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エレーヌ・アルノーの追憶

第二話 出会わなければ良かった

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 彼とわたしが出会ったのは、前の、そのまた前のカレシと付き合っていた頃の話。その頃のわたしは恋に恋してチープな偽物の愛を振りまいて、それでもその生き方を楽しんでいた。

 当時のカレシは現代アートだかなんだかを学んでる人で、趣味の展覧会巡りに誘われた。
 それまで美術の展覧会なんて、縁がないものだと思ってた。
 確かに美術大学には通っているけれど、わたしはデザイン科だし、ルーヴル美術館よりもパリコレクションの方が断然興味がある。
 だけど、君もフランス人なんだし絵画のひとつくらいはうんぬんと言われ……仕方なしに連れていかれた。

 最初はすごくタイクツだった。
 モネ、ドガ、ピサロ、ダリ、シャガール、セザンヌ……フランス人なら誰もが知ってる画家の絵も、私にとってはカレシの意味不明な前衛的アート? と大差ない。

「ぼくの絵だっていつか、ルーヴルやオルセーに並ぶんだ」
「へぇ~、頑張って。楽しみにしてる」

 私を一流アーティストの恋人にしてくれるなら、それはそれは魅力的だけど……ポールにそんなに才能があるとは思えない。アートのことなんてあまりわからないけど、それだけは確か。

「……ん? あいつは……」

 そんな時、ポールが声を上げた。

「カミーユ! カミーユ・バルビエだ!」

 声を潜め、興奮しがちに囁いてくる。

「……誰?」
「知らないのかいエレーヌ! きみも同じ大学なのに……!?」 

 そんなこと言われても、わたしデザイン科だし。

「有名人?」
「ああ、もちろん! 独特のタッチ、きめ細やかな色彩感覚、古典的なのに目を引く構図、それに、何より……本人の美貌!!」

 興奮しきっているポールの視線の先に目を向けると、そこに、彼はいた。
 落ち着いた亜麻色の髪、深みのある蒼い瞳。透き通るような白磁の肌……。
 絵から抜け出たような美青年が、展覧会の片隅に佇んでいた。

「カミーユ……ってことは、女性……? いや、男性名でもアリか」
「男だよ。無理もない、綺麗な顔だから」

 ポールは楽しそうに語るけど、なぜか、本人に近寄ろうとはしない。

「……話しかけないの?」
「え。……う、うーん……それはちょっとなぁ……」

 わたしの問いに、ポールは困ったように首を捻った。

「知り合いなんでしょ」
「いや、でも……さぁ」

 ……なんて、話しているうちに、向こうがこっちに気づく。
 蒼い瞳が私たちを見て、ぱちくりと瞬いた。

「……ポール?」
「げ」

 気付かれ、ポールはあからさまに嫌そうな顔をした。

「なんだ、君も来てたの?」
「ま、まあ……インスピレーションを得たくて……」
「あー、うん、いい判断だと思うよ。君、センス皆無だし」
「うぐッ」

 一瞬で、話しかけたくない理由がわかった。
 この性格を知ってたら、わたしでもためらう。間違いない。

「……恋人?」

 蒼い瞳が、ちらりとわたしを捉える。

「ああ、エレーヌ・アルノー。デザイン科のマドンナだよ」
「ふーん……」

 細い身体のわりに節くれだった手が、おもむろにわたしの頬に伸びる。
 整った顔立ちが近づいて、思わず心臓が跳ねた。

「その色、似合わないと思うよ」

 頬にかかった栗毛をかき上げて、カミーユは言う。

「……ポールはこういう色が好きなのよ」
「あー、まあポールはね……。センスないから」

 ポールは肩を震わせて、「何もそこまで言わなくたって……」と俯いている。
 カミーユの方は「あ、ごめん」と、ばつが悪そうに目を逸らした。

「そういうの、言わない方がいいんだっけ」

 どうやら悪気があったわけじゃないらしい。頬を掻きながら、困ったように視線が泳いでいる。

「きみの言葉は率直そっちょくすぎる。率直に伝えていいのは、愛の言葉だけだ」
「……ん? この前も似たこと聞いたけど、率直に伝えていいのは夢だけ……じゃなかったっけ?」
「……夢も芸術への愛だから間違ってない……よね? エレーヌ?」

 ポールはうろたえつつわたしの方を見た。
 そんなの、わたしに聞かないで欲しい。

「わたしは愛の言葉だって、キレイに磨かれたのが聞きたいけど」

 だって、本当にどう思ってるかなんて興味ない。
 わたしが欲しいのは真心じゃなくて、愛を語らう楽しい時間だし。

「ポール、ランボーとか読むなら貸すよ」
「そこは顔に似合ったものを読んでるんだね」
「いや、映画の方の原作かと思って買ったんだよね……詩も嫌いじゃないし、一通りは読んだけどさ」
「ああー……映画(そっち)の方は確かに意外だ……」

 その後、ポールの口説き文句が上達したかどうかはわからない。すぐ別れて、別のカレシと付き合いだしたから。
 理由も別に大したことなくて、「飽きたから」それだけ。ポールも最初から分かってて付き合ってただろうし、わたしの恋なんてそんなもの。

 ただ、別れる間際、美術展に誘われた。自分や同期の学生の絵を飾るから、別れた後も興味があればぜひ……って。
 じゃあカミーユ・バルビエの絵もあるのね。あの綺麗な人、どんな絵を描いてるんだろう。……そんな、好奇心が胸の内で膨らむ。その絵が見たくて、数ヶ月後の開催が楽しみになった。

 思えばこの時から、私は彼に心を奪われていたのかもしれない。
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