月と花

広海智

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承平陰陽物語 第六 古の人、鬼となりて、百鬼夜行を率いし語

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   古(いにしえ)の人(ひと)、鬼(おに)となりて、百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)を率(ひき)いし語(ものがたり)

          一

 三月二十一日から出仕を再開した保憲には、慌しい日常が戻った。小丸達が心配していた秘密がばれるということもなく、毎日は過ぎ、四月――夏を迎えた。
 四月の衣更では、保憲は例年、心細いような気持ちを味わう。袷に入れていた綿を抜き、薄着になることで、女だと悟られ易くなるせいかもしれない。束帯や女房装束など、正装のものは一日に全て冬物から夏物へ替えられ、保憲が普段出仕で用いている略装の衣冠にしても、四月中旬には、夏物に替えなければならないのだ。そして今年、一言主の力が消えたせいで、これまでより更に女と悟られ易くなっている。
(それでも、おれはここにいる……)
 陰陽寮の階を下りながら、保憲は物思いに心を委ねる。
(何故だろうな……)
 心細いような気持ち――不安はあっても、何とかなるという気持ちが生まれた。十七歳の三月十五日までの命と、半ば覚悟を決めていた日を越えて、生きているせいかもしれない。或いは、一言主という神の心を体験して、宇宙の広がりを、僅かにでも実感してしまったせいかもしれない。宇宙の広がりを感じてしまえば、日常の一つ一つのことなど、小事だ。けれど、同時に、日常の一つ一つのことに心揺らめかせ、喜怒哀楽を覚える自分や人々を、愛でたいと思うようにもなった。この限りない愛しさを知っているからこそ、一言主も神でありながら、人である役小角を愛したのだろう。
(女とばれそうになったら、何とか誤魔化すだけだ)
 今まででは考えられなかったほど、われながら図太く構えて、保憲は日々仕事をしている。
 八日の昨日は、内裏の清涼殿で潅仏会(かんぶつえ)が催された。これは、釈迦(しゃか)誕生の際、水を吐く龍が来て雨を降らせたという故事に則って行なわれるもので、五色の水を仏像に潅(そそ)いで功徳を願う儀式らしいが、保憲は詳しく知らない。続く今日、九日からは神事が始められて、申、酉、戌の三日をかけて行なわれる賀茂祭へと、京の雰囲気は沸き立っていく。
(ずっと女として生きてたなら、賀茂祭を、ただ楽しみに、長閑に暮らしてただろうか。日々、仕事と勉学と人付き合いに追われることもなく……?)
 否、それはあり得ない。自分は、姉のようには暮らせない。
(女として生きてたなら、多分、とっくに何かに喰われてた……)
 自分は、修行もしていない内から、見えてしまった。感じてしまった。小丸と同じだ。否、小丸より中途半端に弱かった分、尚悪かった。見えて、感じて、それでいて強くはなかったため、普通の人の目には見えないモノ達から嫌われ、呪われ、祟られ、また、追われ、求められた。修行をしなければ、身も、心も、目に見えないモノ達によって、喰らわれていただろう。確実に生き延び、父に恩返しするためにも、自分は、この道しか選べなかった。それでよかったと思う。
(それに、この生活をしてなかったら、もし生き延びたとしても、おれは生きてる実感を持ててなかったかもしれない)
 自分の力を活かせる喜びは、生きている喜びそのものだ。これこそが、自分の生きる道なのだ。
(女として、邸の中で暮らしてたなら、睡眠の喜びも、今ほど感じてなかっただろうしな)
 くすりと笑って、保憲は空を見上げる。昼間、この陰陽寮の庭から見上げる空は、日ごとに青さを増していく。草木の萌え立つ緑も徐々に色を濃く確かにしていき、薄手の袍に吹き込む風も次第に温くなっていく。夏へと、季節が移ろう。
「保憲!」
 同輩の陰陽得業生、笠名嗣(かさのなつぐ)の声を聞いて、保憲は振り向いた。笠名嗣と、同じく同輩の弓削時人が、廊から石階を降りて歩いてくる。笠名嗣は、かつて吉備(きび)と呼ばれた、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)、美作(みまさか)の四ヶ国に渡って勢力を持つ吉備一族――かの吉備真備を輩出した一族の中の、笠氏の人間である。
「帰るのか?」
 名嗣(なつぐ)の問いに、保憲は頷いた。
「少し、下準備をしておこうと思いまして」
「考えることは、皆(みな)同じか……」
 時人が物憂げな目を瞬き、ぽつりと呟いたので、保憲は訊き返した。
「ということは、お二人も?」
「ああ。帰る」
 短く答えた名嗣は、色黒のやんちゃな顔を、ふとしかめて言う。
「にしても、その丁寧過ぎる言葉遣い、いい加減やめろよ。おれ達同輩だろ? 歳だってそう違う訳じゃない」
「これが癖なんです。まあ、その内、崩れていきますよ」
 保憲は苦笑して答えた。十七歳の保憲に対し、時人と名嗣は一つ上の十八歳。しかし、三人とも、実際年齢より若く見られることが多い。痩せ型で保憲より僅かに背が高いだけの時人にしろ、本当は女である保憲にしろ、大概二、三歳は若く見られる。そして名嗣に至っては、保憲より小柄な外見や、直情的な振る舞いのせいで、三人の中で最も年下に見られることすらあるのだ。
「って言って、もう三年間、その言葉遣いのまんまだろ!」
「ですから、その内です。では、また今宵、朱雀門前で。急ぎますので、失礼します」
 さらりと言って、保憲はさっさと寮門を出た。絡むような話し方をする名嗣に付き合っていると、時間を無駄に過ごしている気になる。
(どうせまた睡眠時間が削られるから、少しは寝ておかなきゃならないしな)
 今宵は、陰陽得業生三人で、百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)の調査に行くのだ。
 つい先日、百鬼夜行に遭ったのは、三十二歳の暦得業生(れきとくごうしょう)、葛木茂経(かづらきのもちつね)である。渤海国(ぼっかいこく)大使(たいし)によってもたらされた唐土(もろこし)の新暦、長慶宣明暦経(ちょうけいせんみょうれききょう)の研究を続けていて、帰りが遅くなり、三条大路(さんじょうおおち)と大宮大路の辻で、群(むれ)をなして歩くこの世ならざるモノ達に遭遇したらしい。しかし、暦道(れきどう)だけを学んでいる茂経(もちつね)には対処する術(すべ)がなく、ただやり過ごして、暦博士(れきはかせ)大春日弘範(おおかすがのひろのり)に知らせた。事態を重く見た弘範(ひろのり)は陰陽博士賀茂忠行に報告し、忠行は更に陰陽助(おんようのすけ)小野氏守(をののうぢもり)、陰陽権助(おんようのごんのすけ)出雲惟香(いづものこれか)、陰陽頭葛木宗公に報告を上げた。上達部、殿上人が百鬼夜行に遭遇すれば大事になり、陰陽寮の怠慢も囁かれる。陰陽頭宗公(むねぎみ)は、陰陽得業生三人に速やかな調査を命じたのだった。
 百鬼夜行は対処が難しい。何しろ十把一絡げには扱えない相手が群れているのだ。一体一体に対応できればいいが、群れているという状況がなかなかそれを許してくれない。また、一旦強力な力を使って群れている鬼全てを祓ったり退散させたりしたとしても、根本的な原因を解決しない限り、すぐに鬼が集まってきて、あくる夜には、また百鬼夜行が生じるということになるのだ。結局のところ、百鬼夜行への最もよい対処法は、無駄な力を使わずに、神か仏の加護を請うて、身を低くしてその場をやり過ごすことなのである。
(しかし、百鬼夜行まで生じるなんて、よくよく、今上の御世は呪われてる)
 家路を歩きつつ、保憲は溜め息をつく。呪っている代表格は、やはり、菅原朝臣であろうか。
(けれど、あのお方とて、百鬼夜行などを自在に扱えはしないはず)
 そもそも百鬼夜行とは、手に負えない、扱えないものなのだ。
(星の巡り、気脈、地脈、水脈なんかに、原因があるのかもしれない……)
 星の巡りを知るには天文道。気脈、地脈、水脈を知るには陰陽道。どちらも陰陽寮の管轄だ。
(現地調査と平行して、情報収集もしたほうがいいだろうな)
 考えを巡らす内、邸に着いた。
「――何かあったのか?」
 上から声をかけられて、保憲は顔を上げた。入ろうとした西の中門の板葺屋根の上に、小丸が座っている。
(全く。気配が近くにあるのに姿がないと思えば、屋根の上か)
 本当にいつも、まともな場所にはいない人間だ。
「今夜、百鬼夜行の調査に行く。だから早く帰ったんだ。さすがに少し休んで行かないと、体がもたないからな」
「百鬼夜行……」
 小丸は顔をしかめて呟いた。小丸も、百鬼夜行が手に負えない現象だということは知っているのだ。
「頼んでいいか?」
 保憲は真っ直ぐに小丸を見上げ、その双眸を見つめる。
「おれから少し離れて、姿も隠して、気配もできるだけ消して、ついて来てほしい。おれの他に陰陽得業生が二人一緒に行くが、彼らにも気づかれないように」
「何でだ?」
「おれ達とはまた違う視点で、百鬼夜行を観想してほしいんだ。それに、いざという時、おまえがいると、助かる」
「――分かった」
 小丸は、照れ隠しか、ふいと視線を逸らしながらも、頷いた。

