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りゅう
襲撃
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その日、鵜殿はやや静かだった。
もともと二百人ほどしかいない集落の中から、二十人近い男どもが何日も戻っていないのだから、当然と言えよう。
しかも、村長の和田吉右衛門をはじめ、沖合衆の要である筆頭刃刺の勝太夫に、二番舟の錦太夫と三番舟の花太夫、その下についている水夫、そして寡黙なくせに存在感のある巨漢権藤伊左馬という主だった者たちばかりなのだから。
格としては、山見の長である山旦那か納屋衆頭がまとめ役とならざるを得ないが、なにぶん若い集落であるがゆえに勢いのあるものが引っ張る役になりやすい。
そこで、四番舟の弥多が臨時のまとめ役扱いになっていた。
弥多からすれば損な役回りである。
七番まである勢子舟だけでなく、網舟の連中の面倒までみなくてはならないからだ。
そもそも村長たちは二泊三日ほどの日程で熊野大社に厄払いに行っただけである。
それが七日経っても帰ってこない。
何かあったのかと、四日目に勝浦まで舟をだして様子を見に行かせたが、村長たちはそこにおらず、なぜか役人たちに連れていかれたということだった。
事情は一切わからない。
奉行所にまで出向くべきだという声もあったが、下手に藪をつつきたくないと反対する者もいた。
鵜殿は新宮藩直営である。
何か藩のお偉方しか知らない問題が生じていたとしたら、所詮はただの鯨漁師であるところの彼らが目立つことをして、吉右衛門らに迷惑をかける訳にはいかなかった。
もっとも、楽観視する者もいる。
権藤伊左馬が同行しているからだ。
浪人ではあるが、藩に知己の多い男でもあり、かつ何をしでかすかわからない男だ。
もしものことがあっても唯々諾々と従うはずもない、村長たちのために動いてくれるだろうという不思議な信頼感があった。
吉右衛門の家に集まった比較的年配のものどもの心配に対して、娘のお汐がそう太鼓判を押すのだからさらに強まった。
権藤が竜退治の勇者であることもいい方向に働いていた。
誰もが鯨とは明らかに違うあの巨大で禍々しい生き物を目の当たりにしていて、恐ろしさを熟知していたのである。
ただし、弥多だけは違っていた。
権藤が大嫌いだからだ。
ぶち殺してやりたいとまで念じていた。
理由はいくつかあるが、大きいものはただ一つだ。
(野郎、お汐と寝やがった)
こんなにも我慢できない話はない。
お汐は村長である和田吉右衛門の娘であるが、それと同様に彼の幼馴染でもある。物心ついたころからよく知る仲だ。それがあんな男に絆されるだと?
弥多は荒れに荒れた。
何としてでもぶちのめしやりたかった。
あの宴のあとの光景が忘れられない。夜の砂浜で権藤の巨体に組み敷かれるお汐の白い肌と艶めかしい太ももの動きが目に焼き付いている。感じている女の切ない喘ぎ声が耳から離れない。何よりも、権藤の名を呼ぶお汐の甘いくずれ表情が信じられなかった。
幼いころに見惚れた整った顔が他の男に抱かれて蕩けるところなど我慢ならなかった。
あれを忘れるためにはなんだってできる。
弥多はそう思っていた。
真夜中に目が覚めて、寝静まった鵜殿の集落を歩き始めた。
足先が自然と吉右衛門の家の前に向かってしまう。
月の美しい晩だった。
あの夜のように。
ガサッ
戸が開いて、娘が一人顔を出した。
お汐だった。
思わず弥多は隠れてしまった。
必要はなかったが、照れ臭かったというのもある。
加えて、酒を飲んで勢いづいていた今の彼だと惚れた女を前にしてはそのまま犯してしまいかねなかったということもあった。
(こんな夜中にどうした? まさか、権藤のところにいくのか?)
