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第二章 離れて過ごす夜 三
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三
レーニョ達が廊下へ出ると、佇んで待っていたピーシェは、抑揚に乏しい声で言った。
「食堂へ御案内致します。こちらへ」
食堂は、階段を下りた先の一階にあった。ピーシェが開いた扉から、レーニョ達が中へ入ると、広い卓の端で、既にパルーデが待っていた。
「ようこそ、わが晩餐へ、ナーヴェ様」
優雅にお辞儀をしたパルーデもまた、旅の上衣と長衣から、美しい上着と長衣へと着替えていた。
「お招きありがとう、パルーデ」
微笑んで応じた王の宝は、ふと立ち止まって問うた。
「レーニョとポンテは、一緒に食べられないのかな?」
パルーデは当然という様子で頷いた。
「はい。使用人は同席させませぬ。後でピーシェに案内させ、使用人部屋で夕食を取らせますので、御案じ召されずとも。もしや、王城では御一緒にお食事を?」
王の宝は軽く首を横に振った。
「ううん。それはなかった。でも、ここでもそうなんだね」
ピーシェが、手前の席の椅子を引いて王の宝を促した。
「どうぞ」
「ありがとう」
王の宝が席に着いた卓の向かいでは、銀髪の従僕に椅子を引かせて、パルーデも席に着いた。レーニョとポンテは食堂の壁際に立ち、晩餐が始まった。
料理人によって食堂に運ばれてきたのは、さまざまな野菜と肉が煮込まれた汁物だった。そして、瓶から木の杯に注がれた、深紅の飲み物。葡萄酒だ。
「珍しいね。この辺りでは、葡萄はあまり取れないはずだけれど」
博識なところを見せた王の宝に、パルーデは頷いた。
「はい。昨日、王都で買い求めたものですわ」
そうしてパルーデは杯を掲げる。
「オリッゾンテ・ブル王国の弥栄と、素晴らしき夜に」
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の美しさと、素晴らしき夜に」
王の宝も微笑んで杯を掲げた。
晩餐はそのまま和やかに進み、王の宝は、王城での食事と同じように、煮込まれた子羊の肉と野菜の美味しさに舌鼓を打った。パルーデの話に拠れば、その煮込み料理にも、葡萄酒が使われているとのことだった。
(王都の葡萄酒と、羊の乳ではなく肉を用いた料理。大盤振る舞いか)
レーニョは苦々しく胸中で呟いた。
羊は財産だ。乳は日々飲んでも、殺して肉にするのは、祭りなど、特別な時だけだ。王城でも、羊肉は滅多に供されない。
「そう言えば、ギアッチョは、今どこで何をしているんだい?」
やや唐突に、王の宝が問うた。
「父でございますか?」
パルーデは複雑な笑みを浮かべる。
「父ならば、今は王都の館に住んでおりますよ。毎夜、王都の美女と遊んでおるそうです」
「それは、元気そうで、何よりだね」
王の宝もまた、複雑な笑みを浮かべた。
「ナーヴェ様、大丈夫でございますか?」
レーニョは、ナーヴェの部屋に、ともに入り、その整った顔をまじまじと見つめた。晩餐で出た葡萄酒の所為か、王の宝の整った顔や首筋が、ほんのり赤く染まっている。青い双眸もやや潤んで見えて、今までになく艶っぽい。
「すぐにお休み頂きます」
傍らで、ずっと迷惑そうな顔をしていたピーシェが、冷ややかに言う。
「レーニョ殿、ポンテ殿、あなた方はもう出て下さい」
「ぼくは大丈夫だよ」
寝台に腰掛けたナーヴェも微笑む。
「葡萄酒は加減して飲んだし、後は歯を磨いて寝るだけだから」
その一見無防備な笑顔に、レーニョは居た堪れなくなったが、自分にできることはないと既に知らされた後だ。