          二

 空には夕方から俄かに雲が広がり始め、日が暮れると、かなり膨らんだ上弦(じょうげん)の月を覆い隠して闇夜となった。動き易いよう身に纏った布衣を揺らして、生温かい、夏の気配のする夜風が吹いてくる。無数の蛙(かえる)の鳴き声が賑やかだ。
(やかましいが、これも、一つの指標になる)
 蛙達も、百鬼夜行には敏感だ。つまり、百鬼夜行が生じれば、その近くの蛙の鳴き声がぴたりと止む。
 保憲は、少し離れたところに小丸の気配を感じつつ、朱雀門の前で足を止めた。やがて、二条大路の闇の向こうから、時人と名嗣が現れた。二人とも、保憲同様、烏帽子を被り、布衣に着替えている。
「なら、行くか!」
 名嗣が神妙な面持ちで言い、時人と保憲は頷いて、三条大路と大宮大路の交差する、問題の辻へと連れ立って歩いていった。
 二条大路と三条大路の間には、北から、押小路(おしこうぢ)、三条坊門(さんじょうぼうもん)、姉小路(あねのこうぢ)の三つの小路があり、大宮大路と交差している。その姉小路を過ぎた辺りで、途切れるように蛙の鳴き声がしなくなった。
(いよいよだな)
 保憲は、歩き続けながら気配を消し、耳を澄ませる。ざわざわと、低いざわめきが聞こえ始めたのは、広い辻の全体が視界に入った時だった。ざわめきは段々と大きくなり、人声、足音、衣擦れ、武具などの触れ合う音が聞き分けられるようになり、そうして、音の主達が姿を現した。
 眼が一つしかないモノ、角が生えているモノ、馬頭のモノ、様々な恐ろしげな姿をしたモノ達が、松明(たいまつ)を持ったり、鬼火を伴ったりして、群れて歩いている。
(やはり、観想するのは難しいな)
 予想通り、群れているので、一体一体の正体が掴みにくい。
(さて、どうする?)
 ちらりと横を見遣ると、名嗣も時人も、気配を消しただけで、難しい顔をしている。二人とも、うまく観想できないようだ。
(小丸はどうだろうな……?)
 一瞬、小丸のほうへ意識を向けたのが間違いだった。注意して気配を消していたのに、隙ができてしまったらしい。百鬼夜行の群の中の一体が、すっと保憲のほうを見た。目が合う。
(人――)
 異形のモノには見えなかった。唐(から)風の古めかしい朝服姿をした男。だが、その気配は――。
(最早、鬼……)
 目が逸らせない。
(こいつだけでも、何とかしなければ……)
 保憲は、ひふみの祓(はらえ)を唱え始めたが、その自分の声が聞こえない。
(ひとふたみよいつむゆななや……)
 耳元がうるさくて、唱えているはずの自分の声が聞こえない。
(これは、奴らのざわめきじゃなくて……)
 ――流れる水音。
 そう気づいた瞬間、足が浮く感覚があって、体が揺れた。落下して、水面を割り、沈み、重く冷たい水に押し包まれた――。

