのは誰だい? 初めて会う人だよね?」
 ナーヴェの問いに、アッズーロは笑って教えた。
「ポンテの配下のような者だ。一年ほど前に城下の仕立屋から城勤めへ取り立てられた。父上は、そういうことにあまり関心がなかったゆえ、そなたは面識がないやもしれんな。まだ若いが、なかなかの腕前だぞ」
「へえ。それは会うのが楽しみだよ」
 全ての人を自らの子どものようなものだと言い切る宝は、瑠璃色の双眸をきらきらと輝かせる。その煌めきに軽く肩を竦めてから、アッズーロは廊下へ呼ばわった。
「フィオーレ、ミエーレ、入るがよい。ピューメもおれば、中へ入れよ」
 すぐに扉が開いて、女官二人は静かに戻ってきた。その後に続いて、ピューメも入ってくる。だが、裁縫師の少女は、女官二人とは動きを異にし、入り口に跪いて控えた。
 ミエーレは朝食の皿や杯を盆に載せて退室し、フィオーレはナーヴェに歯磨きと洗面をさせ、長く青い髪を丁寧に梳く。それらが終わると、フィオーレがピューメに目配せした。
 ピューメは襟足で切り揃えた癖のない黒髪を揺らし、きりりとした表情で近づいてきた。まだ十代のはずだが、専門職としての誇りを持って仕事をしている少女である。寝室の中ほどで再び跪き、一礼してから黒い理知的な双眸でアッズーロとナーヴェとを見つめた。白い頬は、緊張でやや紅潮しているようだ。
「おはよう、ピューメ」
 ナーヴェが、人懐こく声を掛ける。
「朝早くから来てくれてありがとう。ぼくの婚礼衣装のための採寸をお願いしたいんだ」
「承っております。では、失礼致します」
 ピューメは硬い面持ちでナーヴェへ歩み寄ると、隣に座るアッズーロに尋ねた。
「ナーヴェ様に立って頂くことはできますか?」
「うむ」
 アッズーロが重々しく許可すると、宝は笑顔で頷いた。
「勿論だよ」
 そうして寝台から立ち上がる宝を、アッズーロもともに立ち上がって慎重に支える。傍に立つフィオーレも手を出したり引っ込めたり、気が気でない様子だ。ピューメは、腰帯に提げた革袋から巻尺を取り出し、ナーヴェの身長や肩幅、胸回り、腹回り、腰回り、股下の長さなどを素早く測っていく。
「腹は、まだ大きくなることを考慮に入れておけ」
 アッズーロはつい口を出した。
「仰せのままに」
 ピューメは硬い声音で応じる。ナーヴェが苦笑した。
「アッズーロ、それは言わずもがなのことだよ。妊婦のお腹がどんどん大きくなることは、誰だって知っているよ」
「そなたを人とは異なると思うておる者もいよう。大事なことゆえ確認したのだ」
 アッズーロは憮然として、愛らしい宝に言い返した。
「ああ、確かにそうだね……」
 宝は、少しばかり悄然とした様子で俯いた。その寂しげな横顔に、アッズーロは胸を衝かれ、慌てて付け加えた。
「いや、そなたの身近に仕えておる中に、そのような者はおらんが、ピューメはそうではないゆえ、念のためだ」
「うん。分かっているよ」
 ナーヴェは微笑んでアッズーロを見上げる。
「それに、ぼく自身が、ぼくは人ではないと繰り返し言っている訳だしね。きみは正しいよ」
 アッズーロは堪らなくなって、ピューメを押し退けるようにして、ナーヴェをそっと抱き締めた。もう一つの命を内に抱えた、華奢な体。その耳元に口を寄せ、アッズーロは詫びた。
「許せ。そなたを傷つけるつもりはなかったのだ。ただ心配が過ぎて、余計なことを口にした。そなたが充分に人であることは、そなたを孕ませたわれが、誰よりよく知っておる」
 ピューメとフィオーレが一瞬にして赤面したが、構うことではない――。
「ありがとう、アッズーロ。きみにそう言って貰えると、とても嬉しいよ」
 羞恥心の足りない宝は、アッズーロの胸に頭をすり寄せてから、顔を上げた。
「でも今はピューメが困っているから、少し離れよう?」
「うむ」
 アッズーロは、最愛の腰を手で支えたまま、少し体を離した。
「失礼致します」
 ピューメが、まだ赤面したまま、ナーヴェの首の長さや腕の長さ、胸から腰までの長さを測る。丁寧な手付きで測り終えてから、ピューメはアッズーロのほうを向いて問うてきた。
「御髪はどう致しましょう? 普段は結わずに垂らしていらっしゃいますが、御婚儀の際には、結われますか?」
