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第十三章 たった一人の人 三
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三
夜が完全に明け切る前に、ナーヴェは方角の確認を終えたらしく、ロッソが起きた時には、ムーロから筆を借りて御者台に印を付けていた。軽い朝食を済ませてそれぞれの天幕を片づけると、最初の御者はジェネラーレが買って出た。
「昨日は、ムーロ殿とエゼルチト殿ばかりに世話になってしまいましたから」
そう言って、軽やかに御者台へ登った近衛隊長に頷き、ロッソは馬車へ乗り込んだ。一日馬車に乗り続けた体は、一晩休んでもあちこち軋んで痛むが、エゼルチトとムーロが一晩面倒を看て馬車に繋いだ二頭の馬は元気そうだ。ナーヴェとアッズーロ、ムーロとエゼルチトも馬車に乗り込んできて、ジェネラーレが馬達を走らせ始めた。
軽快に進む馬車の中で、最初に口を開いたのは、傍らに砂時計を置いたナーヴェだった。喋ることに飢えているのかと思うほど、よく喋る宝である。しかも、和やかに当たり障りのない話をしようなどというつもりは全くないらしいところが、いっそ憎らしい。
宝は、ムーロやジェネラーレと、沙漠の夜について言葉を交わした後、ロッソのほうを向いた。
「そう言えば、ロッソは、まだ結婚していないんだよね?」
唐突に問われて、ロッソは眉間に皺を寄せた。
「それは、そなたに何か関係のあることか?」
尊大に問い返すと、宝は笑顔で頷いた。
「うん。凄く興味がある。きみが、どんな人を伴侶として選ぶのか」
「少なくとも、そなたのように無遠慮な問いは発さぬ女だ」
「へえ……」
宝は、深い青色の双眸をきらきらと輝かせる。
「もう心に決めた人がいるんだね」
「――そういう意味ではない」
ロッソは、宝を真正面から見据えて否定した。
「ナーヴェ、それくらいにしておけ」
横から口を挟んだのはアッズーロだ。
「繊細さとは無縁に見えるこの男にも、秘しておきたい事柄の一つや二つはあろう」
一々喧嘩を売らなければ気が済まない性質のようである。
「そなたのように思うがまま、幼子の如く全て口にしておれば、隠し事もできまいな」
退屈凌ぎに、ロッソは喧嘩を買った。
「羨ましいか?」
アッズーロは腕組みして得意げである。
「わが王権は盤石。誰の顔色を窺う必要もないゆえな。隠し事なぞ無用なのだ」
「そのように語る輩ほど、己の足元が見えておらぬものだがな」
「われをそこらの凡夫と同じに考えるなぞ愚か。己の心配をこそしておくがよい。そなたの足元の脆さは、常々伝え聞いておるぞ?」
「アッズーロ、きみこそ、そのくらいにしておいたほうがいいよ」
ナーヴェが、顔をしかめてアッズーロの袖を引く。
「ロッソとは、これからもいろいろと助け合っていく仲なんだから」
「――全く、業腹だがな」
嘆息して、アッズーロはそっぽを向き、黙った。
「ごめん、ロッソ」
宝が伴侶の代わりに詫びてくる。
「アッズーロは、普段は王として、もう少し思慮深いんだけれど、同じ王のきみが相手だと、何だか安心するみたいで――」
「たわけ。的外れな解説をするでない」
アッズーロがナーヴェの首に腕を回して、些か乱暴に黙らせた。そうしてじゃれ合っているさまは、まるで少年同士のようだ。それが、ロッソの目には、少し眩しい。
(王の宝は、単なる妃に非ず、か)