            ◇

「保憲? くそっ、来たれ、毒粉(どくごな)の親族(うから)、毒顎(どくあご)の親族!」
「十九路十九路の祭(まつり)。翅鳥(しちょう)の陣……!」
 重なった低い叫びに、小丸ははっと目を開けた。観想に集中していた意識を、声のしたほうへ向ける。保憲が大路に座り込んでいる。二人の陰陽得業生は保憲を庇い、それぞれ、使役しているモノ達を呼び出したり、術を発動したりして、三人の存在に気づいた百鬼夜行に対峙している。
(保憲!)
 小丸は、身を隠していた築地の陰から飛び出した。
 走る小丸が見つめる先で、笠名嗣の周りに、夥しい数の蛾と百足が姿を現した。保憲から聞いたことがある。名嗣は、そもそも獣や虫が好きだったが、児(ちご)の頃、蠱毒(こどく)に使われる虫達を助けてより、それらの虫達の霊の加護を得られるようになったという。蠱毒とは、毒を持つ数多の虫を壺などの入れ物に入れ、蓋をして相争わせ、最後に生き残った一匹を使って呪う法だ。ここでいう虫とは、虫偏の蛇や蛙も含む。ゆえに、名嗣は、そういった毒虫達を、よく使うらしい。今回の「毒粉の親族」とは蛾、「毒顎の親族」とは百足のことのようだ。
――「因みに、名嗣が助けたのは、時人の父上の義貞(よしさだ)様が蠱毒に使おうとしてた虫達だったらしいよ。児がしたこととは言え、義貞様は大激怒で、今でも、名嗣は義貞様が苦手らしい」
 保憲はおかしそうに付け加えていた。
 呼び出された虫達の霊は、名嗣の合図で一斉に鬼達に襲い掛かり、蛾は舞い散る毒の鱗粉で鬼達の眼を潰し、百足は鬼達の足に群がり毒液の出る顎で喰いついていく。一方の弓削時人の傍らには、鵜(う)と鷺(さぎ)の紋様の袿をゆったりと着て、顔に衵扇を翳した、美しい女の姿をした式神が現れていた。その名も翅鳥(しちょう)という式神だ。その袿の鵜と鷺が、見る見る内に飛び出し、羽ばたいて、嘴と足の爪で鬼達へ襲いかかっていく。鬼と戦い、打ち落とされた鵜と鷺は、気づけば、それぞれ碁の黒石、白石となって転がっている。翅鳥とは、碁において、当たりの連続で相手を追い詰めていく激しい攻めのことである。四丁とも書き、これは、長い距離を追いかけていくという意味がある。成るほど、翅鳥という式神の名は以前から知っていたが、やはり碁の翅鳥のことだったのだ。
 しかし、圧倒的に見える彼らの虫や式神も、湧いてくるように際限なく続く百鬼夜行に対して、どこまで有効なのか――。
 一足飛びに保憲に走り寄った小丸の耳に、突如、朗々と唱える声が響いた。
「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カン マン!」
 不動明王(ふどうみょうおう)の真言の一つ、慈救咒(じくじゅ)だ。百鬼夜行をやり過ごすには、仏頂尊勝陀羅尼経(ぶちんそんしょうだらにきょう)や不動明王の真言の詠唱が有効ということは、広く知られているが、力ある言葉をこれだけきちんと使える人間はそうはいない。
「ノウマク サラバ タタギャテイビャク サラバ ボッケイビャク サラバ タラタ セアダ マカロシャダ ケン ギャキ サラバ ビキナン ウン タラタ カン マン!」
 更には、不動明王の火界咒(かかいじゅ)を唱えて、よく知っている少年僧が歩いてきた。
(あいつ)
 仁和寺の寛朝だ。先日気になった翳りはすっかり消えていて、頗る元気な様子である。
(本当に神出鬼没な奴だな)
 呆れつつも、小丸は安堵した。寛朝が唱えた真言により、百鬼夜行の群は波が引くように去っていく。不動明王の真言は、魔障を破壊し、魔障となるモノを恐れさせる咒なのだ。しかし、効果は一時的なものであり、根本的な解決にはならない。
「この場を離れろ!」
 小丸は二人の陰陽得業生の背中に低く叫ぶと、保憲を素早く背負い、後も見ずに賀茂邸へと走り帰った。