「……では、下がらせて頂きます。何かあればすぐ、隣の部屋のポンテにお知らせ下さい」
「うん」
素直に頷いた王の宝の前に、レーニョの後ろにいたポンテが、ふと進み出た。
「ナーヴェ様」
ポンテは、寝台前に膝をついて王の宝を見上げ、優しく言う。
「どうか、アッズーロ様のために、あなた様御自身を、大切に扱って下さいませ。どのような利があろうと、決して道具のように扱われませぬよう、伏してお願い申し上げます」
言葉通り床に平伏したポンテの傍らに、王の宝はすとんと座った。ポンテの丸い肩に手を置き、王の宝は優しく言った。
「分かったよ。努力はしてみる。でも、ぼくは人ではないから、心配しないで」
「さあ、もう出て下さい」
ピーシェに急き立てられて、レーニョとポンテは廊下へ出た。
「後は、ナーヴェ様に任せるしかない」
ポンテに言われて、レーニョは項垂れたまま、廊下に座り込んだ。自分には何もできないが、せめてできるだけ近くにいたかった。ポンテは黙って、そんなレーニョの傍らへ腰を下ろしてくれた。
「きみにも、謝らないとね」
ぽつりと言われて、ピーシェは青い髪を櫛梳る手を、一瞬止めた。
「何をでございますか?」
問い返しながら、再び手を動かし始めたピーシェに、椅子に腰掛けた王の宝は静かに告げた。
「ぼくの行動は、恐らくきみの心を傷つける。きみは、パルーデを愛しているから。だから、ごめん」
「あなた様は、本当に人ではないのですね」
ピーシェは溜め息混じりに呟く。
「それは、人でなしの言葉です」
「――そうだね」
王の宝は、寂しげに認めた。
その後、手桶に用意した水と杯と楊枝を使って、王の宝の歯を磨き、口を濯がせ、顔を拭ってから、ピーシェは、ぽつりと言った。
「でも、わたくしも、最初は嫌でございました」
「そうなんだ」
微笑んだ王の宝から上着を脱がせて、椅子の背に掛けると、ピーシェは寝台の足元に畳んであった掛布を手に取った。
「今日は一日ありがとう」
王の宝は礼を述べながら、素直に寝台に戻り、体を横たえる。その体の上に掛布を掛けて、ピーシェは事務的に応じた。
「お手洗いは、衣装箱の向こうの隅にございます。それでは、おやすみなさいませ」
そのまま机まで歩いて油皿の火を消し、ピーシェは王の宝の部屋を辞した。
廊下では、侍従と女官が、壁に凭れて座り込んでいる。その目の前で、ピーシェは帯に吊るした鍵を使って、王の宝の部屋に外から鍵を掛けた。侍従と女官は、驚いた顔をしたが、抗議はしなかった。彼らも、ピーシェ同様、諦めている。覚悟を決めているのだ。
レーニョとポンテは、夕食も食べに行かず、廊下に座り込んでいる。
(随分と心配させてしまっている……)
ナーヴェは反省しながら、暗い天井を見つめた。窓は木の扉で閉じられていて、差し込む月明かりもなく、人の目には、闇が深くて何も見えない。
(城に沐浴場はないけれど、部屋に手洗いはあるんだ……。そこは、王城と同じなんだね)
ナーヴェにとって、それは少しばかり満足のいく事実だった。先々々代の王ザッフィロにしつこく言って、水道と水洗式便所を国中で奨励させた甲斐があったと確認できたのだ。
(ピーシェは鉄製の鍵を持っていたし……、次は、硝子窓作りでも奨励しようかな……)
浅い眠りと目覚めを繰り返しながらナーヴェが待っていると、深夜、床板の一部が動いた。微かに軋む音を響かせ、床板が開いて、揺らめく灯りを持った人影が出てきた。ナーヴェはゆっくりと上体を起こし、その人影を見つめた。それは、予測通り、パルーデだった。
「ピーシェから、あなた様がお待ち下さっていると聞きました」
パルーデは低い声で告げながら、机の上に油皿の灯火を置いて、寝台に歩み寄ってきた。
「そうだね」
