忠臣蔵の兄弟

多那可勝名利

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文彦の刻3

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一九八五年――八月。

『グリコ森永事件』は、突然の終息を迎えた。滋賀県警本部長が、不審車両を取り逃がした責任を取って、自らの退職の日に焼身自殺を遂げるという痛ましい事件の直後に〈かい人21面相〉より突如として終結宣言なるものが出たためだった。

「ほらあ、見てんよ。やっぱり、終わりにしよったやん」

僕は夕食を取りながら、テレビのニュース番組を指差した。

「ん?  ああ、ほんまやなあ。これで終わったら、ええけどなあ」

父は、ちらっとテレビに目を向けた。が、どこか上の空だった。

「僕の思った通りや、もうすでに株で、たんまりと儲けよったんや。きっとこの警察の責任者の自殺を、適当な言い訳にしよったんやで。……でも、死なんかてええのに、ほんまアホやなあ」

「こら!  文彦!  死んだ人に、何を云いよるんや」

突然の父の怒鳴り声に「しまった」と思い、つい軽口を叩いたのを後悔した。

「ええか、文彦。この人の事情を深くは知らんが、男が自分から命を断つっちゅうんは、余程の事情があったからなんや。ましてや、見てみい、自分の退職の日にや。ええ加減な人間やったら、これ幸いとばかりに知らぬ存ぜぬを決め込むんが普通やろ」

「……うん、ごめん」

僕は首を竦めた。

「ようニュース聞いとってみィ。色んな死に方がある中で、この人が選んだんは焼身自殺や。この意味を考えなあかん。わかるか?」

「……いや、ようわからんし、考えようとせんかった」

父は白髪の交じった顎髭をさすりながら、僕の目をじっと見つめた。大きな黒目がちな瞳がより大きく感じた。

「お前も、この『赤穂浪士』の里で育ってきたんや。男が覚悟を決めた自決を軽う考えたらあかん。この人の取った方法は、云わば、武士の切腹とおんなじや」

「そうか……でも、それでもやっぱり死んだら負けやんか」

僕はまたつい、余計な反論をしてしまった。どうしても自殺に納得出来なかったからだ。いけないと解っていながら、つい自分の意見が口をついてしまう。これが僕の悪い癖だった。

「まあ、お前も理解できる時が来るやろ……。もうええから、早うメシを食うてしまえ」

父は怒っているのか、どうかよく解らない表情で僕から視線を外した。
いつもなら、しつこいくらいにガミガミと説教が続くのだが、今日はずいぶんとあっさりしたものだった。

父は僕が中学に上がるまで、貿易商社に勤めており、世界中を飛び回っていた。家に帰ってくるのは年に数えるほどで、帰ってくる度に、世界中の珍しいものをお土産にくれた。いつの頃からか商売相手として中近東が主流になったらしく、家にはアラブを想わせる雑貨類が増えていった。
しまいには「俺にはアラブの血が流れている」などと冗談か本気かわからないセリフが口癖とまでなっていた。だが、四年前に母親が交通事故に遭い亡くなってから、僕も兄もそして父も、生活が一変した。

父は葬儀が終わるとしばらくして会社を辞めた。あんなに好きだったであろうアラブの地から、引き揚げてきたのだ。

「ちょうど、アラブの暑さには嫌気が差してきとったからな」

僕たちの前でそう云って笑ったが、本心ではないことぐらい子供の僕にもわかっていた。

僕は父と母の結婚五年目にしてようやくできた子供らしく、兄の他に血の繋がった身内はいない。
祖父母たちも僕が生まれた頃には既に亡くなっていた。
云わば、父と兄だけが残された身内って訳だった。
境遇だけ聞くと、かなり寂しい感じに聞こえるかも知れないが、当の本人はいたって平気だった。

兄を始め、沢山の幼馴染がいたし、村の皆も本当の家族のように、気に掛けてくれていたからだ。

その時分、僕は子供ながらに、父に対して申し訳ない気持ちだった。
少しでも心配を掛けまいと、掃除や洗濯、それに食事と結構、背伸びしながらやり始めたのも、その頃からだった。