          三

 耳元から、水音が消えない。絶え間なく、豊かに、深く、水が流れている。
 大路に座り込み、小丸に背負われたことまでは、朧に覚えている。が、その先の記憶はない。目を開けると、やはり小丸の顔があった。格子と簾を透かした柔らかな朝日を頬に受けて、心配そうに覗き込んでいる。
「……また、助けられたな」
 保憲が呟くと、小丸はほっとしたような、怯んだような、複雑な表情になって、すいと枕元から離れていった。入れ替わるように枕元に来たのは、袈裟を着ず、袍と裳と袴も着崩した少年僧である。
「寛朝様」
 眉をひそめた保憲に、天皇家の血を引く少年僧は、にっと笑って告げた。
「感謝しろよ? 昨夜は、おれがあんたを助けてやったんだ」
「それはありがとうございます。しかし、また何故、あの場にいらしたのですか?」
「夜歩きの最中に嫌な気配がしたから、行ってみたのさ」
「で、わたしをお助け頂いて、そのままこの邸までいらしたのですか?」
「ああ。仁和寺まで帰るのも面倒だったからな。あの二人の陰陽得業生も来るとか言ったんだが、おれが帰れって言って帰らせたぜ。こんなところまで来られたら、ばれちまうかもしれねえだろう?」
 保憲は、両眼を鋭くして、寛朝を見た。同時に、保憲のすぐ傍らに、すっと白君が現れ、同じく鋭い眼差しを寛朝へ向ける。
 当然と言えば当然だ。母と繋がりのある寛朝なら、保憲が女ということも知っているだろう。だが、それを今ここで公(おおやけ)にするというのだろうか。とうとう、男としての日々が終わる時が来たのだろうか。
 寛朝は少しばかり身を引いて、体の前でひらひらと両手を振った。
「警戒しねえでいい。別に、他へばらす気はねえよ」
「母から、お聞きになったのですか?」
 できる限り穏やか、且つ単刀直入に問い質すと、少年僧はあっけらかんとして答えた。
「あの人は、あんたのこと、可愛い夏虫としか言ってねえよ。それに、その程度のこと、最初に会った時に気づいたしな。おまけに、そこらへんの事情は、葛城山の神さんからも、しっかり聞いちまってるぜ」
「――さすが、相当の力をお持ちなのですね」
 なかなかに手強い相手だ。女と知られてしまっていることについては、諦めるしかないだろう。ただ、母との関わりについては、はっきりと確認することができた。
「あんたほどの力の持ち主に言われると、素直に嬉しいね」
 にっと笑うと、寛朝は座り直し、真顔に戻って、じいっと保憲を見つめる。
「で、まだ、憑かれてるんだな?」
「ええ」
「相手は何だか分かるか?」
「わたしに憑いている相手は分かりませんが、昔の朝服を着た、既に鬼となった男と目が合った途端、憑かれました。それから、ずっと、耳元で水音が続いています……」
 頭が重く、鈍痛がする。保憲は言葉を切って、こめかみを押さえた。百鬼夜行の中にいたあの男は、一体何者だろう。耳元から離れない水音、水に沈んだと思ったあの錯覚は、何を表しているのだろう。
「水音、ねえ……」
 寛朝は顎に手を当て、考える顔になった。小丸も己の曹司との隔てになっている襖障子の前に座って、険しい顔をしている。皆が黙った中、口を開いたのは、保憲に寄り添うように座った白君だった。
「この京は、水に支配されている」
 ぽつりと言って、式神は保憲を見、言葉を続ける。
「この京は、水を治めてから造られた」
「確かにそうだが……、水の神、川の神が関係してるってことか?」
 寛朝の問いに、白君は目を伏せた。
「はっきりとは、わたしにも分からない。しかし、神は百鬼夜行に加わったりなどしない」
「そうだよな……。ああ、分っかんねえ!」
 寛朝は両足を投げ出して、仰向けに寝転ぶ。
「――お話に加わっても宜しいでしょうか?」
 西の対を真ん中で仕切る中の戸の向こうから、ひぐらしの声がした。寛朝がいるので控えていたのだろうが、何か思いついたのだ。
「これは、麗しい声のお方、どうぞ」
 寛朝がぱっと起き上がって促した。
「はい。もしや、その鬼となった男は、わたくし達賀茂氏の先祖に関わりがあるのではないかと。われらが賀茂氏の先祖は、賀茂川流域に勢力を持っていた豪族ですので」
 京に都が造られる時、皇室は、この地を流れる賀茂川沿いに勢力のあった賀茂氏の協力を得る必要があった。ゆえに朝廷は、皇室の産土神(うぶすなのかみ)として、賀茂氏の神である賀茂別雷神と玉依姫、賀茂建角身命を祀(まつ)るようになり、賀茂祭が盛大に行なわれるようになったのである。

            ◇

 辰(たつ)の一刻頃になって、弓削時人と笠名嗣が、仕事を抜け出し、見舞いに訪れた。
「こちらには忠行様がいらっしゃるから、大事には至らないと思うが……、無理はするなよ……」
 簾の向こうから声をかけてきた時人の口調は、いつも通り朴訥で淡々としていたが、重たげな瞼の下の眼差しは、誠実さに溢れていた。心底心配してくれているのだろう。
「わざわざ来て下さったのに、簾越しなどと、よそよそしくしてすみません。けれど、烏帽子もつけず、失礼な格好をしていますので。今のところは、大したことないのですが」
 莚の上に身を起こして保憲が答えると、今度は名嗣が口を開いた。
「今宵も、おれ達は百鬼夜行の調査に行く。少しでも何か掴んで、おまえの助けになれるようにする。だから、おまえは、くれぐれも安静にしていろ」
「お心遣い、感謝します。しかし、体調の加減によっては、わたしも行かせて貰います」
 保憲の返答に、名嗣は盛大に顔をしかめ、時人も微かに眉をひそめたが、二人とも同輩の性格はよく承知してくれているのだろう、それ以上は言わず、名嗣が別のことを口にした。
「で、昨夜のあの方とあいつは、今宵も来るのか?」
 保憲は几帳を立てた傍らを見た。名嗣と時人からは見えていないが、寛朝も小丸も、気配を消してその陰にいる。
「あのお方のことは分かりませんが、小丸には、行くなと伝えましょうか?」
 二人がそこにいないことを装って保憲が問うてみると、名嗣は、複雑な表情をして言った。
「いや、また、おれ達の手に余ることにもなりかねないしな。来てくれたほうがいいんだろ。正直言えば、おれは、陰陽得業生として、助けられるってのは、癪なんだがな」
「それは、わたしも同じですよ」
 保憲は、視界の隅に二人を捕らえつつ、さらりと同意したのだった。

