紫灰の日時計

二月ほづみ

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二十一

純真-3

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 息が詰まるような恐怖と、泥のように重い後悔をなぎ払うように、闇を駆ける。アドルフの執務室が、あまりに遠く感じられた。
 届けられたのは、侵入者を告げる知らせだけではなかったのだ。
 前触れ無く現れた侵入者によって、執務室に居た皇帝が――襲われたという。
 どうして――どうして。
 あの時、主の元を離れるなどということを、承諾してしまったのだろう。生涯決して傍を離れず仕えると、誓ったのに。

 騒々しい城内の他の場所に比べ、やっとのことでたどり着いた執務室は、奇妙な静けさに包まれていた。室内に乱れた様子は見当たらず、ただ、開け放たれた窓辺のカーテンが、夜風に揺れている。
「陛下……?」
「――――、か……」
 掠れた声がした。愛用のデスクの脇に、アドルフは倒れていた。胸に突き立てられたままの短剣が目に入り、息が止まる。
「アドルフっ!」
 駆け寄って、抱き起こした。流れ出た血が上着を汚し、背を支えた指がぬめる。ギラギラと光る無粋なナイフが、深々と彼の胸に突き刺さっていた。
 この刃が何を貫いているのか、分かりたくなくても、分かってしまう。
「アドルフ……」
 力の抜けた重い体。
「今、医者を……」
 けれどツヴァイは、絶望をまだ受け入れられない。
「……にを、して、おるのだ」
 ささやき声がかろうじて届く。アドルフは、のろのろと瞬きをして、彼の剣を見た。彼は既に虫の息であり、それはツヴァイだけでなく、アドルフ自身も分かっているようだった。けれど、皇帝は慌てる様子も、嘆く様子も、怒る様子も無く、ただ淡々と、黄泉からの迎えを待っているように見えた。
「はやく……姫の元へ……」
「嫌です!」
 遅すぎた拒絶だった。アドルフは苦しい息を吸って、静かに吐き出す。そして、少し笑ったように見えた。
「……泣くな」

「私は、あなたの元を離れるべきでなかった……」
「良い……のだ。余は、あれに……」
「アドルフ、黙って下さい。すぐに医者が……」
「……姉を、……殺させ、くは、なかっ……」
 言葉を途切れさせ、アドルフはごぶりと血を吐いた。かつて、親族内での流血を終わらせた証として皇帝の剣が身に付けることとなった――平穏の象徴である白い衣が、老いた皇帝の赤い血に染まっていく。
 ああ――もう、間に合わないのだ。
「……済まなかった」
「嫌です……アドルフ、待って……」
 幼子のように泣き縋る優しいツヴァイの白い髪を、アドルフの、血に濡れた手が、微かに撫でる。
「……ツヴァイ」
 彼はもう、彼に残酷な命令を与えなかった。ただ、彼の孤独な日々を支え続けた、かつての幼子を、愛おしげに呼んで、言った。
「そなたに……独りになれとは、言わぬ、よ……」
「アドルフ……」
「泣くな、アインに、また……――」
 その途切れた言葉が、彼の最後の言葉となった。
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