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第二章 西端半島戦役

第三十話 近隣にて(一)

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    時は少し遡る。
    転移初日の夕方、北方のある行政庁では喚きたてる声があった。

「ヤポンスキーめ、何をしやがった!?
    お得意の秘密兵器か何かか!?」

「詳細は不明です。
    彼等の仕業とも限りませんよ。
    自然現象の可能性もありますから」

    喚く声と同時に、それを諌める声もある。

「マカーキめ!!!」

    喚く声の主は中年男性だ。
    彼は政治家だが、あまりの事態に差別用語を撒き散らしている。
    この場には二人しかいないとはいえ無用心に過ぎるが、それだけ混乱しているという事の証なのだろう。

「二十一世紀も半ばです。
    その発言は慎まれた方がよろしいかと」

    諌めるのは秘書だ。
    三十近い男だが、政治家の男よりは余程冷静に見える。

「極東では、有権者の中にも黄色人種が多くいますよ」

    実際には多くもないが、無視は出来ない程度だ。
    それでも、秘書は諌める為に大袈裟な事を言った。

「それは知っている」

    不快そうに吐き捨てた中年男性、ヨシフ・コモロヴィッチ・エジョフは、サハリン州知事だ。
    彼はロシアでも、ヨーロッパ寄りの出身であり、希にずれた事を言って顰蹙を買う事があった。
    もっとも、攻められる可能性はほとんど無いとはいえ、過剰に南を気にするのは一種の職業病だろう。
    攻撃を受ける可能性が皆無であっても、係争地帯があるのだ。
    軍や中央政府関係者でなくとも、地元行政府としては気になって当然だろう。
    その警戒心が、今の様に差別用語として噴出したのだ。

「だがな、ヤポンスキー共は時々とんでもない事をやらかす。
    それを考えると、連中を怪しむのは当然じゃないかね?」

    エジョフは、ロシア本土などとの通信途絶の原因が、日本人にあるものと確信していた。
    無論、証拠の類いは無い。
    日本以外の外部から来る電波が完全に途絶しているという、状況だけが根拠だ。
    これだけでは状況証拠ですらない。
    エジョフは、明らかに冷静さを失っていた。

「彼等でも、こんな事は出来ません。
    考えついたとしても、フィクションだけだと思いますよ。
    知事の仰る通り非常識な事もしますが、少なくとも私が知る限りでは物理法則を無視したり、誰にも知られないうちにひっくり返した事はありません」

    秘書が慰めの様な事を言う。

「じゃあ、何が起こったと言うんだ!」

    当然ながら、秘書の言葉は慰めにならなかった様だ。
    エジョフは唾を撒き散らした。

「私には分かりかねます。
    しかし、手掛かりが皆無な訳でもありません」

「手掛かりだって!?
    君、そんなものがあるなら、もっと早く言いたまえよ」

    秘書の言う『手掛かり』に、僅かな希望を見出だしたのだろう。
    少しばかり落ち着いた口振りで、エジョフは続きを促す。

「この事態が起こる直前、地震が起こりました。
    規模こそ小さな地震でしたが、あれが何か関係しているのではないでしょうか?」

「な、成る程。
    地震か」

    エジョフは、首を傾げた。
    秘書は地元の出身であるが、彼は違う。
    極東方面はそれなりに長いものの、サハリンに住み始めたのは十年程前だ。
    地震についての知識や、小規模な地震の経験はそれなりにあったが、大規模な地震は経験が無い。
    運が悪ければ、津波対策に追われた可能性もあったが、幸運な事にサハリン沿岸部を襲う様な津波は、彼が移住してから一度も無かった。
    地震が、恐ろしい事態を引き起こすという、実感が無いのも当然だろう。
    彼にとっての地震被害とは、テレビ画面の向こうの事だった。

「たしかに、地震と言えば日本だな。
    サハリン州もプレートの境目に近く、北海道で起きた地震にサハリンが巻き込まれる事もある。
    タイミングを考えても、君の言う通りなのだろう。
    だが、具体的な因果関係が分からない」