            ◇

 日が高くなり、また緩やかに落ちていく中、まどろむ保憲の頭に繰り返し現れたのは、賀茂神社に祭られた神々の話だった。
 賀茂建角身命は賀茂川の地を守る神である。ある時、彼の娘の玉依姫が瀬見(せみ)の小川で水遊びをしていて、一本の丹塗矢(にぬりや)を拾った。この赤い矢を寝床の辺りに置いていたところ、姫は身籠って、別雷神(わけいかづちのかみ)を生んだ。実はその矢は、有力な山の神である大山咋神(おおやまくいのかみ)の化身であったという。似たような話は、三輪山(みわやま)の大物主神(おおものぬしのかみ)が丹塗矢となって勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)と結ばれたとして、古事記にもあるが――。
(あの話をしてくれたのは、父上じゃなく、母上だったな……)
 朝廷に重んじられる以前から賀茂氏が祭っていた三柱の神の話だ。父の忠行が語ってくれてもよさそうなものだが、幼い日の自分を膝に抱えて語ってくれたのは、母のあやめだった。母から教えられたことは、他にも多くある。
「ひとふたみよいつむゆななやここのたりふるへゆらゆらとふるへ」
 保憲は、ひふみの祓を低い声で唱えた。ひふみとは日文(ひふみ)。真名、即ち漢字ではない、この国の言葉ということだ。このひふみの祓やひふみ祓詞(はらえことば)を子守唄のように保憲に教え込んだのも、母である。
(あの人は、本当に一体、何者なんだろうな……)
 保憲が葛城山へ行った時、姉は、父からの母のことについて聞いたという。それによれば、母が邸を出ていったのは、保憲が背負って生まれた過酷な定めを、少しでも変えるためだという。夏虫という童名にも、定めに立ち向かえという意味が込められていたらしい。だが、その時も父は、母が実際に何者で、何故、保憲の定めを知っているかについては、語らなかったという。父も、母の素性について知らないのか、或いは、これまで、母が邸を出ていった訳を語らなかったのと同様、まだ、それについて語る時ではないと思っているのか。
 考え、物思う耳元で、水音はまだ続いている。小丸は襖障子の向こうの曹司におり、寛朝は保憲の部屋に飽きたのか、西の釣殿にわざわざ高坏(たかつき)を運ばせて夕食をとっているので、寝間には静けさが戻り、余計に水音が大きく聞こえる。
(そう言えば)
 保憲は、ふと神々の話に思考を戻した。賀茂建角身命、玉依姫、賀茂別雷神は賀茂神社に祭られている神だが、大山咋神は違う。
(大山咋神は、日吉(ひえ)神社や松尾神社に祭られてる、秦(はだ)氏の氏神)
 秦氏は、桂川沿いに勢力のあった豪族で、賀茂川沿いに勢力のあった賀茂氏とも、姻戚関係を結んでいた。
(成るほど、神でもなく、昔の朝服を着てて、この地の水に関わりの深い人、か……)
 保憲は、簾と格子の向こうに透けて見える夕焼けを、やや西寄りの南の空のほうを、じっと見つめた。

          四

 陰陽頭葛木宗公が先頭に立って、大臣、上達部達に忌夜行日であると広めたので、宵闇に松明を掲げて大路小路を行く車は少なく、たまに通っても、四位五位以下の者が主に乗る、質素な網代車(あじろぐるま)だ。
「身分が高くなりゃなるほど、わが身可愛さに陰陽寮の言うことを聞くようになるから、こういう時は便利だな」
 名嗣が話しかけると、隣を歩く時人は、相変わらず物憂げな目で前方を見たまま答えた。
「ああ。それが、彼らの賢さだよ……」
「確かにな」
 頷いて、名嗣は夜空を見上げた。今宵も、空は曇っていて闇が深く、風が生温い。そうして歩みを進める内、また同じ辺りで、蛙の鳴き声がぴたりと止んだ。
(せめて、昔の朝服を着てるっていう男の鬼だけは見つけて観想してやらないと、あいつも長い間憑かれたまんまじゃ、さすがにやばいだろからな)
 保憲のほうはどうか知らないが、名嗣は保憲を嫌ってはいない。賀茂氏にもいろいろあるが、保憲の六代前の先祖、賀茂吉備麻呂(かものきびまろ)の出自は、その名の通り、吉備一族である。ゆえに、同じ吉備一族の血を引く者として、名嗣は保憲にそれなりの親近感を持っている。それは、かの道鏡や、式占や夢占(ゆめうら)の達人として名を馳せた陰陽師、弓削是雄(ゆげのこれお)の血脈たる時人に対する感情とはまた質の異なるものだ。遣唐留学生(けんとうりゅうがくしょう)となって様々なものを唐土から持ち帰り、この国における陰陽道の先駆者ともなった吉備真備。その真備の出身氏である下道(しもみち)氏や、真備から始まった吉備(きび)氏は廃れたが、同じ吉備一族たる笠氏は脈々と続き、陰陽道を守っている。保憲の賀茂氏にも、その一翼を担って貰わねばならない。偉大なる真備の心を受け継ぐ、力ある者達が切磋琢磨してこそ、陰陽道は発展していくのである――。
 ざわめきに、名嗣は足を止め、気配を消した。隣の時人も同様にして、前方の広い辻を見つめている。ざわめきは徐々に大きくなり、昨夜と全く同じように、鬼の群が現れた。

            ◇

 北には貴布禰(きぶね)神社のある貴布禰山(きぶねやま)と鞍馬寺(くらまでら)のある鞍馬山(くらまやま)、東西を賀茂川と桂川が流れ下り、南には豊かな水を湛えた巨椋池のある、この京。
(この地は、水に擁かれてる)
 保憲は、耳元から消えない深い水音に半ば心を委ねながら、浄衣を纏い、冠を被って邸を出た。
「今宵は、手出し無用に願います。……おまえもな」
 後ろからついて来る寛朝と小丸に言うと、闇の中、耳元の水音が導くままに、百鬼夜行の生じる辻へ向かった。

            ◇

(水音、か……。今年は癸巳(みづのとみ)の年だが、何か関係があるのか……?)
 注意深く観想しつつ、名嗣は考える。十干の癸(みづのと)は陰の水(すい)、十二支の巳(み)は陰の火(か)で、癸巳は陰の関係たる相剋、即ち、水剋火を表す。
(水が火に剋(か)つ、水が火を消し止める、陰の関係……)
 しかし今は、丁巳(ひのとみ)の月である。十干の丁(ひのと)は陰の火、十二支の巳も陰の火なので、比和だ。つまり、同じ気が重なっているので、よいことならばよいほうへ、悪いことならば悪いほうへ、益々盛んになるのである。
(陰の火の比和……)
 陰の水が陰の火を消し止める陰の関係の年の、陰の火が盛んな月。
(気が乱れまくる感じだな……)
 だからこそ、百鬼夜行などが生じるのだろう――。
 つと袖を引かれて、名嗣は時人を振り向いた。同輩の少年の双眸は、百鬼夜行の一点を見つめている。その視線を辿ると、成るほど、唐風の、古の朝服を纏った男が、異形のモノ達に混じって、進んできた。
(あれか)
 この地に都が移された頃まで用いられていた朝服だ。
(新しい鬼じゃないな)
 観察し、意識をその鬼に集中させて五行を観想する。鬼から濃く感じられるのは、やはり、陰の水の気だ。しかし、その気は細く弱々しい。
(もしかしたら、水虚火侮になってるのか)
 相剋の水剋火の反対である。水が弱いため、火に剋つことができず、逆に火が水を侮るという、相侮と呼ばれる関係だ。
(だとすりゃ、この都が危ないんじゃないのか……?)
 険しく眉をひそめた名嗣の耳に、前触れもなく、保憲の声が響いた。

