もう遅い

譚月遊生季

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「もう遅い」

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 僕は、愚かな男だった。そして最低の夫であり、最悪の父だ。

 一時の色香に惑わされ、僕は家庭を捨てた。愛人宅を帰る家とし、何年もの間、本来の家庭から目を背け続けた。
 ……金の切れ目が縁の切れ目。いつまでも続くかのように思われた景気は泡のように弾け、僕が業績不振に陥るや否や、愛人は姿を消した。
 今更悔いたってどうしようもないし、過去は取り戻せない。謝ったって許されるようなことではないと理解している。……理解していたけれど、僕はかつての家の前に立った。

 僕は愚かな男だ。……そして最低の夫で、最悪の父だ。
 それでも、もし、やり直せるなら……それが許されるのなら……なんて、図々しいことを考えながらインターホンを押した。

「……はい?」

 懐かしい声が、インターホン越しに聞こえる。

「……すまなかった」

 僕が一言謝ると、廊下を走る音が聞こえ、ドアが勢いよく開いた。

「あなた! 待っていたわ!」

 我が子を腕に抱いた妻が、弾けるような笑顔で出迎えてくれた。

「さぁさぁ、家に入って。今日はご馳走にしなきゃね」

 変わらない笑顔で、妻は息子にも笑いかける。息子もキャッキャと笑い、僕の方にふくふくとした手を向けてきた。
 あんなに最低なことをしたのに、許してくれるのか。熱くなった目頭を押さえつつ、僕は家の中へと入った。

 ……なんだろう。この違和感は。
 憤り、包丁を取り出してもおかしくないはずの妻が笑っていること、だろうか。
 いや、いいじゃないか。妻は僕を許してくれた。ここから家族3人、再起を図って行こう。



 ***



 食卓には、豪華な夕飯が並べられていた。

「すき焼きか。材料があって良かった」
「ええ……あなた、好きだったでしょう?」

 妻は嬉しそうに微笑み、食卓に座る。
 赤ちゃん用椅子に座った息子も、嬉しそうに笑っている。

 ……ん?
 赤ちゃん、だって?

 いや、何も変わったところはない。
 数年前、出ていった時と同じ……おな、じ……

 待てよ。

 僕が出ていったのは、「数年前」だぞ?
 なぁ、どうして……

 息子は、赤ん坊のままなんだ?

「どうしたの? あなた」

 妻はニコニコと笑っている。
 息子も、ニコニコと笑っている。
 変わらない笑顔で、変わらない二人が、笑っている。

 一度蓋をしたはずの違和感が思考に流れ込み、本能が警笛を鳴らす。

 ──逃げなければ

「ち、ちょっと用を足しに行ってくる」
「あら、そう。行ってらっしゃい」

 震える足で廊下に向かう。
 そうだ、廊下には電話がある。急いでダイヤルを回し、タクシーを呼べば、何とか……

「あなた」

 妻の声に呼び止められ、ビクッと肩が跳ねる。
 恐る恐る振り返ると、彼女は再び息子を抱きかかえ、背後に立っていた。

 妻と息子は、相変わらず穏やかに笑っている。
 血の気の失せた顔で、ニコニコと、笑っている。

「やっと、気付いた?」

 妻の声は満面の笑顔にふさわしく、心の底から嬉しそうで、愉快そうで……
 妻の腕の中で、息子が口を開く。
 やけに明瞭な声が、廊下に響いた。

「もう遅い」
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