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りゅう
伊左馬とお汐
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海に出る沖立衆も、獲れた鯨を解体する納屋衆も、どちらも一仕事終われば疲労困憊となり、次の日にまた海に出ることなど難しい。
一頭でも鯨が獲れれば、その莫大な値打ちだけで村は十分に潤う。
獲れなければ粗食で我慢するしかないが、獲れれば盛大に祝い贅沢をして休みをとるというのは、鯨方全体の士気を保つためにも必要なことである。
竜を仕留めたというその日も例外ではなかった。
御座所では若者たちが宴会をもよおしていた。
鵜殿はまだできて五年の若い集落であるため、全体的に若者の比率が高く、妻帯者よりも独身者が多い。
彼らにとって、この宴会は一生を共にする相手を探すための場所でもあり、一時の性の解消をする機会でもある。
大人たちは多少羽目を外しても見て見ぬふりをするようにしていた。
四番刃刺の弥多も同様だった。
そろそろ、弥多から弥太夫に改名してもいいだろうと本方からも許しを得ている彼は、同世代の大将格であり、捕鯨後の宴会においては常に主宰側にいて輪の中心にいた。
数少ない女たちもこぞって近寄ってくる。
相手のいない年頃の娘たちからすると、次の筆頭刃刺を狙える位置の出世頭であり、旦那として見繕うにはよすぎる相手であるから、終始言い寄られる。
酒が入っていい気分の上、女の方から手でも絡められたら、やはり性のたけりを抑えきれず、弥多は女とともに人気のないところへしけこむことはよくあった。
宴会のたびに惚れているお汐を誘うのだが、まったく誘いにのってこないため、鬱屈としてたまったものを吐き出したいがための振る舞いではあった。
ただし、それを当のお汐が理解してくれるはずもない。
幼馴染で自分にそれなりの好意を示しているくせに、他の女に誘われれば寝てしまう男のことなど、少し考えればどういう目で見てしまうものかわかろうものだ。
特に、お汐は父親の件で、太地の男どもにたいして腹を立てることばかりであり、当然のこととして、その男どもの中に弥多も含めざるを得ないという事情がある。
宴会のたびに弥多への感情は冷めていった。
一方で、宴会には顔を出しい浴びるように酒を飲んでいくが、用意された食い物をあらかた食べ終わると黙ってねぐらに帰ってしまう権藤のことが気になって仕方なくなっていった。
当然のように宴会が始まるとお汐は権藤の近くにいくようになった。
弥多への当てつけではない。
お汐はそういう計算をできるほど湿った女ではなかった。
基本的に権藤は女を相手にしない。
嫌いではないようだし、女を知らない訳でもない。
もともとが淡白な性質なのだろうとお汐は考えていた。
一度、後家の女と茂みにしけこんだこともあったようだが、あまりにも体力がありあまっていたのか、女の方が簡単に音を上げてしまい、女衆の噂になったこともある。
権藤の旦那はあっちが強すぎる、と。
噂を耳にした性欲の強い年増女が権藤を落とそうとしたが、彼からすると煩わしいのか、それ以来女を近づけなくなったというのがいかにもである。
ただし、傍にいて給仕をする程度ならば無碍にはされない。
黙って盃を重ねて、食いものを腹に詰め込んで帰るだけの男なので、煩わせなければ袖にもされないということであった。
それに、権藤の近くにいる限り、他の若者がお汐に近づいてこないということもあった。
権藤というちぃとばかり面倒くさい立場の男が用心棒のように座っているという状況は、泥酔していても二の足を踏ませるのだ。
彼女にとってこれほど安心できる存在はいなかった。
だから、お汐は澄ました顔をして酒をこくこくと飲んでいられる。
幼馴染にそんな表情を浮かばせるもと武士の存在は弥多にとっては腹立たしいものだったが、捕鯨のあとではたいてい権藤の凄まじい銛裁きを見せつけられていることもあり、実力主義を標榜する鯨方に属する限り、おいそれと因縁もつけられず、苦々しく舌打ちをするしかなかったのであった。
そして、その日―――竜を退治した日は、常ならぬ大騒ぎになっていた。
