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天慶陰陽物語 第一 陰陽師保憲、常陸国より文遣せたる語
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陰陽師(おんようし)保憲(やすのり)、常陸国(ひたちのくに)より文(ふみ)遺(おこ)せたる語(ものがたり)
一
保憲は意外に筆まめなのだと晴明(はれあきら)が悟るのに、時は掛からなかった。昨年の承平七年に、保憲が従八位下(じゅはちいのげ)陰陽師となり、常陸国の国府(こくふ)に赴任してから一年近く。保憲の文は、五日と空けず白君が届けてくる。人が届けるより随分速く、こちらからの返事(かえりごと)も白君のお陰で速く届くので、筆まめになるのかもしれない。
保憲は、いつも、父の忠行宛、姉のひぐらし宛、そして晴明宛に、それぞれ別に文をしたためて送ってくる。それが、妹のすがるには不満らしい。時々は、すがると弟の蛍宛の文があることもあるが、いつもではないので、怒るのだ。
――「仕方ないだろう。あいつは仕事で行ってるんだ。そう暇がある訳じゃない」
晴明が窘めると、すがるは十七歳とは思えない幼さで、頬を膨らませ、反論した。
――「でも、晴明にはいつも届くじゃない。お父様とお姉様にも。どうしてよ?」
――「忠行様には仕事の報告だ。ひぐらしは、心配性だからだろう」
――「あら、晴明は?」
鼻息も荒く問い詰めてきたすがるから、少し目を逸らしつつ晴明は答えた。
――「おれは、一人前の官人になるために、歌を作る練習をさせられてるんだ」
それは事実だったが、言い訳でもあった。もし、保憲が晴明宛に文を寄越さなくなれば、きっと自分はすがると同じように、年甲斐もなく怒ったりすねたりするだろう。三年前の承平五年に元服を済ませ、晴明という名を貰い、陰陽寮の天文生(てんもんしょう)にもなった十八歳の自分も、保憲に関することではいつまで経っても子どもだ。同輩で三歳年上の天文生、平野茂樹(ひらののしげき)が聞いたら鼻で笑うだろう――。
「どうした?」
目の前に立った白君が、不満そうに言う。
「さっさと開けて返事を書け」
「ああ」
年明け初めての保憲からの文。受け取って、一瞬、物思いに耽ってしまった。
「わたしはできるだけ早く夏虫のところへ戻りたい」
白君に重ねて言われて、晴明は微かに眉根を寄せる。
(おれも、保憲の許へ今すぐにでも行きたい)
しかし、それはできない。心の叫びを奥歯を噛み締めてやり過ごし、晴明は黙って動いた。東廂から遣戸を開けて己の曹司へ入り、保憲の文を丁寧に開く。保憲には、部屋を自由に使っていいと言われているが、晴明は律義に自分の曹司だけを使い続けている。
文には、いつも通り、歌が一首したためてあった。
天(あま)の門(と)を渡(わた)る月日(つきひ)を見(み)るごとに重(かさ)ねて君(きみ)を思(おも)ふころかな
〔天空を渡っていく月や太陽を見るたびに――月日を重ねる中、繰り返しおまえを思っているこの頃だよ〕
「馬鹿……」
晴明は、思わず口の中で呟いてしまった。保憲が、夜も昼も、軒近くでふと空を見上げては、晴明に思いを馳せる姿が目に浮かぶ。こんな歌を送られては、すぐにも会いに行きたくなってしまう。けれど、忠行と保憲の口添えで天文生になった身だ。簡単に投げ出す訳にはいかない。晴明は溜め息をついて、返歌を考え始めた。
保憲が、天を行く月日を見て晴明を思い浮かべ、暦の月日をも匂わすのは、晴明という名を、保憲がそう考えて付けたからだ。
――「天文の月日と暦の月日。二つの月日の主という意味で、晴明だ」
三年前、晴明の元服の日の夜に、保憲は満足げに告げた。晴明という名は、昼の初冠の場で忠行から与えられたが、実際のところ保憲が考えてくれたことは明白だった。
――「それに」
保憲は、優しい顔になって付け加えた。
――「おまえには、できるだけ明るい名がいいと思ったんだ。おまえには、できるだけ、明るい道を歩いてってほしい」
それは、晴明が、保憲に対して思っていることと同じだった。
(おれも、おまえに、できるだけ明るい道を歩いてってほしい)
保憲と離れて一年近く。最後に別れた時の保憲の姿は、瞼の裏に焼きついて、今も鮮明だ。
――「次に会う時は、もう背を抜かれてるかもしれないな」
邸の南門の前で、複雑そうに、少し寂しげに言って、保憲は晴明から離れ、東へ向けて歩き始めた。それから、ふと振り返り、悪戯っぽく念押しした。
――「歌を書いて文を出すから、必ず返歌を寄越せよ。歌の練習だ」
保憲が常陸国へ行かされた理由は、平将門(たいらのまさかど)という男だった。十年ほど前までは、この都で藤原忠平に仕えていたらしいが、故郷の下総国(しもうさのくに)へ帰ってからは、隣国常陸国との国境周辺で親類縁者と合戦を繰り返し、死者も相当出ているということだった。
(平将門は、間違いなく、あの鬼の言ってた「平らげ、まさに帝たらんとする者」だ)
五年前、秦河勝という鬼が告げたことが、現となりつつある。
一昨年の承平六年十月、平将門は、一度この京の都へ来た。繰り返す合戦について申し開きさせるために、太政官符(だいじょうかんぷ)が出され、召喚されたのだ。十月十七日に検非違使庁(けびいしちょう)に出頭した平将門は、翌年正月四日の今上の元服に伴う、七日の大赦令(たいしゃれい)によって、他の罪人達とともに赦された。元の主君で、既に従一位(じゅいちい)太政大臣(だいじょうだいじん)となっている藤原忠平の力が働いたのだという、専らの噂だ。
――「平将門が、『平らげ、まさに帝たらんとする者』である可能性は高い。危険だな」
平将門が赦されたことを知った保憲は、深刻な顔で呟いていた。
その後、五月に下総国へ戻った平将門だったが、その危険性を、藤原忠平も多少は感じていたのかもしれない。将門(まさかど)の帰国に先立つ二月に、保憲は、赴任先として常陸国を告げられた。陰陽得業生を卒業し、陰陽師となった矢先のことだった。
(おまえには、安全なところにいてほしいのに)
その願いは、いつも半ば叶わない。
赴任の準備をする中で、保憲はそっと晴明に告げた。
――「これはまだ推測の域を出ない話だが、平将門の配下には、見鬼の力のある者がいるらしい。合戦で、将門はよく『順風』に恵まれて勝つそうだ」
――「おれも一緒に行ったら駄目か?」
例によって尋ねた晴明に、保憲は複雑な表情で応じた。
――「今はまだ、天文生として出仕しててほしい。ただ、おれだけで危うくなったら、父上に頼んで、おまえを寄越して貰うようにする。最後に頼れるのは、おまえだから」
(保憲……)
晴明は文机の上に、保憲から借りている筆と硯を置き、白君が気を利かせて持ってきた半挿(はんぞう)から水を貰って、墨を磨りながら返歌を考える。歌は苦手だ。けれど、保憲の思いには応えたい。一刻ほども考えてから、晴明は漸く筆を走らせた。
手(て)もふれで月日(つきひ)重(かさ)ねし君(きみ)が床(とこ)なつかしき香(か)で我(われ)をなぐさむ
〔手も触れないで月日を重ねたあなたの寝床は、慕わしい匂いでわたしを宥めてくれます〕
随分と、直接的過ぎる表現だろうか。床は「止處(とこ)」で、その主の魂の宿るところという俗信がある。即ち、その主が旅に出ても、魂は床に宿っているので、その床を移動させたり、敷き替えたりすると、魂が散ってしまうというのだ。天文生たる晴明は、そんな俗信を信じてはいないが、大切な人の安全については、あらゆるものに縋りたいものだ。何より、保憲の床をそのように保っているひぐらしの心情を思えば、手出しすることではない。そうして、保憲の寝床は、莚も衾も枕も、全てそのまま置いてあるのだ。基本的には締め切ってある保憲の部屋の母屋に時折入ると、その床から、保憲の懐かしい匂いがして、晴明の尖った神経を宥めてくれるのは事実だった――。
「まるで、恋人だな」
白君が、ぼそりと言った。やはり露骨過ぎたのだ。
「そんなんじゃない。書き直す」
書いた文を反故(ほぐ)にしようとした晴明に、白君は半挿を脇に置いて手を差し出した。
「時が掛かり過ぎる。それでいいから渡せ」
強い口調で言われた晴明は、渋々折り畳んだ文を渡そうとして、ふと手を止め、立ち上がった。怪訝そうな顔をする白君の横を擦り抜け、遣戸を開けて東廂へ出る。そこから歩いて、晴明は東南の妻戸から簀子へ行った。夕暮れの庭には、既に蕾を付けた梅の木がある。尻切を履いて庭に下りた晴明は、綻びかけた蕾がついた梅の小枝を手折り、それに己の文を結びつけて、ついて来た白君に渡した。
「柄にもなく、雅なことをする」
白君は薄く笑って文を受け取ると、ひぐらしの部屋のほうへ、ふわりと飛んでいった。返事を受け取りに行ったのだ。その後、忠行の返事も受け取って、常陸国へ戻るのだろう。
「『柄にもなく』か……」