答えたナーヴェの頬に、片手を伸ばして触れつつ、パルーデは寝台に腰掛ける。
「ナーヴェ様」
小さく名を呼びながら、パルーデは、ナーヴェの頬から顎へ手を動かした。その手をそっと掴んで、ナーヴェは言った。
「ぼくは、きみと親しくなりたいと思っている。アッズーロもそうだ。でも、実のところ、アッズーロは、この方法を嫌っている。だから、別の方法はないかな?」
パルーデは、きょとんとした顔をした後、くすくすと笑った。
「まあ、それは、予想外のことでございますわねえ」
「きみにとっては、そうだろうね」
認めたナーヴェに、つと体を寄せ、パルーデは囁いた。
「大したことは致しませぬ。ほんの少し、味見させて頂くだけですわ」
「うん。そうだと嬉しい」
応じて、ナーヴェは、パルーデの手をゆっくり離した。
微かな灯りの中、パルーデは満面の笑みを浮かべて、ナーヴェの肩をそっと押す。ナーヴェはされるがまま、再び寝台の上に仰向けに横たわった。覆い被さってきたパルーデは、ナーヴェの首筋を舐めたり、軽く唇で啄んだりし始めた。本当に「味見」するつもりのようだ。多少は酔っているので、葡萄酒の味でもするのだろうか。パルーデの口は少しずつ移動していき、鎖骨へ向かう。同時に、パルーデの手が、ナーヴェの肉体を包む前開きの長衣の胸紐を解き、胸当ての紐を解いていった。やがて顕になった、殆ど膨らみのない両胸に、パルーデの口が移動していく――。
寝つけない夜は、政務をするに限る。
アッズーロは、ガットもフィオーレも下がらせて、夜更けになっても執務机に向かい続けていたが、仕事は捗らなかった。不愉快な想像ばかりが脳裏を巡り、集中できない。
(あれは作り物の肉体だ。あやつは人ではない。あやつ自身が「ある程度のことは問題ない」と言うた。あやつは、王のための、王の宝だ。われの従僕だ)
状況を受け入れようと考えても、思いつくのは醜い言い訳ばかりだった。アッズーロは、パルーデをこちら側に取り込むため、ナーヴェを道具にしたのだ――。
【やあ】
急に声が聞こえて、アッズーロはぎょっとして顔を上げた。執務机の傍らに、ナーヴェが現れていた。
「そなた、何故ここに……」
問う途中で、アッズーロは、相手が実体でないことに気づいた。ナーヴェは今、アッズーロに接続しているのだ。
【今、肉体は眠らせているから大丈夫。首尾を報告に来たよ】
ナーヴェは穏やかに告げた。
「『首尾』……。パルーデとの、か」
どうしても苦々しくなる口調で、アッズーロは確認した。
【うん】
ナーヴェは複雑な笑みを浮かべて頷く。
【パルーデは、ぼくの肉体を甚く気に入ってくれて、草木紙作りが順調な限り、きみに忠誠を誓うと約束したよ】
「そうか。すまなかった」
アッズーロが謝ると、ナーヴェは首を傾げた。
【そこは、「よくやった」が正しいと思うんだけれど? きみらしくないね。これはぼくが進んでしたことだから、きみが謝る必要はないよ】
真面目に指摘されても、アッズーロは言い返す言葉が見つからなかった。アッズーロは椅子に座ったまま、ナーヴェへ手を伸ばした。
【何?】
ナーヴェは不思議そうに、傍に寄ってきた。接続で、ただそう見せられているだけだと理解しつつも、アッズーロはナーヴェの頬へ触れる形で手を動かし、すり抜けてしまった手を引っ込めて、俯いて問うた。
「――パルーデは、優しかったか?」
【そうだね。そうだと思う】
ナーヴェは、珍しく迷ったように言う。接続の所為か、そちらを見ていなくとも、その様子が分かってしまう。
【でも、肉体としては、予測を超える刺激が多かったよ。それなのに、約束を取り付けた後は、足の先まで「味見」されながら、ぼくは何故か、パルーデのことより、きみのことばかり思考回路に巡らせていた。妙なものだね】