何しろ、お伽噺でしか聞かないような怪物を、沖合衆が銛だけで仕留めてのけたのだ。
海での戦いは死闘と呼ぶのに相応しかったし、半分以上の船が転覆し、数多くの水夫が落水した。
行方不明だった第二舟の錦太夫は無事であったが、落水した三名の水夫が溺死体となって発見されたのは大損害であり、むしろそれだけですんだのは僥倖といえた。全体的に運が良かったともいえる。
そして、あの死闘において権藤が演じた役割は大きすぎた。
誰よりも早く銛を打ちこみ、水面を見下ろす高い位置にあった眼を急所として貫くと、最後には傷を負わせた眼に小刀を差し込んでとどめを刺したのだ。
他の刃刺や水夫たちも銛を打ち弱らせはしたものの、最も致命的な個所を貫き、とどめを刺したのは権藤である。
最後に力尽きて海に投げ出されたが、もっとも近くにいた弥多が海に飛び込んで救出していた。
おかげで弥多の功は権藤に次ぐものとなっていた。
鵜殿の人々はこの結果に目をむいた。
確かに、もと武士でありながら鯨方棟梁太地角右衛門のお墨付きで鯨捕りになったこの男の銛の腕は群を抜いていた。
誰もが認める刃刺であった。
それに加えて、鯨だけでなく竜にまでとどめを刺したとなると別格過ぎる。
権藤の人気はぐんと上がっていた。
なかでも、ともに海に出ていた勢子舟の水夫たちは、その苛烈な戦いぶりを間近で目撃し、度肝を抜かれたこともあって、酔ってくると手が付けられなくなっていた。
解体作業までは、竜のあまりの禍々しさに怖気づいていたのだが、喉元過ぎれば熱さを忘れるの例え通りに、時間が経ち、酒が入ると、あの戦いを思い出して興奮が抑えられなかったのだ。
次々に権藤のところにやってきては手を握り褒めたたえていく。
権藤はやってきた水夫たちが差し出す盃をすべて飲み干さねばならず、どれほど飲んだかわからぬぐらいになっていた。
さすがの彼もくらくらしてくるほどの酒量である。
何巡目かの盃を飲み干したあたりで、きつくなって権藤はごろりと横になった。
それでも彼の肩を揺すって起こそうとするものがいたが、もう一口たりとも飲みたくなかったので、ぞんざいに断った。
同じ問答をなんどかして、ようやく賞賛という責め苦から解放された権藤は大きく息を吐く。
あまりにも酒くさい息。
自分でも驚いた。
こんなに飲んだのは初めてであった。
執拗に勧められたというのもあるが、権藤自身、竜を仕留めた興奮となにやら得体のしれない予感のせいで複雑な心境であったのだ。
もしかしたら酒に逃げていたのかもしれない。
掌を眺めると、妙な手ごたえが蘇る。
それは、あの竜に銛を打ったときのものであり、胴体に飛び乗ったときに触れたざらついた皮の感触であり、大剣を黄色い巨大な眼に突き刺したときの震えであった。
只人にはできぬことを成し遂げたのに、気は滅入るだけであった。
「わしは―――鯨の命を奪って暮らすことは求めたが、それ以外のものを殺めることになるとは思っておらなんだ」
命を奪うこと。
それは鯨であろうと、人であろうと、竜であろうと同じはず。
しかし、あの竜はあまりにも幻想的すぎた。
今となっても本当にこの海にいたものなのか、鯨の幻であったのではないか、実際はただの少し奇妙な形の生き物だったのではないか、そんなことが頭をくるくると回っていく。
酒の飲みすぎかもしれない。
だから、つまらぬことを考えてしまうのか……
気が付いたときに、頭の横に誰かが座っていた。
あまりにも深く自分の思考に没頭していたため、気配に気が付かなかったのだ。
見回してみると、そこは御座所ですらなかった。
覚えのある浜辺の砂浜でだらしなく横になっていたのだ。
(どおりで少し前から誰も話しかけてこなくなったはずだ)
派手に酔っぱらった権藤は、一人だけ宴を抜けて、無意識に風の気持ちいい砂浜へと避難してきていたのだ。
潮の匂いを運ぶ風に当たりたかったのかもしれない。
では、隣にいるものは誰だ。
顔を上げると、よく知った顔だった。
お汐であった。
◇◆◇
「何をしておる?」
「風を感じていたのさ。あんたと一緒だよ」
「わしは酒に酔って寝ていただけだぞ」