晴明は自嘲気味に呟くと、尻切を脱いで簀子に上がり、座った。春とはいえ、正月の風はまだまだ冷たい。保憲が赴いた常陸国は、この都よりも少しは南だという。
(寒がりのおまえが、少しでも過ごし易ければいいんだが……)
国府に赴任した者の任期は、基本的に四年という。後三年、自分は大人しく待っていられるだろうか。或いは――。
(何か起こって、おまえがおれを呼んでくれたら――)
つい思ってしまって、晴明は首を左右に振った。何かあってはならない。保憲が危険に晒されることになる。そんなことを期待してはいけない。晴明は溜め息をついて簀子の上に立ち上がり、己の曹司に戻った。
二
保憲からの文は不穏な内容だった。
(年明け早々、血生臭いことよ……)
昨日の正月三日に、丈部子春丸(はせつかべのこはるまろ)という駆使(くし)、即ち下働きを、将門が殺したと記されている。将門は、長年、叔父の平良兼(たいらのよしかね)と争っているが、丈部子春丸は、その良兼(よしかね)に内通していたとのことだった。良兼は、去る十二月十四日に、八十騎ばかりの軍勢を率いて将門の本拠地たる下総国は猿島郡(さしまのこおり)の石井営所(いわいのえいしょ)を襲い、逆に将門の奮闘によって撃退されているが、それは、子春丸(こはるまろ)がもたらした石井営所の内部情報に基づく襲撃だったと、保憲は報告していた。
(坂東の混沌は、深まるばかりか……)
忠行は、娘の詳細な報告に重い心を擁きながら、返事を書く。坂東とは、即ち安房国(あわのくに)、上総国(かづさのくに)、下総国、常陸国、相模国(さがみのくに)、武蔵国(むさしのくに)、上野国(こうづけのくに)、下野国(しもつけのくに)の八国である。忠行も二十七年前から二十三年前まで、保憲と同じく常陸国に陰陽師として赴任していたので、坂東にはある程度詳しい。
(因縁かもしれんな……)
忠行が常陸国府(ひたちのこくふ)へ赴任していた時、常陸介(ひたちのすけ)であったのが、晴明の父、安倍益材だった。その縁で、晴明は賀茂家の家人となり、元服した今は、忠行の片腕となっている。晴明の母は、葛葉と呼ばれる、人にあらざるモノだ。安倍益材が常陸介であった時にあちらで出会い、都へついて来たのだと、後から聞いた。
坂東とは、そういうところだ。人にあらざるモノが、平然と跋扈している。京の都では闇に紛れているモノが、昼間からその辺りにいて、人とともに暮らしている。
(平将門は、今のところ、朝廷の追捕官符(ついぶかんぷ)に忠実に従っているだけだが、そこに便乗している有象無象がいる)
昨年の承平七年十一月五日、朝廷は、平良兼、源護(みなもとのまもる)、平貞盛(たいらのさだもり)、平致兼(たいらのむねかね)、平致時(たいらのむねとき)らに対する追捕官符を、将門に下した。平良兼は将門の父の弟、源護は娘をその良兼に嫁がせた義理の父。平貞盛は将門の父の兄の子である。致兼(むねかね)、致時(むねとき)は良兼の息子達だ。将門は、追捕官符が下される前から、これら親類縁者と合戦を繰り返しているのだが、大義名分を得た形だった。
(ややこしい者達を、相争わせておけという朝廷の工作が、裏目に出なければよいのだが……)
「平らげ、まさに帝たらんとする者」という不吉な言葉が、不安を煽る。五年前、陰陽得業生だった保憲と、同輩の弓削時人及び笠名嗣が遭遇した鬼が予言したという存在。その報告を聞いた時は、とりあえず保留とした情報だったが、平将門の名が坂東から響いてくるようになってからは、俄かに信憑性の高い予言となった。追捕官符を下されてから、平将門の、坂東における権威は確立しつつある。それが、「平らげ、まさに帝たらんとする」行動に繋がった時、朝廷は漸く、その恐ろしさに気づくのだろう。
(今中務卿(いまなかつかさきょう)の宮様には、陰陽頭様から、その辺りの懸念も伝えて頂いているはず。此度の保憲の報告も上げて頂こう。何としても、朝廷には、より賢明な対処をして頂かねば、保憲の身も危険だ)
先中務卿(さきのなかつかさきょう)代明親王は、昨年三月二十九日に亡くなり、その後、異母弟の重明親王(しげあきらしんのう)が中務卿となっていて、今中務卿の宮と呼ばれている。学識豊かで、事務能力が高く、判断力にも優れ、楽才もあるという、なかなかに頼もしい三十三歳の親王だ。四位に相当する皇族の位、四品(しほん)に叙せられており、三品(さんぽん)であった代明親王とともに先帝の信頼も厚かった。
「忠行様」
密やかな白君の声がした。保憲宛の文を受け取りに来たのだ。
「暫し待て」
命じて、忠行は筆を進めた。将門が「平らげ、まさに帝たらんとする」兆候を、見逃さず報告するよう念押し、身の安全には充分に気をつけるよう結んで、文を折り畳む。傍らまで来た白君に文を渡すと、ふと梅の香がした。見れば、白君の懐から、梅の小枝に結びつけられた文が覗いている。
「ひぐらしの文か?」
問うと、式神は無表情に答えた。
「晴明の文です。ひぐらしの文には生薑(せいきょう)と艾葉が包んであります」
生薑とは椒(はじかみ)とも呼ばれる生姜(しょうが)、艾葉とは干した蓬で、どちらも生薬だ。
「そうか」
忠行は、急に、何も付けていない己の文が後ろめたくなったが、白君を無駄に待たせる訳にもいかない。
(次は、何か用意しておこう)
胸中で呟くに留めて、忠行はそのまま白君を見送った。
◇
寝殿から出てきた白君が、ふわりと空に舞い上がり、東へと飛んでいく。わざわざ、力の弱いひぐらしが見える程度に姿を現してくれているのは、白君なりの心遣いだろう。見送って、部屋の母屋に戻ったひぐらしは、円座に座り、溜め息をついた。白君が語ってくれた坂東の情勢は、予断を許さないものだった。
(保憲は――夏虫は、自ら火に飛び込んでしまった。どうか、あの子が無事帰ってきますように……)
ひぐらしには、毎日祈り、役に立ちそうな生薬を送り続けることしかできない。
(「平らげ、まさに帝たらんとする者」……。平将門は、本当に、そんなふうになっていくのかしら……)
坂東の、続く合戦の始まりは、平将門と、その叔父、平良兼との女論であったという。将門は良兼の娘を妻としている。どうやら、その嫁入りの経緯の中で、争いが生じたらしい。結果、将門は良兼と不仲になった。承平元年のことだ。その後、承平五年二月二日に、将門は源護の息子三人と合戦し、全員を死なせ、更には貞盛の父であり、常陸大掾(ひたちのだいじょう)であった平国香(たいらのくにか)まで死なせている。発端は、源護の三人の息子が、下総国は豊田郡(とよだのこおり)の鎌輪営所(かまわのえいしょ)を出た少数の将門勢を、待ち伏せして襲ったからだった。が、将門勢は自分達より多い彼らを「順風」を得て返り討ちにし、その勢いで、伯父の国香(くにか)が住む常陸国は石田営所(いしだのえいしょ)を攻めたのだ。国香もまた源護の娘を妻としており、敵方だという認識があったのだろう。将門はそのまま、二月四日には、石田営所を始めとして、いずれも敵方の、野本営所(のもとのえいしょ)、大串営所(おおぐしのえいしょ)、取木営所(とりきのえいしょ)を焼き払い、常陸国の筑波郡(つくばのこおり)、真壁郡(まかべのこおり)、新治郡(にいはりのこおり)にある源護の伴類(ばんるい)――配下の家々に火を放った。焼死者も出たという。将門は更に同じ年の十月二十一日、父のもう一人の弟である平良正(たいらのよしまさ)と、常陸国新治郡の川曲村(かわわむら)で合戦した。良正(よしまさ)もまた、源護の娘を妻としており、甥の将門よりも、義理の父の訴えを聞き入れたのである。戦いを得意とする将門は相手方を圧倒して敗走させたが、良正は恨みを忘れず、兄の良兼に合力を依頼した。それまで、良兼は、上総国に住んでいたこともあって、将門と正面切って合戦するつもりはなかったようだが、良正の頼みを聞き入れる形で、承平六年六月二十六日、常陸国に向けて出兵し、水守営所(みもりのえいしょ)に到着した。そこで良正と合流した良兼は、更に貞盛を味方に引き入れるべく説得した。貞盛は乗り気ではなかったが、二人の叔父には逆らえなかった。三人は、軍勢を率いて下野国へ向かった。これに対し、将門は慌てて百騎ばかりの騎兵を連れて下野国へ向かった。良兼勢は、垣根のように盾を並べて待ち構えていたが、将門は歩兵を先行させて合戦させ、八十人ほどを射取ったという。良兼勢は恐れて逃げ出し、将門は追いかけて下野国府に追い詰めた。しかし将門は、敢えて国庁(こくちょう)を囲んでいた西の陣を解き、良兼勢を逃がした。その上で、将門は、合戦が良兼から仕掛けられたことを下野国司(しもつけのこくし)に文書で証明させてから、本拠地たる石井営所へ帰った。良兼は下総介(しもうさのすけ)であるので、将門も気を遣ったのだ。そうこうしている内に、将門と平真樹(たいらのまさき)を検非違使庁に召喚する太政官符がもたらされた。