    エジョフは、少し落ち着いた口調に戻っている。
    手掛かりを聞いて、冷静さを取り戻しつつあるのだろう。

「何にしても、人為的な事件ではありませんよ。
    沈黙した陸地が全て沈んだとしても、その影響によって津波が起こる筈です。
    しかし、それも無い。
    少なくとも、人為的な事件でない事は確実でしょう」

    秘書は優秀だった。
    サハリン州は田舎だ。
    通信が限られた状況で、調べものをするのは困難だった。
    二十世紀の様な紙の辞書や、数十年前の電子辞書は廃れており、持っている者は少ない。
    都会であれば、複数の大学へ問い合わせるなどの調査手段もあっただろう。
    複数の大学に問い合わせる理由は、大学からの回答が客観的な意見である事を確認する為だ。
    回答を寄越した学者が、たまたま珍説を唱える厄介者であっては堪らない。
    故に、ここサハリン州では、そういった調査手段も難しかった。

   日本とは違い、国家機関がまるごと転移して来たわけでもなく、州という一地方行政機関では、調査に時間が掛かってもおかしくはない。
    特に調査機関の類いが無いにも拘らず、日本政府が自力で導き出した事実と、同様の回答を導き出せた事は、彼が優秀である証拠だった。

「そ、そうか。
    ヤポンスキーの仕業ではないのだな」

    エジョフはあからさまに、ホッとしている。
    無理もない話だ。
    誰でも、人智を超えた未知の災害よりは、人智を超えた攻撃を行う隣国の方が怖いものだろう。
    況してや、一部に係争地帯を抱えているのだ。
    そしてエジョフも含め、サハリン州知事は領土返還に反対しなければ、当選する事が不可能な立場だった。
    過去には、それ以外では親日的な知事も多く居たが、不幸にもエジョフは違う。
    エジョフ自身の視点だと、日本人から恨まれても仕方の無い振る舞いは、多々あった。
    流石に、政策までは行っていないものの、強気な振る舞いは得票数を伸ばすのに、必要不可欠なのだ。
    こういう場合、本人が若干でも理不尽さを感じているからこそ、報復を恐れるものだろう。
    故に、政治家としては失格なのだろうが、エジョフが取り乱したのは、人として至極真っ当な反応だった。

「では、この未曾有の災害に対して、彼等に援助を求めても問題は無いのだな?」

「それはどうでしょう?
    震災による被害ならばともかく、彼等の食糧自給率は低い筈です」

    気を取り直したエジョフに告げられたのは、残酷な事実だった。
    日本の食糧自給率は改善されつつあるものの、輸出を行える程ではない。
    それは純然たる事実なのだ。

「で、ではどうしようもないではないか!?」

    サハリンでは、漁が盛んに行われているものの、穀物栽培は難しい。
    今までは、本国から持ち込めばそれで済んでいた為、品種改良などによって無理に作付けする必要性は無かった。
    本国との交易が途絶える可能性は、考慮すらされていなかったのだ。
    その様な事態が起こるとすれば、その原因は全面核戦争の勃発以外に考えられない。
    サハリンも全土が焼け野原となり、市民は死に絶える。
    復興は意味を成さないだろう。
    現状の、様にサハリンだけが生き残る可能性もあったが、そもそも全面核戦争という想定そのものが、荒唐無稽なのだ。
    田舎の地方行政が、真面目に考える事ではない。
    正確には、予算や人員などの規模が小さ過ぎて、考えても仕方がないのだ。

    だが、現実に起こってしまった災害には、対処しなければならない。
    そして、現状はサハリン単独で対処出来る様な状況ではなかった。

「少し遅かった様な気もしますが、州民に自制を求めましょう。
    ラジオ放送で呼び掛けるのです」

    秘書の意見は真っ当なものだ。
    しかし、それに効果があるとは本人ですら思っていない。
    災害時に、人が呼び掛け程度で自制するのなら、そもそも暴動や略奪は起こらないだろう。
    そして、それ等が起こらない国は希少だった。
    エジョフは、人生で初めて日本人を羨んだ。