「いいや。あんたは、御座所から離れるとき、風のところに行く、誰もついてくるなよと啖呵をきっていた。だから、風に当たりに来ているのは確かさ」
「そんなことを言うたのか」
上半身を起こして、伸びをする。
寝こけていた感触はある。
頭が薄ぼんやりとしている。
だが、お汐の言った通りのことを口にした覚えはない。
なにしろ、飲みすぎているのだ、どんなことを口走ったか記憶になくても不思議はない。
「では、わいつはなといせここにおる?」
「あたしも抜け出したのさ。そろそろ、相方としけこむ奴らが増えてきたからね。変なこつをされないように、旦那のあとについて抜け出したの。おかげで誰もやってこなかったわ」
嘘ではなかったが、事実でもなかった。
権藤がいなくなった途端に弥多が隣に座って酒を勧めだしたのだ。
目的は……わかる。
飲むふりをして盃の中身を巧妙に捨て、酔い潰そうとしたのである。
顔は赤かったがほとんど酔っていなかったお汐には弥多の考えが読めていた。
ついに来た、という感じだった。
昔ならばきっと頬が赤く染まっただろう。
幼いとき、お汐は弥多のことが好きだったから。
ただ、今は違う。
成長し、典型的な太地の男になっていくにつれ、弥多への思慕はさめていき、今ではもう欠片も残っていない。
それでも、もし棟梁である大地角右衛門や村長である父親の吉右衛門が弥多との縁組を勧めてきたのならば、嫁がねばならぬとは覚悟していた。
だが、自分の意思では御免だった。
弥多に股を割らせるつもりもなかったし、自分から開く気もなかった。
だから、酒を勧められても固辞した。
そのうちに弥多は怒り出した。
竜退治において、第四勢子舟は第六舟に続く働きをしていた。彼らが助けなければ他の全員が死んでいたかもしれない。
だからこそ、いつも以上に昂っていたのかもしれない。
お汐の元へいき、どっしりと座り込み、思わず手が伸びた。
抱きしめたくなったのだ。
「いやだ、止めて。……あたしは風に当たってくる。絶対についてこないで」
腰に回され、着物の裾に手を入れてこようとする好色な手の動きに耐えかね、お汐は強引に立ち上がった。手を解いて拒絶されると弥多は狼狽する。
「おい、わいとわいつの仲やないか」
「残念ね。女としけこみたいならもっと軽い相手にしなさい。あたしは嫌なのよ」
「なあ、お汐よお」
「情けない顔しないで。あたしはいく」
「どこにいくんだ」
「風に当たりに行くの!」
そう吐き捨てると、お汐は宣言通りに浜辺と向かった。
無性に権藤と話たくなった。
権藤の居場所はなんとなくわかっている。
いつもの銛打ちの鍛錬場所だろう。
そして、予想通りにいた。
だらしなく寝こけている。
その横に座り、いかつい顔を人差し指でなぞった。
寝ていると意外に愛嬌のある顔のような気がする。
そのくせ、武士らしい気品と精悍さもある。
太地の田舎漁師にはないものだ。
「おかしな話さね」
そういえば、この男には借りがあった。
彼女は今朝、とてつもなくまずい天候になることを潮の匂いの関係で気づいていて、沖合も兼ねる筆頭刃刺の勝太夫に訴えたが聞いてもらえなかった。
だが、実際に天候は悪くなり、そのうえ竜などがでてきた。
お汐が嗅ぎ分けたのは竜がやって来る匂いだったのかもしれない。
彼女がそのことを自覚していたら、もしかしたら誰も怪我をせずに済んだかしれないのだ。
だが、死人はわずか三人しか出なかった。
この武士上がりのおかしな男のおかげだと聞いて、お汐は内心でほっと安堵した。
感謝しかなかった。
思えば、真剣に話を聞いてくれたのもこの男だけだった。
あのときは、幼馴染の弥多でさえ彼女を無視したというのに。
「やい、でかい旦那。わいつは、どういう男なのさ」
思わず頭を小突いてみたら、うーんと唸り声をあげて少しして目を覚ました。
「ふー、飲みすぎたわい。……わいつもか」
「そうね。あたしにしては」
「ならいい。……では、さっさと御座に戻れ。わしは今酒で少々おかしくなっておる。おなごが傍にいるのははなはだよろしくない」
野犬でも追い払うかのような手の振り方にすこしだけかちんときた。
「何言っているのさ。そんなとこ、おったてておいて」
言われて、権藤は股間のあたりを見た。
ふんどしが緩まり、一物が顔を覗かせていた。