この二人は、伴侶であると同時に、友なのだろう。それも、戦友とでも言うべき、並び立つ相手なのだ。
(おれは、あいつに、そこまでのことを求めることができん……)
ジェネラーレの姉ドルチェ。ジェネラーレとは対照的に、病弱で、華奢で、片腕で抱き上げてしまえる、いつまでも少女のような人。けれど、ジェネラーレ以上に芯が強く、頑固で、一筋縄ではいかない。だからこそ、諦め切れず、だからこそ、危うくて覚悟が持てない。
(優柔不断の極みだな……)
やや目を伏せたロッソの視界に、急に朝日が差し込んできた。窓の外へ視線を転じれば、遮るもののない不毛の大地の彼方から、朝日が昇ってくる。改めて、広大な沙漠だということが分かる。その前人未踏の赤い沙漠のただ中を、馬車は進んでいく。ロッソとて、ここまで深く赤い沙漠に入り込んだのは初めてである――。
「――アッズーロ」
ナーヴェが、アッズーロの腕の中から、顔を出した。頭をもたげて、ロッソと同じように窓の外を見る。
「いつか、きみと、この惑星のあちこちを旅してみたいよ……」
「そうだな」
アッズーロも柔らかな表情になって、ナーヴェを腕に抱え込んだまま、窓の外の朝日に目を細める。
「早めにテゾーロに譲位して、ともに旅をするか」
「いいね……」
うっとりした声で、ナーヴェが相槌を打った。
一時間ごとにナーヴェが人工衛星に接続して針路を修正し、その都度、エゼルチトとムーロとジェネラーレが御者を交代しながら、馬車は何事もなく赤い沙漠を進んだ。昨日と同様に、昼過ぎに三時間の休憩を取り、代わりに日が暮れた後の三時間を進行に当ててから、調査団は二日目の夜営をした。三つの天幕の割り振りは昨夜と同様だ。
今夜は、ナーヴェは歌うことなく、寝仕度を終えるとすぐに毛布を被ってしまった。軽い口付けだけ交わして、アッズーロはその寝顔を見守る。油皿の灯りで照らした端正で幼げな顔は、僅かだが、やつれたように見える。やはり、一時間ごとの人工衛星への接続が堪えているのかもしれない。
(早く、われらが王城へ戻り、そなたと平穏無事な生活を送りたいものだ……)
形のいい頭の、青い髪をそっと撫でて、アッズーロは妃の傍らに横になり、毛布を被った。
妙な声で目が覚めたのは、まだ暗く、辺りが静まり返っている時だった。
「……ん、……さん、……っているから……」
ナーヴェが何か、呟いている。アッズーロは、頭をもたげて、暗がりの中、妃の顔を窺った。天幕の隙間から淡く差し込む月明かりで僅かに見える。妃は目を閉じたまま、微かに口を動かしている。
(寝言か……?)
しかし、今までアッズーロは、ナーヴェの寝言など聞いたことがない。普段、眠っている間は、ナーヴェはただ静かで、寝息しか立てないのだ。
「……は、……わないよ……。……ッズーロは、……ないよ?」
自分の名前が出てきたので、アッズーロは耳を聳てた。
「……よ。賭けても……。……けるのは、……さんだと……うけれど」
(「賭け」? 一体何を呟いておるのだ……?)
アッズーロの戸惑いを他所に、ナーヴェの呟きは続く。
「……ったよ。……が、……さんの条件……だね……。いいよ。……の函を、賭けるよ」
口元で微かに笑んで、それきりナーヴェは静かになった。しかし、アッズーロは気が気ではない。
(「函」とは、こやつの「思考回路」とやらが入っている「函」か……? それを、「賭ける」だと……? こやつが呟いていた――話していた相手は、シーワン・チー・チュアンか……?)