「軍に出動を要請すべきだろうな」

    エジョフの言葉に秘書は頷く。
    二人は今起きている、あるいはこれから起こるであろう混乱を、警察のみで収められるとは思っていなかった。

「問題は軍の指揮系統です。
    現時点で治安維持の為に必要なのは陸上戦力です。
    ですが、我々が陸軍に接触する事で、彼等が軍政上優位に立ってしまうのは困ります」

「差が付く事で、他の部隊が不満を感じては困る。
    たしかにそうだ。
    だが、今懸念する様な話でもないだろう」

    秘書の懸念は正しいものだったが、エジョフの考えもそれはそれで適切だった。
    背に腹は代えられないのが現状なのだ。
    将来的な問題は先送りとすべきだろう。

「コルサコフの海軍基地にも、警備の兵士は居るでしょうから、彼等でバランスを取る事で多少はマシになるでしょう。
    後は、軍人の自制心に期待しましょう。
    それから軍とは異なりますが、国境警備局には気を使わなければなりません。
    彼等には不法操業よりも、密出国を警戒してもらわなければ」

    サハリンで飢餓が蔓延すれば、逃げようとする者が出て来る。
    その結果、彼等が北海道で問題でも起こせば、日本から支援を受ける事はより困難になるだろう。
    秘書は日本人の人の良さを知っていたが、飢えていても善人のままであるとは思っていない。
    逆に、少ない食糧を奪われる可能性すら危惧している。

「問題はまだあります。
    陸軍はクリル諸島の部隊を動かすでしょうか?
    日本を警戒し過ぎるあまりに、部隊の移動を拒否される可能性もあります。
    あの部隊が動かないとなると、サハリン本島の治安維持は困難です」

    依頼されたからと言って、『はいそうですか』と動けないのが軍だ。
    彼等もまた、官僚組織である。
    通信途絶だけを根拠に、勝手な行動を起こせないという判断をする可能性も、充分過ぎるぐらいにあった。

「それなら何とかなるかもしれん。
    あそこの師団長は、たまたま幼馴染みだ。
    説得してみよう」

    世間は広い様で狭い。
    エジョフの意外なコネクションに、秘書は目を丸くした。

(動かない事を決めていた場合、上手くものだろうか)

    だが、同時に説得が成功する可能性は、低いものと見ている。
    幼馴染みとはいえ別の道に進んでしまえば、関係性も薄まるものだ。
    相手が軍人、それも将校ともなれば同じ教室で学んだのは、高校辺りが最後だろう。
    趣味が同じでも、士官候補生は忙しい筈だ。
    余程親しい関係でもなければ、疎遠になっているだろう。

「こうなってしまった以上、残存兵力の主力はサハリン本島に居て欲しい。
    同時に、それによってクリル諸島をがら空きとする事で、ヤポンスキーとの関係改善をも図る。
    軍が居るのと居ないのでは、居ない方がやり易い事は確実だ。
    その場に居なければ、反対し難いだろう」

    地元民ではないエジョフは、サラリと北方領土の返還を口にする。
    秘書は、ホッと溜め息を吐いた。
    領土への拘りよりも、対日関係改善を選べる以上、少なくともエジョフが優秀な外交屋である事は確実だ。
    それは秘書自身の安定にも繋がるだろう。

「臨時政府の樹立は、必須なのでしょうから反対は致しません。
    ですが、最初からクリル諸島で譲ってしまっては、外交上のカードが少なくなり過ぎます。
    現状、彼等は産油国ですのでガスが切り札となりません」

    秘書は、対策があるものと信じつつも、問い掛ける。

「おそらくだが、切り札は海中に居ると思うぞ。
    我が海軍が、日米合同演習を監視していないとは思えない」

    エジョフはニヤリと笑った。
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