随分とみっともない格好だった。
とはいえ、恥ずかしがって隠す必要はない。
そのような慎みの持ち主でもなかったからだ。
ただ、完全に屹立してしまっているのは考えものだった。
権藤のそれは疲れているとよく立ち上がる。
「今日のいくさにちぃとばかり興奮したのだろう。気がつくとこうなっておるのだ」
「いくさだって? ただの漁じゃないの」
「鯨相手ならば漁であっても、アレを相手にはするのはわけが違うな。おかげで望んでもおらんのにこの調子だ。おさまりきらん。さっさと退いてくれんか」
「ふぅん」
胡坐をかいた権藤の太ももの上にお汐は座った。
堅いものの感触があった。
「おい、なんのつもりだ」
「ちょっとばかり切なくなってきてね。ねえ、あたしでもいいんだろ。しよ」
「……こらえきれんぞ」
「好きにしていいよ」
そうして、お汐はしなだれかかった。
男の肌に胸を押し付けるのは初めてのことであった。
口から切ない吐息が漏れるのはすぐのことであり、それを少し離れた場所で聞いているものがいるなど、お汐も権藤も気が付いていなかった……
一頭でも鯨が獲れれば、その莫大な値打ちだけで村は十分に潤う。
獲れなければ粗食で我慢するしかないが、獲れれば盛大に祝い贅沢をして休みをとるというのは、鯨方全体の士気を保つためにも必要なことである。
竜を仕留めたというその日も例外ではなかった。
御座所では若者たちが宴会をもよおしていた。
鵜殿はまだできて五年の若い集落であるため、全体的に若者の比率が高く、妻帯者よりも独身者が多い。
彼らにとって、この宴会は一生を共にする相手を探すための場所でもあり、一時の性の解消をする機会でもある。
大人たちは多少羽目を外しても見て見ぬふりをするようにしていた。
四番刃刺の弥多も同様だった。
そろそろ、弥多から弥太夫に改名してもいいだろうと本方からも許しを得ている彼は、同世代の大将格であり、捕鯨後の宴会においては常に主宰側にいて輪の中心にいた。
数少ない女たちもこぞって近寄ってくる。
相手のいない年頃の娘たちからすると、次の筆頭刃刺を狙える位置の出世頭であり、旦那として見繕うにはよすぎる相手であるから、終始言い寄られる。
酒が入っていい気分の上、女の方から手でも絡められたら、やはり性のたけりを抑えきれず、弥多は女とともに人気のないところへしけこむことはよくあった。
宴会のたびに惚れているお汐を誘うのだが、まったく誘いにのってこないため、鬱屈としてたまったものを吐き出したいがための振る舞いではあった。
ただし、それを当のお汐が理解してくれるはずもない。
幼馴染で自分にそれなりの好意を示しているくせに、他の女に誘われれば寝てしまう男のことなど、少し考えればどういう目で見てしまうものかわかろうものだ。
特に、お汐は父親の件で、太地の男どもにたいして腹を立てることばかりであり、当然のこととして、その男どもの中に弥多も含めざるを得ないという事情がある。
宴会のたびに弥多への感情は冷めていった。
一方で、宴会には顔を出しい浴びるように酒を飲んでいくが、用意された食い物をあらかた食べ終わると黙ってねぐらに帰ってしまう権藤のことが気になって仕方なくなっていった。
当然のように宴会が始まるとお汐は権藤の近くにいくようになった。
弥多への当てつけではない。
お汐はそういう計算をできるほど湿った女ではなかった。
基本的に権藤は女を相手にしない。
嫌いではないようだし、女を知らない訳でもない。
もともとが淡白な性質なのだろうとお汐は考えていた。
一度、後家の女と茂みにしけこんだこともあったようだが、あまりにも体力がありあまっていたのか、女の方が簡単に音を上げてしまい、女衆の噂になったこともある。
権藤の旦那はあっちが強すぎる、と。
噂を耳にした性欲の強い年増女が権藤を落とそうとしたが、彼からすると煩わしいのか、それ以来女を近づけなくなったというのがいかにもである。
ただし、傍にいて給仕をする程度ならば無碍にはされない。
黙って盃を重ねて、食いものを腹に詰め込んで帰るだけの男なので、煩わせなければ袖にもされないということであった。
それに、権藤の近くにいる限り、他の若者がお汐に近づいてこないということもあった。
