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第四話 「くじら侍の帰郷」
新宮藩の捕鯨所
しおりを挟む八丁堀にある組屋敷、同心用のいわば官舎に青碕伯之進は暮らしていた。
父母はすでになく、彼と用人の老人だけの暮らしだ。
嫁のあてはないこともないが、今のところ、彼のところにはまとまった縁談は来ていない。
許嫁の話もあることはあったが、とある事情で破断したまま終わっている。
そこに、二人の男女が訪れていた。
吉井屋の手代であった佐吉とその妹のお朱鷺である。
二人とも、少し前に伯之進と知り合い、それから親しくなった。
佐吉については、伯之進の勧めでとある武家の中間として雇い入れられ、妹を養っている。
「……権藤さまは、新宮藩のご浪人でございます」
「浪人というのはわかるよ。権藤さんがまともに役人などできるはずがない。なれたとしても三日で飽きるだろうさ」
「何分、俺もお朱鷺もまだ餓鬼の時分であったため、詳しいことは知らんのですが、どうも捨扶持にしてはそれなりものをいただいていたらしく、食うには困っていなかったようで」
それはおかしな話だった。
浪人というのは罰を与えられてなるものだ。
罰なのだからのうのうと生きていられては困るというのが本来の話である。
なのに、権藤伊左馬はのうのうと暮らしていた部類に入るというのだ。
「おまえたちが知っているということは、当時からあの人は目立つあれこれをしていたのだろうね。それを教えてくれないか」
佐吉はここに来るまでに相当考えていたのだろう。
青碕家にくるのをずっと渋っていたが、一度腹に決めた以上、躊躇することはないという潔さがあった。
伯之進はそこに武士の家の出であることの矜持を見る。
「権藤さまは、鵜殿という村にずっとお住みになられてやした」
「鵜殿? そこは新宮藩領内かね」
「はい。熊野川の河口に、新宮藩が太地の太地角右衛門どののお力を借りて捕鯨所を作ることになり、新しい捕鯨衆の中の主幹として入るように図られたそうです」
「新宮藩の直轄の捕鯨所ということかい? ふむ、武士がそういうものに手を出すというのは珍しいことのような気がするね」
「その通りでございます。ただ、当時の藩の財政は苦しく、逆に太地の村は山のごとく儲かっておりました。役人たちはそのおこぼれだけでも、まだまだ潤うという有様でして、直接に捕鯨所を経営しようと目論んでも仕方のないご時世だったと」
「なるほどね。確か、太地は太地の掟だけが重要で、藩が口出しすることはまかりならんという土地だったときいている。ならば、直接に藩の支配の及ぶ捕鯨所を作ろうというのは筋の通る話だ」
伯之進は朱鷺の用意した茶を口に含み、のどを潤した。
この話はまだまだ本番にすら入っていない。
「新宮藩としては、村の長だけをとりこめばよしと思っていたようですが、捕鯨においては各船の長の力が不可欠となりやす。そのため、各番付の船長―――つまり刃刺までも藩の人間であることが求められました。そこで、当時の浪人だったものに命じて一から刃刺としての修業を積ませ、藩の意向を反映できるやり方を始めました。ただ、浪人といってもピンからキリまでおりますので」
伯之進はここでだいたいのことが呑み込めた。
「そこで、権藤さんが武士のくせに鯨捕りになったということか」
「さようで」
これまで抱いていた謎の一つが解けて伯之進は少しうれしくなった。
権藤伊左馬は口を開けば、「わしは刃刺だった」というのだが、聞くところによると刃刺というのは漁師の家で代々伝わる稼業のようなもので、どれほど漁の腕があっても武士がなれるものではない。
だが、伊左馬が嘘をつくとも考えられないし、実際の銛の腕はとてつもないものがある。
それに伊左馬が武士の出であることは立ち居振る舞いと武術の腕で疑いの余地もない。
今の佐吉の話が正しければ、新宮藩が自領に作った新しい捕鯨所としての村に伊左馬が送り込まれ、刃刺として藩の意向を受けた行動をするように命じられていたというのであれば納得である。
実際にどうなっていたのかはともかく、侍であり漁師であるという堅い身分社会の抜け道のような立場もできうるということだ。
おかげであんな破天荒な男が出来上がったという訳である。
「親父殿の切腹のあおりを受けて、お家が潰され、おれが朱鷺とともに江戸に出ざるを得なくなったのが十二の頃ですから、もう十年は前ですかい。なんにも知らねえ下級武士の出のつまらねえ小僧を吉井屋の旦那様は良くしてくださって感謝の言葉もねえでさ」
