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第一章 始まりの夜 三

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          三

 一通りの治療を施された夜行族吸血一族の少年は、眠っているようだった。微かに聞こえる穏やかな寝息は、容態が落ちついていることを感じさせて、スカイは川岸の岩に凭れて座ったまま、少し安堵した。だが、気を抜いてはいけないのだろう。
「――あの黒頭巾、追ってくるかな」
 勇気を出して、沈黙を破った言葉に、傍らに同じように座っているらしい、ユテの静かな声が答えた。
「恐らくは。ただ、ここは風竜一族の里に近いから、夜行族のほうに、何かお伺いを立てているかもしれない。五族は、お互い不干渉が基本だから」
 ユテは、きっとそこまで計算して、二人をこの山へ連れてきたのだろう。
「『五族は、お互い不干渉が基本』か。けど、あいつ、おれと同じ、《混ざり者》なんだな?」
 スカイは、もうほとんど真人族だが、地老族の血を僅かながら引いているという点で、やはり《混ざり者》だ。しかし、ユテの言葉を聞く限り、あの黒頭巾の少年は、もっと顕著に《混ざり者》なのだ。
「あの気配は、明らかに、半分が夜行族吸精一族、もう半分が天精族火竜一族だ。第一世代の《混ざり者》だよ。でも、火竜一族としての力は、全く使えないようだった。おまえ特製の激辛調合香辛料も、火で燃やしてしまえば、何ということはなかったはずなのに、そうしなかった」
 ユテの指摘に、スカイは別の意味で驚いた。
「おまえ、あの香辛料知ってたのか」
「――以前、チムニー殿から、味見させて貰ったことがある。おまえは料理が得意で、作ったものをいろいろ届けてくれる、と自慢されながら」
「へえ」
 スカイは急に心が温まるのを感じた。自分の知らないところで、〈大おじいちゃん〉と親友は、そんな交流もしていたのだ。
「――なあ、ユテ」
 新たな勇気を得たスカイは、真剣な口調で切り出す。
「おれとおまえは、おまえが言う通り、いろいろと違うのかもしれない。けど、おれは、おまえと一緒にいると、ただそれだけで、幸せなんだ。おまえと出会ってからの四年間は、おまえにとっては短い、どうでもいい時間かもしれないけど、おれにとっては、掛け替えのない、大切な時間なんだ。だから、『虫けら並』の『瞬きするくらいの時間』――、おれが死ぬまでの間、おれと、友達でいてくれないか? ずっと、傍にいてほしいんだ」
「――本当に、虫けら並の頭だね」
 闇の中、返ってきた声には、怒気が滲んでいた。次いで、頭にひんやりとした手が触れ、ぐいと引き寄せられる。上腕にユテの肩が当たり、頬に、ユテの頭が触れた。スカイの帽子の耳覆い部分と、柔らかな髪が感じられる。
「おまえは、何も分かっていない」
 レイン村の橋の上でも聞いた言葉を繰り返し、ユテは、スカイを引き寄せる手に力を込める。
「おまえと友達になって、おまえがいなくなるまでずっと一緒にいて……、その後、おれはどうなる? おまえがいなくなった後の孤独を、どうやって埋めればいい? 普通に生きれば、おれの寿命はまだまだ続くのに」
 スカイは、小さく息を呑んだ。確かに、自分は「虫けら並」の頭だ。自分の気持ちばかり考えて、ユテの気持ちなど、少しも考えていなかった。
「ごめん……」
 俯いて謝ったスカイの頭に、ぐいと帽子を被せて返すと、ユテは、すっと体を離した。そうして、闇の中から、ぽつりと告げた。
「今回のことが終わったら、おれは、風竜一族の里へ戻る。おまえには、もう会わない。そうしないと、おれが、つらいんだよ……」
 返す言葉が見つからず、スカイはただきつく、己の膝を抱えた。五族協和は、夢のまた夢だ。自分達は、違いを乗り越えられない。お互いを、大切に思えば思うほどに――。
「見つけたぞ」
 聞き覚えのある少年の声が、頭上のほうで響いた。
「風竜一族の里の近くでも、お構いなしか」
 ユテが応じて、立ち上がったらしかった。相変わらず、スカイには、頭上の満天の星以外、何も見えない。
「その吸血一族をこっちに引き渡せば、何もしない。抵抗するなら、それはあんたらに咎のあることだ」
 返ってきた答えに、ユテはくすりと冷笑した。
「成るほど。そういう理屈で来たか」
 それから、ふと口調を変えて、ユテは言う。
「おれの通し名は、ユテだ。きみの通し名は、何という? 火竜一族の中で育たなかったとしても、天精族としての忌み名と通し名だけは、与えられているはずだ」
(忌み名? 通し名?)