権藤というちぃとばかり面倒くさい立場の男が用心棒のように座っているという状況は、泥酔していても二の足を踏ませるのだ。
彼女にとってこれほど安心できる存在はいなかった。
だから、お汐は澄ました顔をして酒をこくこくと飲んでいられる。
幼馴染にそんな表情を浮かばせるもと武士の存在は弥多にとっては腹立たしいものだったが、捕鯨のあとではたいてい権藤の凄まじい銛裁きを見せつけられていることもあり、実力主義を標榜する鯨方に属する限り、おいそれと因縁もつけられず、苦々しく舌打ちをするしかなかったのであった。
そして、その日―――竜を退治した日は、常ならぬ大騒ぎになっていた。
何しろ、お伽噺でしか聞かないような怪物を、沖合衆が銛だけで仕留めてのけたのだ。
海での戦いは死闘と呼ぶのに相応しかったし、半分以上の船が転覆し、数多くの水夫が落水した。
行方不明だった第二舟の錦太夫は無事であったが、落水した三名の水夫が溺死体となって発見されたのは大損害であり、むしろそれだけですんだのは僥倖といえた。全体的に運が良かったともいえる。
そして、あの死闘において権藤が演じた役割は大きすぎた。
誰よりも早く銛を打ちこみ、水面を見下ろす高い位置にあった眼を急所として貫くと、最後には傷を負わせた眼に小刀を差し込んでとどめを刺したのだ。
他の刃刺や水夫たちも銛を打ち弱らせはしたものの、最も致命的な個所を貫き、とどめを刺したのは権藤である。
最後に力尽きて海に投げ出されたが、もっとも近くにいた弥多が海に飛び込んで救出していた。
おかげで弥多の功は権藤に次ぐものとなっていた。
鵜殿の人々はこの結果に目をむいた。
確かに、もと武士でありながら鯨方棟梁太地角右衛門のお墨付きで鯨捕りになったこの男の銛の腕は群を抜いていた。
誰もが認める刃刺であった。
それに加えて、鯨だけでなく竜にまでとどめを刺したとなると別格過ぎる。
権藤の人気はぐんと上がっていた。
なかでも、ともに海に出ていた勢子舟の水夫たちは、その苛烈な戦いぶりを間近で目撃し、度肝を抜かれたこともあって、酔ってくると手が付けられなくなっていた。
解体作業までは、竜のあまりの禍々しさに怖気づいていたのだが、喉元過ぎれば熱さを忘れるの例え通りに、時間が経ち、酒が入ると、あの戦いを思い出して興奮が抑えられなかったのだ。
次々に権藤のところにやってきては手を握り褒めたたえていく。
権藤はやってきた水夫たちが差し出す盃をすべて飲み干さねばならず、どれほど飲んだかわからぬぐらいになっていた。
さすがの彼もくらくらしてくるほどの酒量である。
何巡目かの盃を飲み干したあたりで、きつくなって権藤はごろりと横になった。
それでも彼の肩を揺すって起こそうとするものがいたが、もう一口たりとも飲みたくなかったので、ぞんざいに断った。
同じ問答をなんどかして、ようやく賞賛という責め苦から解放された権藤は大きく息を吐く。
あまりにも酒くさい息。
自分でも驚いた。
こんなに飲んだのは初めてであった。
執拗に勧められたというのもあるが、権藤自身、竜を仕留めた興奮となにやら得体のしれない予感のせいで複雑な心境であったのだ。
もしかしたら酒に逃げていたのかもしれない。
掌を眺めると、妙な手ごたえが蘇る。
それは、あの竜に銛を打ったときのものであり、胴体に飛び乗ったときに触れたざらついた皮の感触であり、大剣を黄色い巨大な眼に突き刺したときの震えであった。
只人にはできぬことを成し遂げたのに、気は滅入るだけであった。
「わしは―――鯨の命を奪って暮らすことは求めたが、それ以外のものを殺めることになるとは思っておらなんだ」
命を奪うこと。
それは鯨であろうと、人であろうと、竜であろうと同じはず。
しかし、あの竜はあまりにも幻想的すぎた。
今となっても本当にこの海にいたものなのか、鯨の幻であったのではないか、実際はただの少し奇妙な形の生き物だったのではないか、そんなことが頭をくるくると回っていく。
酒の飲みすぎかもしれない。
だから、つまらぬことを考えてしまうのか……
気が付いたときに、頭の横に誰かが座っていた。
あまりにも深く自分の思考に没頭していたため、気配に気が付かなかったのだ。