平真樹は、将門に合力して国香と合戦した土着の人物らしい。その後、大赦令で下総国へ帰った将門に、承平七年八月七日、待ち構えていた良兼が再び合戦を挑んだ。良兼勢は故上総介(かづさのすけ)高望王(たかもちおう)と故陸奥将軍(むつしょうぐん)良将(よしもち)の画像を陣頭に掲げた。高望王は、将門の祖父であり、桓武天皇の曾孫に当たる人だ。そして良将は、将門の父である。将門は、二人の画像に向かって戦うことができず、退散した。その屈辱を晴らすべく、いつもの二倍の兵を揃え、八月十七日、将門は良兼を待ち構えたが、「脚病」に罹り、自由が利かなくなった。途端に将門の伴類は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、良兼は豊田郡を焼き巡った。取り入れ間近の農作物や人馬に大きな被害が出たという。劣勢の将門は妻子達を猿島郡の葦津江(あしづのえ)の畔(ほとり)に船に乗せて隠し、自分は山を背に隠れた。二つある本拠地の内、豊田郡が壊滅的打撃を被ったので、もう一つの本拠地たる猿島郡に落ち延びたのだ。良兼勢は、翌日十八日、将門に見せつけるように、猿島郡の道を凱旋して上総国へ帰っていった。将門の妻子達は、危機を脱したと判断して、岸に船を寄せた。ところが、良兼側と内通していた人間の手引きで妻子達は捕まり、ただ一人の妻を除いて皆、打ち首にされた。ただ一人残された妻は、良兼の娘であり、二十日に良兼が住む上総国へ護送されてしまった。将門は怒りに燃えた。良兼の娘は将門に会いたがり、その兄弟達――即ち良兼の息子の致兼、致時が、密かに彼女を豊田郡の将門の許に送り届けたという。身内同士の争いというものはややこしい。しかし、妻が一人戻ってきても、将門は他の妻子達を殺された怒りを忘れなかった。良兼が源護を頼って常陸国に来たと聞きつけると、千八百人ほどの兵を動かして、九月十九日に真壁郡に向かい、良兼の服織営所(はとりのえいしょ)や伴類の家々を焼き払った。良兼は逃げ、将門は筑波山(つくばやま)などを捜したが、叔父を見つけることはできなかった。九月二十三日、良兼が弓袋山(ゆぶくろやま)の南で鬨の声を上げ、将門が応じて合戦となった。収穫期の稲を踏みながらの戦いだったという。結局、将門は良兼を追い詰めることはできず、同時に農村の民の心は彼らから離れていった。そうして十一月五日、良兼らに対する追捕官符が、将門に下されたのである。追捕官符は、坂東諸国にも下されたが、どの国も良兼らの軍勢を恐れて行動は起こさず、将門だけが、良兼らと戦う構図となったらしい。良兼は将門を恨み、丈部子春丸の事件へと繋がったと、白君は語った。
(お願いだから、保憲、無理や無茶をしないで、自分の身を守ってね……)
ひぐらしは祈りながら、南廂で干していた生薬を、塗籠の中にしまっていった。
◇
「陰陽師殿」
笑い含みの声とともに、不意に後ろから抱きつかれて、常陸国庁(ひたちのこくちょう)の廂を歩いていた保憲は歯を食い縛った。男の武骨な左手が背後から腰に回り、右手が襟から衣の中へ入ってくる。
「新たな年の春の宵を、ともに過ごそうではないか」
男は耳元で囁き、すぐ脇の母屋へ、簾を背で押しやって保憲を引き摺り込んだ。男の名は、藤原為憲(ふぢわらのためのり)。常陸介藤原維幾(ふぢわらのこれちか)の息子だ。父親の権力を笠に着て、横暴な振る舞いを繰り返す、救いようのない男である。だが、使い道はある――。
「いつ見ても美しいな、保憲殿」
保憲を仰向けに組み伏せた為憲(ためのり)は、暗がりで、くつくつと笑う。
「これほど美しいのに、父上も、都の陰陽師達も、そなたが女と気づかぬとは、笑止」
囁き続けながら、為憲は、保憲の袍と衵と単衣の襟を開いていく。
「しかしわたしは気づいた。見る目があるということだ。そなたにとっては誤算だったな。わが父、維幾に女と告げられぬためには、わたしに従うしかない。しかし、悪いようにはせぬぞ。わたしはこの地で一大勢力を築く。そなたを妻として、陰陽頭よりもよい暮らしをさせてやるぞ」
(それこそ、笑止)
胸中で冷ややかに呟いた保憲の耳に、ふと訝る為憲の声が聞こえた。
「ん? これは梅の香か?」
「ああ、そうでございましょう。暫く、懐に蕾の付いた梅の小枝を入れておりましたゆえ」
嫋(たお)やかな声で答えたのは、白君。間一髪、暗がりで組み伏せられる瞬間に、戻ってきた白君と入れ替わることができた。
「そうか。そなたのそういう陰陽師らしからぬ風流なところも、わたしの好みぞ」
為憲は、保憲の姿となった白君の、布で巻いた胸をまさぐり、肌を舐める。その感触が、薄衣を通すようにして、前栽の茂みに隠れた保憲に伝わってくる。不快この上ない。が、白君との繋がりを弱めると、保憲としての姿や動きが怪しくなってしまうので、できないのだ。耐えながら、保憲は夜空を見上げた。少し太った三日月が、くっきりと浮かんでいる。
(晴明……。おまえに、会いたいなあ)
為憲は、保憲の弱味を握ったと思い込み、閨の中で、父親の維幾の思惑や周辺情報を、機密に触れるようなことまで、全て話してくれる。平将門や平良兼の動向も、事細かく掴んでいて、囁いてくる。この地で勢力を築くと言っていること自体は、本気なのだろう。だから、この関係は今暫く続ける必要がある。
(こんなことをしてると知れたら、おまえに嫌われてしまうかもしれないけれど……)
実際のところ、保憲は弱味など握られてはいない。藤原維幾は、保憲が常陸国司に赴任する際、女であることを、参議となった藤原師輔から内々に告げられている。陰陽頭葛木宗公、陰陽助小野氏守も既に陰陽権助出雲惟香から告げられて、保憲が女であることを知っている。陰陽寮の上部機関である中務省を統べる中務卿の重明親王までも、藤原師輔から保憲が女であることを告げられているらしい。最早、保憲が女であることは、大内裏の一部では公然の秘密なのだ。
(女でも認めて下さってる方々の信頼を裏切る訳にはいかない……)
肌に伝わる武骨な手指の感触が、位置を移していく。簾の内で、為憲の動きが激しくなっていく。もう動いても、気づかれる心配はないだろう。保憲はのろのろと立ち上がり、白君を残して、己の曹司がある西脇殿へと向かった。後でまた、白君を綺麗に洗わねばならないだろう――。
(あ……!)
唐突に伝わってきた鋭い感覚に、足先までが強張る。かつて一言主に、心の中の最も柔らかい部分まで入り込まれた、あの感覚と似ている。不快極まりない。浅く雪の積もった地面に膝を着きそうになるのを辛うじて堪え、保憲はもう一度夜空を見上げた。やや膨らんだ三日月は、変わらずそこにある。
(晴明……、本当に、おまえに会いたいよ)
白君から刹那の入れ替わり時に渡された、梅の小枝に結ばれた文と、何かを包んだ文と、綺麗に折り畳まれた文。梅の小枝に結ばれた文が、晴明のものだと、言われなくても分かる。
(気の利いた返歌、考えないとね……)
自分を励まし励まし、薄く笑って、保憲は再び歩き始めた。
西脇殿に与えられた曹司に辿り着いた保憲は、遣戸に手を掛けて動きを止めた。中に気配がある。
「何の用だ」
問いながら遣戸を開けると、招かれざる客は、呆れたように笑った。
「新年の挨拶だよ。それにしてもあんた、よくそんなこと続けてられるな」
「仕事だ」
ぶっきらぼうに答えて、保憲は後ろ手に遣戸を閉め、曹司の床に腰を下ろした。この客とは、もう何度も会っている。桔梗(きちこう)と名乗っており、葛葉の娘だと自称している。つまりは、晴明の父親違いの妹だというのだ。確かに、切れ長の目など、晴明に少し似た面差しをしている。そして、彼女はもう一つ自称している。あの平将門の妻の一人だというのだ――。
「幾ら仕事でも、あたしなら、あんな男、断固拒否してるけどな」
「将門なら、いいのか」
「あいつは、いいぜえ?」
十代後半に見える少女は、にやりと笑う。
「あたしは、あいつにぞっこんなんだ」
「それで、将門を『脚病』に罹らせて、彼の妻子の殆どを死なせたのか」
「あはは、面白い推測だな」
桔梗はただ笑う。しかしその笑いは、凄みを帯びていて、恐ろしい事実を肯定しているようにしか見えなかった。保憲は問うた。
「おまえは、将門の味方なのか? それとも敵なのか?」
「それは、あいつ次第だよ」
桔梗は笑みを残した顔で答え、そのまま保憲の傍らを擦り抜けて、遣戸から外へ出ていった。この常陸国府(ひたちのこくふ)へ、一体何を探りにきたのか。
(引き続き、彼女の――彼女の背後にいる人達の意図も探っていかないとな……)
溜め息をついてから、保憲はおもむろに懐から三つの文を出し、文机の上に置いた。梅の枝についた蕾から、いい香がする。その枝から文をそっと外し、開いて読んだ保憲は、思わず苦笑した。
手(て)もふれで月日(つきひ)重(かさ)ねし君(きみ)が床(とこ)なつかしき香(か)で我(われ)をなぐさむ
さて晴明は、どれだけの意味を込めて、この歌を書いたのだろう。
