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序
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序
アナタの恨めしそうで、苦しげな瞳が最後の輝きを放ち、その瞬間ふっとワタシの腕にアナタの重みが伝わりました。そこから先は全くもって覚えてはおりません。ただ、あの瞬間のアナタの表情と、ワタシの両手に残る感触だけが、唯一現実であると思われるのです。時折・・・・・・、長い刃物のような物と、赤黒い血に染まった自分の両手が、フラッシュバックのように思い出されるのです。
一
長く一直線に伸びたターミナル通路の奥には、民族楽器のようなものを奏でる一団が南国ムードをより一層際立たせる音色を醸し出していた。田所哲也は先輩社員の後に続きながら、ゆっくりとした足取りで通路の真ん中を進んでいった。中央ホールのような空間に出ると壁一面に渡って土産物や免税品などを売る店が建ち並んでいたが、やはりそれらのどれにもアルファベットでの表記が目についた為、なるべく売り子とは目を合わさないようにして先を急いだ。すると自分達よりも随分と先に飛行機を降りた筈の人達が並んでいる列にぶつかった。その列は横に六本か七本程広がっており、そのどれもが二十人をゆうに超えているふうに見えた。
はたしてそれが入国審査の列であることはすぐに理解できたのだが、それにしても日本の場合とは随分違って、いっこうに前へと進む気配を感じられなかった。というのも列の向う側で風呂屋の番台のように一段上がった審査台に座る係官の態度そのものが、見るからに日本人のそれとは違っていたからである。例えば或る者は隣に立っているガードマンと思しき人間とおしゃべりを楽しみながら、その片手間に審査を片づけているといったようでもあり、またその隣の列の審査官などは大っぴらに携帯電話を手にしながら作業をこなすといった具合のものであった。これには流石に田所哲也も先が思いやられると感じた。勿論いずれの海外にも行った経験のない彼であっても、やはり国が違えば色々と勝手が違うことくらいは想像していたし、それなりの覚悟もしていた訳だが、それでも一番きっちりとしていなくてはいけない筈の入国審査ですらこういった具合であるのだから、実際の文化や生活といったものは、最早彼の想像の範疇を遥かに超えているのであった。
「すごいとこやなぁ。こりゃあ先が思いやられんで……これやと一時間以上はかかんのとちゃうか」
そんな彼の気持ちを代弁するかのように、そっくりそのまま先輩社員の増永(ますなが)文彦がそう呟いた。人ごみの中に只じっと立ち尽くしているだけの状態により、彼の背中にもべっとりとシャツが張り付いている。
「ほんまですわぁ。今更やけどやっぱし来んかったら良かったわぁ」
田所哲也が心底後悔しながらそう呟くと増永文彦は、ふふっと失笑してから、
「そうやろ。だからゆうたやんけ。なんぼ女に逃げられたからゆうて、やけくそでこないなトコ来るもんとちゃうで。ワイみたいに所帯持ちやったら色々と理由があってのもんやけどなぁ……大体がや、傷心旅行みたいなんは女のするこっちゃし、一応ワイ等は仕事やねんからな」
と、彼はいつの間にやら取り出した扇子を広げながらそう云った。
確かに彼の云う通りであった。たかが女に逃げられたくらいでこんな国に、しかも二年という長きに渡って赴任して来るのはせいぜい自分くらいのものだろうとも思ったが、田所哲也にとって今回の出来事はかなりのダメージとして未だに殆ど消化しきれずにいた。だから社内でフィリピン工場勤務の話が持ち上がった時、現状から逃げ出したくなってついつい殆ど反射的に手を挙げてしまった、というのが本音なのである。
田所哲也は三十路を迎えるこの歳になるまで、地元大阪以外には日本の中でさえ、中学の修学旅行で九州に行った経験があるくらいのもので、東京はおろか沖縄も北海道も未だ見たことすらなかった。だがかといって別段何処かに行ってみたいと思う気持ちもなく、特にそれについてどうという訳ではなかったが、しかし同じ時季でありながら飛行機で僅か四時間程眠りこけているうちに、これ程までに気温が上昇するという事態につ
いては改めて驚き、そしてすぐに辟易した。
日本の空調が存分に効いたそれとは違って、この国は例え空港ターミナルの中であっても外からの熱気が僅かに感じ取れるほどに漂う空気の匂いにまで、たっぷりと暑さを含んでいるようであった。それ故に田所哲也は瞬時にここが日本とは違い、今更引き返すことなど出来ない場所なのだと改めて感じていた。
彼は増永文彦に愛想笑いだけを浮かべ、列の先へと視線を戻した。
やはり未だ殆ど前に進む気配などなかった。
そして彼は先程の増永文彦のひと言によってまた思い出したくもない佐藤加奈子(かなこ)の顔が、熱気と共にゆらゆらと立ち昇ってくるのを感じるのである。
二
田所哲也がフィリピンゆきを決意するほんの少し前の話となる。
彼と佐藤加奈子の付き合いは、その時点で既に三年が過ぎようとしていた。田所哲也より二つ年下である彼女がこの冬で二十八になることや、自らの年齢も鑑みて当然のように彼としては、そろそろ結婚というものを意識せずにはいられない状態であったし、又いずれそうするのが男としての務めであるとも感じていた。けれどもこれまでに彼女とは一切そういった類の話をした覚えもなく、また逆にそれがあまりにも自然な具合で、そうなるにしてもやはり成り行きなのだろうとすら感じていた。改めてプロポーズだの結納だのといった形式的なものには、自分は元より彼女も興味がないものだと田所哲也はそう勝手に思い込んでいたのである。だがそれも漠然とそのような思いに至った訳ではない。なぜなら適齢期を迎えた彼女の〈フェイスブック〉などにも時折友人達の婚約指輪だの披露宴の写真だのといった結婚に関するものが度々アップされていたのだが、それに対する彼女のコメントはあまりに自然な祝福に満ちたものであり、決してそこには焦りや、まして妬みなどといった感じは全く見受けられなかったからに他ならない。しかしそれ故、余計に田所哲也はどこかしら負い目のようなものを感じていたのも事実である。なぜならごく当たり前のようにそれらを彼女から見せられても、そこに登場する彼女の友人達の伴侶や恋人といった人間達は、きまってどう見ても一介の工員である自分よりは遥か上のクラスの人間と思えたからであった。
それまで彼の周りの友人や知人達はその殆どが彼と同じく高卒であったこともあり、学歴云々といったコンプレックスなど全くと云って良いほどあった訳ではないのだが、はたして彼女と知り合ってからはそうではなくなった。これまで接点すらなかった部類の連中がやたらと目に付くようになったからである。彼女の周りの殆どがそういったホワイトカラーの男達であれば、やはり意識しなかったと云えば嘘になる。それでも直接接点がある訳ではなかったので、どこか遠い世界の話として聞き流すことも難しいことではなかった。だから彼等のうちの一人がどこそこの商社であるとか云われてもそんな世界には全く疎く、余りピンとくることはなかったものの、流石にその男が医者の卵だと紹介文付でアップされた写真を見た時には思わず苦笑いし、しかもその明らかに将来有望そうな男を射止めたのが、彼女の親友であると知った時には田所哲也も感嘆の声を上げるしかなかったのである。
その出来事は猛暑と騒がれた暑さがやや緩み始めた週末に起こった。
前の週に連れだって彼女の友人が主催するバーベキューへと参加したせいもあり、些か懐具合の寂しかった
田所哲也は、久しぶりに彼女を昼間から実家である狭い長屋造りの家に連れ込んでいた。勿論、母親は相変わらず働きづめで留守であることも見越してである。というのも彼の母が随分と佐藤加奈子のことを気に入っており、何かにつけて構おうとするのも患わしかったからである。
付き合いも三年を過ぎると、佐藤加奈子も慣れたもので、台所を使って簡単な昼食を用意してくれたりもし
た。母親のそれに比べると若干薄味ではあるものの、とかく食には無頓着な田所哲也にとって充分なものであ
ったのは間違いない。彼は用意された食事を綺麗に平らげた。