見回してみると、そこは御座所ですらなかった。
覚えのある浜辺の砂浜でだらしなく横になっていたのだ。
(どおりで少し前から誰も話しかけてこなくなったはずだ)
派手に酔っぱらった権藤は、一人だけ宴を抜けて、無意識に風の気持ちいい砂浜へと避難してきていたのだ。
潮の匂いを運ぶ風に当たりたかったのかもしれない。
では、隣にいるものは誰だ。
顔を上げると、よく知った顔だった。
お汐であった。
◇◆◇
「何をしておる?」
「風を感じていたのさ。あんたと一緒だよ」
「わしは酒に酔って寝ていただけだぞ」
「いいや。あんたは、御座所から離れるとき、風のところに行く、誰もついてくるなよと啖呵をきっていた。だから、風に当たりに来ているのは確かさ」
「そんなことを言うたのか」
上半身を起こして、伸びをする。
寝こけていた感触はある。
頭が薄ぼんやりとしている。
だが、お汐の言った通りのことを口にした覚えはない。
なにしろ、飲みすぎているのだ、どんなことを口走ったか記憶になくても不思議はない。
「では、わいつはなといせここにおる?」
「あたしも抜け出したのさ。そろそろ、相方としけこむ奴らが増えてきたからね。変なこつをされないように、旦那のあとについて抜け出したの。おかげで誰もやってこなかったわ」
嘘ではなかったが、事実でもなかった。
権藤がいなくなった途端に弥多が隣に座って酒を勧めだしたのだ。
目的は……わかる。
飲むふりをして盃の中身を巧妙に捨て、酔い潰そうとしたのである。
顔は赤かったがほとんど酔っていなかったお汐には弥多の考えが読めていた。
ついに来た、という感じだった。
昔ならばきっと頬が赤く染まっただろう。
幼いとき、お汐は弥多のことが好きだったから。
ただ、今は違う。
成長し、典型的な太地の男になっていくにつれ、弥多への思慕はさめていき、今ではもう欠片も残っていない。
それでも、もし棟梁である大地角右衛門や村長である父親の吉右衛門が弥多との縁組を勧めてきたのならば、嫁がねばならぬとは覚悟していた。
だが、自分の意思では御免だった。
弥多に股を割らせるつもりもなかったし、自分から開く気もなかった。
だから、酒を勧められても固辞した。
そのうちに弥多は怒り出した。
竜退治において、第四勢子舟は第六舟に続く働きをしていた。彼らが助けなければ他の全員が死んでいたかもしれない。
だからこそ、いつも以上に昂っていたのかもしれない。
お汐の元へいき、どっしりと座り込み、思わず手が伸びた。
抱きしめたくなったのだ。
「いやだ、止めて。……あたしは風に当たってくる。絶対についてこないで」
腰に回され、着物の裾に手を入れてこようとする好色な手の動きに耐えかね、お汐は強引に立ち上がった。手を解いて拒絶されると弥多は狼狽する。
「おい、わいとわいつの仲やないか」
「残念ね。女としけこみたいならもっと軽い相手にしなさい。あたしは嫌なのよ」
「なあ、お汐よお」
「情けない顔しないで。あたしはいく」
「どこにいくんだ」
「風に当たりに行くの!」
そう吐き捨てると、お汐は宣言通りに浜辺と向かった。
無性に権藤と話たくなった。
権藤の居場所はなんとなくわかっている。
いつもの銛打ちの鍛錬場所だろう。
そして、予想通りにいた。
だらしなく寝こけている。
その横に座り、いかつい顔を人差し指でなぞった。
寝ていると意外に愛嬌のある顔のような気がする。
そのくせ、武士らしい気品と精悍さもある。
太地の田舎漁師にはないものだ。
「おかしな話さね」
そういえば、この男には借りがあった。
彼女は今朝、とてつもなくまずい天候になることを潮の匂いの関係で気づいていて、沖合も兼ねる筆頭刃刺の勝太夫に訴えたが聞いてもらえなかった。
だが、実際に天候は悪くなり、そのうえ竜などがでてきた。
お汐が嗅ぎ分けたのは竜がやって来る匂いだったのかもしれない。
彼女がそのことを自覚していたら、もしかしたら誰も怪我をせずに済んだかしれないのだ。
だが、死人はわずか三人しか出なかった。
この武士上がりのおかしな男のおかげだと聞いて、お汐は内心でほっと安堵した。
感謝しかなかった。
思えば、真剣に話を聞いてくれたのもこの男だけだった。