(「手もふれで月日」は、あの歌を連想させる)
手(て)もふれで月日(つきひ)へにける白真弓(しらまゆみ)おきふしよるはいこそねられね
〔手も触れずして月日を過ごしてしまった、わが白真弓よ、射るために弓末(ゆずゑ)を起こしたり伏せたりして、引くと弓がたわんで本と末が寄る――夜は寝ることができない〕
古今集に載っている、紀貫之の歌。白真弓は檀(まゆみ)の木で作った弓で、木肌が白いので白真弓という。男の大切な武具である。が、清らかな印象もあるので、恋しい女になぞらえてあるとされるのだ。そう解すると、途端に意味が艶(つや)めく。即ち――。
〔手も触れずして月日を過ごしてしまった、わたしの大切な人よ、起きていても臥していてもあなたを思うばかりで、夜は眠ることもできない〕
それを踏まえて晴明の歌を読むと、恋歌にしか見えないが――。
(あいつに限って、それはないな)
きっと姉がそのままに保っている保憲の床を、ありのままに詠んだのだろう。保憲の部屋に敷かれたままの床を、そっと見つめる晴明が、目に浮かぶようだ。
墨を磨り終えた保憲は、黙って紙に向かい、筆を走らせた。
三
梅(うめ)が香(か)は道(みち)の導(しるべ)となりぬらむ我が魂(たましひ)のありか示せよ
〔梅の香はきっと道の案内人となるだろう、わたしの魂の在り処を示してくれよ〕
正月九日夕刻、白君が届けた保憲の文に、晴明は眉をひそめた。一体、どう解釈したらいい歌なのだろう。
「あいつ、何か悩んだり苦しんだりしてるのか?」
思わず問うた晴明に、白君は淡々と答えた。
「仕事は忙しそうだ。事務処理にも情報収集にも苦労している」
(だが、この歌は、ただの苦労じゃないだろう)
晴明は文を持ったまま、暫く逡巡した後、意を決して、ひぐらしの部屋へ向かった。
ひぐらしはひぐらしで、簾の奥、文机の前で、保憲からの文を開いて読んでいた。
「ちょっと、いいか?」
南廂から晴明が声を掛けると、ひぐらしは驚いたように保憲の文を閉じ、顔を上げた。
「え、ええ。どうぞ」
慌てた口調の返事に、晴明は疑念を擁きながら簾の内へ入り、ひぐらしに歩み寄って、差し出された円座に腰を下ろした。
「保憲の文には何て書いてあったか、教えてくれないか?」
「大したことは……」
ひぐらしは、困ったように視線を泳がせて答える。
「常陸国府に入ってくる平将門の情報と、生薬のお礼くらいよ」
「……そうか」
晴明は頷いて、自分宛の保憲の文をひぐらしに手渡した。
「その歌が気になるんだ。どういう意味だと思う?」
「これは……、返歌かしら?」
「ああ。おれの歌への返歌だ」
「なら、そのあなたの歌を教えてくれないかしら?」
晴明は、頬が火照るのを自覚した。あの歌は、保憲以外に知られるには恥ずかし過ぎる。だが、今は、少しでも保憲の歌の意味を知りたい。晴明は、俯いて告げた。
手(て)もふれで月日(つきひ)重(かさ)ねし君(きみ)が床(とこ)なつかしき香(か)で我(われ)をなぐさむ
「この歌を、蕾が付いた梅の小枝に結んで白君に託けた」
「……そう」
ひぐらしは、真面目に顎に手を当てて考える顔をする。
「魂は、床(とこ)から。梅が香は、その歌の中の香と梅の小枝からね。迷っているような心地のする自分の魂は、床のあるこの邸に留まっているはず。慕わしく慣れ親しんだ梅の木の小枝よ、その香で、この邸への導きとなって、魂の在り処を示してくれ、というような意味だと思うわ」
一度言葉を切ってから、ひぐらしは晴明を見つめ、ぽつりと言う。
「あの子、帰りたいのね……」
晴明は座った膝の上で、両拳を握り締めた。保憲が、心弱くなっている。居た堪れない。すぐにでも傍へ行きたい――。
「晴明」
ひぐらしが、心配そうな声を出す。
「常陸国へ行くなら、必ず、お父様にお伺いしてからにしてね」
「分かってる」
苦々しく答えて、晴明は立ち上がり、ひぐらしの部屋を辞した。
(ひぐらし宛に保憲が何を書いてたのか気になるが……)
ひぐらしは、保憲の心配をしつつも、晴明に内容を教えてはくれなかった。晴明が知っても仕方のない内容なのだろう。
(取り敢えず、一か八か、忠行に掛け合ってみるか。忠行宛の文の内容も気になるしな)
晴明は、透渡廊を歩いて、寝殿へ向かった。
◇
溜め息をついて、ひぐらしは文机の上に置いていた妹からの文を再び開いた。そこには、晴明にはまだ教えられない内容が書いてある。
(桔梗様……、一体どういうおつもりなのかしら……)
平将門の妻の一人であるという桔梗は、晴明の父親違いの妹でもあるという。その桔梗について、保憲はたびたび、ひぐらし宛の文の中で触れているが、晴明には内密にと、いつも書き添えられているのだ。今回の文もそうだったので、その内容を晴明に告げる訳にはいかなかったのである。保憲は文の中で、平将門の強さの幾らかは、彼女の力に拠ると結論付けていた。桔梗こそが、「順風」を操り、将門の合戦を助けているのだという。それどころか将門が罹った「脚病」もまた桔梗の仕業であろうと書かれていた。
(将門様を本当に思っているのなら、もっと別の助け方があるはず……)
桔梗の真意が分からない。保憲も、桔梗に翻弄されているようだった。
(保憲も本当は、晴明の助けが欲しいはず。でも、桔梗様がいて、葛葉様にも関わるかもしれないから、晴明を傷つけたくなくて、呼べずにいる。とても、つらい状況ね……)
ひぐらしには、殆ど何もできない。
(とにかく、わたくしにできるのは、あの子の役に立ちそうな生薬を送ることだけ……)
塗籠に入り、ひぐらしは、棚から乾いた太い草の根を手に取った。
(これは、咳に効く。正月は、まだ咳の出易い時季だし、それに、桔梗様に対して、何かに使えるかもしれない)
それは、桔梗の根。秋に掘り起こし、乾かしておいたものだった。
(それと、もう一つ……)
ひぐらしは、棚から別の太い草の根を手に取る。それは、葛根(かっこん)、即ち、葛(くず)の根。解熱や発汗、下痢止めなどの効能がある。ひぐらしは、それらの根を、文に包める程度の大きさに折り、残りを棚に戻して、塗籠から出た。
◇
――「保憲から、そなたを遣わしてほしいという要請はない」
忠行は、保憲の歌を告げても、にべもなかった。すごすごと己の曹司へ戻った晴明は、むっつりと座り込み、俯いて考える。ひぐらしからは釘を刺されたが、忠行の言葉を無視して、保憲の許へ行ってしまったほうがいいのではないかと思える――。
「どうする気だ」
急に、白君が曹司に現れて言った。
晴明は鋭い眼差しを上げて問い返した。
「保憲は、何を隠してる?」
「それは、言えない」
白君は真っ直ぐ晴明を見つめ返して答えた。晴明は目を伏せて短く息を吐いた。半ば確信を持って鎌をかけてみたのだが、白君は保憲が隠し事をしていることを秘すつもりもないらしい。
「どうしても、言えないのか?」
「主には、逆らえない」
「ひぐらしには、言ってるのか?」
「言っていることもあれば、言っていないこともある」
白君は、どこまでも正直だ。
「ひぐらしが知らないこともあるのか」
「ある」
断言されて、晴明は立ち上がった。曹司の隅に置いた葛籠(つづら)から蓑(みの)と笠(かさ)を取り出し、身に着ける。最早、居ても立ってもいられない――。
曹司から飛び出し、沓脱で尻切を履いた晴明は、庭へ入ってきた青年に気づいた。
「茂樹(しげき)」
「急に呼び出されて来てみれば、やっぱりか」
呆れたように言い、二十一歳の天文生は、歩み寄ってくる。
「その格好、今から、常陸国へ行く気か?」
「ああ」
止められまいと、晴明は硬い表情で答えた。
「そうか」
溜め息をつくように茂樹は言う。
「まあ、いいか。半ばそのつもりで来たからな」
よく見れば、茂樹の足は藁沓(わらぐつ)を履いている。
「忠行様の式神が来て、おれとおまえで一度、常陸国を見て来いとの御命令だ」
「忠行様が?」
意外な思いで聞き返した晴明に、茂樹は仏頂面で答えた。
「おまえを止められないと踏んでのことだろう。今すぐでなくていいんだが、おまえは、今すぐのつもりだろうな」
「ああ」
晴明は、勇んで足を踏み出す。
「今すぐだ」
築地を跳び越えた晴明を追って、茂樹も築地を跳び越えてきた。茂樹は、年老いて化けた、大きな黒猫を式神として使う。名を射干玉(ぬばたま)という、猫股(ねこまた)だ。その助けを得て築地を跳び越えたのだ。茂樹は、口は悪いが、見鬼の力は強く、知恵も知識もあり、冷静だ。道連れとしては悪くない。晴明は、そんなことをちらりと思いつつも、一心に常陸国目指して走り始めた。
◇
二人の天文生は、西日を背に受けながら、坂東へと駆けていく。
「返事も書かずに、全く」
呟いた白君は、汗衫の裾を翻して、ひぐらしの部屋へ飛んだ。ひぐらしと忠行の返事を受け取った後、晴明を追い越して、先に夏虫に報せなければならない。
「どいつもこいつも、手の掛かる……」