ナーヴェを起こして問い詰めようかとも思ったが、アッズーロは思い止まった。
(こやつは、もう嘘をつける……。本気で隠したいことは、恐らく、決して明かさんだろう……)
ナーヴェ自身が、「死にはしないと思う」と口にした以上、言を翻すことはしないはずだ。
(こやつは、頑固だからな……)
愛らしい寝顔の頬にそっと触れてから、アッズーロは、妃の傍らへ再び横になった。
(そなたの姉の企てを、そなたの予測通り、われが超えて見せよう)
ナーヴェが、アッズーロの名を出し、最後に微笑んだのは、きっとそういう意味なのだから。
三日目も順調に旅程をこなした一行の前に、その威容が現われたのは、日が沈んで暫く経った頃だった。
月明かりを受けて聳え立つ建物に、ロッソもジェネラーレもエゼルチトも、目を瞠っている。だが、それはアッズーロとムーロにとっては、見慣れたものだった。
「ナーヴェ様の本体――神殿と、そっくりですね……」
ムーロが乾いた声で呟いた。
「同型船だからね。さあ、中に入ろうか」
ナーヴェが微笑んで促し、真っ先に馬車から降りると、沙漠に直立した宇宙船へ向かって歩き始めた。アッズーロ達は、その後へ続いた。ナーヴェの本体に付けてあったような階段がないので、どうするのかとアッズーロが見ていると、扉が開いて白い明かりが辺りを照らし、そこから平たく大きな皿のようなものが降ってきた。地面に激突するかと思いきや、目の前の沙漠に浮いた、その大きな皿状のものに、ナーヴェはひょいと乗った。
「みんな、乗って」
青い髪を揺らして振り向き、ナーヴェが呼ぶ。
「底面の四つの回転翼と周縁の八つの噴射口で、空気を放出して浮く乗り物だよ。これが、入り口まで連れていってくれる」
「こやつのこういう説明の半分は理解不能だが、とりあえず従っておけ。間違ったことは言わん」
アッズーロは、他の面々に声を掛けて、巨大な皿に上がり、妃の隣に立った。次いで、ジェネラーレとロッソが上がってくる。最後にムーロとエゼルチトが、立てた杭に馬達を繋ぎ終えて上がってきた。
全員が乗った途端、皿状の乗り物は、音もなく上昇して、白い明かりが溢れる入り口のところまで来ると、今度は横に動いて中へ入った。その動きに呼応したように、扉が閉まる。内部は、アッズーロにとっては既視感のある不思議な光で満ちていた。高い天井と白い通路にも既視感がある。そこを、大皿は音もなく進んでいく。
「そなたの本体と同じだな」
アッズーロが言うと、ナーヴェは頷いた。
「うん。惑星を見つけて降りたぼく達は、こうして、人々の生活の拠点となれるよう、設計されたんだ。ここから、人々が徐々に惑星への定住を進めていけるようにね。でも、ぼくは人々を大勢死なせる『原罪』を犯したし、姉さんも船長を連れて人々から逃げることになってしまった。ずっとぼく達の中で暮らしてきた人々が、惑星に定住するのは、とても難しいことで、想定外のことが、とても多いんだ……」
沈んだ声で話を締め括った妃の頭を、アッズーロはそっと撫でた。
大きな皿は、次々と開く扉を抜けて、広い空間へアッズーロ達を連れていった。
「ここは集会場だよ。みんなが集まる時に使うんだ」
ナーヴェが解説した。その直後、大皿が停まり、どこからともなく声が響いた。
〈ようこそ、王達とその従者達、そしてナーヴェ・デッラ・スペランツァ〉
ナーヴェとよく似た、高くも低くもない中性的な声だ。
〈本官は、シーワン・チー・チュアン。この船の疑似人格電脳です。あなた方に、わが皇上への拝謁が許可されました〉
「随分と勿体ぶることだ」
アッズーロが皮肉を口にした直後、高い天井から、もう一つの大皿が降りてきた。アッズーロ達が乗る大皿より少し高い位置で停まったその大皿には、豪華絢爛な椅子があり、そこに、一人の子どもが座っていた。椅子よりも派手な、煌びやかな衣装を纏っているが、どう見ても十歳前後だ。
「あれが、船長か?」
小声で問うたアッズーロに、ナーヴェも、その子どもを見上げたまま小声で答えた。
「そのはずだよ。姉さんの思考回路から得た情報にあった姿と一致する」
「そのほうが、ナーヴェ・デッラ・スペランツァか」
子どもが口を開いた。広い空間によく響く声だ。
