くじら斗りゅう

陸 理明

文字の大きさ
上 下
16 / 32
りゅう

同心木曽野蔵之介

しおりを挟む
 一人の武士が、町家の立ち並ぶ新宮城へと出立するところだった
 海に近い町の育ちらしく肌は日に焼けているが、整った顔をしたいい男だった。
 一見すると細身だが、歩く姿は凛としていて、武芸の達者であることがすぐにわかる。
 名を、木曽野蔵之介という。
 新宮藩の奉行所の同心である。

「父上」

 七歳になる息子が見送りに来ていた。
 父親以上に整った顔をして、将来は親の跡目を継いで同心になるには色男過ぎるかもしれなかった。

「ああ、行ってくる佐吉。妹の面倒を頼むぞ」
「はい。いってらっしゃいませ」

 産後の肥立ちが悪くてなかなか床から出られない母親の代わりにしっかりしないとならない、と子供心に思っているのだろう。
 息子の佐吉は力強く頷いた。
 まだ七歳だが、もう町の剣術道場に通いだしていて、人伝に聞いたところによるとなかなかの腕前であるという。
 父親としては鼻が高かった。
 だが、家の門を出たと同時に家族のことは忘れる。
 でなければ、荒っぽい海の町での同心など務まらない。

「蔵之介さん」
「葛西か」

 ぬっと現れて隣を並んで歩きだしたのは、葛西悌一郎であった。
 城勤めの役人だが、大柄なうえに肥えていて、見るからに動きが鈍重そうだ。
 ただし、この見た目が随分と厄介な男で、外見とは裏腹に実際には田宮流抜刀術の達人という侮れぬ男であった。
 木曽野も紀州藩では大部分の武士が学んでいる柳生新陰流の使い手であり、その腕前から親しくなったという経緯がある。
 歳は木曽野の方が二歳ほど上であった。

「登城が遅くないか」
「なに、一度家へ戻ったのよ。ちと事情があってな。蔵之介さんこそ、陽が高くなってから奉行所へいくのは珍しい」
「夜中にお役目があってな。でなければ、武士の夜歩きなどできん」
「そうですか。お互い、面倒があったと見えますな」

 同心としての勘がちかっと眼を光らせた。
 木曽野は葛西のどんぐりまなこをひたっと見つめる。

「城で何があった?」

 すると、葛西は唇を歪ませて、

「ご家老ですよ。また、下らぬ真似をしでかした」
「松井さまか?」
「紀州新宮藩で下らない男といえば、かの御仁しかいないでしょう。わざわざ舟を出して江戸まで使いを送って、殿にいらないことを吹き込んだんですよ」
「なんだそれは?」

 加判家老松井誠玄のことは木曽野もよく知っている。
 新宮藩は三万石のそこまで大きな藩ではないので、藩士も浪人もほとんど小さなころからの顔見知りだ。
 戦国の世と違っていくさで武士が死ぬこともなく、出ていくものも入ってくるものもまずいないという完成された封建社会らしい閉ざされた地域だ。
 城勤めのうちで、殿様の側近たちは江戸勤めを経験することで他の国に触れることもあるが、基本的に藩の外には出られないものである。

 ただ、松井誠玄についてだけは親しいということはない。
 もともと、紀州藩の男なのだ。
 それが松井家の先代の婿養子となって新宮にきて、義理の父親の跡を継いだ、いわば外様である。
 加判家老の家系に他の藩のものが養子になるというのは珍しいことだったが、縁を取り持ったのが徳川であったのだから、紀州藩の家老格でしかない水野家が逆らえるはずもない。
 仕方なくよそから来た加判家老を受け入れたという訳である。
 ただし、藩政に参画できるほどの人材であれば得をしたともいえるが、残念なことに松井誠玄は葛西のいうようにくだらない男であった。
 くだらないというよりも、猜疑心が強く吝嗇であった。
 要するに、小心なのだ。

「また金儲けの話を幕閣に吹き込もうとしているのか」
「今回のはちと違います。―――鵜殿のことです」
「鵜殿?」

 現在、新宮藩には二つの鵜殿がある。
 黒井川の河口にある、木材の搬出と漁港を主にする昔からの鵜殿村。
 そして、やや北にいった沿岸に建てられた「鵜殿」という集落。
 こちらは新田の開拓と捕鯨を行う、いわば太地のミニチュア版とでもいうべきものだった。
 正式な名前がついていないのは、藩のお歴々のなかに新しい鵜殿の成立を認めていないものがいるからである。
 もっとも、最近小耳に挟んだ限りでは、いまだに百戸ほどの小ささだが、捕鯨も軌道に乗り出し新田開拓も進み、あと数年で形になると聞いている。
 実際にこの目で見てきてもいる。
 そして、鵜殿ときいて思い出したのは旧友のでかい身体であった。

「何年か前、江戸の将軍様に殿がこっぴどく睨まれたらしいことを覚えておりますか?」
「ああ。マッコウクジラの龍涎香を九月の節句に上覧して、それがよくなかったという噂だったな。事実かどうかはわからんが」
「あれを殿に進言したのがご家老なんです」
「そういえばそうだったな。紀州徳川の藩家老でもある殿だからこそ無事に済んだが、下手をしたらおとりつぶしになってもおかしくなかったとも聞いた。で、それが鵜殿と何の関係がある?」