愚痴を零しながら、それでも口元が弛むのを、白君は自覚した。夏虫は、きっととても喜ぶだろう。気に病み、隠すことはあっても、晴明との再会は、夏虫の癒しとなるはずだ――。
一
保憲は意外に筆まめなのだと晴明(はれあきら)が悟るのに、時は掛からなかった。昨年の承平七年に、保憲が従八位下(じゅはちいのげ)陰陽師となり、常陸国の国府(こくふ)に赴任してから一年近く。保憲の文は、五日と空けず白君が届けてくる。人が届けるより随分速く、こちらからの返事(かえりごと)も白君のお陰で速く届くので、筆まめになるのかもしれない。
保憲は、いつも、父の忠行宛、姉のひぐらし宛、そして晴明宛に、それぞれ別に文をしたためて送ってくる。それが、妹のすがるには不満らしい。時々は、すがると弟の蛍宛の文があることもあるが、いつもではないので、怒るのだ。
――「仕方ないだろう。あいつは仕事で行ってるんだ。そう暇がある訳じゃない」
晴明が窘めると、すがるは十七歳とは思えない幼さで、頬を膨らませ、反論した。
――「でも、晴明にはいつも届くじゃない。お父様とお姉様にも。どうしてよ?」
――「忠行様には仕事の報告だ。ひぐらしは、心配性だからだろう」
――「あら、晴明は?」
鼻息も荒く問い詰めてきたすがるから、少し目を逸らしつつ晴明は答えた。
――「おれは、一人前の官人になるために、歌を作る練習をさせられてるんだ」
それは事実だったが、言い訳でもあった。もし、保憲が晴明宛に文を寄越さなくなれば、きっと自分はすがると同じように、年甲斐もなく怒ったりすねたりするだろう。三年前の承平五年に元服を済ませ、晴明という名を貰い、陰陽寮の天文生(てんもんしょう)にもなった十八歳の自分も、保憲に関することではいつまで経っても子どもだ。同輩で三歳年上の天文生、平野茂樹(ひらののしげき)が聞いたら鼻で笑うだろう――。
「どうした?」
目の前に立った白君が、不満そうに言う。
「さっさと開けて返事を書け」
「ああ」
年明け初めての保憲からの文。受け取って、一瞬、物思いに耽ってしまった。
「わたしはできるだけ早く夏虫のところへ戻りたい」
白君に重ねて言われて、晴明は微かに眉根を寄せる。
(おれも、保憲の許へ今すぐにでも行きたい)
しかし、それはできない。心の叫びを奥歯を噛み締めてやり過ごし、晴明は黙って動いた。東廂から遣戸を開けて己の曹司へ入り、保憲の文を丁寧に開く。保憲には、部屋を自由に使っていいと言われているが、晴明は律義に自分の曹司だけを使い続けている。
文には、いつも通り、歌が一首したためてあった。
天(あま)の門(と)を渡(わた)る月日(つきひ)を見(み)るごとに重(かさ)ねて君(きみ)を思(おも)ふころかな
〔天空を渡っていく月や太陽を見るたびに――月日を重ねる中、繰り返しおまえを思っているこの頃だよ〕
「馬鹿……」
晴明は、思わず口の中で呟いてしまった。保憲が、夜も昼も、軒近くでふと空を見上げては、晴明に思いを馳せる姿が目に浮かぶ。こんな歌を送られては、すぐにも会いに行きたくなってしまう。けれど、忠行と保憲の口添えで天文生になった身だ。簡単に投げ出す訳にはいかない。晴明は溜め息をついて、返歌を考え始めた。
保憲が、天を行く月日を見て晴明を思い浮かべ、暦の月日をも匂わすのは、晴明という名を、保憲がそう考えて付けたからだ。
――「天文の月日と暦の月日。二つの月日の主という意味で、晴明だ」
三年前、晴明の元服の日の夜に、保憲は満足げに告げた。晴明という名は、昼の初冠の場で忠行から与えられたが、実際のところ保憲が考えてくれたことは明白だった。
――「それに」
保憲は、優しい顔になって付け加えた。
――「おまえには、できるだけ明るい名がいいと思ったんだ。おまえには、できるだけ、明るい道を歩いてってほしい」
それは、晴明が、保憲に対して思っていることと同じだった。
(おれも、おまえに、できるだけ明るい道を歩いてってほしい)
保憲と離れて一年近く。最後に別れた時の保憲の姿は、瞼の裏に焼きついて、今も鮮明だ。
――「次に会う時は、もう背を抜かれてるかもしれないな」
邸の南門の前で、複雑そうに、少し寂しげに言って、保憲は晴明から離れ、東へ向けて歩き始めた。それから、ふと振り返り、悪戯っぽく念押しした。
――「歌を書いて文を出すから、必ず返歌を寄越せよ。歌の練習だ」
保憲が常陸国へ行かされた理由は、平将門(たいらのまさかど)という男だった。十年ほど前までは、この都で藤原忠平に仕えていたらしいが、故郷の下総国(しもうさのくに)へ帰ってからは、隣国常陸国との国境周辺で親類縁者と合戦を繰り返し、死者も相当出ているということだった。
(平将門は、間違いなく、あの鬼の言ってた「平らげ、まさに帝たらんとする者」だ)
五年前、秦河勝という鬼が告げたことが、現となりつつある。
一昨年の承平六年十月、平将門は、一度この京の都へ来た。繰り返す合戦について申し開きさせるために、太政官符(だいじょうかんぷ)が出され、召喚されたのだ。十月十七日に検非違使庁(けびいしちょう)に出頭した平将門は、翌年正月四日の今上の元服に伴う、七日の大赦令(たいしゃれい)によって、他の罪人達とともに赦された。元の主君で、既に従一位(じゅいちい)太政大臣(だいじょうだいじん)となっている藤原忠平の力が働いたのだという、専らの噂だ。
――「平将門が、『平らげ、まさに帝たらんとする者』である可能性は高い。危険だな」
平将門が赦されたことを知った保憲は、深刻な顔で呟いていた。
その後、五月に下総国へ戻った平将門だったが、その危険性を、藤原忠平も多少は感じていたのかもしれない。将門(まさかど)の帰国に先立つ二月に、保憲は、赴任先として常陸国を告げられた。陰陽得業生を卒業し、陰陽師となった矢先のことだった。
(おまえには、安全なところにいてほしいのに)
その願いは、いつも半ば叶わない。
赴任の準備をする中で、保憲はそっと晴明に告げた。
――「これはまだ推測の域を出ない話だが、平将門の配下には、見鬼の力のある者がいるらしい。合戦で、将門はよく『順風』に恵まれて勝つそうだ」
――「おれも一緒に行ったら駄目か?」
例によって尋ねた晴明に、保憲は複雑な表情で応じた。
――「今はまだ、天文生として出仕しててほしい。ただ、おれだけで危うくなったら、父上に頼んで、おまえを寄越して貰うようにする。最後に頼れるのは、おまえだから」
(保憲……)
晴明は文机の上に、保憲から借りている筆と硯を置き、白君が気を利かせて持ってきた半挿(はんぞう)から水を貰って、墨を磨りながら返歌を考える。歌は苦手だ。けれど、保憲の思いには応えたい。一刻ほども考えてから、晴明は漸く筆を走らせた。
手(て)もふれで月日(つきひ)重(かさ)ねし君(きみ)が床(とこ)なつかしき香(か)で我(われ)をなぐさむ
〔手も触れないで月日を重ねたあなたの寝床は、慕わしい匂いでわたしを宥めてくれます〕
随分と、直接的過ぎる表現だろうか。床は「止處(とこ)」で、その主の魂の宿るところという俗信がある。即ち、その主が旅に出ても、魂は床に宿っているので、その床を移動させたり、敷き替えたりすると、魂が散ってしまうというのだ。天文生たる晴明は、そんな俗信を信じてはいないが、大切な人の安全については、あらゆるものに縋りたいものだ。何より、保憲の床をそのように保っているひぐらしの心情を思えば、手出しすることではない。そうして、保憲の寝床は、莚も衾も枕も、全てそのまま置いてあるのだ。基本的には締め切ってある保憲の部屋の母屋に時折入ると、その床から、保憲の懐かしい匂いがして、晴明の尖った神経を宥めてくれるのは事実だった――。
「まるで、恋人だな」
白君が、ぼそりと言った。やはり露骨過ぎたのだ。
「そんなんじゃない。書き直す」
書いた文を反故(ほぐ)にしようとした晴明に、白君は半挿を脇に置いて手を差し出した。
「時が掛かり過ぎる。それでいいから渡せ」
強い口調で言われた晴明は、渋々折り畳んだ文を渡そうとして、ふと手を止め、立ち上がった。怪訝そうな顔をする白君の横を擦り抜け、遣戸を開けて東廂へ出る。そこから歩いて、晴明は東南の妻戸から簀子へ行った。夕暮れの庭には、既に蕾を付けた梅の木がある。尻切を履いて庭に下りた晴明は、綻びかけた蕾がついた梅の小枝を手折り、それに己の文を結びつけて、ついて来た白君に渡した。
「柄にもなく、雅なことをする」
白君は薄く笑って文を受け取ると、ひぐらしの部屋のほうへ、ふわりと飛んでいった。返事を受け取りに行ったのだ。その後、忠行の返事も受け取って、常陸国へ戻るのだろう。
「『柄にもなく』か……」
晴明は自嘲気味に呟くと、尻切を脱いで簀子に上がり、座った。春とはいえ、正月の風はまだまだ冷たい。保憲が赴いた常陸国は、この都よりも少しは南だという。
(寒がりのおまえが、少しでも過ごし易ければいいんだが……)