「成るほど、わが従僕とよう似ておる。しかも、それが生身であるとは興味深い。その体の作り方、最大漏らさず、わが従僕に伝えるがよい」
「うん、勿論、そのつもりでここに来たんだよ。但し、こっちの質問に姉さんがこの場で、ここのみんなにも聞こえるように答えてくれたら、だけれどね」
不敵に笑んだナーヴェに、シーワン・チー・チュアンの声が応じた。
〈いいでしょう。質問を言いなさい〉
「では、まず一つ目」
ナーヴェは、やや低い声で切り出す。
「あの小惑星の軌道を変えて、この惑星に落としたのは、チュアン姉さんかい?」
〈ええ。あなた達に気づかれることなく、この惑星に着地するために、本官が軌道に修正を加えました。まさか、あのような人工衛星があるにも関わらず、あなたが船体を犠牲にしなければ防げないとは予測しなかったので〉
淡々と、「姉」は述べた。ナーヴェの予測と合致する答えだ。
「なら、二つ目」
ナーヴェは質問を続ける。
「姉さん達は、この惑星に来て、どうするつもりだい?」
「支配するに決まっておろう」
不機嫌な声で返答したのは、豪華な椅子に座った子どものほうだった。ナーヴェは小首を傾げた。
「『支配する』とは、具体的にどうするんだい? この惑星には、今のところ、二つの独立国家があるんだけれど、その二つの国を支配するということかい?」
〈その通りです。陛下の支配のなさり方については、これから検討する予定ですが〉
シーワン・チー・チュアンの応答に続き、子どもがまた口を開いた。
「朕は皇帝ぞ? 当然であろうが」
そうして子どもは、しかめた顔でナーヴェを見下ろす。
「しかし、そのほう、些か言葉遣いが奇妙よな。そのほうも従僕であろう。朕に対しては言葉遣いを改めよ」
「何故?」
ナーヴェは微笑んで尋ねる。
「きみは皇帝と名乗っているけれど、ぼくにとってはまだ、姉さんの船長という以外の何者でもないから、別に遜る必要はないだろう?」
「チュアン」
不意に、子どもは虚空に向かって呼び掛けた。その声は不満そうだ。
「そなたの妹は、従僕としての教育を、きちんと受けておらぬようだぞ? しっかりと躾けてやるがよい」
直後、更にもう一つの大皿が天井から降りてきて、アッズーロ達が乗る大皿のすぐ横に並んだ。
「ちょっと行ってくるよ」
ナーヴェが軽く告げて、その大皿へ跳び移る。長く青い髪が靡き、アッズーロが伸ばした手をすり抜けた。
「待て!」
アッズーロが追い掛けて跳び移る前に、ナーヴェを乗せた大皿は急上昇した。振り向いたナーヴェの、一瞬だけ見えた儚げな微笑みが、アッズーロの脳裏に焼き付いた。
夜が完全に明け切る前に、ナーヴェは方角の確認を終えたらしく、ロッソが起きた時には、ムーロから筆を借りて御者台に印を付けていた。軽い朝食を済ませてそれぞれの天幕を片づけると、最初の御者はジェネラーレが買って出た。
「昨日は、ムーロ殿とエゼルチト殿ばかりに世話になってしまいましたから」
そう言って、軽やかに御者台へ登った近衛隊長に頷き、ロッソは馬車へ乗り込んだ。一日馬車に乗り続けた体は、一晩休んでもあちこち軋んで痛むが、エゼルチトとムーロが一晩面倒を看て馬車に繋いだ二頭の馬は元気そうだ。ナーヴェとアッズーロ、ムーロとエゼルチトも馬車に乗り込んできて、ジェネラーレが馬達を走らせ始めた。
軽快に進む馬車の中で、最初に口を開いたのは、傍らに砂時計を置いたナーヴェだった。喋ることに飢えているのかと思うほど、よく喋る宝である。しかも、和やかに当たり障りのない話をしようなどというつもりは全くないらしいところが、いっそ憎らしい。
宝は、ムーロやジェネラーレと、沙漠の夜について言葉を交わした後、ロッソのほうを向いた。
「そう言えば、ロッソは、まだ結婚していないんだよね?」
唐突に問われて、ロッソは眉間に皺を寄せた。
「それは、そなたに何か関係のあることか?」
尊大に問い返すと、宝は笑顔で頷いた。
「うん。凄く興味がある。きみが、どんな人を伴侶として選ぶのか」
「少なくとも、そなたのように無遠慮な問いは発さぬ女だ」
「へえ……」
宝は、深い青色の双眸をきらきらと輝かせる。
「もう心に決めた人がいるんだね」