  太秦(うづまさ)は神とも神と聞こえくる常世(とこよ)の神を打ち懲(きた)ますも
  〔太秦は、神の中の神と言われている常世の神を打ち懲らしめたことよ〕

「などと歌にまで詠まれたあなた様が、今は鬼ですか」
 淡々とした口調で言いながら、一つ年下の同輩は、名嗣の傍らを行き過ぎ、古の朝服姿の鬼へと歩み寄る。名嗣は驚いて、鬼と保憲とを見比べた。
 太秦とは、秦氏を指す言葉だ。その昔、秦酒公(はだのさけきみ)が分散していた秦氏を集めて絹を織り、雄略天皇に献上して賜った姓であり、豪族であった秦氏が繁栄していた桂川沿いの土地の名ともなっている。けれど、今、保憲が歌った古い歌に詠まれた太秦は、ただ一人を表す。即ち、かつて聖徳(しょうとく)太子から仏像を賜り、広隆寺(こうりゅうじ)を創建した、かの秦河勝(はだのかわかつ)を。
 皇極(こうぎょく)天皇の御世、東国は富士川(ふじがわ)の辺で、大生部多(おおうべのおお)という男が、とある虫を示し、言った。
――「これは常世の神だ。この神を祭る者は、富と寿(いのち)とを授かるだろう」
 村々にいた巫や覡(をかむなぎ)、祝(はふり)らが彼に従い、神のお告げだと言って、常世の神を祭れば、貧しい者は富み、老人は若返ると触れ回るようになった。彼らはまた、信者となった者の家に酒と肴を用意させ、家の前の路(みち)には家畜を並べさせて、叫ばせた。
――「この通り、財産が舞い込んだ!」
 忽ち、その地には、常世の神を家に置き、その前で歌ったり踊ったりする人や、更には財産をも寄進してしまう人が多く出た。秦河勝はこの噂を聞いて怒り、大生部多を捕らえて、徒に人心を惑わしたとして、殴打した。従っていた巫、覡、祝らは逃げ散り、常世の神信仰は消えた。その時に詠まれたのが、先ほど保憲が口にした歌なのである。
(この鬼は、秦河勝様なのか)
 太秦にいた秦氏の氏の長者であった秦河勝。内裏の紫宸殿も、元は河勝(かわかつ)の邸だったという、それほどの実力者。
(一体何で、百鬼夜行なんかに紛れてる……?)
 名嗣が思った疑問に被せるかのように、保憲が問うた。
「どうして、このような形で、出ていらしたのですか?」
「……澱ガ現レタ」
 鬼は黄色く濁った双眸で保憲を見つめ、低くしわがれた声で答えた。「澱」とは、何を指すのだろう。名嗣と同じ疑問を持ったのか、保憲が重ねて問うた。
「『澱』……ですか?」
「澱ガ現レタ」
 鬼が繰り返した答えに、保憲は問いを変えた。
「何故、『澱』が現れたのですか?」
「人ノ思イガ積モリ過ギタ。積モリ積モッテ、澱ヲ生ンダ」
「『澱』とは、何ですか?」
「平ラゲ、マサニ帝タラントスル者」
 鬼の言葉に、名嗣は目を瞠った。隣の時人も、小さく口を開き、驚いている。帝に――天皇になろうとする者が現れたとは、あまりに大事(おおごと)過ぎる。更に問う保憲の口調にも、さすがに動揺が滲んでいた。
「『帝たらんとする』……。どこに現れたのですか」
「東国。既ニ、コノ地ヘモ暫ク来テイタコトガアル」
「その者の名は?」
「平ラゲ、マサニ帝タラントスル者」
 鬼はまた淡々と、同じ答えを繰り返した。保憲は仕方ないというふうに、再び問いを変える。
「そのことを知らせるために、百鬼夜行を?」
「コノ地ハ守ラレネバナラヌ。澱ヲ遠ザケネバナラヌ。流レノ乱レヲ正シ、穢レヲ清メネバナラヌ。ユエニ、乱レヲマトメ、穢レヲ集メ、百鬼夜行トシテ誘(イザナ)イ、ソナタラヲ待ッタ」
 つまりは、この鬼が、地脈、気脈の乱れをまとめて、穢れを集め、わざと目立つように、ここに百鬼夜行を生じさせているのだ。全ては、「澱を遠ざけ」るために。
(ってことは、秦河勝様らしいこの鬼さえ鎮められりゃ、この百鬼夜行を収められるのか?)
 名嗣の推測に被せるかのように、保憲が問うた。
「如何にすれば、この百鬼夜行を収められますか」
「流レノ乱レヲ正シ、穢レヲ祓エ。ソナタハソノ法ヲ承知シテオル。ソレニヨリ、コノ百鬼夜行ハ収マリ、コノ地カラ暫ク澱ハ遠ザカル。ジャガ、一度現レシ澱ハ消エヌ」
「『澱』を消すにはどうすればいいのですか?」
「耳ヲ澄マシ、力アル者ヲ集メ、時ヲ待テ。澱ヲ消シ去ルニハ、ソナタラノ力ガ要ル」
「……分かりました」
 漸く問いを収めた保憲に、鬼はふと目を細めて言った。