「――馬鹿者」
アッズーロは、そう応じるだけで精一杯だった。馬鹿な質問をしたのは、自分だ。
【そうだね……】
ナーヴェは寂しげに呟いて、姿を消した。
床が軋む音、低い話し声。そして寝台が軋む音。再び低い話し声。やがて漏れてきた、微かな喘ぎ。それは長く続き、その間中、レーニョは居た堪れない思いで膝を抱えていた。ポンテもまた、ただ黙って、レーニョの肩に手を置いてくれていた。
パルーデがナーヴェの部屋を去ったのは、一時間ほども過ごした後だった。
――「ナーヴェ様、御無事でございますか……?」
レーニョはすぐに立ち上がり、扉越しに問うたが、返事はなかった。ポンテも立ち上がり、レーニョに向かって首を横に振って見せた。そうして、ポンテは割り当てられた自室へ入っていく。レーニョは、もう一度扉の奥の気配に耳を澄ませ、物音がしないことを確認してから、ポンテに倣って割り当てられた自室に入った。
(扉越しでも、中の音がよく聞こえた。つまり、ナーヴェ様がパルーデについて話していたことを、あのピーシェも廊下で全て聞いていたことになる)
寝台に座り込みながら、レーニョは寝つけない頭で考える。あの時、ナーヴェは声を低めたりせず、普通に話していたので、一言一句聞き取れたはずだ。
(ピーシェはパルーデに、ナーヴェ様と陛下がテッラ・ロッサとの繋がりについて気づいている旨を報告しただろう。パルーデは、ナーヴェ様の意図を知った上で、訪れたはずだ。そして、ナーヴェ様は小声で、パルーデに何か話していた。パルーデは「約束致しましょう」と答えていた――)
全ては意図的だった。無駄なく布石だったのだ。自分など及びもつかない深謀遠慮だ。
(明日からは、これまで以上に全力でお仕えさせて頂きます)
決意を胸に、レーニョは横になった。
レーニョ達が廊下へ出ると、佇んで待っていたピーシェは、抑揚に乏しい声で言った。
「食堂へ御案内致します。こちらへ」
食堂は、階段を下りた先の一階にあった。ピーシェが開いた扉から、レーニョ達が中へ入ると、広い卓の端で、既にパルーデが待っていた。
「ようこそ、わが晩餐へ、ナーヴェ様」
優雅にお辞儀をしたパルーデもまた、旅の上衣と長衣から、美しい上着と長衣へと着替えていた。
「お招きありがとう、パルーデ」
微笑んで応じた王の宝は、ふと立ち止まって問うた。
「レーニョとポンテは、一緒に食べられないのかな?」
パルーデは当然という様子で頷いた。
「はい。使用人は同席させませぬ。後でピーシェに案内させ、使用人部屋で夕食を取らせますので、御案じ召されずとも。もしや、王城では御一緒にお食事を?」
王の宝は軽く首を横に振った。
「ううん。それはなかった。でも、ここでもそうなんだね」
ピーシェが、手前の席の椅子を引いて王の宝を促した。
「どうぞ」
「ありがとう」
王の宝が席に着いた卓の向かいでは、銀髪の従僕に椅子を引かせて、パルーデも席に着いた。レーニョとポンテは食堂の壁際に立ち、晩餐が始まった。
料理人によって食堂に運ばれてきたのは、さまざまな野菜と肉が煮込まれた汁物だった。そして、瓶から木の杯に注がれた、深紅の飲み物。葡萄酒だ。
「珍しいね。この辺りでは、葡萄はあまり取れないはずだけれど」
博識なところを見せた王の宝に、パルーデは頷いた。
「はい。昨日、王都で買い求めたものですわ」
そうしてパルーデは杯を掲げる。
「オリッゾンテ・ブル王国の弥栄と、素晴らしき夜に」
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の美しさと、素晴らしき夜に」
王の宝も微笑んで杯を掲げた。