「――そういう意味ではない」
ロッソは、宝を真正面から見据えて否定した。
「ナーヴェ、それくらいにしておけ」
横から口を挟んだのはアッズーロだ。
「繊細さとは無縁に見えるこの男にも、秘しておきたい事柄の一つや二つはあろう」
一々喧嘩を売らなければ気が済まない性質のようである。
「そなたのように思うがまま、幼子の如く全て口にしておれば、隠し事もできまいな」
退屈凌ぎに、ロッソは喧嘩を買った。
「羨ましいか?」
アッズーロは腕組みして得意げである。
「わが王権は盤石。誰の顔色を窺う必要もないゆえな。隠し事なぞ無用なのだ」
「そのように語る輩ほど、己の足元が見えておらぬものだがな」
「われをそこらの凡夫と同じに考えるなぞ愚か。己の心配をこそしておくがよい。そなたの足元の脆さは、常々伝え聞いておるぞ?」
「アッズーロ、きみこそ、そのくらいにしておいたほうがいいよ」
ナーヴェが、顔をしかめてアッズーロの袖を引く。
「ロッソとは、これからもいろいろと助け合っていく仲なんだから」
「――全く、業腹だがな」
嘆息して、アッズーロはそっぽを向き、黙った。
「ごめん、ロッソ」
宝が伴侶の代わりに詫びてくる。
「アッズーロは、普段は王として、もう少し思慮深いんだけれど、同じ王のきみが相手だと、何だか安心するみたいで――」
「たわけ。的外れな解説をするでない」
アッズーロがナーヴェの首に腕を回して、些か乱暴に黙らせた。そうしてじゃれ合っているさまは、まるで少年同士のようだ。それが、ロッソの目には、少し眩しい。
(王の宝は、単なる妃に非ず、か)
この二人は、伴侶であると同時に、友なのだろう。それも、戦友とでも言うべき、並び立つ相手なのだ。
(おれは、あいつに、そこまでのことを求めることができん……)
ジェネラーレの姉ドルチェ。ジェネラーレとは対照的に、病弱で、華奢で、片腕で抱き上げてしまえる、いつまでも少女のような人。けれど、ジェネラーレ以上に芯が強く、頑固で、一筋縄ではいかない。だからこそ、諦め切れず、だからこそ、危うくて覚悟が持てない。
(優柔不断の極みだな……)
やや目を伏せたロッソの視界に、急に朝日が差し込んできた。窓の外へ視線を転じれば、遮るもののない不毛の大地の彼方から、朝日が昇ってくる。改めて、広大な沙漠だということが分かる。その前人未踏の赤い沙漠のただ中を、馬車は進んでいく。ロッソとて、ここまで深く赤い沙漠に入り込んだのは初めてである――。
「――アッズーロ」
ナーヴェが、アッズーロの腕の中から、顔を出した。頭をもたげて、ロッソと同じように窓の外を見る。
「いつか、きみと、この惑星のあちこちを旅してみたいよ……」
「そうだな」
アッズーロも柔らかな表情になって、ナーヴェを腕に抱え込んだまま、窓の外の朝日に目を細める。
「早めにテゾーロに譲位して、ともに旅をするか」
「いいね……」
うっとりした声で、ナーヴェが相槌を打った。
一時間ごとにナーヴェが人工衛星に接続して針路を修正し、その都度、エゼルチトとムーロとジェネラーレが御者を交代しながら、馬車は何事もなく赤い沙漠を進んだ。昨日と同様に、昼過ぎに三時間の休憩を取り、代わりに日が暮れた後の三時間を進行に当ててから、調査団は二日目の夜営をした。三つの天幕の割り振りは昨夜と同様だ。
今夜は、ナーヴェは歌うことなく、寝仕度を終えるとすぐに毛布を被ってしまった。軽い口付けだけ交わして、アッズーロはその寝顔を見守る。油皿の灯りで照らした端正で幼げな顔は、僅かだが、やつれたように見える。やはり、一時間ごとの人工衛星への接続が堪えているのかもしれない。
(早く、われらが王城へ戻り、そなたと平穏無事な生活を送りたいものだ……)
形のいい頭の、青い髪をそっと撫でて、アッズーロは妃の傍らに横になり、毛布を被った。
妙な声で目が覚めたのは、まだ暗く、辺りが静まり返っている時だった。
「……ん、……さん、……っているから……」
ナーヴェが何か、呟いている。アッズーロは、頭をもたげて、暗がりの中、妃の顔を窺った。天幕の隙間から淡く差し込む月明かりで僅かに見える。妃は目を閉じたまま、微かに口を動かしている。
(寝言か……?)