吉右衛門ともども鵜殿に戻っていない権藤にどうやって会いに行くのか、このときの弥多は嫉妬に苛まれておかしくなっていたといっていいだろう。
お汐は空を見上げている。
だが、星を見ているという様子ではない。
顔をきょろきょろと動かし、何かを探しているようだった。
それから浜辺へと歩き出す。
村長宅から浜辺までは大納屋の裏を通れば地下道なので、そこをいく。
行動をいぶかしんだ弥多はこっそりと後をつけ始めた。
夜空を見ているだけのお汐は尾行にまったく気が付かない。
(……前もこんなことがあったな)
まだ太地にいた頃のことだ。
夜ではなかったが、お汐が浦方五百軒と謳われた鯨方たちの居住区で似たような奇行をしていたことがあった。
(あの時は……)
思いだした。
同時に、弥多はお汐の背後に近寄り、肩を掴んだ。
鬼でも出たかのような表情を浮かべられたが、月明かりですぐに弥多とわかり安堵する。
「弥多じゃないの。どうしたのさ」
「わいつ、また空を見ているのか」
「……そうだけど、それがなに」
「餓鬼の頃も似たことがあった」
「だからなにさ」
「―――竜が出たときもだ」
お汐は眼をむいた。
図星だったのだろう。
自分の考えていることが読まれたかのようだ。
「わいつ、空の風が読めるのか。だから、時化がくるのがわかるのか」
「……ええ。随分と前にみんなに教えたことがあるけれど笑い飛ばされたわ。あんたにもね」
そんなことがあっただろうか。
弥多の記憶にはない。
打ち明けられたこともあるだろうが、子供らしい不真面目さで聞き流していたのか、それともお汐の整った顔に釘付けになっていて耳に届かなかったか、そんなところだろうか。
おぼえておけばよかった。後悔した。
今のお汐の真剣なまなざしを見れば、空の風が読めるというのは彼女の根幹にかかわることのような気がする。飲み込んでやれるかどうかで相手の評価も定まってしまうような……
そんな大切なことだったのかもしれない。
ふと、口をついた言葉があった。
「権藤は笑わなかったのか」
嫉妬から出た言葉であることをわかっていながら発したのは、屈折した心のなせるわざである。
自分が哀れだった。
間違っていないことはお汐の顔つきで明らかだったからだ。
お汐がくどくどと言ったりしない分、弥多の惨めさは増していく。
「だからか。だからなのか」
弥多はしつこかった。いや、しつこくせざるをえなかった。情けなさを縷々と述べて相手が気を変えるはずもないが問わずにはいられなかった。
お汐も弥多の必死な態度に隠された言いたいことは分かっている。
だが、聞いても無駄なのだ。
手練手管が通じる段階ではない。
彼女の中には男が一人、もう、いるのだから。
「そんなのは関係ない。手を放して。あたしは海の様子を見ておきたいんだ」
「何故だ、何故なんだよ。堪忍してくれよ」
「だから、放してって」
普段の弥多は女に縋る男ではない。どんな女も行きずりの遊女でも扱うかのように逆に突き放せる男だった。
肩に置いてあった手を腰に回し抱き寄せたくなったのは欲情ゆえではなく、手放したくなかったからだ。
ここで縋りつけば戻ってきてくれる。そう確信していた。
だが、女の心変わりへの期待をどんなに男が抱いてもうまくいく試しなどないということを捕鯨しか知らぬ若者が知る由もない。むしろ、岩のような権藤伊左馬の方がはるかに女の感情に寄り添える機微があったのかもしれない。
滑らかなうなじの白さに興奮した。
このまま押し倒してしまいたくなった。
胸の谷間に指を這わせたくなった。
だが、それはできなかった。
「弥多!」
お汐の眼が見開かれる。
狼藉をされることに対してのものではない。
背後に突然現れた男が木の棒を振りかざしていたからである。
鈍い音がして弥多は膝をつく。
後ろにいた男はそれから何度も棒を叩きつけて、動かなくなるまで続けた。