国府に赴任した者の任期は、基本的に四年という。後三年、自分は大人しく待っていられるだろうか。或いは――。
(何か起こって、おまえがおれを呼んでくれたら――)
つい思ってしまって、晴明は首を左右に振った。何かあってはならない。保憲が危険に晒されることになる。そんなことを期待してはいけない。晴明は溜め息をついて簀子の上に立ち上がり、己の曹司に戻った。
二
保憲からの文は不穏な内容だった。
(年明け早々、血生臭いことよ……)
昨日の正月三日に、丈部子春丸(はせつかべのこはるまろ)という駆使(くし)、即ち下働きを、将門が殺したと記されている。将門は、長年、叔父の平良兼(たいらのよしかね)と争っているが、丈部子春丸は、その良兼(よしかね)に内通していたとのことだった。良兼は、去る十二月十四日に、八十騎ばかりの軍勢を率いて将門の本拠地たる下総国は猿島郡(さしまのこおり)の石井営所(いわいのえいしょ)を襲い、逆に将門の奮闘によって撃退されているが、それは、子春丸(こはるまろ)がもたらした石井営所の内部情報に基づく襲撃だったと、保憲は報告していた。
(坂東の混沌は、深まるばかりか……)
忠行は、娘の詳細な報告に重い心を擁きながら、返事を書く。坂東とは、即ち安房国(あわのくに)、上総国(かづさのくに)、下総国、常陸国、相模国(さがみのくに)、武蔵国(むさしのくに)、上野国(こうづけのくに)、下野国(しもつけのくに)の八国である。忠行も二十七年前から二十三年前まで、保憲と同じく常陸国に陰陽師として赴任していたので、坂東にはある程度詳しい。
(因縁かもしれんな……)
忠行が常陸国府(ひたちのこくふ)へ赴任していた時、常陸介(ひたちのすけ)であったのが、晴明の父、安倍益材だった。その縁で、晴明は賀茂家の家人となり、元服した今は、忠行の片腕となっている。晴明の母は、葛葉と呼ばれる、人にあらざるモノだ。安倍益材が常陸介であった時にあちらで出会い、都へついて来たのだと、後から聞いた。
坂東とは、そういうところだ。人にあらざるモノが、平然と跋扈している。京の都では闇に紛れているモノが、昼間からその辺りにいて、人とともに暮らしている。
(平将門は、今のところ、朝廷の追捕官符(ついぶかんぷ)に忠実に従っているだけだが、そこに便乗している有象無象がいる)
昨年の承平七年十一月五日、朝廷は、平良兼、源護(みなもとのまもる)、平貞盛(たいらのさだもり)、平致兼(たいらのむねかね)、平致時(たいらのむねとき)らに対する追捕官符を、将門に下した。平良兼は将門の父の弟、源護は娘をその良兼に嫁がせた義理の父。平貞盛は将門の父の兄の子である。致兼(むねかね)、致時(むねとき)は良兼の息子達だ。将門は、追捕官符が下される前から、これら親類縁者と合戦を繰り返しているのだが、大義名分を得た形だった。
(ややこしい者達を、相争わせておけという朝廷の工作が、裏目に出なければよいのだが……)
「平らげ、まさに帝たらんとする者」という不吉な言葉が、不安を煽る。五年前、陰陽得業生だった保憲と、同輩の弓削時人及び笠名嗣が遭遇した鬼が予言したという存在。その報告を聞いた時は、とりあえず保留とした情報だったが、平将門の名が坂東から響いてくるようになってからは、俄かに信憑性の高い予言となった。追捕官符を下されてから、平将門の、坂東における権威は確立しつつある。それが、「平らげ、まさに帝たらんとする」行動に繋がった時、朝廷は漸く、その恐ろしさに気づくのだろう。
(今中務卿(いまなかつかさきょう)の宮様には、陰陽頭様から、その辺りの懸念も伝えて頂いているはず。此度の保憲の報告も上げて頂こう。何としても、朝廷には、より賢明な対処をして頂かねば、保憲の身も危険だ)
先中務卿(さきのなかつかさきょう)代明親王は、昨年三月二十九日に亡くなり、その後、異母弟の重明親王(しげあきらしんのう)が中務卿となっていて、今中務卿の宮と呼ばれている。学識豊かで、事務能力が高く、判断力にも優れ、楽才もあるという、なかなかに頼もしい三十三歳の親王だ。四位に相当する皇族の位、四品(しほん)に叙せられており、三品(さんぽん)であった代明親王とともに先帝の信頼も厚かった。
「忠行様」
密やかな白君の声がした。保憲宛の文を受け取りに来たのだ。
「暫し待て」
命じて、忠行は筆を進めた。将門が「平らげ、まさに帝たらんとする」兆候を、見逃さず報告するよう念押し、身の安全には充分に気をつけるよう結んで、文を折り畳む。傍らまで来た白君に文を渡すと、ふと梅の香がした。見れば、白君の懐から、梅の小枝に結びつけられた文が覗いている。
「ひぐらしの文か?」
問うと、式神は無表情に答えた。
「晴明の文です。ひぐらしの文には生薑(せいきょう)と艾葉が包んであります」
生薑とは椒(はじかみ)とも呼ばれる生姜(しょうが)、艾葉とは干した蓬で、どちらも生薬だ。
「そうか」
忠行は、急に、何も付けていない己の文が後ろめたくなったが、白君を無駄に待たせる訳にもいかない。
(次は、何か用意しておこう)
胸中で呟くに留めて、忠行はそのまま白君を見送った。
◇
寝殿から出てきた白君が、ふわりと空に舞い上がり、東へと飛んでいく。わざわざ、力の弱いひぐらしが見える程度に姿を現してくれているのは、白君なりの心遣いだろう。見送って、部屋の母屋に戻ったひぐらしは、円座に座り、溜め息をついた。白君が語ってくれた坂東の情勢は、予断を許さないものだった。
(保憲は――夏虫は、自ら火に飛び込んでしまった。どうか、あの子が無事帰ってきますように……)
ひぐらしには、毎日祈り、役に立ちそうな生薬を送り続けることしかできない。
(「平らげ、まさに帝たらんとする者」……。平将門は、本当に、そんなふうになっていくのかしら……)
坂東の、続く合戦の始まりは、平将門と、その叔父、平良兼との女論であったという。将門は良兼の娘を妻としている。どうやら、その嫁入りの経緯の中で、争いが生じたらしい。結果、将門は良兼と不仲になった。承平元年のことだ。その後、承平五年二月二日に、将門は源護の息子三人と合戦し、全員を死なせ、更には貞盛の父であり、常陸大掾(ひたちのだいじょう)であった平国香(たいらのくにか)まで死なせている。発端は、源護の三人の息子が、下総国は豊田郡(とよだのこおり)の鎌輪営所(かまわのえいしょ)を出た少数の将門勢を、待ち伏せして襲ったからだった。が、将門勢は自分達より多い彼らを「順風」を得て返り討ちにし、その勢いで、伯父の国香(くにか)が住む常陸国は石田営所(いしだのえいしょ)を攻めたのだ。国香もまた源護の娘を妻としており、敵方だという認識があったのだろう。将門はそのまま、二月四日には、石田営所を始めとして、いずれも敵方の、野本営所(のもとのえいしょ)、大串営所(おおぐしのえいしょ)、取木営所(とりきのえいしょ)を焼き払い、常陸国の筑波郡(つくばのこおり)、真壁郡(まかべのこおり)、新治郡(にいはりのこおり)にある源護の伴類(ばんるい)――配下の家々に火を放った。焼死者も出たという。将門は更に同じ年の十月二十一日、父のもう一人の弟である平良正(たいらのよしまさ)と、常陸国新治郡の川曲村(かわわむら)で合戦した。良正(よしまさ)もまた、源護の娘を妻としており、甥の将門よりも、義理の父の訴えを聞き入れたのである。戦いを得意とする将門は相手方を圧倒して敗走させたが、良正は恨みを忘れず、兄の良兼に合力を依頼した。それまで、良兼は、上総国に住んでいたこともあって、将門と正面切って合戦するつもりはなかったようだが、良正の頼みを聞き入れる形で、承平六年六月二十六日、常陸国に向けて出兵し、水守営所(みもりのえいしょ)に到着した。そこで良正と合流した良兼は、更に貞盛を味方に引き入れるべく説得した。貞盛は乗り気ではなかったが、二人の叔父には逆らえなかった。三人は、軍勢を率いて下野国へ向かった。これに対し、将門は慌てて百騎ばかりの騎兵を連れて下野国へ向かった。良兼勢は、垣根のように盾を並べて待ち構えていたが、将門は歩兵を先行させて合戦させ、八十人ほどを射取ったという。良兼勢は恐れて逃げ出し、将門は追いかけて下野国府に追い詰めた。しかし将門は、敢えて国庁(こくちょう)を囲んでいた西の陣を解き、良兼勢を逃がした。その上で、将門は、合戦が良兼から仕掛けられたことを下野国司(しもつけのこくし)に文書で証明させてから、本拠地たる石井営所へ帰った。良兼は下総介(しもうさのすけ)であるので、将門も気を遣ったのだ。そうこうしている内に、将門と平真樹(たいらのまさき)を検非違使庁に召喚する太政官符がもたらされた。平真樹は、将門に合力して国香と合戦した土着の人物らしい。その後、大赦令で下総国へ帰った将門に、承平七年八月七日、待ち構えていた良兼が再び合戦を挑んだ。良兼勢は故上総介(かづさのすけ)高望王(たかもちおう)と故陸奥将軍(むつしょうぐん)良将(よしもち)の画像を陣頭に掲げた。