それから昼食後、暇つぶしに覗いた佐藤加奈子の友人のフェイスブックには、やはり先週のバーベキューの様子がしっかりとアップされていた訳である。
「おおっ。すごいやん、エリちゃんのあの婚約者って医者の卵やったんやな。あんまし話せんかったから知らんかったわ」
その将来有望な彼はあまり目立たない、どちらかというと全くもって冴えない感じの男であったが、こうして肩書きをつけられると途端に誠実で、しかもいい男に映ってしまうのが田所哲也には不思議でもあり、また同時に随分と不快でもあった。
「みたいやね。うちも知らんかってん。こないだ付き合ったばっかりやのに、もう婚約って云うからびっくりして……。でも、大丈夫なんかなぁエリ。まあ、真面目そうな人やから心配ないと思うし、それに何てゆうても……」
彼女はそう云って少しだけ表情を曇らせた。が、やはりその物言いには嫉妬の類など含まれていないように感じた田所哲也は、その時思わず初めて口に出して云ったのである。なんとなくその場の空気を変えるにはそれしかないと感じたし、それを持ち出すのが殆ど最善とも思えたからでもあった。
「なあ。俺らも……そろそろ考えなあかん時期かもなぁ」
実にそれは彼にとってかなり勇気のいるひと言であった。勿論佐藤加奈子が喜ぶのは当然であるとしても、
そうなるとやはり仕事は残業を増やさねばならないだろうし、唯一の趣味である釣りにも早々気軽にゆくことなど出来ないだろうと感じていたからである。それでも二人で働いてゆけば決して貧しい生活にはならないだろうとも思えたし、何とか二人して遣り繰りするうち、いずれ子供をつくる余裕も生まれるのではないか、などと瞬時に考えた末の、ここら辺りが潮時だろうと感じて発した言葉でもあった。
「え? どういう意味」
が、しかしその時の佐藤加奈子の表情は彼が想像していたものとは随分とかけ離れた、実に困惑に満ちたものであった。
「いや……その、俺らもそろそろ籍でも入れなっちゅう意味、なんやけど……」
思いもかけぬ反応に田所哲也は咄嗟にそう応えた。結婚と云わず籍と云ったのは結婚式を挙げる費用もままならなかったからであるのだが、これまでに他人の結婚式に出席しても羨ましいなどと口にしてこなかった彼女ならそれも納得してくれるものと思い込んでのものであった。
「ちょっ、ちょっと待ってぇや。籍って、うちと哲っちゃんが?」
「は? 当たり前やろ。他に誰と結婚すんねん」
佐藤加奈子は一瞬、あまりにも唖然といった顔で固まっていたのだが、すぐにその表情も崩れた。
「ぷっ、ウソやん。え? 結婚って、うちと哲っちゃんが? ウソっ、可笑しいわ。冗談やろ? ほんま笑かさんといてぇな」
「な、何ゆうとんねん。つうか何を思いッくそ笑とんねん!」
田所哲也は想定外な彼女の反応に戸惑い、自分の顔がみるみると紅潮するのを感じながらそう叫んだ。
「ごめん、ごめん。怒らんといてぇ。ほんま、考えてもなかったから、つい……」
彼女はそれでも未だ笑いを堪えたような表情のまま続けた。
「だって、哲っちゃんがそんなふうにうちとの事を考えてるなんてまさか、思ってへんかったし……」
「俺かてもうええ歳やねんから、ちっとは考えるわいや。ちゅうかお前はどんな気ィで今までおってん」
田所哲也が恥ずかしさを隠すように煙草を咥えながらそう云うと、途端に彼女の表情が変わったのである。
「ほなら、ゆうけど結婚式はどうすんの? その前に結納は? 婚約指輪は?」
佐藤加奈子の眼は真っ直ぐに彼を捉え、最早その目も口許も笑ってはいなかった。
「そ、そんなん。別になくってもええやろ」
「ほらね。無理やん、哲っちゃんには……。あんな、うち等ええ歳なんやで? そんな十代のコらの〝できちゃった婚〟みたいにいく訳ないやん。そんなん……うちは嫌やし。それにうちの家族かて反対するやろうし……第一そんなん、うちよう云わんわ」
田所哲也には彼女の云うことが全く理解できなかった。確かにごく一般的な形式のものは自分には出来ないだろう。それに交通事故で父親を早くに失くし、母子家庭で育った彼には母に頼るなどの選択肢は鼻からなかったのである。それに例え頼んだところで僅かばかりのものでしかないことなど解っていた。何より事実、彼の周りには若くして結婚した知り合いが職場も含めると相当数いて、勿論それらの全部が順調な結婚生活とは云わないが、皆それなりになんとかやってゆけてはいるようであり、結局のところ彼にとって結婚といっても所詮そういうものであるとの認識しかなかったのである。
「ほなら、お前はなんで俺と付きおうとんのや」
「……そんなん、決まってるやん。哲っちゃんとおるんが楽しいし、第一、楽なんやもん」
「ほれやったらなんで……」
納得いかない表情を浮かべる彼に向かって、佐藤加奈子はふうっ、と息を抜いてから、
「結婚と遊びは別やんか」
とまるで優秀な先生が馬鹿な生徒にでも諭すように云い放った。
その後佐藤加奈子は堰(せき)を切ったように、これまでになく自らの考えをとうとうと彼に伝えた。
思えばこの約三年間というもの、田所哲也は彼女と真面目な話など殆どした覚えはなかった。会えば当たり前のように食事をし、その後セックスをする。只それだけの関係であったのかもしれない。勿論たまに旅行や買い物などに出掛けたりもしたが、よくよく思い返してみると、只その瞬間を――その時限りを互いに楽しむだけの付き合いであったように感じる。それでも彼はこれが男女の付き合いの当たり前の姿であり、その延長が結婚であるものと信じていた。そしてその過程に於いて子供が出来たのなら当然の如く家計は厳しくなるだろうが、そこをなんとか乗り越えてゆくのもやはり夫婦であり、家族なのだと思っていた。それ故に佐藤加奈子の主張は余りにも受け入れ難く、何かが音を立てて一気に崩れ落ちてゆくようでもあった。
佐藤加奈子が大阪市内にあるK女学院の卒業でエスカレーター式に大学まで進んだ女であると、彼が知った時分には、一瞬どのように接するべきかを悩んだのだが、いざ付き合ってみると彼がこれまでに散々相手をしてきた女達と何ら変わらぬものであった。それどころか彼がこれまで当たり前のように、遊び場としてきた大阪ミナミ界隈のクラブやバーなどに連れてゆくと、佐藤加奈子は途端に目を輝かせ無邪気に喜んでくれる女でもあった。そうなると田所哲也はこれまで勝手に敬遠してきた自分よりも学歴や社会的な地位というものが明らかに上の女であっても、所詮は変わらぬものだと感じ、一種の征服感すら感じられたのである。それ故に、佐藤加奈子とのセックスは色々な要素が彼の脳を刺激し常に激しいものであった。しかし彼女自体もそれに対して随分と興奮していたのは、彼の眼にも明らかであった。
最初彼女と知り合った場所がキャバクラであった状況からして、当然の如く自分と同程度か或いはそれ以上に適当に遊んできたのではないか、と思っていたのだが、只単にそれが友達の付き合いで幾日かの体験入店であった事実を後から知って、漸く田所哲也にも合点がいった。つまり彼と知り合うまでおそらく彼女は殆ど男との経験がなかったと思えるのである。それ故に所詮は結婚相手の候補にすらなり得ない男であっても、会えば彼女の経験したことのない遊びや気の利いた場所に連れていってくれ、しかも決まって最後にはほとほと疲れるまで求め合うセックスに陶酔させてくれる自分と、ずるずると今日まで関係を続けていたに過ぎなかったのであろう、という考えに至った。
「ほなぁ、なにか? 俺とは遊びやったっちゅうわけやな」
田所哲也は煙草に火を点けながら努めて冷静を装いつつそう告げた。それが精一杯の彼のプライドでもあった。結局のところ佐藤加奈子はそれに対しては何も答えずに俯くだけであった。
代わりに只ひたすら蝉の鳴き声だけが、彼の耳に響いていた……。
彼はゆっくりと立ち上がり居間にある仏壇へと向かった。その父の仏壇の横には生前、剣道の師範であった父が愛用した木刀がその時もそっと立てかけられていた。
そしてその日から彼女は、田所哲也の前から姿を消したのである。
三
〈ニノイ・アキノ国際空港〉を一歩出ると途端に強烈な熱気が田所哲也の身体全体を覆った。日本との時差は一時間しかないのでどっちにしろ昼過ぎの一番暑い時間帯なのだが、それにしても堪らない程であった。仮に日本も真夏であったならここまで不快に感じなかったのかもしれないが、どっちにせよこれが年がら年中殆ど変わらないのであれば同じことだと彼は思った。