 すると、葛西はきょろきょろと周囲を見渡し、知り合いがいないのを確認して、なおかつ口の横に掌をたてて小声で言った。

「性懲りもなくまたご献上の品の選定に口を出したんだそうです。汚名返上したいのでしょう。ただ、その献上品が訳ありでして……」

 わざわざ小声にするというのは、それなりに聞かれると困る類いのものだとすぐにわかる。
 城勤めと同心が口にするのもはばかられるという訳だ。
 だから、木曽野もひそひそ話に乗ることにした。

「また龍涎香でも持ち出したのか。たしか、あれは前に太地から強引に取り上げた逸品らしいじゃないか。おかげで太地角右衛門どのが憤慨していたと聞いている」
「おそらく、それも絡んでくるんでしょうや。太地への意趣返しも。ただし、それだけじゃあございません」
「やけにもったいぶるな」
「あの松井誠玄が殿に進言してのはですね―――」

 一度だけ唾を飲み、

「竜珠なんだそうですよ」

 木曽野はぽかんと口を開けた。
 その単語は知っている。
 だが、耳にしたことが信じられない。
 伝説の竜が手に掴んでいるというお宝のことだ。使えば風雨を呼び起こすともいわれている。
 それはお伽噺の中の話だ。

「……まさか、いったいどんな戯言だ」
「いえいえ、これが事実らしいんです。なんでも鵜殿で竜が獲れたらしいんです。どういう訳か連中は口に蓋をして隠しているようですが。しかも、獲ったのはあのくじら侍なんです」
「おい、権藤がなんだと?」

 その名前を聞いたとき、木曽野はとてつもなく嫌な予感に襲われたのであった。

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

リモート刑事 笹本翔

雨垂 一滴
ミステリー
 『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。  主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。  それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。  物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。  翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?  翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!

鬼の武蔵は、いやにて候 -岩崎城陥落-

陸 理明
歴史・時代
 織田信長によって「鬼武蔵」という異名をつけられた若き武将・森長可。主君の命により敵味方に恐れられるべき鬼として振る舞い続ける猛将の人生は、本能寺の変という歴史的大事件の発生によって激変していく。寄りかかるべき大樹であった主君と実弟・蘭丸を喪い、生きる意味を見失いかけた彼であったが、偶然見つけた槍の好敵手に狂気そのものの執着をすることで自らを奮い立たせ再び修羅の道へと突き進んでいく。  狙うべきは―――かつての僚友であった、岩崎城の丹羽氏次と美貌の弟・氏重兄弟の首のみ。  まず、歴史・小説大賞の応募作として一部完結とさせていただきます。第二部では羽黒の戦い、岩崎城の戦い、最後に小牧・長久手の戦いが中心となりますのでご期待ください。

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

大航海時代 日本語版

藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった――― 関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった ―――鎖国前夜の1631年 坂本龍馬に先駆けること200年以上前 東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン 『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

座頭の石《ざとうのいし》

とおのかげふみ
歴史・時代
盲目の男『石』は、《つる》という女性と二人で旅を続けている。 旅の途中で出会った女性《よし》と娘の《たえ》の親子。 二人と懇意になり、町に留まることにした二人。 その町は、尾張藩の代官、和久家の管理下にあったが、実質的には一人のヤクザが支配していた。 《タノヤスケゴロウ》表向き商人を装うこの男に目を付けられてしまった石。 町は幕府からの大事業の河川工事の真っ只中。 棟梁を務める《さだよし》は、《よし》に執着する《スケゴロウ》と対立を深めていく。 和久家の跡取り問題が引き金となり《スケゴロウ》は、子分の《やキり》の忠告にも耳を貸さず、暴走し始める。 それは、《さだよし》や《よし》の親子、そして、《つる》がいる集落を破壊するということだった。 その事を知った石は、《つる》を、《よし》親子を、そして町で出会った人々を守るために、たった一人で立ち向かう。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

KAKIDAMISHI -The Ultimate Karate Battle-

ジェド
歴史・時代
1894年、東洋の島国・琉球王国が沖縄県となった明治時代―― 後の世で「空手」や「琉球古武術」と呼ばれることとなる武術は、琉球語で「ティー(手)」と呼ばれていた。 ティーの修業者たちにとって腕試しの場となるのは、自由組手形式の野試合「カキダミシ(掛け試し)」。 誇り高き武人たちは、時代に翻弄されながらも戦い続ける。 拳と思いが交錯する空手アクション歴史小説、ここに誕生! ・検索キーワード 空手道、琉球空手、沖縄空手、琉球古武道、剛柔流、上地流、小林流、少林寺流、少林流、松林流、和道流、松濤館流、糸東流、東恩流、劉衛流、極真会館、大山道場、芦原会館、正道会館、白蓮会館、国際FSA拳真館、大道塾空道

処理中です...