 どちらもスカイが初めて耳にする言葉だった。親友の「ユテ」という名は、呼び名に過ぎず、本当の名ではないということだろうか。
「おれは、夜行族だ。夜行族吸精一族のクロガネ」
 降ってきた相変わらず頑なな返事に、ユテは笑みを含んだ声で答えた。
「漸く、名を教えてくれたね、クロガネ。その火竜一族の尾に因んだ名か」
「――黙れ」
 クロガネというらしい少年の、怒気を顕にした一語を皮切りに、ユテが風を起こし、二人が空中でぶつかり合ったことが、気配で分かった。
 ユテの武器は、小刀より少し長くて太いというだけの短刀と、精気で操るという風。クロガネの武器は、あの長刀と……。
「尾? あいつ、尾なんかあったか?」
 崖の上辺りを見上げて、スカイは呟いた。レイン村で、家々から漏れる灯りの中見た限りでは、尾など目にした覚えはなかったが――。
「上衣の下に隠してたよ。火竜一族の血を引く証だから、恥ずかしいんだろうね」
 予期しない返答に、スカイはぎょっとして、傍らの闇を見下ろした。声は、その辺りに寝かされているはずの、吸血一族の少年のものだ。
「ありがとう。まさか、あの状況で治療して貰えるとは思わなかったよ」
 場違いに明るい声は、依然、狂気を孕んでいる。
「おまけに、獲物が、こんな近くに無防備でいる。ついてるなあ」
「おまえ、恩知らずだぞ!」
 布鞄の中から手探りで小刀を出して片手に構えながら、スカイは叫んだ。残念ながら、特製香辛料の小瓶は、あの一つしか持ってきていなかった。
「夜行族が、真人族に恩を感じるなんてこと、ないんだよ?」
 嘲笑うように告げる声が足音とともに迫る。スカイはとにかく足元も見えないまま下がりつつ、空いているほうの手で鞄の中から新たに縄の束を掴み出して、闇雲に相手に投げつけた。どさっと音が響くが、状況は分からない。
「っ痛いなあ」
 少年の言葉で、どうやら当たったらしいことを知りながら、スカイは、金槌、鋏、空になった香辛料の小瓶、傷薬の小瓶……と、手に触るものを次々鞄から取り出して投げつけていった。
「おまえっ、いい加減にしろよ、怪我人相手に!」
 少年が、苛立った声で言った。どうやら、悉く命中しているらしい。
「おれだって必死なんだよ!」
「血を飲ませろって言ってるだけだろう! けちだな! 怪我が治っても血は足りてないし、おまえと、村にいる残り一家族の《混ざり者》の血を飲まないと、ぼくは帰れないんだよ!」
「血なんか飲まれたくないし、何日も高熱が続くなんて、嫌に決まってるだろう!」
「――『何日も高熱が続く』……? ああ、そういうことになってるのか……」
 急に少年の声の調子が変わった。
「おまえのせいだろうが!」
 スカイが怒鳴ると、暫く沈黙があった後、再び狂気を孕んだ声がした。
「仕方ないだろう……? 妹を人質に取られて、薬漬けにされて、ぼくの唾も、汗も、涙でさえ、もう毒なんだよ。それで、わざわざ不浄の輩の血を飲んで、ぼくの毒の唾で、苦しめろっていうんだ……! 不浄の輩には、『聖罰が下る』とかいう、あいつらの拘りのせいでね……! ただ単に、『吸血一族に血を吸われました』じゃ、駄目なんだよ、すぐ回復しちゃうからね……!」
 くすくすと、吸血一族の少年は笑う。笑いながら、泣いている。
「いろいろ面倒臭いよね……、真人族って連中は……。そんな面倒臭いことのせいで……、ぼくとカバネは会えない……! 逆に、殺してもいいなら、一晩に十人だろうが二十人だろうが、できるのに、血を飲めって言われたら、一晩に四、五人――一家族しか、できないじゃないか……。ぼくらは、少食なんだから……」
 草を踏み、小石を蹴る足音が、どんどんと近づいてくる。スカイは、中に火打石と紙と包帯だけが残った布鞄を肩から外した。後は、小刀と、布鞄を振り回して応戦するしかない。
「まだ抵抗するつもり……? 獲物の分際で……!」
 また調子を変えた少年の声に、スカイは本気の殺意を感じて、反射的に足を引いた。と、その足元の小石が崩れ、足ごとばしゃりと川の中へ落ちる。平衡を失ったスカイは、体勢を崩しながらも、布鞄を振り回した。だが、その布鞄は、急に強く引っ張られ、スカイの手から離れて、どこかへ飛んでいった。そして、その落下音を聞くより早く、スカイは川の浅瀬に押し倒され、咽元に、生温かい息がかかり――。
 轟、と吹き荒んだ風の中、複数のことが同時に起きた。


「何故、そんな無茶をした……? そんな奴らのために……」
 クロガネは、通し名をユテという風竜一族を見つめ、呟かずにはいられなかった。