高望王は、将門の祖父であり、桓武天皇の曾孫に当たる人だ。そして良将は、将門の父である。将門は、二人の画像に向かって戦うことができず、退散した。その屈辱を晴らすべく、いつもの二倍の兵を揃え、八月十七日、将門は良兼を待ち構えたが、「脚病」に罹り、自由が利かなくなった。途端に将門の伴類は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、良兼は豊田郡を焼き巡った。取り入れ間近の農作物や人馬に大きな被害が出たという。劣勢の将門は妻子達を猿島郡の葦津江(あしづのえ)の畔(ほとり)に船に乗せて隠し、自分は山を背に隠れた。二つある本拠地の内、豊田郡が壊滅的打撃を被ったので、もう一つの本拠地たる猿島郡に落ち延びたのだ。良兼勢は、翌日十八日、将門に見せつけるように、猿島郡の道を凱旋して上総国へ帰っていった。将門の妻子達は、危機を脱したと判断して、岸に船を寄せた。ところが、良兼側と内通していた人間の手引きで妻子達は捕まり、ただ一人の妻を除いて皆、打ち首にされた。ただ一人残された妻は、良兼の娘であり、二十日に良兼が住む上総国へ護送されてしまった。将門は怒りに燃えた。良兼の娘は将門に会いたがり、その兄弟達――即ち良兼の息子の致兼、致時が、密かに彼女を豊田郡の将門の許に送り届けたという。身内同士の争いというものはややこしい。しかし、妻が一人戻ってきても、将門は他の妻子達を殺された怒りを忘れなかった。良兼が源護を頼って常陸国に来たと聞きつけると、千八百人ほどの兵を動かして、九月十九日に真壁郡に向かい、良兼の服織営所(はとりのえいしょ)や伴類の家々を焼き払った。良兼は逃げ、将門は筑波山(つくばやま)などを捜したが、叔父を見つけることはできなかった。九月二十三日、良兼が弓袋山(ゆぶくろやま)の南で鬨の声を上げ、将門が応じて合戦となった。収穫期の稲を踏みながらの戦いだったという。結局、将門は良兼を追い詰めることはできず、同時に農村の民の心は彼らから離れていった。そうして十一月五日、良兼らに対する追捕官符が、将門に下されたのである。追捕官符は、坂東諸国にも下されたが、どの国も良兼らの軍勢を恐れて行動は起こさず、将門だけが、良兼らと戦う構図となったらしい。良兼は将門を恨み、丈部子春丸の事件へと繋がったと、白君は語った。
(お願いだから、保憲、無理や無茶をしないで、自分の身を守ってね……)
ひぐらしは祈りながら、南廂で干していた生薬を、塗籠の中にしまっていった。
◇
「陰陽師殿」
笑い含みの声とともに、不意に後ろから抱きつかれて、常陸国庁(ひたちのこくちょう)の廂を歩いていた保憲は歯を食い縛った。男の武骨な左手が背後から腰に回り、右手が襟から衣の中へ入ってくる。
「新たな年の春の宵を、ともに過ごそうではないか」
男は耳元で囁き、すぐ脇の母屋へ、簾を背で押しやって保憲を引き摺り込んだ。男の名は、藤原為憲(ふぢわらのためのり)。常陸介藤原維幾(ふぢわらのこれちか)の息子だ。父親の権力を笠に着て、横暴な振る舞いを繰り返す、救いようのない男である。だが、使い道はある――。
「いつ見ても美しいな、保憲殿」
保憲を仰向けに組み伏せた為憲(ためのり)は、暗がりで、くつくつと笑う。
「これほど美しいのに、父上も、都の陰陽師達も、そなたが女と気づかぬとは、笑止」
囁き続けながら、為憲は、保憲の袍と衵と単衣の襟を開いていく。
「しかしわたしは気づいた。見る目があるということだ。そなたにとっては誤算だったな。わが父、維幾に女と告げられぬためには、わたしに従うしかない。しかし、悪いようにはせぬぞ。わたしはこの地で一大勢力を築く。そなたを妻として、陰陽頭よりもよい暮らしをさせてやるぞ」
(それこそ、笑止)
胸中で冷ややかに呟いた保憲の耳に、ふと訝る為憲の声が聞こえた。
「ん? これは梅の香か?」
「ああ、そうでございましょう。暫く、懐に蕾の付いた梅の小枝を入れておりましたゆえ」
嫋(たお)やかな声で答えたのは、白君。間一髪、暗がりで組み伏せられる瞬間に、戻ってきた白君と入れ替わることができた。
「そうか。そなたのそういう陰陽師らしからぬ風流なところも、わたしの好みぞ」
為憲は、保憲の姿となった白君の、布で巻いた胸をまさぐり、肌を舐める。その感触が、薄衣を通すようにして、前栽の茂みに隠れた保憲に伝わってくる。不快この上ない。が、白君との繋がりを弱めると、保憲としての姿や動きが怪しくなってしまうので、できないのだ。耐えながら、保憲は夜空を見上げた。少し太った三日月が、くっきりと浮かんでいる。
(晴明……。おまえに、会いたいなあ)
為憲は、保憲の弱味を握ったと思い込み、閨の中で、父親の維幾の思惑や周辺情報を、機密に触れるようなことまで、全て話してくれる。平将門や平良兼の動向も、事細かく掴んでいて、囁いてくる。この地で勢力を築くと言っていること自体は、本気なのだろう。だから、この関係は今暫く続ける必要がある。
(こんなことをしてると知れたら、おまえに嫌われてしまうかもしれないけれど……)
実際のところ、保憲は弱味など握られてはいない。藤原維幾は、保憲が常陸国司に赴任する際、女であることを、参議となった藤原師輔から内々に告げられている。陰陽頭葛木宗公、陰陽助小野氏守も既に陰陽権助出雲惟香から告げられて、保憲が女であることを知っている。陰陽寮の上部機関である中務省を統べる中務卿の重明親王までも、藤原師輔から保憲が女であることを告げられているらしい。最早、保憲が女であることは、大内裏の一部では公然の秘密なのだ。
(女でも認めて下さってる方々の信頼を裏切る訳にはいかない……)
肌に伝わる武骨な手指の感触が、位置を移していく。簾の内で、為憲の動きが激しくなっていく。もう動いても、気づかれる心配はないだろう。保憲はのろのろと立ち上がり、白君を残して、己の曹司がある西脇殿へと向かった。後でまた、白君を綺麗に洗わねばならないだろう――。
(あ……!)
唐突に伝わってきた鋭い感覚に、足先までが強張る。かつて一言主に、心の中の最も柔らかい部分まで入り込まれた、あの感覚と似ている。不快極まりない。浅く雪の積もった地面に膝を着きそうになるのを辛うじて堪え、保憲はもう一度夜空を見上げた。やや膨らんだ三日月は、変わらずそこにある。
(晴明……、本当に、おまえに会いたいよ)
白君から刹那の入れ替わり時に渡された、梅の小枝に結ばれた文と、何かを包んだ文と、綺麗に折り畳まれた文。梅の小枝に結ばれた文が、晴明のものだと、言われなくても分かる。
(気の利いた返歌、考えないとね……)
自分を励まし励まし、薄く笑って、保憲は再び歩き始めた。
西脇殿に与えられた曹司に辿り着いた保憲は、遣戸に手を掛けて動きを止めた。中に気配がある。
「何の用だ」
問いながら遣戸を開けると、招かれざる客は、呆れたように笑った。
「新年の挨拶だよ。それにしてもあんた、よくそんなこと続けてられるな」
「仕事だ」
ぶっきらぼうに答えて、保憲は後ろ手に遣戸を閉め、曹司の床に腰を下ろした。この客とは、もう何度も会っている。桔梗(きちこう)と名乗っており、葛葉の娘だと自称している。つまりは、晴明の父親違いの妹だというのだ。確かに、切れ長の目など、晴明に少し似た面差しをしている。そして、彼女はもう一つ自称している。あの平将門の妻の一人だというのだ――。
「幾ら仕事でも、あたしなら、あんな男、断固拒否してるけどな」
「将門なら、いいのか」
「あいつは、いいぜえ?」
十代後半に見える少女は、にやりと笑う。
「あたしは、あいつにぞっこんなんだ」
「それで、将門を『脚病』に罹らせて、彼の妻子の殆どを死なせたのか」
「あはは、面白い推測だな」
桔梗はただ笑う。しかしその笑いは、凄みを帯びていて、恐ろしい事実を肯定しているようにしか見えなかった。保憲は問うた。
「おまえは、将門の味方なのか? それとも敵なのか?」
「それは、あいつ次第だよ」
桔梗は笑みを残した顔で答え、そのまま保憲の傍らを擦り抜けて、遣戸から外へ出ていった。この常陸国府(ひたちのこくふ)へ、一体何を探りにきたのか。
(引き続き、彼女の――彼女の背後にいる人達の意図も探っていかないとな……)
溜め息をついてから、保憲はおもむろに懐から三つの文を出し、文机の上に置いた。梅の枝についた蕾から、いい香がする。その枝から文をそっと外し、開いて読んだ保憲は、思わず苦笑した。
手(て)もふれで月日(つきひ)重(かさ)ねし君(きみ)が床(とこ)なつかしき香(か)で我(われ)をなぐさむ
さて晴明は、どれだけの意味を込めて、この歌を書いたのだろう。
(「手もふれで月日」は、あの歌を連想させる)
手(て)もふれで月日(つきひ)へにける白真弓(しらまゆみ)おきふしよるはいこそねられね
〔手も触れずして月日を過ごしてしまった、わが白真弓よ、射るために弓末(ゆずゑ)を起こしたり伏せたりして、引くと弓がたわんで本と末が寄る――夜は寝ることができない〕