空港ロビーを出てすぐのところには車寄せがあり、既に何台かのタクシーやワゴン車に荷物を詰め込む姿が見受けられた。その車線の向う側は高さ三メートル程のフェンスで仕切られた大きな駐車場となっているようであったが、フェンスの反対側には出迎えの人間と思しき人達が鈴なりになっており、それは一種異様な雰囲気でもあった。
「すごいなあ、何ですの? アレ……」
田所哲也が額の汗を拭いながら思わずそう溢すと、今回が彼と同じく初めてである筈の増永文彦がさも知ったような口ぶりで、
「ああ、あいつ等は別に誰かを迎えにきとる訳やないんや。只一日中ああやって誰ぞ知った顔でも出てけぇへんかと眺めとるらしいわ。なんぞおこぼれにありつこうと思うてな」
と、おそらく社内の経験者である誰かの受け売りを云った。
フェンスの向こう側の人間に目を向けると、皆一応に黒く痩せた顔の中に大きな瞳だけをギラつかせ、それはまるで獲物を見定める肉食動物のようにも見えて、つい田所哲也は彼等と視線を合わすのを躊躇った。
フィリピンは東南アジアの中でも極めて治安が悪く、くれぐれも注意するようにと日本にいる仕事仲間達から受けた忠告が思い出された。確かに彼等を見ても明らかに友好的には感じることなど出来ず、そうなると彼はいよいよ後悔の念を強めていったのである。
「おーい! こっちや」
聞き覚えのある声に目を向けると、三台程後ろのワゴン車からフィリピン工場の責任者でもある部長の成田(なりた)洋二がすっかりと日焼けした精悍な顔を覗かせていた。彼は田所哲也が今の会社に入社した時分の上司でもあり、公私に渡って世話をしてくれた恩人でもあった。例え佐藤加奈子との一件があったにしろなかったにしろ
彼がフィリピンにいなければ、流石に踏み切れていなかったに違いないとも感じていた。
「部長ぉ。久しぶりっス」
「おおっ哲ぅ。ほんまに来よったなぁ。またたっぷりしごいたるわ」
成田洋二は車から降りると彼の両肩をがっしりと掴んでそう云った。恰幅の良かった体格が日焼けによってか少し引き締まったようにも感じたが、それでも田所哲也よりは随分と縦も横も相変わらず大きい体躯であった。彼はひとまわり程も歳の違う成田洋二をまるで兄貴のようにすら感じていた。
というのも生来の女好きが災いしてか未だ独り身である成田洋二は、その年の割には随分とその容姿も、また行動も若々しく、田所哲也ともよく気が合ったのである。
「よっしゃ。荷物積んだら取りあえず住まいや。ここからすぐんとこやけど下手したら一時間以上はかかるからな。お前等も疲れとんやったら寝とってええぞ」
成田洋二は昔と同じくひと際大きな声でそう云うと車をゆっくりと発進させた。
「こっちは左わっぱ(ハンドル)なんスねぇ部長」
普段何かと偉そうな増永文彦も彼には一目置いているらしく、すぐに声色を変えた。
「ん? ああこっちはアメリカなんかと同じで車線もハンドルも反対や。まあ、お前等が運転するこたぁないやろうから気にせんでもええわ。それより増永よ、ドアロックが開いたままや、下ろしとけよ」
成田洋二という人間は実に真っ直ぐな性格であり、好き嫌いがはっきりとしている。増永文彦のように相手によって態度を変える人間を良しとはしないことを田所哲也は思い出した。それと同時にわざわざ彼程の男がやけにドアロックなどを気にかけるほうが不思議であった。
「そないにこっちは危ないんですか?」
「まあ、じきにわかるわ」
成田文彦はルームミラー越しに田所哲也の目を見て顔を綻ばせた。はたしてすぐに事情は呑み込める事となる。空港の敷地内を出てからも随分混み合っていたのだが、車が大通りへと出る頃には更に渋滞が酷くなり殆ど動かなくなった。それでも引っ切り無しにクラクションが鳴らされ、舗装されている筈の道には何処からくるのか絶えず土埃が舞っていた。片側四車線の中央分離帯には等間隔にヤシの木が植えられており、否が応でもここが南国フィリピンであると示していたが、それに加えて田所哲也をよりそう実感させたのは、その中央分離帯で商売をする者達の存在であった。両手いっぱいに見たことのないおそらくは南国特有の花束を抱えて売り歩く者や、彼が子供の頃に微かに見た覚えのあるヘリコプターのおもちゃを飛ばしながら、それを売ろうとする者、或いは赤ん坊を背に抱えながら単に手を差し伸べて車一台一台をノックして歩く者、しかもそれらの殆どが未だ子供か或いはせいぜい日本でいうところの中高生程の年齢にしか見えない若者達であった。
「あの、部長……」
田所哲也はその光景に思わず成田洋二に語り掛けようとしたが、続く言葉が見つからなかった。すると成田洋二は煙草を咥え、それに火を点けてからこう云った。
「まあ、これがこの国の現実や。ここに一年、いやあ半年もおったら日本がどんだけええ国で、恵まれとるんかっちゅうのが嫌でもわかるわ。どんな理由で来たにせよ、お前のこれからには……多分やがプラスになんのとちゃうか。なあ」
成田洋二には勿論ここに来た理由などが伝わっている筈もなく、恐らくこれまでの付き合いで田所哲也の脆い部分に気付いていた彼が推測のうちに云ったのであろうが、実際のところ田所哲也はそれに対しての驚きより、今、現実に目の前にいる物売りの彼等から目が離せないでいた。
四
田所哲也達の住むところは想像していたアパートのような建物ではなく一応は正面玄関にホテルと銘打たれ
ているものであった。〈コパカバーナ〉とアルファベットで書かれたそこはすぐ隣に立つ格段に豪華で白い外観で明らかに高級と思われるホテルと比べればかなりみすぼらしく、薄汚れたコンクリートむきだしの壁が実に暗鬱とした雰囲気でもあった。ややもすると既に使われていないのではないかと思わせたが、小さな車二台程がやっとの正面玄関に車を寄せると、中から従業員らしき若い男女が、足早に出てきながら笑顔で出迎えてくれた。
「おう。うちの新しいスタッフや」
成田洋二が日本語でそう声を掛けて後ろを指さすと、彼等は田所哲也達に向って小さく頭を下げた。どちらの若者も先程の物売り達と比べれば随分と小奇麗で肌の色も日に焼けていないのかあまり黒くはなく、二人共に白い歯が印象的であった。
「ここは一応ホテルってなっとるが、殆どの客が長期滞在や。観光なんかにきとる日本人はとなりのええホテルにぎょうさん泊まっとるんやが、そのせいもあってこの辺りは何かと便利でな。ほれみてみい」
成田洋二が顎で示したほうを見ると目の前の通りを挟んだちょうど向かい側には、何やら日本語らしき看板が見えた。信号のない幅の広い通りで良く目を凝らして見なければ見落としてしまいそうな文字であったが、確かに〈日本雑貨〉と書かれていた。次に彼が指差したこのホテルの並びの二十メートル程先には、しっかりと〈ラーメン〉と書かれたノボリをあげている小さな店が見えた。
「前の雑貨は結構なんでも揃とるけど、ちィと高いな。あっこのラーメン屋は色々とメニューも豊富やし安いからお勧めや。まあ、慣れたら行ってみたらええわ。正し、目の前やゆうても夜は……いや昼もやが、なるべく一人では出歩かんこっちゃぞ」
成田洋二はまたしても彼等の不安を煽るような物言いでそう云うと、ホテルの中に入るよう促した。田所哲也はもう一度向かいの雑貨屋とラーメン屋を見たあと荷物を抱えてあとに続いた。
てっきり相部屋だろうと覚悟していたら、部屋は贅沢にも一人部屋で外観や廊下の古びた様子から想像した割には随分と部屋そのもの自体は綺麗に保たれていた。玄関を入ってすぐのキッチンなどかなり大きく、しかもその上部の棚には、皿や容器がほぼ四人分揃えられており、ダイニング中央に置かれたテーブルは簡素なものであったがちゃんと四人分の椅子まで備えられていた。
「どうや中々やろ?」
手続きを済ます為、少し遅れて部屋へと上がって来た成田洋二は、まるで自分の家のように自慢げな口ぶりであったが、田所哲也は気にも留めなかった。中々どころか充分過ぎるくらいに贅沢と感じていたからでもある。どうせタコ部屋に毛の生えた程度であろうと覚悟した上に、先程の物売り達の現実が輪をかけてそう思わせていたのだが、しかしそれにしても余りにこちら側の現実は違っていたことに驚き、そして格差に若干戸惑ってもいたのである。
