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外伝「つばめ」

後編「地獄」※

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 空虚な日々の中、「私」は変わらず優秀な成績を収め続けた。
 きしみ続ける心に見ないふりをすれば、他の貴族らしく「仮面」を身につけてしまえば、全ては順調だった。

「あの日」が訪れるまでは──

「……っ!? ゴホッ、が、は……ッ」

 ある朝。起き抜けのことだった。
 異臭を感じたかと思えば、胸が焼け付くように痛み、シーツにぼたぼたと鮮血が散った。
 叫ぶどころか、呼吸すらまともにできない。それでもどうにか寝室の扉を開け、外に這い出た。

 大量の血を吸い、カーペットの色が暗く沈む。
 意識を失う寸前に聞いた悲鳴が、使用人か妹か、それとも母のものだったのか、よく分からない。

 医師の治療を受け、容態が落ち着くまでに私は幾度も
 心臓が止まるたび、医師は手を尽くして私を蘇生する。無理やりこの世に引き戻されるたび、私はまともに呼吸のできない苦痛にさいなまれ、再び心停止に至る……これを、幾度となく繰り返した。

 表向きには病とされたが、事実は違う。
 使用人の一人が「暗殺者」として、秘密裏に「処理」されたと後に聞いた。
 寝室に毒物を投げ込んだ、というのが真相らしい。
 下手人げしゅにんが見つかるまで、私は数名の医師とともに隔離かくりされ、独り生死の境をさまよった。
 ……いや、本来は、死んでいるのが正しいことわりだったのだろう。技術を用いて、無理やり「生かされた」に過ぎない。
 生還してなお、私は、自ら呼吸することもままならない有様だった。

 毒により片肺が破壊され、重度の酸素欠乏により記憶障害を負った私に向け、父の放った言葉は冷淡なものだった。

「それで、軍への配属はいつになる? 既に遅れが出ていると聞く。急いで立て直しなさい」──と。

 ……まともに呼吸のできない身体で、何をどうすれば父を失望させずに済んだのだろうか。
 療養中、私にできることは勉学の復習のみだった。幸いにも知識や教養といった部分は失われていなかったが……肉体の方は、どうにもできなかった。

「……! ────ッ」

 起き上がるだけで胸に痛みが走り、特殊な器具なくしては息をすることもままならない。とにかく筋力の衰えを防ごうと鍛錬自体は行ったものの、何度も倒れては医師に止められた。

 そんな日々が続いたある日、彫刻師の兄が部屋を訪れ、片肺を蘇らせる方法があると告げた。
 記憶を失ってはいたが、兄が落ちこぼれ扱いを受けていること、兄弟とはいえ(少なくとも表向きは)仲睦なかむつまじいわけではないと、周りの様子で察せられた。

「上手くいくかはわからないが……方法はあるんだ」

 魔術を用いて壊死えしした肺の細胞を置換ちかんし、新たに臓器を造り上げる。自発的に動くことはないだろうが、紋章を刻むことで魔力を常時供給し、活動させる。……それが、兄上の提案だった。

『……良いのか。私達は、特に仲が良かった訳でもないと聞いたが』

 筆談で応える私に、兄上は苦笑しながら頷いた。

「フェルドは忘れただろうけど……ちっちゃい頃、まだ3歳とかかな? 初めて僕の作品を見た時、めちゃくちゃ喜んでくれてさ。僕は、君のこと結構好きなんだぜ。……父さんには関わるなって言われちまってたけど」

 ……兄上にとって、その提案は紛れもない善意であり好意だった。
 その心を利用せんとするおぞましい影があるとも知らず、兄は私を助けるために持ちうる技術を結集させ、私は兄にその身を委ねた。

 兄上は周りの評判が嘘のように、博識かつ有能だった。
 彫刻、医療、魔術……三つの分野の知識と技術を掛け合わせ、私は無事、健康な肉体と比べて遜色そんしょくのない呼吸ができるようになった。
 常に魔力の供給を行う必要があるため、魔術の使いすぎに気を付けること、破壊された肺を細胞単位で組み直して人為的に動かしているため、無理をすれば疼痛とうつうや呼吸困難に襲われること……その二点に気を付けろ、との説明を受けた。