それを止めようとお汐が前に出る前に横の闇から湧いてきた男によって取り押さえられた。
口を抑えられて声も出せない。
男たちは凶悪な顔をして、陰に潜んでいた仲間たちを招き寄せた。
「焼け。火を点けろ」
弥多に棒を振り下ろした男―――犬一の指示によって、油を浸した松明に火がつけられ、大納屋へと散っていった。
もともと二百人ほどしかいない集落の中から、二十人近い男どもが何日も戻っていないのだから、当然と言えよう。
しかも、村長の和田吉右衛門をはじめ、沖合衆の要である筆頭刃刺の勝太夫に、二番舟の錦太夫と三番舟の花太夫、その下についている水夫、そして寡黙なくせに存在感のある巨漢権藤伊左馬という主だった者たちばかりなのだから。
格としては、山見の長である山旦那か納屋衆頭がまとめ役とならざるを得ないが、なにぶん若い集落であるがゆえに勢いのあるものが引っ張る役になりやすい。
そこで、四番舟の弥多が臨時のまとめ役扱いになっていた。
弥多からすれば損な役回りである。
七番まである勢子舟だけでなく、網舟の連中の面倒までみなくてはならないからだ。
そもそも村長たちは二泊三日ほどの日程で熊野大社に厄払いに行っただけである。
それが七日経っても帰ってこない。
何かあったのかと、四日目に勝浦まで舟をだして様子を見に行かせたが、村長たちはそこにおらず、なぜか役人たちに連れていかれたということだった。
事情は一切わからない。
奉行所にまで出向くべきだという声もあったが、下手に藪をつつきたくないと反対する者もいた。
鵜殿は新宮藩直営である。
何か藩のお偉方しか知らない問題が生じていたとしたら、所詮はただの鯨漁師であるところの彼らが目立つことをして、吉右衛門らに迷惑をかける訳にはいかなかった。
もっとも、楽観視する者もいる。
権藤伊左馬が同行しているからだ。
浪人ではあるが、藩に知己の多い男でもあり、かつ何をしでかすかわからない男だ。
もしものことがあっても唯々諾々と従うはずもない、村長たちのために動いてくれるだろうという不思議な信頼感があった。
吉右衛門の家に集まった比較的年配のものどもの心配に対して、娘のお汐がそう太鼓判を押すのだからさらに強まった。
権藤が竜退治の勇者であることもいい方向に働いていた。
誰もが鯨とは明らかに違うあの巨大で禍々しい生き物を目の当たりにしていて、恐ろしさを熟知していたのである。
ただし、弥多だけは違っていた。
権藤が大嫌いだからだ。
ぶち殺してやりたいとまで念じていた。
理由はいくつかあるが、大きいものはただ一つだ。
(野郎、お汐と寝やがった)
こんなにも我慢できない話はない。
お汐は村長である和田吉右衛門の娘であるが、それと同様に彼の幼馴染でもある。物心ついたころからよく知る仲だ。それがあんな男に絆されるだと?
弥多は荒れに荒れた。
何としてでもぶちのめしやりたかった。
あの宴のあとの光景が忘れられない。夜の砂浜で権藤の巨体に組み敷かれるお汐の白い肌と艶めかしい太ももの動きが目に焼き付いている。感じている女の切ない喘ぎ声が耳から離れない。何よりも、権藤の名を呼ぶお汐の甘いくずれ表情が信じられなかった。
幼いころに見惚れた整った顔が他の男に抱かれて蕩けるところなど我慢ならなかった。
あれを忘れるためにはなんだってできる。
弥多はそう思っていた。
真夜中に目が覚めて、寝静まった鵜殿の集落を歩き始めた。
足先が自然と吉右衛門の家の前に向かってしまう。
月の美しい晩だった。
あの夜のように。
ガサッ
戸が開いて、娘が一人顔を出した。
お汐だった。
思わず弥多は隠れてしまった。
必要はなかったが、照れ臭かったというのもある。
加えて、酒を飲んで勢いづいていた今の彼だと惚れた女を前にしてはそのまま犯してしまいかねなかったということもあった。
(こんな夜中にどうした? まさか、権藤のところにいくのか?)
