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くじら
弥多
しおりを挟む(まだまだ太地の村には及ばんな)
鵜殿の村の中を歩きながら、和田吉右衛門は思った。
村の戸数はまだ百に満たない。
すでに五百を越そうとする賑わいをみせる太地村と比べれば寂しい限りだ。
だが、村ができてから五年ほどしか経っていないうえ、元々は熊野河口の鵜殿村から食い詰めたものを中心に連れてきて、さらに太地の村でうだつの運がらないものどもを集めただけの村なのだから、まとまっているというだけでたいしたものかもしれない。
しかも、村人を構成しているのは漁師だけでなく、太地角右衛門が神殿を開墾するために募集した百姓もいれば、熊野の杣人あがりもいる。
所帯を持ったものが極端に少ない、いかにも新規事業のためにかきあつめられた連中ばかりなのだ。
だからこそ、ある意味では活気にあふれていたといえる。
吉右衛門は太地の出身である。
家は兄が継ぎ、上に次男三男がいるため、四男である彼は行く場所がなくてこまっていたところ、角右衛門の勧めによってこの村にやってきた。
太地の網漁とは違う、銛一本で勝負する昔ながらの鯨漁に憧れを抱いていたからということもある。
「村長」
吉右衛門は背後から声をかけられた。
振り向くと、赤銅色の肌をした若者が立っていた。
上半身がもろ肌だ。
ついさっきまで海にいたのがわかる。
髪の毛がまだ乾ききってもいない。
「弥多か」
良く知った顔である。
それもそのはず、太地から彼が直接連れてきた、故郷では不遇だが漁の才能はある若者の一人だからだ。
まだあどけない顔つきの頃から、もう五年。
まだ若い部類に入るが、鵜殿の中でも指折りの刃刺であった。
「お汐、みなかったか」
「―――知らんなあ」
娘の居場所を聞かれてすぐに答えられるほど、吉右衛門は暇ではない。
今も角右衛門が様子を見たときにだけ使う屋敷にきている藩の役人に会うために向かっている途中だ。
どれだけかかるかわからないが、役人に色々と説明するのは骨の折れる仕事だ。
役人たちは饗応も期待していることだし、その接待の采配もしなくてはいけない。
年頃の娘のことなど気にかけている暇はない。
しかも、近頃彼の娘は父親を避けている。
口を利くことさえ稀なのだ。
知らんというよりほかはない。
例え、目の前の若者がどうやら娘に惚れているとわかっていたとしても、だ。
「知らんのか」
「わいつ、お汐に用でもあるのか」
「そうでもない。鵜殿で見かけんから気になっただけだ」
「そうか。いつも陽が沈むころには家に戻っているぞ。わいつ、そのころにうちまでくればいい」
「別に会いたい訳じゃない。おかしな気を回すな」
弥多はぷいっとやや硬い顔をして視線を逸らすと、そのまま反対方向へと立ち去っていく。
誰が見ても何か思惑がある素振りだ。
お汐の父親である吉右衛門からしても一目瞭然だ。
(やつ、まだお汐に惚れておるな)
もともと、弥多とお汐は小さなころからの幼馴染だ。
太地で何事もなければ所帯を持っていたかもしれない。
ただ、弥多も吉右衛門と同じ長子ではない。
家業は継げない立場だ。
しかも、弥多の親父は四番刃刺だった。
刃刺はだいだい受け継がれる。
今でいう横綱株のようなものだ。
兄に何事もなければ刃刺の座は長兄に継がれ、次男以下は所帯を持つことも許されないのが太地である。
つまり漁師としては成功できない弥多としては、別の職に就かなければ結婚することなどはできなかった。
そして、お汐は美しい娘であり、おそらくは太地の有力者に嫁がさせることになっていただろう。
吉右衛門が新しい村の長として指名されたときに、弥多が可能性を感じてついてくる気になったのはお汐のことがあったとしか思えない。
鵜殿にやってきた弥多はめきめきと力を伸ばし、今では父親譲りの血のおかげか数少ない村の刃刺になっていた。
こうなればお汐ともうまくいけるはず、と確信していただろう。
(だがのぉ)
吉右衛門はちらりと浜の奥を見た。
千里眼を持たぬ彼に見通せるはずはないが、その先の岩場に隠れた場所にお汐がこそこそと通い詰めていることは本人の口からきいていた。
なんのため、かも聞いている。
「……あれはなかなかの難物だぞ」
お目当てのものは男だった。
雨の日も、嵐の日も、強い風の日も、漁がない日はある男のところのもとへと足繁く通い詰めているのである。
かといって、それは男女の逢瀬ではない。
一度だけ男のもとに通う愛娘のあとをつけてみた。
途中で見つかっても構わないという程度の雑な尾行だったが、何かに夢中な娘は父親に気づくこともなかった。
そこで目撃したのは、辿り着いた先の岩に囲まれた砂浜で、案山子相手にひたすら銛を打つ男をつまらなそうに眺める姿だった。
「つまらないわよ。おんなじことを二刻も三刻もずっと続けているだけなんだから」
さりげなく問い詰めて見たら、そう報告する。
心底うんざりしているのは父の目には明らかだ。
だが、吉右衛門はそこに女の複雑怪奇な感情の動きを見た。
彼女の目当ての男はただ銛打ちの練習をしているだけでしかなかった。
真剣ではあるだろうが、面白味は欠片もない。
そんなことをしていたとして腕が上がるかはわからない。
なのに、一言の不満も告げずに続ける男を怖いと思うし、凄いと思うし、馬鹿であるとも感じる。
ただ、並外れた男であることはわかるのだから、たいしたものではある。
それを感じ取ってなのか、お汐はそそくさと男の尻を追うのである。
嫌いな男に向ける行動ではない。むしろ、ぞっこん惚れていないとできないことだ。
吉右衛門は娘がその男に惚れていることを確信している。
もっとも、お汐が正直に自分の心を認めることはまずないだろうとも。
今風に言えば面倒くさくて重い女だったのだ。
それがあって、吉右衛門としては弥多の想いが空回りしているということを意識せずにはいられなかったのだ。
さらにいえば、男女のことだけではない。
大きな問題となるのは、お汐が通い詰める男は弥多と同じ刃刺であるということだ。
しかも、立場がえらくややこしい。
この関係が近いうちに厄介なことになるだろうと確信していたが、その日は意外と早くやってきた。
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