「……噂とは、宛にならないものだ」
「マニアックな知識だよ。社交界じゃ役に立たない」

 そう自虐する兄上に、何も返すことができなかった。
「思い出」のない私には、必死で学んで身に付けた「仮面」以外での振る舞い方が分からなかった。……いいや、例え記憶を失っていなくとも、その部分は同じだったかもしれない。

「ふむ、ふむ。素晴らしい! いやはや、『穀潰ごくつぶし』を養うことにも益があったとは……!」

 ……そして、父上はその腕を褒め称えた。
 兄上は、父上に褒められることを嬉しそうにはしなかった。口では「光栄です」と言いながら、その瞳はただただ淡白だったように思う。

「良くやったフェデリコ! ……そこでだ……もう一つ、造って欲しいものがある」

 それは、「願い」ではなく、もはや「命令」だった。

「子宮だ」

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。

「私はこのに、新しい役割を見つけた」

 兄上はさっと青ざめ、反論しようと口を開いた。
 ……が、

「なんだ? 何か、言いたいことでもあるのか」

 その言葉で、もう押し黙るしかなかった。
 記憶のない私ですら、「逆らってはいけない」と悟らされる声音だった。

「私は常々、フェルディナンド……お前の婚約者について頭を悩ませていた。家柄、容姿、気立て……あらゆる面が申し分なくとも……どの令嬢にも、決定的なものが足りない」

 突然何を言い出すのかと……兄上も私も、固唾かたずを飲んで言葉の続きを待つ。

「そうだ。ような令嬢は、どこにもいなかった」

 ……何を。
 何を、言っているんだ? この男は。

「だが、マルガレーテが産み落としたお前本人であれば……マルガレーテによく似た、マルガレーテの血を引くお前になら! マルガレーテを産むことができる……!」

 先妻の名を繰り返し、父は気が触れてしまったかのように私の肩を掴んだ。

「領主候補であれば、死に損ないでなくとも『代わり』は他にいる! お前は私の子を産め。何ならそこの穀潰しが相手でもいい。娘を産み……マルガレーテを、この世に再び……!」

 母は……今は亡き父の先妻は……異国からとついで来た、血筋としては父の遠戚えんせきに当たる女性だ……と、知識としては残っていた。
 ……後に、父が熱心に口説き落とし、半ば無理やりめとった相手だと、兄上から教えられることになる。

「……っ、父上、それは……。それは、あまりにも……!」

 兄上が声を振り絞り、意見しようとする。
 途端に父は血相を変え、その頬をしたたかに打った。
 赤くなった頬を押さえ、兄上は床に倒れ伏す。

「ぐ……っ」
「私に口答えするな! 穀潰し風情ふぜいが!!」

 不思議と、私の感情はいでいた。
 語り聞かせられる理解の及ばない演説に、感情が一切の拒絶を示したのだろう。

 ……家中には、父に逆らえるものはいない。
 私は肉体を造り替えられ、そのことは兄と父のみが共有する秘密となった。

 私への施術を終えた後、兄はすまなさそうに項垂うなだれ、一つの術を教えてくれた。
 それが、避妊魔術だった。片肺と違って本来持って生まれていない、後天的に造られた「子宮」が上手く機能するかは怪しい。……それでも、可能性はある。
 実の父親に孕まされることを、自力で拒否する術があるのは有難かった。

「……まさか、私が『息子』を抱くことになるとは」

 父のねやに呼び出され、記憶がなくともその言葉で父に犯されるのが初めてだと察した。……それだけ、私の「病」が失望に値したのだ、とも。
 父は刻まれた「月」の紋章を愛撫し、うっとりと目を細める。
 ……悲願である「再会」を、思ってのことだろうか。

「ああ……やはり、顔はマルガレーテによく似ている……」

 歪んだ愛欲が、牙を剥く。

「マルガレーテ……愛しているよ……」
「……っ、ぅう……」

 母の名を呼びながら、父が、私を犯している。
 悪夢のような光景だった。
 造られた孔を指で無理やりこじ開けられるのも、赤黒い舌が身体を這うのも、粘ついた甘い囁き声も、ただただ苦痛でしかなかった。

