くじら斗りゅう

陸 理明

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りゅう

熊野の犬一

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 新宮の城下町にある松井誠玄の屋敷は広壮なものだった。
 養父である松井家前当主からまるまる譲り受けたということもあるが、誠玄自身、家老格の武士らしからぬそろばん勘定で成りあがったせいでもある。
 その分給人も多かったが、辞める数も同じぐらいであった。

「松井さまはケチだから」

 辞めたものたちはそう噂した。
 道行くものの中に聞こえるように囁くものがいるほどであった。
 武家に対するものと思えぬ辛辣な評判も流れていた。
 それが新宮藩加判家老松井誠玄なのである。

「熊野の犬一だ」

 門前で一人の男が名乗った。
 黒く陽に焼けた、いかにもな海の男だった。
 刀を差しているが、武士のようではない。
 以前相手をしたことのある門番は、犬一が倭寇くずれの海賊だろうと見当をつけていた。
 本来ならば決して門の中には入れてはならぬ男だが、すでに何度も来訪したことがあるので、とりあえずもう一人の門番が用人に報告してから、中に通した。
 門の中にいったん入ると振り返り、無遠慮に門番を舐めまわすように見回したうえで、

「いちいち止めるんじゃねえよ。面倒だろうが」

 と、なめきった居丈高なものいいをする。
 門番は頭に血が上りそうになったが、なんとか堪えた。
 その様子をせせら笑って、

「役に立たねえなあ、おまえ」

 肚の底からバカにした口調で言った。

 男―――熊野の犬一はそのまま当主の松井誠玄のいる屋敷の二の間に通された。
 松井は五十五になったばかりで、よく酒を飲むため、でっぷりと肥えている。
 若いころから二枚舌を使って、多くの商いに関わってきたこともある、武士というよりも商人に近い男であった。

「久方ぶりだな、犬一」

 犬一は松井の古い知り合いであった。
 まだ、松井が舟に乗っていた頃にちょくちょく仕事をしていた仲だ。

「ご家老もご壮健そうでなによりですよ。こんな大きな屋敷に住んで、どうやら羽振りもよさそうってもんだ。羨ましいぐらいですよ」

 まかり間違っても一藩の加判家老にするには砕けきった物言いだった。
 先ほどの門番に大したものと比べると、棘がないが、思い上がっていることは明白だった。
 ただ、松井はこれには腹を立てない。
 犬一は熊野水軍から堕ちた海賊の出だ。
 丁寧な振る舞いなど期待したとしてもできるものではない。
 であるのならば、武士に対するものとは思えぬ無作法さに目をつぶってうまくやるほうが良いというものである。
 犬一もそれをわかっていて、松井に馴れ馴れしく接してくるのだ。

「それで、おれに頼みたいことってなんです」
「おまえに、ではなく、おまえの仲間どもに、だ」
「へえ、おれたちに」

 かつて何度も松井から仕事をもらっている。
 容易いが裏のある仕事ばかりだ。
 だから、今度もそういうものだと高を括っていた。

「抜け荷、ですかい」

 多少声を小さくした。
 地声がでかく、左耳が難聴なため、喚くようにも聞こえる犬一にしては配慮をした方だった。

「違う。もう、最近は難しい」
「では、なんですか? さっさと言ってくれませんかね。おれもそんなに暇じゃねえんですよ。わざわざ、新宮まで足を運んでんですから」

 犬一は気が短い。
 さっさと話を勧めてくれたほうがいい。
 ただし、それを一度で理解できるほど頭の回転は良くはなかったが。

「鵜殿、わかるかね」
「古い方ですかい、新しい方ですかい?」
「新しい方だ」
「そいつはぁ知ってやす。前もご家老のご依頼で様子見にうちの若い衆を喧嘩させにいかせたこともあります。おかげで四人もしばらく口がきけなくなりやしたがね」
「探りをいれるには裏のものの方がいいだろう」
「ちげえねえ。ところで、あそこの鯨方の連中がどうかしやしたか?」