ダイニングルームの奥は寝室となっていたが、充分二人で寝ても余る程に大きなベッドがあり、その上部には、型こそ相当に旧そうであったが、ちゃんとクーラーも備わっていた。部屋はその二つでいわゆる1DKの間取りなのだが、日本のものとは比べようがない程にゆったりとしていた。只何故か採光は悪いようで、昼間だというのに灯りを点けなければかなり暗い部屋でもあった。
「いや、充分ですわ。こないに広かったら掃除が大変そうやけど……」
田所哲也はトイレを確認したあとそう云いながら、きょろきょろと探していた。
「もしかして風呂探しとんのか? それやったら無いで。ほれトイレの隣に小さいシャワーがついとるやろ。それだけや。まあすぐ慣れるわ」
彼からそう云われてそのシャワーを確認すると、やはりお湯ではなく生ぬるい水がちょろちょろと小便小僧のそれみたいに出てくるだけのものであった。だがそれを差し引いても彼にとっては充分過ぎる程であったし先程までかなり気が滅入っていたものが、すっかりと旅行気分にまで引き戻されるような住まいであった。
田所哲也は大きく深呼吸をして、兎に角この地で二年間暮らしてゆくのだと改めて思い直しながら、うっすらと陽が射しこむ小さな窓から外を眺めた。四階のそこからはちょうどホテルの裏通りが見えるようになっており、下を覗くとまるっきり舗装されていない赤茶けた路地がむこうのほうまで続いていて、殆ど人の姿も見受けられなかった。その時彼は表通りの車がひしめく賑やかな雰囲気と、それとはまるで対称的な裏通りの路地の陰鬱とした雰囲気が、この国を表しているように感じた。それと同時に彼は、日本できっと昨日とまるで変わることのない極ごく平和な今日を過ごしているであろう佐藤加奈子と、明日がどんなものとも想像すらつかない今を過ごしている自分も、最早対称的なのだと感じていた。
そう確かに彼はこの時、完全に彼女が平凡で尚且つ平和な日常を過ごしていると疑ってはいなかったのである。
五
初めての夜は成田洋二がフィリピン料理のレストランへ連れて行ってくれると云うので、田所哲也は旅の疲れと暑さも相まって多少の眠気が差していたのだが、取りあえず着替えを済ませてロビーに下りて行くことにした。彼はその際も成田洋二から云われた通りに、なるべく目立たないよう、つまり地味なTシャツと履き古したジーンズにサンダルといった恰好で、金は空港で両替したうちの僅かばかりである、日本円にして二千五百円程の価値となる千ペソ札三枚を裸のままポケットに押し込んだだけというふうな手ぶらの状態であった。
ロビーに着くと既に成田洋二と増永文彦が揃っていたのだが、何やら揉めているようであった。
「……でもも、糞もあるかい。そんなもん置いてこいっちゅうねん。お前のせいで俺らまで狙われたらどうすんじゃい。このボケが」
成田洋二からかなりの剣幕でそう捲し立てられた文彦は、首を竦めながらそそくさと部屋へ戻っていった。どうやら問題は彼の持っていたワニ革の随分と大層なセカンドバッグのようであった。勿論なるべく地味な恰好でくるようにと云われていたにも関わらず、そのように派手なものを持ってきた増永文彦も悪いのだが、それにしても成田洋二は必要以上に彼を嫌っているように感じた。田所哲也がその事について尋ねようとする前に、成田洋二は顔を顰めながら云った。
「あのボケ、さっき聞いたらあんまし嫁はんとうまくいってへんらしゅうてな。こっちでその憂さ晴らしをしようと思うて来たんや、とぬかしよった」
成田洋二の余りに憎々し気な物言いに田所哲也はすぐに返す言葉が見つからなかった。というのも彼にも少なからず――いや、大いにその気があってここに来る決意を固めていたからであった。田所哲也も実は何度か日本において、フィリピン人女性がホステスとして接客する〈フィリピンクラブ〉に幾度か行った覚えもあって、全くもってフィリピンに馴染みがないという訳ではなかったのである。
たまに田所哲也が仕事仲間などと週末の夜に繰り出すミナミの界隈に於いてもかなりの数そういった店があり、しかし殆どの場合何軒か飲み歩いたのち、店の前で呼び込みをする彼女達に釣られてのものであったが、結構それはそれで日本人のキャバクラとは趣も異なり、また値段も比較的リーズナブルであったことから大いに楽しめたものである。が、しかしキャバクラのように、また懐事情が良くなったら行くのかと問われれば、自ら進んで足が向く程のものでもなかった。というのもフィリピン人ホステス達の殆どが田所哲也と同じくらいか或いはそれ以上の歳であったからでもある。キャバクラのように十代から二十代前半の層が中心ではなく彼にとってあわよくばプライベートで遊びたいなどと思わせる年頃の女は見受けられなかった。しかし彼女達の店の良いところは、たとえ一見の酔客であっても実にフレンドリーでその場を盛り上げてくれる陽気さにあり、忘年会など普段あまりそういった場所に馴染みのない連中が一緒の時などは充分に重宝する店であった。
そのような理由もあって、ちょうど去年の忘年会がミナミで行われた時分も、二次会は何度か利用したことのあるMという比較的大きなフィリピンクラブが選ばれた。その時も普段はあまり夜遊びなどしない連中が何人か勢いに任せて参加することになったのだが、そのうちの五十代半ばの同僚が宴たけなわになってポツリとこう溢した。
「昔はフィリピンパブも、もっとおもろかってんけどなあ……」
そう話す彼の隣にいた田所哲也は充分な盛り上がりを見せる状況の中で、素直にその言葉を不思議と感じ、普段あまり接点のなかった人間であったにも関わらず、自然と彼の話に耳を傾けていった。
彼が云うには、十年程前に外国人に対するビザの発給が随分と厳しくなり、それまでにいたかなりの人数のフィリピン人女性達、いわゆる〈ジャパユキ〉達が今は全く入国出来ない状況であるとの話であった。
当時の彼女達ジャパユキは表向き、歌手やダンサーなどの芸能人として来日し、その実ホステスとして接客をしていた。本来の〈フィリピンクラブ〉とはそういったものでもあり、そのホステス達も勿論若く、そして一応は芸能人として来る訳で、それなりのオーディションなどを経ており、かなりの粒ぞろいでもあった。それ故どの店も今とは比べ物にならない程繁盛していたのである。
現在ではそういった芸能人としてのビザが発給されることなど殆どなく、今こうして働いている彼女達のビザは一律婚姻によるビザで、中には偽装結婚なども少なからず含まれてはいるが、それでも一応は人妻となるわけである。勿論彼女達がそんな興醒めする事実を素直に云う筈もなく、仮に尋ねてみても、姉や妹が日本人と結婚しているだのなんだのと適当なその場しのぎに終始するのが常であって、実際にそれらの内情を知っている元々のフィリピン好きの客達は自然と足が遠のき、今こうして店を訪れる客は田所哲也達のようにその場の雰囲気だけを楽しむ客が殆どなのだと彼は説明してくれた。そして彼は最後にこうも付け加えた。
「最近じゃあ昔のフィリピン好きはみんな店なんかにけぇへん。たまあに来る彼女達の昔の客も全部事情を知っとるから、せいぜい昔話して盛り上がるだけや。殆どの奴はゼニ貯めて年に何回かむこうまで行って遊びよるんや。なんせむこうは物価も安いし飛行機代や宿代含めて二、三日豪遊しても十万円そこそこやからな。こっちで無駄なゼニ使うよりよっぽど楽しいわ」
田所哲也はその時分彼の話にかなりの興味をもった。というのも実際に現在日本にいる彼女達を見ても確かに昔は結構いい女であったのが窺い知れる程であったし、何より同じように日本人向けのそういった店が何軒もフィリピンでは営業していて、歳も勿論十代から二十代そこそこであるとくれば興味が湧かない筈はなかったのである。
田所哲也がフィリピン工場に来る決断をした時にそれらの話が頭を過ったのはごく自然の成り行きでもあった。勿論佐藤加奈子とのことが大前提にあり、彼女と別れていなければこの地を踏むこともなかったであろうが、それでもまるっきり何の情報もなく、微かな楽しみも想像出来ない異国の地が赴任先であってもはたして来たのか、と問われればやはり彼は即答する自信がなかった。
「すんません。これでええですか?」
息を切らしながら戻ってきた増永文彦は白のTシャツに半ズボン姿で、かなり恥ずかしそうな表情でもあったが、成田洋二は彼を一瞥して「まあええやろ」と云って背を向けた。