その中で、頑張れば頑張るほど、研究すれば研究するほどに上達していき、皆から喜んでもらえる料理にはすっかりと嵌った。

株取引と同じか、或いはそれ以上の魅力が料理の世界にはあった。

もともとが、好きな分野に於いて、研究するのが好きな性分からなのか、高校に上がる頃には料理の世界で生きていくか、それともやはり世界中を旅しながら、投資で生計を立てるか、もしくは父の工場を兄と一緒に大きく盛り立てて行くか、の選択に悩むようになった。

おそらく、父は工場をやって欲しいと思っていただろうが、僕には直接に何も云わず只ひと言、

「男やねんから、自分の好きな道に行ったらええんや」

とだけ云っていたようだった。

      ◇

一九八七年――八月。

この年、僕も父の工場も一つの岐路に立たされた。

僕の場合は、高校三年生になったのに伴い、進路の問題だった。

中学生の頃に考えていたように、運良く市内でも有数の進学校に進めたのだが、もともと受験のための勉強というのは、あまり得意なほうではなく、見事に落ちこぼれた。

その分、株式投資と料理の勉強には一段と熱が入ったのだが、果たしてそれが云い訳になるはずもなかった。

「なあ小岩。お前、何でもっと頑張らんのや。今更、遅いかも知れんけど、入学した頃は我が校でもトップクラスやったのに……」

担任の教師が、進路相談の時に半ば、諦めたようにそうぼやいた。

「はあ、まあなんというか……。僕、大学は行かんとこうかな、と思ってるんです」

「なっ! 何ぃ云い出すねん。国立の一流どころが難しいと云うとるだけで、世間一般でいうところの、ええ大学には十分に行ける頭は、持っとるんやぞ!」

「はあ……。まあ、その何て云うんか、大学にあんまし興味が持てんと云うか……」

その時流石に僕も、料理や株の勉強をしたいとは云えず、あやふやな云い訳に終始した。

「まあ、とにかくや。一度お前の親父さんも交えて、ゆっくりと話さなあかん。ほんま大事な問題やからな」

担任の教師も、進学校である以上、まさか就職希望者を出す訳にもいかないのだろう。最後には父に説得させる腹のようだった。

(どうせ親父は、自分のことは自分で決めぃ、で終わるのに……)

僕は、父の大して驚きもしないであろう表情を思い浮かべながら、黙って頷いた。

僕が進学を希望しない理由は、もう一つあった。実は父の工場にも、ようやく好転しそうな兆しが、見え始めていたからだ。

それまでも何とか、凌いでは来ていたのだが、苦しい状態であるのは僕の目にも明らかだった。

工場を立ち上げた直後は、ペットボトルそのものが、ようやく飲料にも使えるように認可がおりた直後でもあり、その販路が限られていた状況に加え、久しく国内での営業活動をしていなかった父にとって、日本人相手の商売は中々にきつく感じられたようだった。

「ほんまに日本人ちゅうのは、肩書きでしか商売をしよらん」

僕や従業員の前で、決して弱音を見せてこなかった父が一度だけ、力なく漏らした時があった。

父曰く、〈アラブの商人〉と呼ばれる彼等は、取引する相手の肩書きなどで判断はしないらしい。

相対する人間そのものを見て、決める。それゆえに、なかなか信用を勝ち取るのは難しいが、それでも一旦認められると、その関係は崩れない。

たとえ後から大会社の人間がより良い条件で、話を持ち掛けてきたとしても裏切るような真似は絶対にしないのだと云う。

商売を離れても、家族同然に付き合い、互いの信用を深めていくやり方なのだそうだ。

そのお陰もあり、父がアラブから身を引く決断をした時も、彼等が全面的に協力してくれた。それが、ペットボトルの製造という訳だった。

高額なコンプレッサーをタダ同然で譲り受け、それを元にここまでやってきたのだ。だが、中東で勝ち得た信用や経験が日本に於いて評価される筈もなく、日本の飲料メーカーからすれば、田舎の小さな工場の親父でしかない。