古今集に載っている、紀貫之の歌。白真弓は檀(まゆみ)の木で作った弓で、木肌が白いので白真弓という。男の大切な武具である。が、清らかな印象もあるので、恋しい女になぞらえてあるとされるのだ。そう解すると、途端に意味が艶(つや)めく。即ち――。
〔手も触れずして月日を過ごしてしまった、わたしの大切な人よ、起きていても臥していてもあなたを思うばかりで、夜は眠ることもできない〕
それを踏まえて晴明の歌を読むと、恋歌にしか見えないが――。
(あいつに限って、それはないな)
きっと姉がそのままに保っている保憲の床を、ありのままに詠んだのだろう。保憲の部屋に敷かれたままの床を、そっと見つめる晴明が、目に浮かぶようだ。
墨を磨り終えた保憲は、黙って紙に向かい、筆を走らせた。
三
梅(うめ)が香(か)は道(みち)の導(しるべ)となりぬらむ我が魂(たましひ)のありか示せよ
〔梅の香はきっと道の案内人となるだろう、わたしの魂の在り処を示してくれよ〕
正月九日夕刻、白君が届けた保憲の文に、晴明は眉をひそめた。一体、どう解釈したらいい歌なのだろう。
「あいつ、何か悩んだり苦しんだりしてるのか?」
思わず問うた晴明に、白君は淡々と答えた。
「仕事は忙しそうだ。事務処理にも情報収集にも苦労している」
(だが、この歌は、ただの苦労じゃないだろう)
晴明は文を持ったまま、暫く逡巡した後、意を決して、ひぐらしの部屋へ向かった。
ひぐらしはひぐらしで、簾の奥、文机の前で、保憲からの文を開いて読んでいた。
「ちょっと、いいか?」
南廂から晴明が声を掛けると、ひぐらしは驚いたように保憲の文を閉じ、顔を上げた。
「え、ええ。どうぞ」
慌てた口調の返事に、晴明は疑念を擁きながら簾の内へ入り、ひぐらしに歩み寄って、差し出された円座に腰を下ろした。
「保憲の文には何て書いてあったか、教えてくれないか?」
「大したことは……」
ひぐらしは、困ったように視線を泳がせて答える。
「常陸国府に入ってくる平将門の情報と、生薬のお礼くらいよ」
「……そうか」
晴明は頷いて、自分宛の保憲の文をひぐらしに手渡した。
「その歌が気になるんだ。どういう意味だと思う?」
「これは……、返歌かしら?」
「ああ。おれの歌への返歌だ」
「なら、そのあなたの歌を教えてくれないかしら?」
晴明は、頬が火照るのを自覚した。あの歌は、保憲以外に知られるには恥ずかし過ぎる。だが、今は、少しでも保憲の歌の意味を知りたい。晴明は、俯いて告げた。
手(て)もふれで月日(つきひ)重(かさ)ねし君(きみ)が床(とこ)なつかしき香(か)で我(われ)をなぐさむ
「この歌を、蕾が付いた梅の小枝に結んで白君に託けた」
「……そう」
ひぐらしは、真面目に顎に手を当てて考える顔をする。
「魂は、床(とこ)から。梅が香は、その歌の中の香と梅の小枝からね。迷っているような心地のする自分の魂は、床のあるこの邸に留まっているはず。慕わしく慣れ親しんだ梅の木の小枝よ、その香で、この邸への導きとなって、魂の在り処を示してくれ、というような意味だと思うわ」
一度言葉を切ってから、ひぐらしは晴明を見つめ、ぽつりと言う。
「あの子、帰りたいのね……」
晴明は座った膝の上で、両拳を握り締めた。保憲が、心弱くなっている。居た堪れない。すぐにでも傍へ行きたい――。
「晴明」
ひぐらしが、心配そうな声を出す。
「常陸国へ行くなら、必ず、お父様にお伺いしてからにしてね」
「分かってる」
苦々しく答えて、晴明は立ち上がり、ひぐらしの部屋を辞した。
(ひぐらし宛に保憲が何を書いてたのか気になるが……)
ひぐらしは、保憲の心配をしつつも、晴明に内容を教えてはくれなかった。晴明が知っても仕方のない内容なのだろう。
(取り敢えず、一か八か、忠行に掛け合ってみるか。忠行宛の文の内容も気になるしな)
晴明は、透渡廊を歩いて、寝殿へ向かった。
◇
溜め息をついて、ひぐらしは文机の上に置いていた妹からの文を再び開いた。そこには、晴明にはまだ教えられない内容が書いてある。
(桔梗様……、一体どういうおつもりなのかしら……)
平将門の妻の一人であるという桔梗は、晴明の父親違いの妹でもあるという。その桔梗について、保憲はたびたび、ひぐらし宛の文の中で触れているが、晴明には内密にと、いつも書き添えられているのだ。今回の文もそうだったので、その内容を晴明に告げる訳にはいかなかったのである。保憲は文の中で、平将門の強さの幾らかは、彼女の力に拠ると結論付けていた。桔梗こそが、「順風」を操り、将門の合戦を助けているのだという。それどころか将門が罹った「脚病」もまた桔梗の仕業であろうと書かれていた。
(将門様を本当に思っているのなら、もっと別の助け方があるはず……)
桔梗の真意が分からない。保憲も、桔梗に翻弄されているようだった。
(保憲も本当は、晴明の助けが欲しいはず。でも、桔梗様がいて、葛葉様にも関わるかもしれないから、晴明を傷つけたくなくて、呼べずにいる。とても、つらい状況ね……)
ひぐらしには、殆ど何もできない。
(とにかく、わたくしにできるのは、あの子の役に立ちそうな生薬を送ることだけ……)
塗籠に入り、ひぐらしは、棚から乾いた太い草の根を手に取った。
(これは、咳に効く。正月は、まだ咳の出易い時季だし、それに、桔梗様に対して、何かに使えるかもしれない)
それは、桔梗の根。秋に掘り起こし、乾かしておいたものだった。
(それと、もう一つ……)
ひぐらしは、棚から別の太い草の根を手に取る。それは、葛根(かっこん)、即ち、葛(くず)の根。解熱や発汗、下痢止めなどの効能がある。ひぐらしは、それらの根を、文に包める程度の大きさに折り、残りを棚に戻して、塗籠から出た。
◇
――「保憲から、そなたを遣わしてほしいという要請はない」
忠行は、保憲の歌を告げても、にべもなかった。すごすごと己の曹司へ戻った晴明は、むっつりと座り込み、俯いて考える。ひぐらしからは釘を刺されたが、忠行の言葉を無視して、保憲の許へ行ってしまったほうがいいのではないかと思える――。
「どうする気だ」
急に、白君が曹司に現れて言った。
晴明は鋭い眼差しを上げて問い返した。
「保憲は、何を隠してる?」
「それは、言えない」
白君は真っ直ぐ晴明を見つめ返して答えた。晴明は目を伏せて短く息を吐いた。半ば確信を持って鎌をかけてみたのだが、白君は保憲が隠し事をしていることを秘すつもりもないらしい。
「どうしても、言えないのか?」
「主には、逆らえない」
「ひぐらしには、言ってるのか?」
「言っていることもあれば、言っていないこともある」
白君は、どこまでも正直だ。
「ひぐらしが知らないこともあるのか」
「ある」
断言されて、晴明は立ち上がった。曹司の隅に置いた葛籠(つづら)から蓑(みの)と笠(かさ)を取り出し、身に着ける。最早、居ても立ってもいられない――。
曹司から飛び出し、沓脱で尻切を履いた晴明は、庭へ入ってきた青年に気づいた。
「茂樹(しげき)」
「急に呼び出されて来てみれば、やっぱりか」
呆れたように言い、二十一歳の天文生は、歩み寄ってくる。
「その格好、今から、常陸国へ行く気か?」
「ああ」
止められまいと、晴明は硬い表情で答えた。
「そうか」
溜め息をつくように茂樹は言う。
「まあ、いいか。半ばそのつもりで来たからな」
よく見れば、茂樹の足は藁沓(わらぐつ)を履いている。
「忠行様の式神が来て、おれとおまえで一度、常陸国を見て来いとの御命令だ」
「忠行様が?」
意外な思いで聞き返した晴明に、茂樹は仏頂面で答えた。
「おまえを止められないと踏んでのことだろう。今すぐでなくていいんだが、おまえは、今すぐのつもりだろうな」
「ああ」
晴明は、勇んで足を踏み出す。
「今すぐだ」
築地を跳び越えた晴明を追って、茂樹も築地を跳び越えてきた。茂樹は、年老いて化けた、大きな黒猫を式神として使う。名を射干玉(ぬばたま)という、猫股(ねこまた)だ。その助けを得て築地を跳び越えたのだ。茂樹は、口は悪いが、見鬼の力は強く、知恵も知識もあり、冷静だ。道連れとしては悪くない。晴明は、そんなことをちらりと思いつつも、一心に常陸国目指して走り始めた。
◇
二人の天文生は、西日を背に受けながら、坂東へと駆けていく。
「返事も書かずに、全く」
呟いた白君は、汗衫の裾を翻して、ひぐらしの部屋へ飛んだ。ひぐらしと忠行の返事を受け取った後、晴明を追い越して、先に夏虫に報せなければならない。
「どいつもこいつも、手の掛かる……」
愚痴を零しながら、それでも口元が弛むのを、白君は自覚した。夏虫は、きっととても喜ぶだろう。気に病み、隠すことはあっても、晴明との再会は、夏虫の癒しとなるはずだ――。
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