しかし、今までアッズーロは、ナーヴェの寝言など聞いたことがない。普段、眠っている間は、ナーヴェはただ静かで、寝息しか立てないのだ。
「……は、……わないよ……。……ッズーロは、……ないよ?」
自分の名前が出てきたので、アッズーロは耳を聳てた。
「……よ。賭けても……。……けるのは、……さんだと……うけれど」
(「賭け」? 一体何を呟いておるのだ……?)
アッズーロの戸惑いを他所に、ナーヴェの呟きは続く。
「……ったよ。……が、……さんの条件……だね……。いいよ。……の函を、賭けるよ」
口元で微かに笑んで、それきりナーヴェは静かになった。しかし、アッズーロは気が気ではない。
(「函」とは、こやつの「思考回路」とやらが入っている「函」か……? それを、「賭ける」だと……? こやつが呟いていた――話していた相手は、シーワン・チー・チュアンか……?)
ナーヴェを起こして問い詰めようかとも思ったが、アッズーロは思い止まった。
(こやつは、もう嘘をつける……。本気で隠したいことは、恐らく、決して明かさんだろう……)
ナーヴェ自身が、「死にはしないと思う」と口にした以上、言を翻すことはしないはずだ。
(こやつは、頑固だからな……)
愛らしい寝顔の頬にそっと触れてから、アッズーロは、妃の傍らへ再び横になった。
(そなたの姉の企てを、そなたの予測通り、われが超えて見せよう)
ナーヴェが、アッズーロの名を出し、最後に微笑んだのは、きっとそういう意味なのだから。
三日目も順調に旅程をこなした一行の前に、その威容が現われたのは、日が沈んで暫く経った頃だった。
月明かりを受けて聳え立つ建物に、ロッソもジェネラーレもエゼルチトも、目を瞠っている。だが、それはアッズーロとムーロにとっては、見慣れたものだった。
「ナーヴェ様の本体――神殿と、そっくりですね……」
ムーロが乾いた声で呟いた。
「同型船だからね。さあ、中に入ろうか」
ナーヴェが微笑んで促し、真っ先に馬車から降りると、沙漠に直立した宇宙船へ向かって歩き始めた。アッズーロ達は、その後へ続いた。ナーヴェの本体に付けてあったような階段がないので、どうするのかとアッズーロが見ていると、扉が開いて白い明かりが辺りを照らし、そこから平たく大きな皿のようなものが降ってきた。地面に激突するかと思いきや、目の前の沙漠に浮いた、その大きな皿状のものに、ナーヴェはひょいと乗った。
「みんな、乗って」
青い髪を揺らして振り向き、ナーヴェが呼ぶ。
「底面の四つの回転翼と周縁の八つの噴射口で、空気を放出して浮く乗り物だよ。これが、入り口まで連れていってくれる」
「こやつのこういう説明の半分は理解不能だが、とりあえず従っておけ。間違ったことは言わん」
アッズーロは、他の面々に声を掛けて、巨大な皿に上がり、妃の隣に立った。次いで、ジェネラーレとロッソが上がってくる。最後にムーロとエゼルチトが、立てた杭に馬達を繋ぎ終えて上がってきた。
全員が乗った途端、皿状の乗り物は、音もなく上昇して、白い明かりが溢れる入り口のところまで来ると、今度は横に動いて中へ入った。その動きに呼応したように、扉が閉まる。内部は、アッズーロにとっては既視感のある不思議な光で満ちていた。高い天井と白い通路にも既視感がある。そこを、大皿は音もなく進んでいく。
「そなたの本体と同じだな」
アッズーロが言うと、ナーヴェは頷いた。
「うん。惑星を見つけて降りたぼく達は、こうして、人々の生活の拠点となれるよう、設計されたんだ。ここから、人々が徐々に惑星への定住を進めていけるようにね。でも、ぼくは人々を大勢死なせる『原罪』を犯したし、姉さんも船長を連れて人々から逃げることになってしまった。ずっとぼく達の中で暮らしてきた人々が、惑星に定住するのは、とても難しいことで、想定外のことが、とても多いんだ……」
沈んだ声で話を締め括った妃の頭を、アッズーロはそっと撫でた。