「おぬしらの家はどうして潰れたのかね?」
「一言でいえば、ある腐った加判家老のせいでございまさ。こいつが、いちいちつまらぬ悪事を犯す野郎で、それを咎めた俺の親父殿もはめられて切腹させられました。ついでに家も潰されたということです」
「どこにも腐った奴ばらはおるものだね」
「……ただ、俺もまだ餓鬼だったのでこれもよく知らねえのですが、噂によるとその家老の企みのせいで鵜殿の捕鯨所も廃されたということでさ。つまりは、俺も権藤さまも同じやつのために江戸にまで流れ着いたということになりかもしれません」
「そんなことがあるのかい?」
「ええ」
これは聞いておいて良かったかもしれない。
そう伯之進は思った。
様々なことが起きて、新宮藩から伊左馬とこの兄妹が江戸に着て、出会うというのは不思議な縁かもしれないが、それが必ずしも奇縁とは限らない。
この世には、そうならざるを得ないもの、というのは往々にして存在する。
伊左馬たちについてももしかしたら、その部類なのかもしれない。
そう思わざるを得ないのだ。
◇◆◇
今日の釣果は五匹。
このうちの三匹を食い物屋に流したとしても、夕餉には二匹出すことができる。
悪くない収穫だ。
権藤伊左馬は呑気に土埃のたつ黄昏がおりてきている江戸の道を歩いていた。
吉原ならば遊女たちが弾くみせすががきの音が廓の中を満たす時刻である。
店先の提灯に火が入り、夜の仕事の始まりだ。
その中を家路につく、着流しに見慣れない大小をさした巨漢の浪人もの。
隅田川界隈の町民たちは彼のことをくじら侍と呼ぶ。
「貴様!」
幅四間(約七メートル半)ほどの道を歩いていると、大柄な侍が勢いよく伊左馬めがけて突進してきたのである。
まさにぶつかってきた、ともいえる。
声さえかけられなければわからなかったろうが、貴様と呼びかけられた以上、意外と身軽な伊左馬は無造作に躱すことができた。
大柄な侍はつんのめり、転びかけた。
体勢を立て直すと、伊左馬に並ぶ。
高さでは伊左馬に分があり、肥えている分だけ重さでは勝つ、という侍であった。
「権藤!」
伊左馬の名を喚くと、刀を抜いた。
往来で誰の眼があるともしらぬ中の無茶な行動であった。
主のいる武士であったのならば、その主まで責任を取らされることになりかねない暴挙であった。
こんな人目のあるところで白刃を抜くというのがどれだけ危険な行為かわからないぐらいに怒っているのか、それとも……
「いかにも、わしは権藤だがわいつは誰だ」
面倒は避けたいが、伊左馬とて武士であった男だ。
逃げることは体面上できぬ。
武士であることはとうの昔にやめたつもりであったが、腐っても鯛の言葉通りに伊左馬もいいがかりを受けて見ぬふりはできなかった。
相手は屹度、伊左馬を睨んだ。
「竜珠をどこへ隠した、この狼藉ものめ!」
「なに?」
伊左馬の顔に困惑が走った。
この男の口にした竜珠という言葉に聞き覚えがあったのだ。
そして、それは彼が江戸に流れ着く遠因となったものでもある。
「わいつ、なぜ、その珠のことを知っておる? 新宮藩のものか?」
「うるさい、黙れ、貴様が竜珠をもって遁走したせいで我が兄は死んだのだ! 忘れたとは言わせぬぞ!」
伊左馬はおおよその状況を呑み込んだ。
だが、いまさら彼に何ができるというのか。
そして、男が言うように竜珠など手にしたこともない。
つまり、こんな馬鹿なことはないということである。
「知らんな。わしにはもう過ぎたことよ」
間髪入れずに伊左馬はぶん殴った。
誰かは知らない。
兄が死んだというが、その兄に心当たりはない。
だから、殺すことまではしないが昔の古傷に触れてきた罰は与えねば気が済まなかった。
拳で顔面をひしゃげるほど殴ってみた。
見物していた江戸の町民たちが戦慄するほど凄まじい一撃であった。
その一発で、男は崩れ落ちた。
体重では上回っていたとしても、伊左馬の膂力の方がはるかに上だったのだから必然の結果である。
地面にだらしなく倒れ込んで気絶している男の顔をよくみても、まったく思い出せなかった。
かといって、このまま放置しておくのも面倒だ。
伊左馬は男を担ぎ上げると、再び岐路についた。
釣った魚のうち三匹は売るつもりだったが気が変わった。
「すべて食ってしまおう」
やけ食いがしたくなったのである。
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