鶴のメロディ

十三夜

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序章

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くう、くう、くう。
雪の中で、丹頂鶴が羽を広げながら鳴き声をあげているさまを、沢村優李は黙って見つめていた。
ほぼ毎日鳴き声は聞こえていたが、今日はいつにも増して鳴いている。やつらは少し早い送別の歌でも歌っているのだろうか。
明日は、郡山中学校の卒業式なのだ。
優李は乾いた唇を舐めた。そこはわずかに湿ったが、寒風にさらされて、再びはりついてしまう。息苦しさを感じ、口を開くと溜息をついた。
反射的に動いた瞼が、開かれたままで乾いていた瞳を覆い、涙が溢れてきた。
それが冷たくなった頰に流れ落ちた時だった。
「優李くん」
聞き慣れた声がした。
「あ……奥宮先輩……」
奥宮紗菜だった。
「ずっといたら、なんか風邪ひいちゃいそうだよ。まだ帰らないなら、中入ろう?」
「そうですね」
優李は、紗菜の背中を追うように歩き出す。
「明日は卒業式なんだから、体調管理ちゃんとしてよ?」
「すみません」
「優李くん美声なんだから、ちゃんと歌って送り出してね」
「……それは期待しないでください」
紗菜は優李のひとつ歳上の中学3年、つまり、明日で卒業生となる。
「最後だから、旧校舎も見ていきたいんだよな。いい?」
「いいですよ」
二人は旧校舎の昇降口に入ると、髪や肩にのっていた雪をはらった。
優李は、さっき流れた涙を拭っていなかったことに気づいた。手の甲で拭うと、涙と寒風で冷やされた頰が、ひりひりと痛んだ。
顎にかかったマフラーをずり下げると、紗菜は言った。
「優李くんさぁ」
「何ですか?」
「結局私のこと、“紗菜先輩”って呼んでくれなかったね」
「そうでしたね」
「苗字で呼んでたの、優李くんだけだったじゃない。なんで名前で呼んでくれなかったの?」
「いや……なんか、失礼にあたらないかな、とか……」
「失礼なわけないでしょ!他の子はみんな「紗菜先輩!」って……あぁもう、可愛かったなぁ!卒業したくなーい…!」
紗菜は後輩たちを思い出し、感傷に浸り始めた。
「はぁ…別に他のやつらに呼んでもらってたなら、よかったじゃないですか」
「よくない!優李くんだって、可愛い後輩の一人には変わりないんだから」
「なっ……!」
不意打ちだった。優李は動揺を隠せず、意図とは反対に顔が赤くなってしまう。紗菜はそれを見て、あえて何も言わなかった。
「ねぇ、試しに一回呼んでみてよ」
「はぁ⁉︎なんで…」
「いいから!私はもう卒業しちゃうし……今だけでいいの、お願い!」
一回だけですよ、と告げ、優李は名前を呼ぼうとした。が、緊張のせいか、思うように声が出ない。かろうじて「さな…」とまで言った時だった。
「ピアノの音……」
「そう、ですよね……」
どこからか、ピアノの音色が聞こえてきた。
それは、何かの曲を弾いているようだった。どこかで聞き慣れた旋律のはずだったが、何の曲なのかはなぜか思い出せない。眉間に皺を寄せている優李をよそに、紗菜が叫んだ。
「これ……“旅立ちの日に”だ!」
“旅立ちの日に”は、毎年、郡山中学校の卒業式で、卒業生が歌う曲となっている。3年生には馴染みが深かったのだろう。
「もしかして、クラスの子が練習してるのかな……私、ちょっと行ってくる!」
紗菜は言い終わる前に、階段を駆け上がり始めた。
「えっ?ちょっと、どこ行くんですか⁉︎」
「音楽室!たぶんそこだから!」
「待ってくださいよ、先輩!」
優李もあとに続こうとした時だった。
「………あれ……………?」
旋律に違和感を感じた。
たしかにフレーズは“旅立ちの日に”で間違いないのだ。しかし、どこか無性に悲しい雰囲気を感じる。
「これ……」
その“旅立ちの日に”は、短調だったのだ。
なんか嫌な感じ。直感的に優李はそう思った。