大きな皿は、次々と開く扉を抜けて、広い空間へアッズーロ達を連れていった。
「ここは集会場だよ。みんなが集まる時に使うんだ」
ナーヴェが解説した。その直後、大皿が停まり、どこからともなく声が響いた。
〈ようこそ、王達とその従者達、そしてナーヴェ・デッラ・スペランツァ〉
ナーヴェとよく似た、高くも低くもない中性的な声だ。
〈本官は、シーワン・チー・チュアン。この船の疑似人格電脳です。あなた方に、わが皇上への拝謁が許可されました〉
「随分と勿体ぶることだ」
アッズーロが皮肉を口にした直後、高い天井から、もう一つの大皿が降りてきた。アッズーロ達が乗る大皿より少し高い位置で停まったその大皿には、豪華絢爛な椅子があり、そこに、一人の子どもが座っていた。椅子よりも派手な、煌びやかな衣装を纏っているが、どう見ても十歳前後だ。
「あれが、船長か?」
小声で問うたアッズーロに、ナーヴェも、その子どもを見上げたまま小声で答えた。
「そのはずだよ。姉さんの思考回路から得た情報にあった姿と一致する」
「そのほうが、ナーヴェ・デッラ・スペランツァか」
子どもが口を開いた。広い空間によく響く声だ。
「成るほど、わが従僕とよう似ておる。しかも、それが生身であるとは興味深い。その体の作り方、最大漏らさず、わが従僕に伝えるがよい」
「うん、勿論、そのつもりでここに来たんだよ。但し、こっちの質問に姉さんがこの場で、ここのみんなにも聞こえるように答えてくれたら、だけれどね」
不敵に笑んだナーヴェに、シーワン・チー・チュアンの声が応じた。
〈いいでしょう。質問を言いなさい〉
「では、まず一つ目」
ナーヴェは、やや低い声で切り出す。
「あの小惑星の軌道を変えて、この惑星に落としたのは、チュアン姉さんかい?」
〈ええ。あなた達に気づかれることなく、この惑星に着地するために、本官が軌道に修正を加えました。まさか、あのような人工衛星があるにも関わらず、あなたが船体を犠牲にしなければ防げないとは予測しなかったので〉
淡々と、「姉」は述べた。ナーヴェの予測と合致する答えだ。
「なら、二つ目」
ナーヴェは質問を続ける。
「姉さん達は、この惑星に来て、どうするつもりだい?」
「支配するに決まっておろう」
不機嫌な声で返答したのは、豪華な椅子に座った子どものほうだった。ナーヴェは小首を傾げた。
「『支配する』とは、具体的にどうするんだい? この惑星には、今のところ、二つの独立国家があるんだけれど、その二つの国を支配するということかい?」
〈その通りです。陛下の支配のなさり方については、これから検討する予定ですが〉
シーワン・チー・チュアンの応答に続き、子どもがまた口を開いた。
「朕は皇帝ぞ? 当然であろうが」
そうして子どもは、しかめた顔でナーヴェを見下ろす。
「しかし、そのほう、些か言葉遣いが奇妙よな。そのほうも従僕であろう。朕に対しては言葉遣いを改めよ」
「何故?」
ナーヴェは微笑んで尋ねる。
「きみは皇帝と名乗っているけれど、ぼくにとってはまだ、姉さんの船長という以外の何者でもないから、別に遜る必要はないだろう?」
「チュアン」
不意に、子どもは虚空に向かって呼び掛けた。その声は不満そうだ。
「そなたの妹は、従僕としての教育を、きちんと受けておらぬようだぞ? しっかりと躾けてやるがよい」
直後、更にもう一つの大皿が天井から降りてきて、アッズーロ達が乗る大皿のすぐ横に並んだ。
「ちょっと行ってくるよ」
ナーヴェが軽く告げて、その大皿へ跳び移る。長く青い髪が靡き、アッズーロが伸ばした手をすり抜けた。
「待て!」
アッズーロが追い掛けて跳び移る前に、ナーヴェを乗せた大皿は急上昇した。振り向いたナーヴェの、一瞬だけ見えた儚げな微笑みが、アッズーロの脳裏に焼き付いた。
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