晩餐はそのまま和やかに進み、王の宝は、王城での食事と同じように、煮込まれた子羊の肉と野菜の美味しさに舌鼓を打った。パルーデの話に拠れば、その煮込み料理にも、葡萄酒が使われているとのことだった。
(王都の葡萄酒と、羊の乳ではなく肉を用いた料理。大盤振る舞いか)
レーニョは苦々しく胸中で呟いた。
羊は財産だ。乳は日々飲んでも、殺して肉にするのは、祭りなど、特別な時だけだ。王城でも、羊肉は滅多に供されない。
「そう言えば、ギアッチョは、今どこで何をしているんだい?」
やや唐突に、王の宝が問うた。
「父でございますか?」
パルーデは複雑な笑みを浮かべる。
「父ならば、今は王都の館に住んでおりますよ。毎夜、王都の美女と遊んでおるそうです」
「それは、元気そうで、何よりだね」
王の宝もまた、複雑な笑みを浮かべた。
「ナーヴェ様、大丈夫でございますか?」
レーニョは、ナーヴェの部屋に、ともに入り、その整った顔をまじまじと見つめた。晩餐で出た葡萄酒の所為か、王の宝の整った顔や首筋が、ほんのり赤く染まっている。青い双眸もやや潤んで見えて、今までになく艶っぽい。
「すぐにお休み頂きます」
傍らで、ずっと迷惑そうな顔をしていたピーシェが、冷ややかに言う。
「レーニョ殿、ポンテ殿、あなた方はもう出て下さい」
「ぼくは大丈夫だよ」
寝台に腰掛けたナーヴェも微笑む。
「葡萄酒は加減して飲んだし、後は歯を磨いて寝るだけだから」
その一見無防備な笑顔に、レーニョは居た堪れなくなったが、自分にできることはないと既に知らされた後だ。
「……では、下がらせて頂きます。何かあればすぐ、隣の部屋のポンテにお知らせ下さい」
「うん」
素直に頷いた王の宝の前に、レーニョの後ろにいたポンテが、ふと進み出た。
「ナーヴェ様」
ポンテは、寝台前に膝をついて王の宝を見上げ、優しく言う。
「どうか、アッズーロ様のために、あなた様御自身を、大切に扱って下さいませ。どのような利があろうと、決して道具のように扱われませぬよう、伏してお願い申し上げます」
言葉通り床に平伏したポンテの傍らに、王の宝はすとんと座った。ポンテの丸い肩に手を置き、王の宝は優しく言った。
「分かったよ。努力はしてみる。でも、ぼくは人ではないから、心配しないで」
「さあ、もう出て下さい」
ピーシェに急き立てられて、レーニョとポンテは廊下へ出た。
「後は、ナーヴェ様に任せるしかない」
ポンテに言われて、レーニョは項垂れたまま、廊下に座り込んだ。自分には何もできないが、せめてできるだけ近くにいたかった。ポンテは黙って、そんなレーニョの傍らへ腰を下ろしてくれた。
「きみにも、謝らないとね」
ぽつりと言われて、ピーシェは青い髪を櫛梳る手を、一瞬止めた。
「何をでございますか?」
問い返しながら、再び手を動かし始めたピーシェに、椅子に腰掛けた王の宝は静かに告げた。
「ぼくの行動は、恐らくきみの心を傷つける。きみは、パルーデを愛しているから。だから、ごめん」
「あなた様は、本当に人ではないのですね」
ピーシェは溜め息混じりに呟く。
「それは、人でなしの言葉です」
「――そうだね」
王の宝は、寂しげに認めた。
その後、手桶に用意した水と杯と楊枝を使って、王の宝の歯を磨き、口を濯がせ、顔を拭ってから、ピーシェは、ぽつりと言った。
「でも、わたくしも、最初は嫌でございました」
「そうなんだ」
微笑んだ王の宝から上着を脱がせて、椅子の背に掛けると、ピーシェは寝台の足元に畳んであった掛布を手に取った。
「今日は一日ありがとう」
王の宝は礼を述べながら、素直に寝台に戻り、体を横たえる。その体の上に掛布を掛けて、ピーシェは事務的に応じた。