そのメロディには悲しさだけでなく、戦慄さえ覚えて、ずっと聴いていると鳥肌が立ちそうだった。紗菜はもう旧校舎のさらに内部に入っていってしまっている。これを聴きながら紗菜を探しにさらに奥に行くのは、かなり気が引けた。
「先輩、すみません……」
優李は旧校舎の玄関を出ると、そのまま本校舎の方へ駆け出した。あの旋律が聞こえなくなった頃にまた行って、それから紗菜を探せばいい。それまでに紗菜が外に出ていたら、自分はトイレにでも行っていたことにすればいい。そう思っていた。
さっきまでの恐怖心を紛らわせるために、まだ人気の多い、下駄箱前の廊下に立っていた。帰っていく生徒たちの喋り声が、さっきの旋律を少しは記憶から掻き消してくれている気がした。
やがて、その生徒たちも、みんな帰ってしまい、優李はまた1人になった。
「あっ……まだ残ってたのか?」
振り向くと、ジャージを着た若い男性が立っていた。
「嶋田先生……」
体育教師の嶋田陽介だった。
「お前は……こんな時間まで残ってるってことは、3年ではなさそうだな?」
「はい。2年の沢村です」
「沢村……あぁ、思い出した!美術部の!」
「そうです」
「そうか~、美術部のか~……っと、こんな事話してる場合じゃなかった」
嶋田は、何か思い出したようだった。
「今、俺が施錠当番にまわってるから、生徒はもう帰さないといけないんだ。早く帰らないと、あとから見回りに来た先生に怒られちまう」
「あぁ、そうでしたか。すみません」
「何か忘れ物か?」
「いえ……僕は先輩の付き添いで。あっ、3年1組の奥宮紗菜さんです」
「ああ、奥宮か……まったく、いくら後輩が可愛いからって、遅くまで付き合わせるとはねえ……」
嶋田は苦笑いしながら言った。
「んで、その奥宮はどこに?」
そうだった。嫌な記憶を再び呼び起こさねばならない。
「実は、あっちの旧校舎に入っていってしまったんです。“旅立ちの日に”のピアノが聞こえたらしくて」
「“旅立ちの日に”って、卒業生が卒業式で歌うやつだよな?」
「そうです。「もしかしたらクラスの子が練習してるのかも」って……向こうの音楽室にいると思うんですけど」
「そうか……それにしても、旧校舎でピアノの音がって……怖えな」
優李は何も言えなかった。自分がさっきまでわざと曖昧に表現していた感情を、嶋田は率直に言葉にしてしまったのだ。
「とりあえず今日は、お前はもう帰りな。奥宮は、俺が探しとくよ。ピアノの音が聞こえるってことは、他に残ってる生徒もいるだろうしな」
「はい……ありがとうございます」
「一応、他の先生方にも連携はとるよ」
「そうですか、よろしくお願いします」
「おうよ。じゃあ、気をつけてな」
「はい、さようなら」
嶋田が職員室へ続く廊下の角を曲がったのを見送ると、優李は本校舎の玄関を出た。
外はもう暗くなり始めていた。時計を見ると、もう少しで6時をまわるところだった。じきに、6時を告げる町内のチャイムが聞こえるはずだ。
優李はもう一度旧校舎の玄関に入った。あの旋律はもう聞こえていなかった。生徒の声もせず、日も落ち始めて、静寂と薄暗さに包まれた旧校舎は、さっきよりずっと不気味だった。
声を振り絞り、紗菜の名を呼ぶ。
「奥宮先輩?僕です、優李です!奥宮せんぱーい⁉︎」
返事はなかった。
「奥宮せんぱーい!帰ったんですかー⁉︎」
相変わらず、何の返事もない。
ここまで返事がないということは、やはり帰ったのだろうか。
その瞬間、
ーーーーザザザッ……!
「ひぃっ!」
優李の耳に突然飛び込んできたのは、ノイズの音だった。
そのあとすぐに、6時を告げるチャイムが流れ始めた。ノイズはその前触れだったのだ。
「もう6時か……」
世間ではもう3月といえど、北海道の夜の風は冷たい。
優李は校門を出ると、まだ蕾もない桜の木を振り返った。
「奥宮先輩……、卒業おめでとうございます」


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