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二十二
花の名-1
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疲れた心と身体に、泥のように深い眠りが訪れた後、目が覚めると、慣れない寝台の感触と共に、白い陽の光が目に入った。朝だった。
傍らで丸くなって眠っていたはずの主人が、いつの間にか居なくなっているのに気付いて身を起こす。アーシュラは長椅子に腰かけ、まどろむゲオルグの頭を膝に乗せて、彼の巻き毛を撫でていた。
「……おはよう」
そして、エリンに気が付くと、顔を上げて微笑む。
「もう少し休んでいても良いのよ」
「いえ……」
いつまでも彼女のベッドを使っているわけにもいかないので、頭の芯にこびりつく眠気を振り払って立ち上がる。秋らしい青空が、カーテンのレース越しに目に入る。とても良い天気のようだ。
「ゲオルグったら、よく寝る子よね」
アーシュラは笑った。あまりに平和で、甘い朝の光景。けれど、重く残酷な現実が、彼らのすぐ傍までやって来ている。
エリンには、彼女に、まだ伝えなければいけないことがあった。
「殿下……」
意を決して口を開くエリンに、アーシュラが言った。
「結婚式は、中止にするわ」
「え……」
「戴冠式の準備を進めなくてはいけないから」
静かに、けれど重く。彼女はエリンを見て、小さく頷いた。
「大丈夫よ」
「……気付いておいでで」
驚愕を隠せないエリンに、アーシュラは悲しく微笑む。
「ツヴァイの様子がおかしかったわ」
そして、アーシュラは堪えるように瞳を伏せた。
「……きっとお祖父様の身に何かあったのだって。そして、……ご無事の知らせが無かったから」
朝の太陽が、彼女の華奢な体を清冽な光で縁取る。
「ねぇ、エリン」
アーシュラの声が震える。
「ツヴァイは……どうしている?」
その問いに答えるのは辛い。
「先生は……」
けれど、隠せることではないのだ。
「……陛下と共にゆかれました」
ようやく、アーシュラの瞳に涙が浮かんだ。
「あなたに……ご婚礼の予定を台無しにしてしまって申し訳ない、と……謝っておいででした」
エリンが告げると、少女は背中を丸め、恋人の頭を抱え込むようにして、声を殺し、肩を震わせる。
ツヴァイが主を守れなかった理由は明白だ。それがアドルフの命令が呼び込んだ結果であることを知っていたとしても、それは彼女にとって、大変に辛いことだった。ツヴァイがどんなに主を愛していたかは、とてもよく理解していたし――
それに、アーシュラも、それからベネディクトもだ。ふたりとも、幼い頃から優しい祖父の剣が本当に、大好きだったから。
「……アーシュラ」
ふいに、ゲオルグの声がした。枕が動いて目を覚ましたのか、彼はのんびりとした調子で言って、長い腕をヒョイと伸ばす。
「泣いているのかい?」
彼が今の話を聞いていたのか、いないのかはエリンには分からなかった。彼の声を聞くと、アーシュラはすすり上げて首を振る。
「……今だけよ。もう、わたくしは決して泣かないの」
「それは……勇敢だね」
「……ゲオルグ、結婚をやめましょう」
「えっ!?」
ゲオルグは声を上げて飛び起きる。
「何だいそれ、僕が嫌いになった?」
「……違うの」
アーシュラは泣き顔のままかぶりを振る。
「お祖父様がお亡くなりになりました。わたくしはこれから、帝位を継ぐ準備をはじめなければいけません」
「え? 陛下が? ……えっ……」
「だからね……」
「ちょ、でも! それ、結婚とは関係……無い、よね?」
「無いわ」
「じゃあどうしてやめるとか!」
ゲオルグはアーシュラの小さな手をギュッと両手で包むように握りしめて、懇願するように言った。彼の情けない悲鳴で、悲しみに沈んだ部屋の空気が僅かに緩む。アーシュラは気を取り直したように涙を拭った。
「……お祖父様は殺されてしまったの。これから……わたくしが帝位を継いで、この城は安全でなくなるかもしれない」
そして、彼女はもう泣かなかった。
「あなたはまだ別の道を選ぶことができる。私と一緒に来たら、あなたも無事ではいられないかもしれない」
「アーシュラ……」
呆然と呟くゲオルグの手を剥がして、アーシュラはそっと立ち上がる。
「……お祖父様にお別れの挨拶を言ってきます。ゲオルグ、愛してるわ。あなたのこれからを辛いものにはしたくないの。だから、わたくしが今言ったこと、よく考え――」
「結婚してください!!」
キッパリ言い放って手を伸ばし、婚約者の手を掴み直した。
「ゲオルグ……?」
彼があまりにあっさりと断言するので、アーシュラは拍子抜けしたように目を丸くする。全く考え無しな発言をしたかのようなゲオルグであったが、今までずっとそうであったように――彼は真面目だった。
「そりゃ……昨日みたいなことは、怖いし、嫌だけど。あと痛いのとか、もちろん殺されるのとか……嫌だけど! だけどね、それは違うよ……違うんだ」
昨夜の出来事を超えて、彼がこんな風に彼らしく楽天的であってくれることは、なぜだか、とて尊いことのような気がした。
「僕は、君と生きてみたい。それは……たとえ後悔することになったとしても、選ばなかったよりは、ずっとましなはずなんだ」