「……っ、おい! マルガレーテは、そんな声で啼かない!」
「いっ……」

 殴打されたところで、何をどうすれば良いのか分からない。
 肉体を多少造り替えられたとはいえ、私は男だ。母と同じように喘ぐことなど不可能だし、そもそも記憶のない私には母がどんな女性なのかも分からない。

「フェルディナンド、マルガレーテを産め。それが、貴様の新たな役割だ……!」
「ぃぎっ、ひ、ぐ……ぁあ……っ」

 身体に付け足されたばかりの「性器」をこじ開け、父が私の中に入ってくる。
 痛みと吐き気に耐えながら、悪夢が終わるのを待った。

 やがて、中で父の肉棒がどくどくと脈打ち、ようやく終わりを察する。

 行為を終えると、父はすぐに私の身体から離れ、先程とは打って変わって冷静な口調で話し始めた。

「もし孕んでいなければ、療養が終わり次第、軍に行け。……何。どうせ害獣駆除用の、お遊びの軍隊だ。死に損ないでも多少は上手くやれるだろう」

 ももに、赤い血の混ざった白濁が滴り落ちる。

「お前の活躍にはもはや期待していないが……それでも、我が一門の名に恥じぬ程度の働きはしてもらおう」

 何が「一門の名に恥じぬよう」だ。
 我が子の身体をもてあそんだ男が、どの口で。
 反抗する気力は既になく、汚れたシーツを握り締め、屈辱に震えるしかできなかった。

 涙は流さずに、歯を食いしばって耐える。
 こんな男のために泣くことさえ、悔しかった。



 墜ちた鳥は、もう空を飛ぶことはない。
 地に伏したまま、死を待つより道はない。
 ならば、せめて。
 たっと将校おとことして、散ることができるなら。

 この身が受けた苦痛にも、この空虚で惨めな生にも意味があるのだと。
 ……そう、思える気がした。



 ***



「フェルド! フェルドだよな!?」

 数年後、金髪の訓練兵に声をかけられた時。
 私は既に、荒んだ社交界に毒されていた。

 相手……特に「目下」の人間には舐められてはならない。対人関係とは腹の探り合いであり、人付き合いとは相手の真っ黒な腹の内を暴く、もしくは見抜くことである……と。

「誰だ、貴様は。馴れ馴れしく語りかけるな」
「……えっ」

 弱みを見せてはならない。
 好かれる必要も、愛される必要も、慕われる必要もない。……私の役目は、「上に立つ者」として生き、相応しい散り方をすることのみだ。

 この身の内側がどれほど惨憺さんたんたる有様でも、見かけだけは高貴でなくてはならない。
 気高き名門貴族としての「表面かたち」を、守り続けなくてはならない。

 ……そう、思っていた。

「……ちょっとちょっと、あの感じは、知り合いじゃないのかい?」
「……中尉殿。『知己ちきの振りをして、貴族と関係を持とうとする輩』は往々にして存在します。そういった下劣げれつな連中は、慈悲を見せればなおのこと増長するでしょう」

 私の言葉に、訓練兵……「ジャコモ・ドラート」の表情が引きつったのも、今思えば当然のことだ。

「は……?」
「貴様の魂胆こんたんなど見え透いている。早く持ち場に戻れ、訓練兵」

 ああ、そうだな。
 君を怒らせても、君に恨まれても、何一つ文句は言えない。
 弱みを握り、脅して無理やり関係を持った気持ちも、今ならわかる。

 ……でも……

 忘れてくれて、良かったのに。
 ここにいるのは……薄情で冷淡な「フェルディナンド・ダリネーラ少尉」は、血の通わない亡骸でしかない。
 君の愛した「僕」は、とっくの昔に、暗殺者の毒に殺されてしまったのだから。



 ***



 狂おしいまでの恋。
 狂おしいまでの陶酔。
 あの情熱的な口付けの感触を、どう言葉にすれば良いかしら?

 これは私の夢。
 これは私の命。
 富なんかに、どれほどの価値がある?
 幸福が最後に花開くのであれば。
 そんなふうにあなたを愛せるのなら。

 どれほど、素晴らしい夢でしょうか。

 ──歌劇「つばめ」。第一幕より抜粋。
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