「厩戸皇子(ウマヤドノミコ)ヲ敬愛スル者トシテ、常世ノ神ダケハ許セナンダノジャ。アレハ橘ヲ食ラウ虫。正シキ信仰ヲ損ナウモノデアッタユエ」
 厩戸皇子とは、聖徳太子のことだ。ならば、「橘」とは、俗に橘寺(たちばなでら)と呼ばれる仏頭山上宮皇院菩提寺、つまり聖徳太子が創建した天台宗の寺のことをも指しているのかもしれない。
「そうでしたか。しかしそれも、最早、昔のことでしょう」
 やや素っ気無く言葉を返した保憲に、鬼はにたりと笑う。
「ドレホド時ガ経トウトモ、強イ思イハ消エヌ。道真ノヨウナ童トテソレハ同ジ。侮ルデナイゾ」
「心しておきましょう」
 恭しく応じた保憲は、右手を夜空に向けて上げ、高らかに呼んだ。
「来たれ! われに名を告げしモノ、八よ!」
 名嗣は眉をひそめた。「八」とは、何の名だろう――。
 一瞬の時をおいて、南の空から、きらきらと光り輝くモノが飛んできた。まるで降るように辻の真ん中に落ちてきたのは、十歳ばかりの少年の姿をし、無数の剣を綴って纏った、人ではあり得ないモノ。
「また、穢れたところに呼び出されたものじゃな。そなたが息災でおるのは何よりじゃが」
 少年の姿をしたモノは、幼い声で不満げに言い、金色の双眸で周囲の鬼達を見回す。弱い鬼達は、その眼光を受けただけで、声を上げる間もなく消えていった。
「ヨキ流レジャ。デハ、マタ会ウコトモアロウ――」
 満足げに、不敵に呟いて、秦河勝であった鬼は、他の鬼とは異なり、自ら消えた。保憲はその様子を一瞥すると、言った。
「八、あなたの溢れんばかりの気で、この辺りの気の流れを正し、穢れを祓って下さい」
 少年の姿をしたモノは肩に垂らした黒髪を揺らして頷き、ぱあっと、更なる光を発して――、龍に変じた。
 龍は問題の辻の上で輝く体をくねらせ、ぐるりと回る。途端に大風が起こり、衣の袖で顔を庇った保憲や名嗣達を吹き飛ばさんばかりにして、大宮大路と三条大路を、轟と吹き抜けていった。続いて龍は夜空へ昇り、腹に響く声で咆哮した。直後、龍の周りに黒雲が湧き起こり、すぐに、激しい雨が叩きつけるように降り始めた。やがて雨は徐々に穏やかになり、名嗣が気づけば、いつの間にか鬼達の姿は全て消えて、蛙達が嬉しげに鳴いている。
 空にいた龍は、最後に保憲の前に降り立った。
「そなたの場合は、穢れという訳ではないが、気の流れは乱れておるからな。――もうよいじゃろう?」
 さらりと言って、金色の双眸で保憲を見つめ、輝く鼻先を保憲の額に押し当てた。その一瞬、保憲に憑いていたモノが、ふうっと離れるのが、名嗣にも感じられた。
「姫、この者を守っていたのか?」
 龍の問いに、保憲から離れたモノは、小降りになっていく雨の中、ゆらりと揺れた。それは頷きのようで、名嗣は懸命に目を凝らし、揺れたモノを見つめた。人の姿をしたモノだ。豊かな黒髪をゆったりと結っている。領巾(ひれ)を肩に掛け、細い帯をして、古風な裳を着けている。
「成るほど、この者は、姫にとっても大事な者なのじゃな」
 「姫」の声は名嗣には聞こえず、龍の言葉だけが耳に入る。
「そうか。河勝のこともな……。姫は、優しいな。――では、またいずれ。そなたらも、あまり危ないことばかりせぬようにな」
 龍は偉そうに別れを告げると、体をくねらせて夜空へ昇り、南のほうへ帰っていった。一瞬遅れて、保憲の傍らを漂っていた「姫」もすうっと消え――。
「やっぱり、本物の龍は迫力が違うねえ!」
 感嘆の声を上げて築地の陰から現れたのは、寛朝である。
「潅仏会で見た龍の作り物も綺麗には出来てたが、どうしたって本物には敵わねえな。しっかし、あんた、あの龍まで使えるとはね。あの時は、何で龍のほうから助けに現れるんだって思ったが、あんたを助けるために出てきたんだよな。全く、恐れ入ったぜ!」
「使えるというほどのものではありません。とにかく、邸へ戻りましょう」
 保憲は疲れた声で答えて、さっさと歩き出した。その傍らへ、どこからか、あの家人の少年が、すっと現れる。やはり来ていたのだ。名嗣は、寛朝に追い払われる前にと、慌てて口を開いた。
「何がどうなったのか、よく分からない部分があるからな。おれも行かせて貰うぞ」
「……おれも」
 隣で、時人も口を開く。珍しく意欲的になっている。
「詳しい事情を知りたい」
「分かっています。どうぞ、皆様、邸へ」
 振り向いた保憲は、鷹揚な身振りで、賀茂邸のほうを手で示した。