アナタの恨めしそうで、苦しげな瞳が最後の輝きを放ち、その瞬間ふっとワタシの腕にアナタの重みが伝わりました。そこから先は全くもって覚えてはおりません。ただ、あの瞬間のアナタの表情と、ワタシの両手に残る感触だけが、唯一現実であると思われるのです。時折・・・・・・、長い刃物のような物と、赤黒い血に染まった自分の両手が、フラッシュバックのように思い出されるのです。
一
長く一直線に伸びたターミナル通路の奥には、民族楽器のようなものを奏でる一団が南国ムードをより一層際立たせる音色を醸し出していた。田所哲也は先輩社員の後に続きながら、ゆっくりとした足取りで通路の真ん中を進んでいった。中央ホールのような空間に出ると壁一面に渡って土産物や免税品などを売る店が建ち並んでいたが、やはりそれらのどれにもアルファベットでの表記が目についた為、なるべく売り子とは目を合わさないようにして先を急いだ。すると自分達よりも随分と先に飛行機を降りた筈の人達が並んでいる列にぶつかった。その列は横に六本か七本程広がっており、そのどれもが二十人をゆうに超えているふうに見えた。
はたしてそれが入国審査の列であることはすぐに理解できたのだが、それにしても日本の場合とは随分違って、いっこうに前へと進む気配を感じられなかった。というのも列の向う側で風呂屋の番台のように一段上がった審査台に座る係官の態度そのものが、見るからに日本人のそれとは違っていたからである。例えば或る者は隣に立っているガードマンと思しき人間とおしゃべりを楽しみながら、その片手間に審査を片づけているといったようでもあり、またその隣の列の審査官などは大っぴらに携帯電話を手にしながら作業をこなすといった具合のものであった。これには流石に田所哲也も先が思いやられると感じた。勿論いずれの海外にも行った経験のない彼であっても、やはり国が違えば色々と勝手が違うことくらいは想像していたし、それなりの覚悟もしていた訳だが、それでも一番きっちりとしていなくてはいけない筈の入国審査ですらこういった具合であるのだから、実際の文化や生活といったものは、最早彼の想像の範疇を遥かに超えているのであった。
「すごいとこやなぁ。こりゃあ先が思いやられんで……これやと一時間以上はかかんのとちゃうか」
そんな彼の気持ちを代弁するかのように、そっくりそのまま先輩社員の増永(ますなが)文彦がそう呟いた。人ごみの中に只じっと立ち尽くしているだけの状態により、彼の背中にもべっとりとシャツが張り付いている。
「ほんまですわぁ。今更やけどやっぱし来んかったら良かったわぁ」
田所哲也が心底後悔しながらそう呟くと増永文彦は、ふふっと失笑してから、
「そうやろ。だからゆうたやんけ。なんぼ女に逃げられたからゆうて、やけくそでこないなトコ来るもんとちゃうで。ワイみたいに所帯持ちやったら色々と理由があってのもんやけどなぁ……大体がや、傷心旅行みたいなんは女のするこっちゃし、一応ワイ等は仕事やねんからな」
と、彼はいつの間にやら取り出した扇子を広げながらそう云った。
確かに彼の云う通りであった。たかが女に逃げられたくらいでこんな国に、しかも二年という長きに渡って赴任して来るのはせいぜい自分くらいのものだろうとも思ったが、田所哲也にとって今回の出来事はかなりのダメージとして未だに殆ど消化しきれずにいた。だから社内でフィリピン工場勤務の話が持ち上がった時、現状から逃げ出したくなってついつい殆ど反射的に手を挙げてしまった、というのが本音なのである。
田所哲也は三十路を迎えるこの歳になるまで、地元大阪以外には日本の中でさえ、中学の修学旅行で九州に行った経験があるくらいのもので、東京はおろか沖縄も北海道も未だ見たことすらなかった。だがかといって別段何処かに行ってみたいと思う気持ちもなく、特にそれについてどうという訳ではなかったが、しかし同じ時季でありながら飛行機で僅か四時間程眠りこけているうちに、これ程までに気温が上昇するという事態につ
いては改めて驚き、そしてすぐに辟易した。
日本の空調が存分に効いたそれとは違って、この国は例え空港ターミナルの中であっても外からの熱気が僅かに感じ取れるほどに漂う空気の匂いにまで、たっぷりと暑さを含んでいるようであった。それ故に田所哲也は瞬時にここが日本とは違い、今更引き返すことなど出来ない場所なのだと改めて感じていた。
彼は増永文彦に愛想笑いだけを浮かべ、列の先へと視線を戻した。
やはり未だ殆ど前に進む気配などなかった。
そして彼は先程の増永文彦のひと言によってまた思い出したくもない佐藤加奈子(かなこ)の顔が、熱気と共にゆらゆらと立ち昇ってくるのを感じるのである。
二
田所哲也がフィリピンゆきを決意するほんの少し前の話となる。
彼と佐藤加奈子の付き合いは、その時点で既に三年が過ぎようとしていた。田所哲也より二つ年下である彼女がこの冬で二十八になることや、自らの年齢も鑑みて当然のように彼としては、そろそろ結婚というものを意識せずにはいられない状態であったし、又いずれそうするのが男としての務めであるとも感じていた。けれどもこれまでに彼女とは一切そういった類の話をした覚えもなく、また逆にそれがあまりにも自然な具合で、そうなるにしてもやはり成り行きなのだろうとすら感じていた。改めてプロポーズだの結納だのといった形式的なものには、自分は元より彼女も興味がないものだと田所哲也はそう勝手に思い込んでいたのである。だがそれも漠然とそのような思いに至った訳ではない。なぜなら適齢期を迎えた彼女の〈フェイスブック〉などにも時折友人達の婚約指輪だの披露宴の写真だのといった結婚に関するものが度々アップされていたのだが、それに対する彼女のコメントはあまりに自然な祝福に満ちたものであり、決してそこには焦りや、まして妬みなどといった感じは全く見受けられなかったからに他ならない。しかしそれ故、余計に田所哲也はどこかしら負い目のようなものを感じていたのも事実である。なぜならごく当たり前のようにそれらを彼女から見せられても、そこに登場する彼女の友人達の伴侶や恋人といった人間達は、きまってどう見ても一介の工員である自分よりは遥か上のクラスの人間と思えたからであった。
それまで彼の周りの友人や知人達はその殆どが彼と同じく高卒であったこともあり、学歴云々といったコンプレックスなど全くと云って良いほどあった訳ではないのだが、はたして彼女と知り合ってからはそうではなくなった。これまで接点すらなかった部類の連中がやたらと目に付くようになったからである。彼女の周りの殆どがそういったホワイトカラーの男達であれば、やはり意識しなかったと云えば嘘になる。それでも直接接点がある訳ではなかったので、どこか遠い世界の話として聞き流すことも難しいことではなかった。だから彼等のうちの一人がどこそこの商社であるとか云われてもそんな世界には全く疎く、余りピンとくることはなかったものの、流石にその男が医者の卵だと紹介文付でアップされた写真を見た時には思わず苦笑いし、しかもその明らかに将来有望そうな男を射止めたのが、彼女の親友であると知った時には田所哲也も感嘆の声を上げるしかなかったのである。
その出来事は猛暑と騒がれた暑さがやや緩み始めた週末に起こった。
前の週に連れだって彼女の友人が主催するバーベキューへと参加したせいもあり、些か懐具合の寂しかった
田所哲也は、久しぶりに彼女を昼間から実家である狭い長屋造りの家に連れ込んでいた。勿論、母親は相変わらず働きづめで留守であることも見越してである。というのも彼の母が随分と佐藤加奈子のことを気に入っており、何かにつけて構おうとするのも患わしかったからである。
付き合いも三年を過ぎると、佐藤加奈子も慣れたもので、台所を使って簡単な昼食を用意してくれたりもし
た。母親のそれに比べると若干薄味ではあるものの、とかく食には無頓着な田所哲也にとって充分なものであ
ったのは間違いない。彼は用意された食事を綺麗に平らげた。
それから昼食後、暇つぶしに覗いた佐藤加奈子の友人のフェイスブックには、やはり先週のバーベキューの様子がしっかりとアップされていた訳である。
「おおっ。すごいやん、エリちゃんのあの婚約者って医者の卵やったんやな。あんまし話せんかったから知らんかったわ」