 松井は咳をしてから、

「おまえたちの仲間を連れて、あるものを獲ってきてもらいたい。それができれば、どこぞで落ち合って金を払う」
「いくらで?」
「金五百」
「へえ……」

 当時としては破格の値段だ。
 思わず舌なめずりをしてしまう。
 ただし、危険は感じた。
 一つの村に潜り込んでそこから何かを盗んで来いというのは、この時代ではかなりの危険を伴う。
 よそ者を容易には入れようとしない鵜殿に熊野水軍のものたちを度々おくりこんで様子を探るという内偵仕事とは厳しさの桁が違う。

「盗んだら、火を放ってもいい。あとが残らなければ構わん」
「……そりゃあ火つけをやってもいいってんなら逃げやすいが、おれたちにとっちゃあやばい橋だ。そこを渡らせる利はあるんですかい?」
「奉行所の追求を止める。何があっても、下手人の捜索はさせない。それでどうだ」

 犬一はない頭をひねってみた。
 戦国の世ならばともかく、平穏な時代では殺しと火付けは厳重に探索されて処罰される。
 金五百は欲しいが果たして釣り合うのかはわからない。
 ただし、わかちがたい共犯関係にある藩の加判家老が協力をしてくれるというのならば話は別だ。

「面白いじゃないか。お上からおめこぼしがもらえるたあ。で、鵜殿から何をかっぱらってくればいいんですかい? あんなところ、金目のものなどなにもないだろうに。もしかして、人ですかい?」
「いや、違う。―――竜珠とよばれている宝だ」
「竜珠?」

 小さな目を丸くし、素っ頓狂な声が出た。
 海に生きてきたものだから、お伽噺の竜の話ぐらいは知っている。
 迷信深い船乗りもいるからだ。
 だが、その竜が抱えている竜珠なるものが存在しているのかということに関しては眉唾物である。
 そんなもの、ご家老さまは信じているのかよ。

「ある、ということだ。つい先日、鵜殿の村で竜が獲られたという報告が上がっている。鵜殿の鯨衆が銛で仕留めたのだそうだ。そして、やつらは竜を解体し、体内から竜珠なるものをとりあげたそうだ。私はそれが欲しい」
「……そんなバカな。騙りじゃねえんですか。竜なんていかにも胡散くせえ」
「十中八九、事実だ。村長をはじめ、村の奴らは竜の祟りというものを恐れて村の外には口を閉ざしているそうだが、鯨方奉行の私のもとには使いが参った。それに私は前から鵜殿に草を飼っていてな。そいつも知らせてくれたのよ。……我らが想像するようなものとはちがうらしいが、それでもかまわん。大切なのは竜珠というお宝があるということだ。いいか、犬一。私は竜珠をなんとしてでも手に入れて、今度の節句に上様に献上したい。そして、我らの悲願である新宮藩の大名藩への格上げをするのだ」

 松井の目は熱っぽい光を滲ませていた。
 人は欲に狂うとこういう目になる。
 竜珠なるものの存在をはじめて耳にした犬一からすれば距離を置きたくなる態度だ。

(そうそううまくいくもんかねえ。だいたい、竜珠なんてものがあるかどうかすらわからねえのに)

 ただし、犬一はこの話だけは引き受けるつもりだった。
 彼ら熊野水軍の生き残りで海に拠点をもつものたちは、すでに滅びる寸前だった。
 郎党を食わせていけるだけの飯の種がもうどこにもなくなっていたからである。
 あとは飢えて死ぬしかない。
 ただ、死ぬだけならば最後に一儲けしてその金をもって逃げ出した方がマシというものだ。
 犬一らのもとには一艘の関船とニ艘の襤褸い小早舟しか残っていない。
 どうせ、もう海賊働きも難しいのだ。
 足を洗うついでに、色々と好きにやらせてもらおうか。

「わかりやした。その大役、おれたちが引き受けましょう」
「頼むぞ、犬一」

 そうして、熊野水軍と海賊の生き残りであるものどもは鵜殿へと向かったのである。
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