          五

 時人と名嗣、寛朝、小丸が集まり、白君も現れ、中の戸の向こうには、ひぐらしと、話を聞きつけて東の対を抜け出してきたすがるも控えた西の対の自室で、切燈台の灯りの中、保憲は淡々と告げた。
「あの鬼は秦河勝様。わたしに憑いて――、いえ、入っておられたのは、賀茂玉依姫(かものたまよりひめ)様です」
「玉依姫様……!」
 すがるが中の戸の向こうで驚いた声を上げる。無理もないだろう。
「玉依姫様は、龍の八の問いに答えて、仰せられました」
 保憲は燈火を見つめて説明する。
「わたしのことも、秦河勝様のことも、守りたかったと。この地への妄執と心配のあまり、秦河勝様は鬼となってしまわれた。その秦河勝様をも守るため、玉依姫様はわたしに入り込み、龍を呼ばせて百鬼夜行を浄化させ、河勝様を救われたのです」
「元はと言えば、賀茂氏の氏神様。秦氏とも縁続きの好(よしみ)か」
 寛朝の言葉に保憲は少し黙った。賀茂祭はもともと秦氏の祭であり、その婿たる賀茂氏に祭が譲与されたという記録もある。だが、わざわざそこまで細かいことを話す必要もないだろう。保憲はただ短く答えた。
「秦氏と賀茂氏は、姻戚関係にありますからね」
「成るほどな」
 寛朝はあっさりと納得し、それからくるりと表情を変えて問うてきた。
「で、『平らげ、まさに帝たらんとする者』ってのに心当たりはあるのか?」
「問題は、それですね」
 保憲は切燈台の炎を見つめた。一体何者のことなのか、河勝から明確な答えを引き出すことはできなかった。
「『平らげ、まさに帝たらんとする者』か……」
 時人が考え深げに首を捻った。
「『平らげ』、って、何を平らげるのかしら」
 中の戸の向こうで、すがるが呟いた。皆が黙する中、小丸が口を開いた。
「帝になろうとして平らげる……、都、か?」
「都っていうより、朝廷に従ってる国々全て、じゃねえのか?」
 寛朝が皮肉な笑みを浮かべて、保憲、時人、名嗣を見た。
「不穏……ですね……」
 時人が口調だけは淡々と言い、皆がまた押し黙る。沈黙が続き、やがて寛朝が言った。
「ま、その時が来たら、否が応でも分かるだろうぜ。おれは疲れた。仁和寺まで帰るから、保憲、何か呼び出して送ってくれ」
 全く、自己中心的な僧である。
「分かりました」
 内心を隠して涼しい顔で応じ、保憲は立ち上がって三十六禽を呼び出した。時刻は寅の時。現れたのは狸(たぬき)と豹(ひょう)と虎(とら)である。名嗣が顔を引きつらせ、時人が顔をしかめる前で、寛朝は嬉しげに虎に跨り、仁和寺へと帰っていった。狸と豹には姿を消させ、保憲は再び腰を下ろす。
「……静かになったな」
 名嗣の安堵した声がぽつりと響き、保憲はくすりと笑って言った。
「今宵はもう遅いですから、名嗣殿も時人殿も泊まっていって下さい」
「悪いな」
「そうさせて貰うよ……」
 名嗣はぐったりとした様子で言い、時人も布衣の襟元を緩めながら答えた。二人とも、寛朝のお陰でかなりの緊張を強いられていたらしかった。
(まあ、おれも、相当疲れたからな)
 保憲は白君に命じ、自室に二人の寝床を整えさせながら思う。顔色にも出ているのだろう、小丸が心配そうな目をして、ちらちらと見てくる。保憲は中の戸の向こうへ声をかけた。
「姉上、わたしの部屋は手狭になるので、そちらの部屋の隅で休ませて下さい」
「ええ、隅と言わず、どうぞ」
 姉の承諾を得て、保憲は重たい体を引きずるように立ち上がった。
「本当に、悪いな」
「すまない……」
 名嗣と時人がそれぞれ決まり悪げな顔をしてくれたが、そもそも今夜は、姉と二人きりで話したいことがあるのだ。玉依姫のことで、姉に確かめたいことができたのである。
「気になさらないで下さい。いつもは寂しい、鬼の対と呼ばれるこの対の屋に、お二人をお泊めできて嬉しいですよ。――ああ、それから」
 微笑んで答えると、保憲は、己の曹司に引き揚げようとしている小丸に視線を送って、言葉を継いだ。
「もし、よかったらですけれど、小丸の碁の相手をして貰えませんか。このところ、修行の一環として、碁をさせているんです」
「わたくしでよければ、喜んで」
 応じて、すうっと時人の袖の辺りから姿を現したのは、式神の翅鳥である。元々は、古い碁盤が化したモノで、彼女を恐れた持ち主によって、弓削家に持ち込まれ、式神となったと聞いている。
「では、頼みます」
 保憲は頷き、些か憮然とした顔の小丸に、笑みを送って、東南の妻戸から簀子へ出た。閉める妻戸の向こうで、小丸が渋々と、翅鳥と碁盤を挟んで向かい合うのが見えた。翅鳥は強い。碁聖と呼ばれるあの寛蓮大徳と、一目も置かずに勝負して、皆殺しに打ったという話が伝わっているほどだ。
(修行だ、小丸)
 胸中で呟いて、西南の妻戸から入った保憲を、姉が笑顔で迎えてくれた。その隣では、異母妹が、何やら難しい顔をしている。
「姉上、お邪魔します。すがる、眉間に皺が寄ってるぞ。何を考えてる?」
 保憲の問いに、姉が困った顔で答えた。
「この子は、まだ、『平らげ、まさに帝たらんとする者』について考えているのよ」
「考えるのはいいが、自分の部屋へ帰れ」
 保憲が言うと、すがるは明らかに不満そうな顔をした。
「どうして? もう夜も遅いのに! お母様を起こしてしまうわ!」
 ここで寝るつもりでいたらしい。
「静かに歩けば問題ない。どちらにしろ、朝には部屋にいないと、母様に怒られるんだろう? 帰れ」
 保憲は重ねて冷たく言い放った。
「――分かったわよ」
 口を尖らせて、すがるは立ち上がり、保憲を睨みながら妻戸から出て、それでも足音だけは静かに東の対へと帰っていった。
「何も、こんな暗い中帰さなくても、明け方でよかったのではなくて……?」
 心配そうな姉の前へ座り、保憲は溜め息をついてから言った。
「少し、二人きりでお話ししたいことがあるので、こちらへ」
 姉の部屋の西北の隅には塗籠(ぬりごめ)がある。保憲はその入り口の妻戸を開けた。四方を壁で塗り籠めたこの狭い室なら、話し声が漏れることもない。納戸として使われているので、いろいろな物が置いてあるが、二人が座る場所くらいはある。保憲は埃っぽい板の間へ腰を下ろし、戸惑う姉を手招きした。
「一体何なの……?」
 姉は眉をひそめながらも、塗籠に入ってくると、真っ暗になるのも構わず、入り口の妻戸を閉めてくれた。勿体をつけることでもない。保憲は率直に切り出した。
「玉依姫様は、おれから離れる時、最後に仰いました。『われらが愛し子の末なる者にして、桂(かつら)に連なる子よ、健やかに』と。『われらが愛し子の末なる者』とは、恐らく賀茂氏と秦氏の血を引く者という意味だと思うんですが、姉上は、何か、母上からお聞きになってますか」
 姉は驚いた顔をした後、暫く沈黙していたが、やがて首を横に振って呟くように言った。
「――いいえ、何も。でも、桂というのは、お母様の氏かもしれないわね……」
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