これまで鼻から商品に疑いを持って見られてきたのが現状だった。
が、しかしつい最近になってその困難な状況を、打開できそうな取引先がようやく見つかったのだ。

「おう、真司、文彦。今日はええ成果があったで」

僕と兄が、工場の休憩室で一服している時、営業先から戻った父
が、珍しく興奮気味に声を上げた。

「じゃあ、親父。例の〈浪速飲料〉との話が……」

「おう。そうや、なんとか、うまい具合に取引できそうなんや」

父は兄の背中を、力強く叩いて嬉しそうな表情を見せた。

浪速飲料。大阪の堺市に本社を置く、中堅の飲料メーカーであった。関西を中心に展開しており、この時分は、大証二部にまで上場していたのである。

「じゃあ、新商品の専用ボトルが貰えるかもしれんのやな」

僕も大方の話は聞いており、思わず一緒に興奮した。
新商品の専用ボトルとなれば、生産数は安定する。何よりも中堅とはいえ世間一般的に名前の通った企業との取引が決まれば、今後の営業展開は全く、違ったものになる。ようやく父の工場である〈小岩ボトル〉の信用がつく証でもあった。

「ああ、まだ本決まりではないけどな。浪速さんの社長が、ええ方でな、ウチのように名前が通ってへん会社でも製品が良ければ問題ない、と云うてくれたんや」

「そうかあ、日本にも〈アラブの商人〉がおったんやな」

「ああ、堺も昔から〈堺商人〉として有名な所や。商売人は皆、同じような考え方なんかもしれんな」

父は、興奮を抑えるように煙草に火を点け、深く吸い込んだ。

「真司! これからが大変やぞ。なんせ相手さんは、ウチからしたら、大企業や。色々な制約やルールがあるらしい。なにより、この間の『グリコ森永事件』の影響で、飲料メーカーも含めて食品業界は品質管理にナーバスになっとるらしいからな。これからもどんどん厳しくなる風向きや、と担当者が云うてはったわ。ウチも問題を起こさんように、きっちりとした体制に変えなあかん」

「そうやな、今までと同じっていう訳には、いかんやろな」

「ああ、それなりに金も掛かるやろうけど、それは俺がなんとかする。お前は生産のほうをしっかりと頼むで」

僕は親父と兄のやり取りを聞くうちに、無性に手伝いがしたくなった。

「親父! 俺、高校を出たら、ここで正式に働かしてくれ」

「なんや? 突然。……そう云えば、お前の担任から一度、面談したいと連絡があったけど、その件か?」

「……たぶん、そうやと思う」

「お前が真剣に人生のことを考えて、出した結論やったら何も云うことはない。俺が死んだ後、真司とお前でこの工場を盛り立ててくれたら何よりや」

「俺も大賛成や! 勉強ばっかりが人生やないで!」

兄も嬉しそうに僕の目を見た。

「おいおい。お前、まともに勉強したことあらへんがな。悪さばっかりしとったのに」

父は兄の頭を小突きながら、大声で笑い飛ばした。
首を竦めながら苦笑いする兄を見て、僕も吹き出した。

――僕の行く道は、この時決まった。

僕は工場に就職すると決めてから、今までのアルバイト感覚は捨て、真剣に仕事に取り組み始めた。これまでは、検品作業や荷出しなどといったパートの人たちの手伝いしかしてこなかったのだが、これからは全てを覚えるつもりで取り組もう、そう決めた。

唯一の問題であった高校の担任との話し合いも、家業である工場に就職するという話には、流石にしぶしぶではあるが、首を縦に振らざるを得なかったようだ。

「勿体ないけどな……」と最後に本音を漏らしてはいたが……。当の本人である僕が、勿体ないなどとは全く感じてはいなかったのだから、しょうがない話だった。

      

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