その将来有望な彼はあまり目立たない、どちらかというと全くもって冴えない感じの男であったが、こうして肩書きをつけられると途端に誠実で、しかもいい男に映ってしまうのが田所哲也には不思議でもあり、また同時に随分と不快でもあった。
「みたいやね。うちも知らんかってん。こないだ付き合ったばっかりやのに、もう婚約って云うからびっくりして……。でも、大丈夫なんかなぁエリ。まあ、真面目そうな人やから心配ないと思うし、それに何てゆうても……」
彼女はそう云って少しだけ表情を曇らせた。が、やはりその物言いには嫉妬の類など含まれていないように感じた田所哲也は、その時思わず初めて口に出して云ったのである。なんとなくその場の空気を変えるにはそれしかないと感じたし、それを持ち出すのが殆ど最善とも思えたからでもあった。
「なあ。俺らも……そろそろ考えなあかん時期かもなぁ」
実にそれは彼にとってかなり勇気のいるひと言であった。勿論佐藤加奈子が喜ぶのは当然であるとしても、
そうなるとやはり仕事は残業を増やさねばならないだろうし、唯一の趣味である釣りにも早々気軽にゆくことなど出来ないだろうと感じていたからである。それでも二人で働いてゆけば決して貧しい生活にはならないだろうとも思えたし、何とか二人して遣り繰りするうち、いずれ子供をつくる余裕も生まれるのではないか、などと瞬時に考えた末の、ここら辺りが潮時だろうと感じて発した言葉でもあった。
「え? どういう意味」
が、しかしその時の佐藤加奈子の表情は彼が想像していたものとは随分とかけ離れた、実に困惑に満ちたものであった。
「いや……その、俺らもそろそろ籍でも入れなっちゅう意味、なんやけど……」
思いもかけぬ反応に田所哲也は咄嗟にそう応えた。結婚と云わず籍と云ったのは結婚式を挙げる費用もままならなかったからであるのだが、これまでに他人の結婚式に出席しても羨ましいなどと口にしてこなかった彼女ならそれも納得してくれるものと思い込んでのものであった。
「ちょっ、ちょっと待ってぇや。籍って、うちと哲っちゃんが?」
「は? 当たり前やろ。他に誰と結婚すんねん」
佐藤加奈子は一瞬、あまりにも唖然といった顔で固まっていたのだが、すぐにその表情も崩れた。
「ぷっ、ウソやん。え? 結婚って、うちと哲っちゃんが? ウソっ、可笑しいわ。冗談やろ? ほんま笑かさんといてぇな」
「な、何ゆうとんねん。つうか何を思いッくそ笑とんねん!」
田所哲也は想定外な彼女の反応に戸惑い、自分の顔がみるみると紅潮するのを感じながらそう叫んだ。
「ごめん、ごめん。怒らんといてぇ。ほんま、考えてもなかったから、つい……」
彼女はそれでも未だ笑いを堪えたような表情のまま続けた。
「だって、哲っちゃんがそんなふうにうちとの事を考えてるなんてまさか、思ってへんかったし……」
「俺かてもうええ歳やねんから、ちっとは考えるわいや。ちゅうかお前はどんな気ィで今までおってん」
田所哲也が恥ずかしさを隠すように煙草を咥えながらそう云うと、途端に彼女の表情が変わったのである。
「ほなら、ゆうけど結婚式はどうすんの? その前に結納は? 婚約指輪は?」
佐藤加奈子の眼は真っ直ぐに彼を捉え、最早その目も口許も笑ってはいなかった。
「そ、そんなん。別になくってもええやろ」
「ほらね。無理やん、哲っちゃんには……。あんな、うち等ええ歳なんやで? そんな十代のコらの〝できちゃった婚〟みたいにいく訳ないやん。そんなん……うちは嫌やし。それにうちの家族かて反対するやろうし……第一そんなん、うちよう云わんわ」
田所哲也には彼女の云うことが全く理解できなかった。確かにごく一般的な形式のものは自分には出来ないだろう。それに交通事故で父親を早くに失くし、母子家庭で育った彼には母に頼るなどの選択肢は鼻からなかったのである。それに例え頼んだところで僅かばかりのものでしかないことなど解っていた。何より事実、彼の周りには若くして結婚した知り合いが職場も含めると相当数いて、勿論それらの全部が順調な結婚生活とは云わないが、皆それなりになんとかやってゆけてはいるようであり、結局のところ彼にとって結婚といっても所詮そういうものであるとの認識しかなかったのである。
「ほなら、お前はなんで俺と付きおうとんのや」
「……そんなん、決まってるやん。哲っちゃんとおるんが楽しいし、第一、楽なんやもん」
「ほれやったらなんで……」
納得いかない表情を浮かべる彼に向かって、佐藤加奈子はふうっ、と息を抜いてから、
「結婚と遊びは別やんか」
とまるで優秀な先生が馬鹿な生徒にでも諭すように云い放った。
その後佐藤加奈子は堰(せき)を切ったように、これまでになく自らの考えをとうとうと彼に伝えた。
思えばこの約三年間というもの、田所哲也は彼女と真面目な話など殆どした覚えはなかった。会えば当たり前のように食事をし、その後セックスをする。只それだけの関係であったのかもしれない。勿論たまに旅行や買い物などに出掛けたりもしたが、よくよく思い返してみると、只その瞬間を――その時限りを互いに楽しむだけの付き合いであったように感じる。それでも彼はこれが男女の付き合いの当たり前の姿であり、その延長が結婚であるものと信じていた。そしてその過程に於いて子供が出来たのなら当然の如く家計は厳しくなるだろうが、そこをなんとか乗り越えてゆくのもやはり夫婦であり、家族なのだと思っていた。それ故に佐藤加奈子の主張は余りにも受け入れ難く、何かが音を立てて一気に崩れ落ちてゆくようでもあった。
佐藤加奈子が大阪市内にあるK女学院の卒業でエスカレーター式に大学まで進んだ女であると、彼が知った時分には、一瞬どのように接するべきかを悩んだのだが、いざ付き合ってみると彼がこれまでに散々相手をしてきた女達と何ら変わらぬものであった。それどころか彼がこれまで当たり前のように、遊び場としてきた大阪ミナミ界隈のクラブやバーなどに連れてゆくと、佐藤加奈子は途端に目を輝かせ無邪気に喜んでくれる女でもあった。そうなると田所哲也はこれまで勝手に敬遠してきた自分よりも学歴や社会的な地位というものが明らかに上の女であっても、所詮は変わらぬものだと感じ、一種の征服感すら感じられたのである。それ故に、佐藤加奈子とのセックスは色々な要素が彼の脳を刺激し常に激しいものであった。しかし彼女自体もそれに対して随分と興奮していたのは、彼の眼にも明らかであった。
最初彼女と知り合った場所がキャバクラであった状況からして、当然の如く自分と同程度か或いはそれ以上に適当に遊んできたのではないか、と思っていたのだが、只単にそれが友達の付き合いで幾日かの体験入店であった事実を後から知って、漸く田所哲也にも合点がいった。つまり彼と知り合うまでおそらく彼女は殆ど男との経験がなかったと思えるのである。それ故に所詮は結婚相手の候補にすらなり得ない男であっても、会えば彼女の経験したことのない遊びや気の利いた場所に連れていってくれ、しかも決まって最後にはほとほと疲れるまで求め合うセックスに陶酔させてくれる自分と、ずるずると今日まで関係を続けていたに過ぎなかったのであろう、という考えに至った。
「ほなぁ、なにか? 俺とは遊びやったっちゅうわけやな」
田所哲也は煙草に火を点けながら努めて冷静を装いつつそう告げた。それが精一杯の彼のプライドでもあった。結局のところ佐藤加奈子はそれに対しては何も答えずに俯くだけであった。
代わりに只ひたすら蝉の鳴き声だけが、彼の耳に響いていた……。
彼はゆっくりと立ち上がり居間にある仏壇へと向かった。その父の仏壇の横には生前、剣道の師範であった父が愛用した木刀がその時もそっと立てかけられていた。
そしてその日から彼女は、田所哲也の前から姿を消したのである。
三
〈ニノイ・アキノ国際空港〉を一歩出ると途端に強烈な熱気が田所哲也の身体全体を覆った。日本との時差は一時間しかないのでどっちにしろ昼過ぎの一番暑い時間帯なのだが、それにしても堪らない程であった。仮に日本も真夏であったならここまで不快に感じなかったのかもしれないが、どっちにせよこれが年がら年中殆ど変わらないのであれば同じことだと彼は思った。