吉右衛門ともども鵜殿に戻っていない権藤にどうやって会いに行くのか、このときの弥多は嫉妬に苛まれておかしくなっていたといっていいだろう。
お汐は空を見上げている。
だが、星を見ているという様子ではない。
顔をきょろきょろと動かし、何かを探しているようだった。
それから浜辺へと歩き出す。
村長宅から浜辺までは大納屋の裏を通れば地下道なので、そこをいく。
行動をいぶかしんだ弥多はこっそりと後をつけ始めた。
夜空を見ているだけのお汐は尾行にまったく気が付かない。
(……前もこんなことがあったな)
まだ太地にいた頃のことだ。
夜ではなかったが、お汐が浦方五百軒と謳われた鯨方たちの居住区で似たような奇行をしていたことがあった。
(あの時は……)
思いだした。
同時に、弥多はお汐の背後に近寄り、肩を掴んだ。
鬼でも出たかのような表情を浮かべられたが、月明かりですぐに弥多とわかり安堵する。
「弥多じゃないの。どうしたのさ」
「わいつ、また空を見ているのか」
「……そうだけど、それがなに」
「餓鬼の頃も似たことがあった」
「だからなにさ」
「―――竜が出たときもだ」
お汐は眼をむいた。
図星だったのだろう。
自分の考えていることが読まれたかのようだ。
「わいつ、空の風が読めるのか。だから、時化がくるのがわかるのか」
「……ええ。随分と前にみんなに教えたことがあるけれど笑い飛ばされたわ。あんたにもね」
そんなことがあっただろうか。
弥多の記憶にはない。
打ち明けられたこともあるだろうが、子供らしい不真面目さで聞き流していたのか、それともお汐の整った顔に釘付けになっていて耳に届かなかったか、そんなところだろうか。
おぼえておけばよかった。後悔した。
今のお汐の真剣なまなざしを見れば、空の風が読めるというのは彼女の根幹にかかわることのような気がする。飲み込んでやれるかどうかで相手の評価も定まってしまうような……
そんな大切なことだったのかもしれない。
ふと、口をついた言葉があった。
「権藤は笑わなかったのか」
嫉妬から出た言葉であることをわかっていながら発したのは、屈折した心のなせるわざである。
自分が哀れだった。
間違っていないことはお汐の顔つきで明らかだったからだ。
お汐がくどくどと言ったりしない分、弥多の惨めさは増していく。
「だからか。だからなのか」
弥多はしつこかった。いや、しつこくせざるをえなかった。情けなさを縷々と述べて相手が気を変えるはずもないが問わずにはいられなかった。
お汐も弥多の必死な態度に隠された言いたいことは分かっている。
だが、聞いても無駄なのだ。
手練手管が通じる段階ではない。
彼女の中には男が一人、もう、いるのだから。
「そんなのは関係ない。手を放して。あたしは海の様子を見ておきたいんだ」
「何故だ、何故なんだよ。堪忍してくれよ」
「だから、放してって」
普段の弥多は女に縋る男ではない。どんな女も行きずりの遊女でも扱うかのように逆に突き放せる男だった。
肩に置いてあった手を腰に回し抱き寄せたくなったのは欲情ゆえではなく、手放したくなかったからだ。
ここで縋りつけば戻ってきてくれる。そう確信していた。
だが、女の心変わりへの期待をどんなに男が抱いてもうまくいく試しなどないということを捕鯨しか知らぬ若者が知る由もない。むしろ、岩のような権藤伊左馬の方がはるかに女の感情に寄り添える機微があったのかもしれない。
滑らかなうなじの白さに興奮した。
このまま押し倒してしまいたくなった。
胸の谷間に指を這わせたくなった。
だが、それはできなかった。
「弥多!」
お汐の眼が見開かれる。
狼藉をされることに対してのものではない。
背後に突然現れた男が木の棒を振りかざしていたからである。
鈍い音がして弥多は膝をつく。
後ろにいた男はそれから何度も棒を叩きつけて、動かなくなるまで続けた。
それを止めようとお汐が前に出る前に横の闇から湧いてきた男によって取り押さえられた。
口を抑えられて声も出せない。
男たちは凶悪な顔をして、陰に潜んでいた仲間たちを招き寄せた。
「焼け。火を点けろ」
弥多に棒を振り下ろした男―――犬一の指示によって、油を浸した松明に火がつけられ、大納屋へと散っていった。
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