ゲオルグの必死の言葉をアーシュラは黙って聞いて――やがて、気が抜けたような笑顔で、前言撤回を受け入れたのだった。
傍らで丸くなって眠っていたはずの主人が、いつの間にか居なくなっているのに気付いて身を起こす。アーシュラは長椅子に腰かけ、まどろむゲオルグの頭を膝に乗せて、彼の巻き毛を撫でていた。
「……おはよう」
そして、エリンに気が付くと、顔を上げて微笑む。
「もう少し休んでいても良いのよ」
「いえ……」
いつまでも彼女のベッドを使っているわけにもいかないので、頭の芯にこびりつく眠気を振り払って立ち上がる。秋らしい青空が、カーテンのレース越しに目に入る。とても良い天気のようだ。
「ゲオルグったら、よく寝る子よね」
アーシュラは笑った。あまりに平和で、甘い朝の光景。けれど、重く残酷な現実が、彼らのすぐ傍までやって来ている。
エリンには、彼女に、まだ伝えなければいけないことがあった。
「殿下……」
意を決して口を開くエリンに、アーシュラが言った。
「結婚式は、中止にするわ」
「え……」
「戴冠式の準備を進めなくてはいけないから」
静かに、けれど重く。彼女はエリンを見て、小さく頷いた。
「大丈夫よ」
「……気付いておいでで」
驚愕を隠せないエリンに、アーシュラは悲しく微笑む。
「ツヴァイの様子がおかしかったわ」
そして、アーシュラは堪えるように瞳を伏せた。
「……きっとお祖父様の身に何かあったのだって。そして、……ご無事の知らせが無かったから」
朝の太陽が、彼女の華奢な体を清冽な光で縁取る。
「ねぇ、エリン」
アーシュラの声が震える。
「ツヴァイは……どうしている?」
その問いに答えるのは辛い。
「先生は……」
けれど、隠せることではないのだ。
「……陛下と共にゆかれました」
ようやく、アーシュラの瞳に涙が浮かんだ。
「あなたに……ご婚礼の予定を台無しにしてしまって申し訳ない、と……謝っておいででした」
エリンが告げると、少女は背中を丸め、恋人の頭を抱え込むようにして、声を殺し、肩を震わせる。
ツヴァイが主を守れなかった理由は明白だ。それがアドルフの命令が呼び込んだ結果であることを知っていたとしても、それは彼女にとって、大変に辛いことだった。ツヴァイがどんなに主を愛していたかは、とてもよく理解していたし――
それに、アーシュラも、それからベネディクトもだ。ふたりとも、幼い頃から優しい祖父の剣が本当に、大好きだったから。
「……アーシュラ」
ふいに、ゲオルグの声がした。枕が動いて目を覚ましたのか、彼はのんびりとした調子で言って、長い腕をヒョイと伸ばす。
「泣いているのかい?」
彼が今の話を聞いていたのか、いないのかはエリンには分からなかった。彼の声を聞くと、アーシュラはすすり上げて首を振る。
「……今だけよ。もう、わたくしは決して泣かないの」
「それは……勇敢だね」
「……ゲオルグ、結婚をやめましょう」
「えっ!?」
ゲオルグは声を上げて飛び起きる。
「何だいそれ、僕が嫌いになった?」
「……違うの」
アーシュラは泣き顔のままかぶりを振る。
「お祖父様がお亡くなりになりました。わたくしはこれから、帝位を継ぐ準備をはじめなければいけません」
「え? 陛下が? ……えっ……」
「だからね……」
「ちょ、でも! それ、結婚とは関係……無い、よね?」
「無いわ」
「じゃあどうしてやめるとか!」
ゲオルグはアーシュラの小さな手をギュッと両手で包むように握りしめて、懇願するように言った。彼の情けない悲鳴で、悲しみに沈んだ部屋の空気が僅かに緩む。アーシュラは気を取り直したように涙を拭った。
「……お祖父様は殺されてしまったの。これから……わたくしが帝位を継いで、この城は安全でなくなるかもしれない」
そして、彼女はもう泣かなかった。
「あなたはまだ別の道を選ぶことができる。私と一緒に来たら、あなたも無事ではいられないかもしれない」
「アーシュラ……」
呆然と呟くゲオルグの手を剥がして、アーシュラはそっと立ち上がる。
「……お祖父様にお別れの挨拶を言ってきます。ゲオルグ、愛してるわ。あなたのこれからを辛いものにはしたくないの。だから、わたくしが今言ったこと、よく考え――」
「結婚してください!!」
キッパリ言い放って手を伸ばし、婚約者の手を掴み直した。
「ゲオルグ……?」
彼があまりにあっさりと断言するので、アーシュラは拍子抜けしたように目を丸くする。全く考え無しな発言をしたかのようなゲオルグであったが、今までずっとそうであったように――彼は真面目だった。
「そりゃ……昨日みたいなことは、怖いし、嫌だけど。あと痛いのとか、もちろん殺されるのとか……嫌だけど! だけどね、それは違うよ……違うんだ」
昨夜の出来事を超えて、彼がこんな風に彼らしく楽天的であってくれることは、なぜだか、とて尊いことのような気がした。
「僕は、君と生きてみたい。それは……たとえ後悔することになったとしても、選ばなかったよりは、ずっとましなはずなんだ」
ゲオルグの必死の言葉をアーシュラは黙って聞いて――やがて、気が抜けたような笑顔で、前言撤回を受け入れたのだった。
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