空港ロビーを出てすぐのところには車寄せがあり、既に何台かのタクシーやワゴン車に荷物を詰め込む姿が見受けられた。その車線の向う側は高さ三メートル程のフェンスで仕切られた大きな駐車場となっているようであったが、フェンスの反対側には出迎えの人間と思しき人達が鈴なりになっており、それは一種異様な雰囲気でもあった。
「すごいなあ、何ですの? アレ……」
田所哲也が額の汗を拭いながら思わずそう溢すと、今回が彼と同じく初めてである筈の増永文彦がさも知ったような口ぶりで、
「ああ、あいつ等は別に誰かを迎えにきとる訳やないんや。只一日中ああやって誰ぞ知った顔でも出てけぇへんかと眺めとるらしいわ。なんぞおこぼれにありつこうと思うてな」
と、おそらく社内の経験者である誰かの受け売りを云った。
フェンスの向こう側の人間に目を向けると、皆一応に黒く痩せた顔の中に大きな瞳だけをギラつかせ、それはまるで獲物を見定める肉食動物のようにも見えて、つい田所哲也は彼等と視線を合わすのを躊躇った。
フィリピンは東南アジアの中でも極めて治安が悪く、くれぐれも注意するようにと日本にいる仕事仲間達から受けた忠告が思い出された。確かに彼等を見ても明らかに友好的には感じることなど出来ず、そうなると彼はいよいよ後悔の念を強めていったのである。
「おーい! こっちや」
聞き覚えのある声に目を向けると、三台程後ろのワゴン車からフィリピン工場の責任者でもある部長の成田(なりた)洋二がすっかりと日焼けした精悍な顔を覗かせていた。彼は田所哲也が今の会社に入社した時分の上司でもあり、公私に渡って世話をしてくれた恩人でもあった。例え佐藤加奈子との一件があったにしろなかったにしろ
彼がフィリピンにいなければ、流石に踏み切れていなかったに違いないとも感じていた。
「部長ぉ。久しぶりっス」
「おおっ哲ぅ。ほんまに来よったなぁ。またたっぷりしごいたるわ」
成田洋二は車から降りると彼の両肩をがっしりと掴んでそう云った。恰幅の良かった体格が日焼けによってか少し引き締まったようにも感じたが、それでも田所哲也よりは随分と縦も横も相変わらず大きい体躯であった。彼はひとまわり程も歳の違う成田洋二をまるで兄貴のようにすら感じていた。
というのも生来の女好きが災いしてか未だ独り身である成田洋二は、その年の割には随分とその容姿も、また行動も若々しく、田所哲也ともよく気が合ったのである。
「よっしゃ。荷物積んだら取りあえず住まいや。ここからすぐんとこやけど下手したら一時間以上はかかるからな。お前等も疲れとんやったら寝とってええぞ」
成田洋二は昔と同じくひと際大きな声でそう云うと車をゆっくりと発進させた。
「こっちは左わっぱ(ハンドル)なんスねぇ部長」
普段何かと偉そうな増永文彦も彼には一目置いているらしく、すぐに声色を変えた。
「ん? ああこっちはアメリカなんかと同じで車線もハンドルも反対や。まあ、お前等が運転するこたぁないやろうから気にせんでもええわ。それより増永よ、ドアロックが開いたままや、下ろしとけよ」
成田洋二という人間は実に真っ直ぐな性格であり、好き嫌いがはっきりとしている。増永文彦のように相手によって態度を変える人間を良しとはしないことを田所哲也は思い出した。それと同時にわざわざ彼程の男がやけにドアロックなどを気にかけるほうが不思議であった。
「そないにこっちは危ないんですか?」
「まあ、じきにわかるわ」
成田文彦はルームミラー越しに田所哲也の目を見て顔を綻ばせた。はたしてすぐに事情は呑み込める事となる。空港の敷地内を出てからも随分混み合っていたのだが、車が大通りへと出る頃には更に渋滞が酷くなり殆ど動かなくなった。それでも引っ切り無しにクラクションが鳴らされ、舗装されている筈の道には何処からくるのか絶えず土埃が舞っていた。片側四車線の中央分離帯には等間隔にヤシの木が植えられており、否が応でもここが南国フィリピンであると示していたが、それに加えて田所哲也をよりそう実感させたのは、その中央分離帯で商売をする者達の存在であった。両手いっぱいに見たことのないおそらくは南国特有の花束を抱えて売り歩く者や、彼が子供の頃に微かに見た覚えのあるヘリコプターのおもちゃを飛ばしながら、それを売ろうとする者、或いは赤ん坊を背に抱えながら単に手を差し伸べて車一台一台をノックして歩く者、しかもそれらの殆どが未だ子供か或いはせいぜい日本でいうところの中高生程の年齢にしか見えない若者達であった。
「あの、部長……」
田所哲也はその光景に思わず成田洋二に語り掛けようとしたが、続く言葉が見つからなかった。すると成田洋二は煙草を咥え、それに火を点けてからこう云った。
「まあ、これがこの国の現実や。ここに一年、いやあ半年もおったら日本がどんだけええ国で、恵まれとるんかっちゅうのが嫌でもわかるわ。どんな理由で来たにせよ、お前のこれからには……多分やがプラスになんのとちゃうか。なあ」
成田洋二には勿論ここに来た理由などが伝わっている筈もなく、恐らくこれまでの付き合いで田所哲也の脆い部分に気付いていた彼が推測のうちに云ったのであろうが、実際のところ田所哲也はそれに対しての驚きより、今、現実に目の前にいる物売りの彼等から目が離せないでいた。
四
田所哲也達の住むところは想像していたアパートのような建物ではなく一応は正面玄関にホテルと銘打たれ
ているものであった。〈コパカバーナ〉とアルファベットで書かれたそこはすぐ隣に立つ格段に豪華で白い外観で明らかに高級と思われるホテルと比べればかなりみすぼらしく、薄汚れたコンクリートむきだしの壁が実に暗鬱とした雰囲気でもあった。ややもすると既に使われていないのではないかと思わせたが、小さな車二台程がやっとの正面玄関に車を寄せると、中から従業員らしき若い男女が、足早に出てきながら笑顔で出迎えてくれた。
「おう。うちの新しいスタッフや」
成田洋二が日本語でそう声を掛けて後ろを指さすと、彼等は田所哲也達に向って小さく頭を下げた。どちらの若者も先程の物売り達と比べれば随分と小奇麗で肌の色も日に焼けていないのかあまり黒くはなく、二人共に白い歯が印象的であった。
「ここは一応ホテルってなっとるが、殆どの客が長期滞在や。観光なんかにきとる日本人はとなりのええホテルにぎょうさん泊まっとるんやが、そのせいもあってこの辺りは何かと便利でな。ほれみてみい」
成田洋二が顎で示したほうを見ると目の前の通りを挟んだちょうど向かい側には、何やら日本語らしき看板が見えた。信号のない幅の広い通りで良く目を凝らして見なければ見落としてしまいそうな文字であったが、確かに〈日本雑貨〉と書かれていた。次に彼が指差したこのホテルの並びの二十メートル程先には、しっかりと〈ラーメン〉と書かれたノボリをあげている小さな店が見えた。
「前の雑貨は結構なんでも揃とるけど、ちィと高いな。あっこのラーメン屋は色々とメニューも豊富やし安いからお勧めや。まあ、慣れたら行ってみたらええわ。正し、目の前やゆうても夜は……いや昼もやが、なるべく一人では出歩かんこっちゃぞ」
成田洋二はまたしても彼等の不安を煽るような物言いでそう云うと、ホテルの中に入るよう促した。田所哲也はもう一度向かいの雑貨屋とラーメン屋を見たあと荷物を抱えてあとに続いた。
てっきり相部屋だろうと覚悟していたら、部屋は贅沢にも一人部屋で外観や廊下の古びた様子から想像した割には随分と部屋そのもの自体は綺麗に保たれていた。玄関を入ってすぐのキッチンなどかなり大きく、しかもその上部の棚には、皿や容器がほぼ四人分揃えられており、ダイニング中央に置かれたテーブルは簡素なものであったがちゃんと四人分の椅子まで備えられていた。
「どうや中々やろ?」
手続きを済ます為、少し遅れて部屋へと上がって来た成田洋二は、まるで自分の家のように自慢げな口ぶりであったが、田所哲也は気にも留めなかった。中々どころか充分過ぎるくらいに贅沢と感じていたからでもある。どうせタコ部屋に毛の生えた程度であろうと覚悟した上に、先程の物売り達の現実が輪をかけてそう思わせていたのだが、しかしそれにしても余りにこちら側の現実は違っていたことに驚き、そして格差に若干戸惑ってもいたのである。
ダイニングルームの奥は寝室となっていたが、充分二人で寝ても余る程に大きなベッドがあり、その上部には、型こそ相当に旧そうであったが、ちゃんとクーラーも備わっていた。部屋はその二つでいわゆる1DKの間取りなのだが、日本のものとは比べようがない程にゆったりとしていた。只何故か採光は悪いようで、昼間だというのに灯りを点けなければかなり暗い部屋でもあった。