「お手洗いは、衣装箱の向こうの隅にございます。それでは、おやすみなさいませ」
そのまま机まで歩いて油皿の火を消し、ピーシェは王の宝の部屋を辞した。
廊下では、侍従と女官が、壁に凭れて座り込んでいる。その目の前で、ピーシェは帯に吊るした鍵を使って、王の宝の部屋に外から鍵を掛けた。侍従と女官は、驚いた顔をしたが、抗議はしなかった。彼らも、ピーシェ同様、諦めている。覚悟を決めているのだ。
レーニョとポンテは、夕食も食べに行かず、廊下に座り込んでいる。
(随分と心配させてしまっている……)
ナーヴェは反省しながら、暗い天井を見つめた。窓は木の扉で閉じられていて、差し込む月明かりもなく、人の目には、闇が深くて何も見えない。
(城に沐浴場はないけれど、部屋に手洗いはあるんだ……。そこは、王城と同じなんだね)
ナーヴェにとって、それは少しばかり満足のいく事実だった。先々々代の王ザッフィロにしつこく言って、水道と水洗式便所を国中で奨励させた甲斐があったと確認できたのだ。
(ピーシェは鉄製の鍵を持っていたし……、次は、硝子窓作りでも奨励しようかな……)
浅い眠りと目覚めを繰り返しながらナーヴェが待っていると、深夜、床板の一部が動いた。微かに軋む音を響かせ、床板が開いて、揺らめく灯りを持った人影が出てきた。ナーヴェはゆっくりと上体を起こし、その人影を見つめた。それは、予測通り、パルーデだった。
「ピーシェから、あなた様がお待ち下さっていると聞きました」
パルーデは低い声で告げながら、机の上に油皿の灯火を置いて、寝台に歩み寄ってきた。
「そうだね」
答えたナーヴェの頬に、片手を伸ばして触れつつ、パルーデは寝台に腰掛ける。
「ナーヴェ様」
小さく名を呼びながら、パルーデは、ナーヴェの頬から顎へ手を動かした。その手をそっと掴んで、ナーヴェは言った。
「ぼくは、きみと親しくなりたいと思っている。アッズーロもそうだ。でも、実のところ、アッズーロは、この方法を嫌っている。だから、別の方法はないかな?」
パルーデは、きょとんとした顔をした後、くすくすと笑った。
「まあ、それは、予想外のことでございますわねえ」
「きみにとっては、そうだろうね」
認めたナーヴェに、つと体を寄せ、パルーデは囁いた。
「大したことは致しませぬ。ほんの少し、味見させて頂くだけですわ」
「うん。そうだと嬉しい」
応じて、ナーヴェは、パルーデの手をゆっくり離した。
微かな灯りの中、パルーデは満面の笑みを浮かべて、ナーヴェの肩をそっと押す。ナーヴェはされるがまま、再び寝台の上に仰向けに横たわった。覆い被さってきたパルーデは、ナーヴェの首筋を舐めたり、軽く唇で啄んだりし始めた。本当に「味見」するつもりのようだ。多少は酔っているので、葡萄酒の味でもするのだろうか。パルーデの口は少しずつ移動していき、鎖骨へ向かう。同時に、パルーデの手が、ナーヴェの肉体を包む前開きの長衣の胸紐を解き、胸当ての紐を解いていった。やがて顕になった、殆ど膨らみのない両胸に、パルーデの口が移動していく――。
寝つけない夜は、政務をするに限る。
アッズーロは、ガットもフィオーレも下がらせて、夜更けになっても執務机に向かい続けていたが、仕事は捗らなかった。不愉快な想像ばかりが脳裏を巡り、集中できない。
(あれは作り物の肉体だ。あやつは人ではない。あやつ自身が「ある程度のことは問題ない」と言うた。あやつは、王のための、王の宝だ。われの従僕だ)
状況を受け入れようと考えても、思いつくのは醜い言い訳ばかりだった。アッズーロは、パルーデをこちら側に取り込むため、ナーヴェを道具にしたのだ――。
【やあ】
急に声が聞こえて、アッズーロはぎょっとして顔を上げた。執務机の傍らに、ナーヴェが現れていた。