あのときは、幼馴染の弥多でさえ彼女を無視したというのに。
「やい、でかい旦那。わいつは、どういう男なのさ」
思わず頭を小突いてみたら、うーんと唸り声をあげて少しして目を覚ました。
「ふー、飲みすぎたわい。……わいつもか」
「そうね。あたしにしては」
「ならいい。……では、さっさと御座に戻れ。わしは今酒で少々おかしくなっておる。おなごが傍にいるのははなはだよろしくない」
野犬でも追い払うかのような手の振り方にすこしだけかちんときた。
「何言っているのさ。そんなとこ、おったてておいて」
言われて、権藤は股間のあたりを見た。
ふんどしが緩まり、一物が顔を覗かせていた。
随分とみっともない格好だった。
とはいえ、恥ずかしがって隠す必要はない。
そのような慎みの持ち主でもなかったからだ。
ただ、完全に屹立してしまっているのは考えものだった。
権藤のそれは疲れているとよく立ち上がる。
「今日のいくさにちぃとばかり興奮したのだろう。気がつくとこうなっておるのだ」
「いくさだって? ただの漁じゃないの」
「鯨相手ならば漁であっても、アレを相手にはするのはわけが違うな。おかげで望んでもおらんのにこの調子だ。おさまりきらん。さっさと退いてくれんか」
「ふぅん」
胡坐をかいた権藤の太ももの上にお汐は座った。
堅いものの感触があった。
「おい、なんのつもりだ」
「ちょっとばかり切なくなってきてね。ねえ、あたしでもいいんだろ。しよ」
「……こらえきれんぞ」
「好きにしていいよ」
そうして、お汐はしなだれかかった。
男の肌に胸を押し付けるのは初めてのことであった。
口から切ない吐息が漏れるのはすぐのことであり、それを少し離れた場所で聞いているものがいるなど、お汐も権藤も気が付いていなかった……
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『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
御懐妊
戸沢一平
歴史・時代
戦国時代の末期、出羽の国における白鳥氏と最上氏によるこの地方の覇権をめぐる物語である。
白鳥十郎長久は、最上義光の娘布姫を正室に迎えており最上氏とは表面上は良好な関係であったが、最上氏に先んじて出羽国の領主となるべく虎視淡々と準備を進めていた。そして、天下の情勢は織田信長に勢いがあると見るや、名馬白雲雀を献上して、信長に出羽国領主と認めてもらおうとする。
信長からは更に鷹を献上するよう要望されたことから、出羽一の鷹と評判の逸物を手に入れようとするが持ち主は白鳥氏に恨みを持つ者だった。鷹は譲れないという。
そんな中、布姫が懐妊する。めでたい事ではあるが、生まれてくる子は最上義光の孫でもあり、白鳥にとっては相応の対応が必要となった。
座頭の石《ざとうのいし》
とおのかげふみ
歴史・時代
盲目の男『石』は、《つる》という女性と二人で旅を続けている。
旅の途中で出会った女性《よし》と娘の《たえ》の親子。
二人と懇意になり、町に留まることにした二人。
その町は、尾張藩の代官、和久家の管理下にあったが、実質的には一人のヤクザが支配していた。
《タノヤスケゴロウ》表向き商人を装うこの男に目を付けられてしまった石。
町は幕府からの大事業の河川工事の真っ只中。
棟梁を務める《さだよし》は、《よし》に執着する《スケゴロウ》と対立を深めていく。
和久家の跡取り問題が引き金となり《スケゴロウ》は、子分の《やキり》の忠告にも耳を貸さず、暴走し始める。
それは、《さだよし》や《よし》の親子、そして、《つる》がいる集落を破壊するということだった。
その事を知った石は、《つる》を、《よし》親子を、そして町で出会った人々を守るために、たった一人で立ち向かう。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
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感想等お待ちしております
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