「いや、充分ですわ。こないに広かったら掃除が大変そうやけど……」
田所哲也はトイレを確認したあとそう云いながら、きょろきょろと探していた。
「もしかして風呂探しとんのか? それやったら無いで。ほれトイレの隣に小さいシャワーがついとるやろ。それだけや。まあすぐ慣れるわ」
彼からそう云われてそのシャワーを確認すると、やはりお湯ではなく生ぬるい水がちょろちょろと小便小僧のそれみたいに出てくるだけのものであった。だがそれを差し引いても彼にとっては充分過ぎる程であったし先程までかなり気が滅入っていたものが、すっかりと旅行気分にまで引き戻されるような住まいであった。
田所哲也は大きく深呼吸をして、兎に角この地で二年間暮らしてゆくのだと改めて思い直しながら、うっすらと陽が射しこむ小さな窓から外を眺めた。四階のそこからはちょうどホテルの裏通りが見えるようになっており、下を覗くとまるっきり舗装されていない赤茶けた路地がむこうのほうまで続いていて、殆ど人の姿も見受けられなかった。その時彼は表通りの車がひしめく賑やかな雰囲気と、それとはまるで対称的な裏通りの路地の陰鬱とした雰囲気が、この国を表しているように感じた。それと同時に彼は、日本できっと昨日とまるで変わることのない極ごく平和な今日を過ごしているであろう佐藤加奈子と、明日がどんなものとも想像すらつかない今を過ごしている自分も、最早対称的なのだと感じていた。
そう確かに彼はこの時、完全に彼女が平凡で尚且つ平和な日常を過ごしていると疑ってはいなかったのである。
五
初めての夜は成田洋二がフィリピン料理のレストランへ連れて行ってくれると云うので、田所哲也は旅の疲れと暑さも相まって多少の眠気が差していたのだが、取りあえず着替えを済ませてロビーに下りて行くことにした。彼はその際も成田洋二から云われた通りに、なるべく目立たないよう、つまり地味なTシャツと履き古したジーンズにサンダルといった恰好で、金は空港で両替したうちの僅かばかりである、日本円にして二千五百円程の価値となる千ペソ札三枚を裸のままポケットに押し込んだだけというふうな手ぶらの状態であった。
ロビーに着くと既に成田洋二と増永文彦が揃っていたのだが、何やら揉めているようであった。
「……でもも、糞もあるかい。そんなもん置いてこいっちゅうねん。お前のせいで俺らまで狙われたらどうすんじゃい。このボケが」
成田洋二からかなりの剣幕でそう捲し立てられた文彦は、首を竦めながらそそくさと部屋へ戻っていった。どうやら問題は彼の持っていたワニ革の随分と大層なセカンドバッグのようであった。勿論なるべく地味な恰好でくるようにと云われていたにも関わらず、そのように派手なものを持ってきた増永文彦も悪いのだが、それにしても成田洋二は必要以上に彼を嫌っているように感じた。田所哲也がその事について尋ねようとする前に、成田洋二は顔を顰めながら云った。
「あのボケ、さっき聞いたらあんまし嫁はんとうまくいってへんらしゅうてな。こっちでその憂さ晴らしをしようと思うて来たんや、とぬかしよった」
成田洋二の余りに憎々し気な物言いに田所哲也はすぐに返す言葉が見つからなかった。というのも彼にも少なからず――いや、大いにその気があってここに来る決意を固めていたからであった。田所哲也も実は何度か日本において、フィリピン人女性がホステスとして接客する〈フィリピンクラブ〉に幾度か行った覚えもあって、全くもってフィリピンに馴染みがないという訳ではなかったのである。
たまに田所哲也が仕事仲間などと週末の夜に繰り出すミナミの界隈に於いてもかなりの数そういった店があり、しかし殆どの場合何軒か飲み歩いたのち、店の前で呼び込みをする彼女達に釣られてのものであったが、結構それはそれで日本人のキャバクラとは趣も異なり、また値段も比較的リーズナブルであったことから大いに楽しめたものである。が、しかしキャバクラのように、また懐事情が良くなったら行くのかと問われれば、自ら進んで足が向く程のものでもなかった。というのもフィリピン人ホステス達の殆どが田所哲也と同じくらいか或いはそれ以上の歳であったからでもある。キャバクラのように十代から二十代前半の層が中心ではなく彼にとってあわよくばプライベートで遊びたいなどと思わせる年頃の女は見受けられなかった。しかし彼女達の店の良いところは、たとえ一見の酔客であっても実にフレンドリーでその場を盛り上げてくれる陽気さにあり、忘年会など普段あまりそういった場所に馴染みのない連中が一緒の時などは充分に重宝する店であった。
そのような理由もあって、ちょうど去年の忘年会がミナミで行われた時分も、二次会は何度か利用したことのあるMという比較的大きなフィリピンクラブが選ばれた。その時も普段はあまり夜遊びなどしない連中が何人か勢いに任せて参加することになったのだが、そのうちの五十代半ばの同僚が宴たけなわになってポツリとこう溢した。
「昔はフィリピンパブも、もっとおもろかってんけどなあ……」
そう話す彼の隣にいた田所哲也は充分な盛り上がりを見せる状況の中で、素直にその言葉を不思議と感じ、普段あまり接点のなかった人間であったにも関わらず、自然と彼の話に耳を傾けていった。
彼が云うには、十年程前に外国人に対するビザの発給が随分と厳しくなり、それまでにいたかなりの人数のフィリピン人女性達、いわゆる〈ジャパユキ〉達が今は全く入国出来ない状況であるとの話であった。
当時の彼女達ジャパユキは表向き、歌手やダンサーなどの芸能人として来日し、その実ホステスとして接客をしていた。本来の〈フィリピンクラブ〉とはそういったものでもあり、そのホステス達も勿論若く、そして一応は芸能人として来る訳で、それなりのオーディションなどを経ており、かなりの粒ぞろいでもあった。それ故どの店も今とは比べ物にならない程繁盛していたのである。
現在ではそういった芸能人としてのビザが発給されることなど殆どなく、今こうして働いている彼女達のビザは一律婚姻によるビザで、中には偽装結婚なども少なからず含まれてはいるが、それでも一応は人妻となるわけである。勿論彼女達がそんな興醒めする事実を素直に云う筈もなく、仮に尋ねてみても、姉や妹が日本人と結婚しているだのなんだのと適当なその場しのぎに終始するのが常であって、実際にそれらの内情を知っている元々のフィリピン好きの客達は自然と足が遠のき、今こうして店を訪れる客は田所哲也達のようにその場の雰囲気だけを楽しむ客が殆どなのだと彼は説明してくれた。そして彼は最後にこうも付け加えた。
「最近じゃあ昔のフィリピン好きはみんな店なんかにけぇへん。たまあに来る彼女達の昔の客も全部事情を知っとるから、せいぜい昔話して盛り上がるだけや。殆どの奴はゼニ貯めて年に何回かむこうまで行って遊びよるんや。なんせむこうは物価も安いし飛行機代や宿代含めて二、三日豪遊しても十万円そこそこやからな。こっちで無駄なゼニ使うよりよっぽど楽しいわ」
田所哲也はその時分彼の話にかなりの興味をもった。というのも実際に現在日本にいる彼女達を見ても確かに昔は結構いい女であったのが窺い知れる程であったし、何より同じように日本人向けのそういった店が何軒もフィリピンでは営業していて、歳も勿論十代から二十代そこそこであるとくれば興味が湧かない筈はなかったのである。
田所哲也がフィリピン工場に来る決断をした時にそれらの話が頭を過ったのはごく自然の成り行きでもあった。勿論佐藤加奈子とのことが大前提にあり、彼女と別れていなければこの地を踏むこともなかったであろうが、それでもまるっきり何の情報もなく、微かな楽しみも想像出来ない異国の地が赴任先であってもはたして来たのか、と問われればやはり彼は即答する自信がなかった。
「すんません。これでええですか?」
息を切らしながら戻ってきた増永文彦は白のTシャツに半ズボン姿で、かなり恥ずかしそうな表情でもあったが、成田洋二は彼を一瞥して「まあええやろ」と云って背を向けた。
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