「そなた、何故ここに……」
問う途中で、アッズーロは、相手が実体でないことに気づいた。ナーヴェは今、アッズーロに接続しているのだ。
【今、肉体は眠らせているから大丈夫。首尾を報告に来たよ】
ナーヴェは穏やかに告げた。
「『首尾』……。パルーデとの、か」
どうしても苦々しくなる口調で、アッズーロは確認した。
【うん】
ナーヴェは複雑な笑みを浮かべて頷く。
【パルーデは、ぼくの肉体を甚く気に入ってくれて、草木紙作りが順調な限り、きみに忠誠を誓うと約束したよ】
「そうか。すまなかった」
アッズーロが謝ると、ナーヴェは首を傾げた。
【そこは、「よくやった」が正しいと思うんだけれど? きみらしくないね。これはぼくが進んでしたことだから、きみが謝る必要はないよ】
真面目に指摘されても、アッズーロは言い返す言葉が見つからなかった。アッズーロは椅子に座ったまま、ナーヴェへ手を伸ばした。
【何?】
ナーヴェは不思議そうに、傍に寄ってきた。接続で、ただそう見せられているだけだと理解しつつも、アッズーロはナーヴェの頬へ触れる形で手を動かし、すり抜けてしまった手を引っ込めて、俯いて問うた。
「――パルーデは、優しかったか?」
【そうだね。そうだと思う】
ナーヴェは、珍しく迷ったように言う。接続の所為か、そちらを見ていなくとも、その様子が分かってしまう。
【でも、肉体としては、予測を超える刺激が多かったよ。それなのに、約束を取り付けた後は、足の先まで「味見」されながら、ぼくは何故か、パルーデのことより、きみのことばかり思考回路に巡らせていた。妙なものだね】
「――馬鹿者」
アッズーロは、そう応じるだけで精一杯だった。馬鹿な質問をしたのは、自分だ。
【そうだね……】
ナーヴェは寂しげに呟いて、姿を消した。
床が軋む音、低い話し声。そして寝台が軋む音。再び低い話し声。やがて漏れてきた、微かな喘ぎ。それは長く続き、その間中、レーニョは居た堪れない思いで膝を抱えていた。ポンテもまた、ただ黙って、レーニョの肩に手を置いてくれていた。
パルーデがナーヴェの部屋を去ったのは、一時間ほども過ごした後だった。
――「ナーヴェ様、御無事でございますか……?」
レーニョはすぐに立ち上がり、扉越しに問うたが、返事はなかった。ポンテも立ち上がり、レーニョに向かって首を横に振って見せた。そうして、ポンテは割り当てられた自室へ入っていく。レーニョは、もう一度扉の奥の気配に耳を澄ませ、物音がしないことを確認してから、ポンテに倣って割り当てられた自室に入った。
(扉越しでも、中の音がよく聞こえた。つまり、ナーヴェ様がパルーデについて話していたことを、あのピーシェも廊下で全て聞いていたことになる)
寝台に座り込みながら、レーニョは寝つけない頭で考える。あの時、ナーヴェは声を低めたりせず、普通に話していたので、一言一句聞き取れたはずだ。
(ピーシェはパルーデに、ナーヴェ様と陛下がテッラ・ロッサとの繋がりについて気づいている旨を報告しただろう。パルーデは、ナーヴェ様の意図を知った上で、訪れたはずだ。そして、ナーヴェ様は小声で、パルーデに何か話していた。パルーデは「約束致しましょう」と答えていた――)
全ては意図的だった。無駄なく布石だったのだ。自分など及びもつかない深謀遠慮だ。
(明日からは、これまで以上に全力でお仕えさせて頂きます)
決意を胸に、レーニョは横になった。
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小説家になろう様にも掲載中です
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