(さて、どうするか)
 アッズーロは即答せずにナーヴェの顔を見下ろす。最愛は、青い双眸に笑みを湛えて答えた。
「この体はきみのものだから、きみの好きにしたらいいよ?」
 やはり、初夜の時とは真逆の反応だ。
「うむ。ならば……」
 アッズーロは、長く美しく、手触りもよい青い髪を暫し眺めてから、再びナーヴェを抱き寄せて自分の体に掴まらせた。そうしておいて、自由になった両手で、いつも触っている青い髪をまとめて上げる。
「これがよい。この辺りまで結い上げて飾り付けよ。幾筋か編んで束ねれば更に見栄えがしよう」
「それはようございますね……!」
 フィオーレが大きく頷いた。
「全て仰せのままに」
 ピューメは生真面目に一礼して、ナーヴェから離れる。
「では、早速、お衣装の製作に掛かります」
「仕立て終えるまでに如何ほど掛かる?」
 確かめたアッズーロに、ピューメは黒曜石のような双眸に真剣な光を浮かべて告げた。
「二週間、頂きとうございます」
「よかろう」
 アッズーロは鷹揚に認める。
「では、二週間後、試着ということに致そう。下がるがよい」
「畏まりました」
 もう一度、深く頭を下げてから、ピューメは後ろ向きに下がって退室していった。
「……かなり緊張していたね」
 ナーヴェが些か残念そうに呟く。
「もう少し話したかったんだけれど」
「二週間後には、もっと話せるであろう」
 アッズーロは宝を慰めて、その体を支え、寝台へ腰掛けさせた。すかさず、フィオーレがナーヴェの普段着一揃いを持ってくる。アッズーロはいつも通りナーヴェの着替えを手伝ってから、立ち上がった。王城の尖塔で、時報の鐘が鳴らされている。午前の謁見を始める時間だ。レーニョも廊下に控えているだろう。
「では、行ってくる」
 アッズーロは身を屈めて、寝台に腰掛けたままの宝の額に軽く口付けた。
「うん。行ってらっしゃい」
 くすぐったそうな表情で、ナーヴェは見送ってくれる。可愛らしい。幸せだ。アッズーロは微笑んで、最愛を寝室に残し、政務へ向かった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄目当てで行きずりの人と一晩過ごしたら、何故か隣で婚約者が眠ってた……

木野ダック
恋愛
メティシアは婚約者ーー第二王子・ユリウスの女たらし振りに頭を悩ませていた。舞踏会では自分を差し置いて他の令嬢とばかり踊っているし、彼の隣に女性がいなかったことがない。メティシアが話し掛けようとしたって、ユリウスは平等にとメティシアを後回しにするのである。メティシアは暫くの間、耐えていた。例え、他の男と関わるなと理不尽な言い付けをされたとしても我慢をしていた。けれど、ユリウスが楽しそうに踊り狂う中飛ばしてきたウインクにより、メティシアの堪忍袋の緒が切れた。もう無理!そうだ、婚約破棄しよう!とはいえ相手は王族だ。そう簡単には婚約破棄できまい。ならばーー貞操を捨ててやろう!そんなわけで、メティシアはユリウスとの婚約破棄目当てに仮面舞踏会へ、行きずりの相手と一晩を共にするのであった。けど、あれ?なんで貴方が隣にいるの⁉︎

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています

猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。 しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。 本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。 盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。

王太子の子を孕まされてました

杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。 ※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...