 ユテが、クロガネに向かって、刃のような傷を作る小旋風で絶え間なく攻撃を仕掛けながら、ずっと真人族白肌一族の少年と、吸血一族のムクロに注意を払っているのは分かっていた。ムクロが、傷は治ったとしても、あれだけ失血しておいて依然動けたのは、ユテにとっても計算外だったのだろう。だが、クロガネは、隙あらばムクロを攻撃しようと、無数の小旋風を全て弾き返しながら探っていたので、ユテもそう簡単には真人族の少年を助けに行けなかったようだ。そうして、状況は悪化した。焦るユテをクロガネが揺さぶる間に、真人族の少年が体勢を崩した。
(素直に風で、この崖の上から真人族だけ助けていればよかったんだ……)
 その一瞬の隙で、クロガネはムクロを刺し殺すつもりだった。しかし、ユテはそこまで見通していた。真人族とムクロの両方を守る自信もあったのだろう。ユテは三つのことをほぼ同時に行なった。烈風でクロガネを押し止めながら、突風でムクロを吹き飛ばしつつ、自らは疾風で真人族の傍へ飛び、川から引き上げようとした。だが、そこで、見えていないまま真人族の少年が振るった小刀が、ユテの片方の掌を切り裂いたのだ。
(武器を持った奴に、無防備に近づきやがって……)
 胸中で毒づきながら、クロガネは烈風が弱まるのを待つ。天精族は、強いが、弱い。だからこそ、五族一、他種族嫌いなのだ――。


「ユテ? ごめん! おれ、全然見えてなくて……!」
 慌てるスカイを、とりあえず川岸の上まで引っ張り上げ、ユテは掌の傷を見た。綺麗に切られて血が噴き出している。
(力を分散させて弱まっていたとはいえ、体の防護結界は張り続けていたのに。チムニー殿の手に成る小刀を、スカイが渾身の力で使ったからか――)
 自然、頬に笑みが浮かぶ。
(第三の選択肢だな。これでいいのかもしれない……)
「ユテ、すぐ手当てするから!」
 見えないまま、スカイは己の上着の隠しから手拭きを取り出し、手探りで、ユテの手に巻こうとする。真人族の手が触った、清浄とは言い難い布。本能的に、ユテが手を引っ込めると、スカイは別の解釈をしたようだった。
「あ、もしかして、さっきあいつにやったみたいに、すぐ治せるのか?」
 このくらいの傷ならば、すぐに治せる。だが、塞いだとしても、傷ができてしまった以上、既に、小刀やスカイの上着などから、穢れが体内に入り込んでいるだろう。
「ああ。でも、天精族の血には、使い道がある」
 ユテはスカイに答えながら、己の血を風に混ぜる。
「強い精気を宿しているから、毒にも薬にもなるんだよ。覚えておくといい」
 説明しつつ、二人の夜行族へ向けている突風と烈風に、それぞれ己の血を混ぜた風を加えた。効果は絶大だ。二人とも、すぐに気を失って、その場に倒れた。ついでに、近くに転がっていた空の小瓶を拾い、己の血を少しばかり入れて栓をしながら、ユテは自嘲気味に、悲しく両眼を細める。
(だから、天精族は狙われる。だから、天精族は、他種族と関われない)
 熱が出てきたようだ。ここまで傷による症状の進みが速いとは、予想外だった。何しろ、天精族の結界の外で傷を負うのは、初めてなのだ。ユテは血を入れた小瓶を懐に仕舞うと、傷を負った掌を軽く握り、精気を集中させて傷を治した。しかし、症状は和らぐどころか、進んでいく。眩暈がして、体に力が入らない。足元が、ふらつく。傷は治せても、穢れは己では消せないと、遥か昔、風竜一族の里で教えられた通りだ。
「スカイ、悪いけれど、チムニー殿を呼んできてくれ。おれは、少し、疲れた」
 言い終えた直後、ユテは体が傾くのを自覚した。
「ユテ!」
 耳元で大きな声を出したスカイが、体を支えてくれたのが分かる。けれど、その感覚すら遠くなっていく。このまま気を失えば、自分は二度と目覚めないのだろうか。スカイの望み通り一緒に過ごし続ける第一の選択肢、スカイと別れて台地の上へ戻る第二の選択肢、そして、普通には生きず寿命を短く終えるという第三の選択肢。純血の天精族らしく、第二の選択肢を採ろうとしていたのだが、これはこれで、いいのかもしれない――。目を閉じかけたユテの頭を、スカイの腕が支えた。同時に、こちらを見下ろすスカイの、あまりに心配そうな顔が、狭くなりかけた視界に入る。ユテは、ひどく重くなった手を上げて、その頬に触れた。
「ごめん、大丈夫だから」
 このままでは、別れられない。スカイの心を、傷つけてしまう。
「チムニー殿を、早く」
 視界が、霞む。手から力が抜ける。
「早く……早く……」
 己の手が少年の頬から落ちていくのを、遠く微かに感じながら、ユテは繰り返し呟いた。
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